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2008.04.20

〔笹や〕のお熊

〔五鉄〕の前を素通りした銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)は、竪川(たてかわ)に架かる二ッ目ノ橋を南へ渡った。
竪川は、一ッ目ノ橋の西で大川(隅田川)につながり、逆に東は中川に注ぐ運河である。
幅8間余(16m)、江戸城に対して縦(たて)に本所を貫いているために、竪川の名がついた。
深川の小名木川(おなぎがわ)の補助として、家康が開通を命じた。
小名木川は、浦安からの塩を江戸城へ運びこむための運河として設計されたと伝わる。
海に面していない甲州の武田信玄が塩を絶たれて困った故事を、家康がおそれたのだと諸書にある。

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(両国橋の東=〔五鉄〕・〔古都舞喜楼]・〔笹や〕・弥勒寺・五間堀など)

竪川には、一ッ目から四ッ目まで橋が架かっており、その先は渡しである。
銕三郎がわたった二ッ目ノ橋の向こう、左手には広大な境内をもつ弥勒寺(みろくじ)の山門が見える。
ものの本に、

真言新義の触頭(ふれがしら)、江戸四箇寺(しかじ)の一室なり。

とある。
弥勒寺の山門は、二ッ目ノ橋の通り(二之橋通りともいう)に面している。

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([本所・弥勒寺] 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

ある自称・鬼平通のホームページに、弥勒寺の塔頭(たっちゅう)から、いまは独立している3寺の中の一つ---竜光院の五間堀に面した山門の前に、お(くま)婆ぁの〔笹や〕を置いた地図が描かれていたが、文庫巻10[お熊と茂平]の読みちがいでしかない。

師走(しわす)の雪の晩に、五間堀の前の、寺の小さな門のところへ行(ゆ)き倒(たお)れになっているのを、弥勒寺の坊さんが助けてやったのが縁(えん)で、住みついたのさ---(p269 新装版p282)

このころは、竜光院は広大な弥勒寺の境内にある塔頭の一つでしかなかった、と史料にある。

池波さんは、ほとんど毎日、『江戸名所図会(ずえ)』をひもといて、飽きることがなかった。
お熊婆ぁの〔笹や〕は、文庫巻7[寒月六間堀]ではじめて登場するが、

お熊の茶店の南どなりは〔植半〕という大きな植木屋であった。その向こうに弥勒寺橋が見える。(p218 新装版p228)

この植木屋の垣根へ、老武士・市口瀬兵衛(いちぐちせへい)が倒れこむところから事件が推移する。

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(弥勒寺門前の板庇の〔笹や〕と赤○=植木や)

江戸名所図会』の[本所・弥勒寺]と題された長谷川雪旦(せったん)の挿絵は、竪川・二之橋通りに面して山門があり、そのすこし手前(二ッ目之橋寄り)---辻番の木戸に接して、板庇(いたびさし)の民家が描かれている。
池波さんが、雪旦の挿絵からお熊の茶店に見たてた。
そう推断するのは、挿絵で、その南どなりに「植木や」(赤○)とのただし書きがふられているからである。
庭石なども散在させている見本置き場の庭への枝折戸(しおりど)も見える。
こういう風景を目にすると、眼前に江戸の下町がありありと浮き上がってくる。

ちゅうすけ注】〔植半〕の屋号は、向島・綾瀬川べりの木母寺(もくぼじ)境内の一角で、『鬼平犯科帳』の時代からすこしあと、植木商いから料理店も開いた植木屋半右衛門こと、植半に負っているとみる。
木母寺には、いまでも「植半」と彫られた奉納石灯篭が2基のこっている。
引用の『江戸買物独案内』の左側の〔武蔵屋〕は、鯉料理で有名。鯉濃(こいこく)は精がつくと。

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(向島・木母境内の料亭〔植半〕 『江戸買物独案内』 1824刊)

鬼平犯科帳』を10倍楽しむ、愉しみ方の一つが、池波さんがそうしていたように『江戸名所図会』の挿絵を、小説の場面々々にあわせて詳細に観察し、推理することであろう。
長くつづけていた〔鬼平〕クラスでは、細部まで目がとどくように、また独自の発見を期待して、雪旦の挿絵を塗り絵に使った。
その成果が、ブログ[わたし彩(いろ)の『江戸名所図会』] http://otonanonurie.image.coocan.jp/である。

弥勒寺の門前---といっても斜向(はすむか)いだが---茶店を開いたのは亡夫・伊三郎で、お熊は看板女房だったのかも知れない。もっとも、お熊が生粋の本所・深川っ娘(こ)であったことはまちがいなかろう。
伊三郎が逝ったのは、いま書いている年号である明和2年(1765)の初夏から、6ヶ月ほど前であったろう。
明和2年---お熊は43,4歳の、出来たて後家であった。
もちろん、きょうの場合、銕三郎は、まだ、お熊とは出会っていない。出会う必然性がなかった。

鬼平犯科帳』では、本所・深川でぐれていた銕三郎に、酒などをふるまってやったことになっているが、本家の大伯父が火盗改メに2度も任じられているというのに、その甥っ子がいかがわしい場所に出入りしていていいものか。
しかも、ぐれの原因の一つであった継母・波津(はつ)は、史実では、銕三郎が5歳の時に死んでしまっていて、この世にはいなかった。

も一つ史実に沿うと、長谷川家が鉄砲洲・湊町から南本所・三ッ目通りへ引っ越してきたのは、銕三郎が19歳の暮れである。
それから、まだ、何ヶ月も経っていない。

さて、明和2年の某日の午後の、銕三郎へ戻ろう。

茶店〔笹や〕の前を通りすぎようとすると、
長谷川さま、長谷川さま」
と、声がかかった。なんと、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)であった。

「どうして、ここへ?」
縁台に腰かけてお茶を呑み終わっている権七の横に、銕三郎が立つ。
「足が衰(な)えないようにと、この前の弥勒寺(みろくじ)さんのご本尊・川上(かわかみ)薬師さんを拝みにきた帰りの一服でさあ」
権七の口ぶりは、大分に遠慮がなくなってきている。

茶店の女将がお茶をもってあらわれた。
「あ、女将(おかみ)どの。持ちあわせがないのもので---」
立ったままの銕三郎に、
「わたしゃあ、お熊さんってんだけど、初めて見る顔だねえ」
「この南の五間堀の堀留めの東---三ッ目通りに越してきたばかりの、長谷川です」
「道理で。まだ、部屋住みだね。いやさ、とって食おうとはいわねえから、これからも、せいぜい、その若々しい顔を見せとくれ」
40女の無遠慮な目つきで、しげしげと銕三郎の品さだめをしている。

長谷川さまこそ、どちらへ?」
権七が問いかけた。
〔古都舞喜(ことぶき)楼〕の女将の話をたしかめに---と言ったのを聞きつけたお熊が、割って入った。
「〔古都舞喜楼〕って、先だって盗人に入られた料亭だろう? おって女将は、旦那が老(ふ)けて足が遠のいたもんで、若い侍(の)を見ると、舌なめずりするって評判だよ」
お熊は、自分のことは神棚にあげている。

「お女将どのの旦那というのは---?」
「西両国・米沢町の鼈甲櫛笄(べっこう・くし・こうがい)細工所の〔加納屋〕の、いま隠居してる伊兵衛爺さんだよ。そうか、店と名を息子にゆずって、善兵衛になったんだった」

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(〔加納屋〕鼈甲櫛笄細工所 『江戸買物独案内』 1824刊)

(両国広小路!)
銕三郎には、なにか、ぴんとくるものがあった。

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コメント

お願い:
小田原やその周辺、あるいは箱根へお住まいかお育ちの鬼平ファンの方へ。
〔風速〕の権七の言葉を、江戸期の小田原弁に近くしていただけないでしょうか?

投稿: ちゅうすけ | 2008.04.20 17:21

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