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2008.05.19

〔相模(さがみ)〕の彦十(4)

ようやく、〔相模(さがみ)〕の彦十の生家のある村を決めることができた。

斑目(まだらめ)村。

どこかって?
相模国足柄上郡(あしがらかみこおり)斑目村(現・神奈川県南足柄市斑目)。
というより、地図で確認していただこう。

_360

酒匂(さかわ)川の上流の赤〇=斑目
青〇=小田原宿。
左下の水色は芦ノ湖。
緑○=阿記(あき 23歳)と於嘉根(かね 2歳)のいる芦ノ湯村。
黄〇=猪鼻(いのはな)ヶ嶽。別称・金時山(きんときざん)。標高1,212m。箱根外輪山の最高峰。
(地図は明治19年(1986)刊 参謀本部製 江戸期にもっとも近い正確なもの)

なぜ、斑目村?
彦十爺(と)っつぁんの気持ちを忖度(そんたく)しつくした末、である。
そのことは、あとで、彦十爺っつあん自身の口から語ってもらう。

池波さんが、文庫巻6[狐火]で、

ともあれ、長谷川平蔵・おまさ・相模の彦十との関係は特別なものがある。
おまさの亡父・鶴(たずがね)の忠助(ちゅうすけ)は盗賊あがりで、なんとふてぶてしく、本所の四ツ目に〔盗人(ぬすっと)酒屋(ざかや)〕という看板をかけ、居酒屋をいとなんでいたものだ。
ここへあつまる連中は、いずれも、一癖(ひとくせ)も二癖(ふたくせ)もあるやつばかりで、相模の彦十も、その一人であった。p190 新装版p200

これは、この項の (2) にも引用しておいた。
参照】〔鶴(たずがね)〕の忠助

狐火]ではさらに、まともな所帯をもったこともない爺っつぁんが、意外に人生の達人である面を見せる。
中川の新宿(にいじゅく)の渡し場(葛飾区新宿)の茶店で、店主をしとている〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち)を見かけたおまさだが---。
参照】 〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七

641_300
(新宿の渡しの新宿側。向こうは亀有。『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ

かつて男にしてやった〔狐火(きつねび)〕の息子の又太郎に未練のあるおまさは、彦十に相談をもちかける。

「おじさん。だから私は、二代目(又太郎)の仕わざじゃないと---」
「なるほどなあ。二代目といい仲になったときのお前は、女のあぶらがたっぷりのって、胸と胸が通い合ったばかりじゃあなく、躰と躰がぴったりあっちまった---」
「よして、おじさん---」
「男と女の躰のぐあいなんてものは、きまりきっているようでいてそうでねえ。たがいの躰と肌がぴったりと、こころゆくまで合うなんてことは、百に一つさ。まあちゃん。お前と二代目は、その百に一つだったんだねえ」
「いや、いやだったらもう---」p134 新装版p141

参照】[狐火(きつねび)〕の勇次郎(二代目)

爺っつぁんに、こういう人間通の台詞(せりふ)が吐けるとは、じつは、[狐火]まで、おもってもいなかった。
見直した。

時は、25年ばかり遡行(そこう)して、明和2年(1765)の梅雨あがりのころ。
銕三郎(てつさぶろう)20歳、おまさ10歳、〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)は40がらみ、〔風速(かざはや)の権七(ごんしち)33歳、そして〔相模無宿〕の彦十31歳。
場所は、本所四ッ目の〔盗人酒屋〕---。

久しぶりあらわれた銕三郎権七に、おまさがかかりっきりで世話をやいている。
それをみかねた彦十が、2人の飯台にやってきて、
おまさ坊は、おめえさん方のためだけのおまさ坊じゃあ、ねえんで。この店ぜんぶの客のおまさ坊なんでさあ」
立ち上がった権七の帯を引いておいて、銕三郎が、
「失礼があったらご勘弁ください。おまさどのが印旛沼(いんばぬま)という字はどう書くのか---とお尋ねだったので、つい、長くなってしまって---。もし、およろしければ、そなたが教えてあげてくださるといいのだが---」
「おいおい、おさむれえさんよ。はばかりながら、この彦十は、いんばぬまなんて、ど田舎の臭え水のあるところには行ったこともねえ。行ったこともねえ字をしってるわけはねえ」

彦十おじさん。やめて---」
おまさがとめたが、権七が買った。
「おお。彦十さんとやら。印旛沼をど田舎の臭え水ところとおっしゃったが、この店のご亭主も、おまさちゃんのおっかさんも、その、ど田舎の臭え沼のほとりの生まれだってこたぁ、承知で言ってなさるんでやしょうね」

「おや、おめえさん、相模なまりがありやすねえ?」
「小田原在の風速村の生まれでやすからね。相模なまりは、箱根の雲助の名札みてえなもんでさあ。相模なまりで悪うござんしたね」
「待った! この彦十さんも、〔相模無宿〕が通り名で---」
「相模も、江ノ島から金時山の東側まで広うござんすが、相模のどちらで?」
「いや、その---」
「なんだ、偽(にせ)相模でやんすか」
「えい、言っまわあ。酒匂川の---」
「ほう、相模川の---?」
「ずっと、上(かみ)の---」
「足柄上郡の---」
「怒田(ぬだ)村の東の---」
「---ってこたあ---」
「そうよ。斑目村」
「それならそうと、初手(はな)から、はっきり言ゃあいいのに---」
「言うと、みんなが目をのぞきこむんで---」
大久保さまの、立派な領内でさぁね」
「話のわかるお兄(に)いだ」

つまり、彦十は、〔斑目〕を通り名にするくらいなら、〔相模無宿〕のほうが押しがきくと思っていたのである。
それだけ、美意識---いや、自意識が強い仁ということかも。

この先、権七彦十が義兄弟の盃を交わしたことしいうをまたない。

参照】 [おまさ・少女時代] (2) (3) 

【参考】南足柄市
斑目の道祖神

【参照】[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) 

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