与詩(よし)を迎えに(33)
【ちゅうすけ注:】与詩(よし)が乗った山駕籠について、喜多川守貞 『近世風俗志』(岩波文庫)から図を引いておく。箱根山専用の駕籠で、底が円形で広いため、長く担いでいても足を痛めないと。屋根は網代。『近世風俗志』は『守貞漫稿』の書名で知られている。
三島宿の本陣・〔樋口〕伝左衛門方から東海道を東へ1丁半で三島大社の大鳥居の前に達する。
広重の絵は、深い靄が立ち込めている社前を、駕籠と宿場馬が箱根道へ向かっている図である。
(広重 『東海道五十三次』 [三島 朝霧]
大きな画面は、↑をクリックでNo.12)
駕籠の乗り手を与詩(よし)と入れ替えると、まさに銕三郎(てつさぶろう)一行だ。
靄で霞んでいた大鳥居の柱の脇から、のそりと〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)が現れた。
「お待ちしておりやした」
歩みをとめないで、銕三郎が供の藤六(とうろく)を引き合わせた。
権七が、靄をすかして、あたりを見まわし、駕籠と藤六をすこし先へやってから、
「長谷川さま。〔めうが屋〕のお嬢さんはどうなさいました?」
「ひと足、遅れてくるようにしました」
「なして?」
「権七どのに、三島にいっしょに泊まっていたことを断ってなかったですから---」
「じょ、冗談じゃありません。こっちは、わかりきったことだから、ゆうべは黙っていただけです」
「権七どのはお含みくださっても、駕籠の人たちの口から噂が立つと、阿記(あき)どののこの先の人甲斐(ひとがい)に染(し)みがつくことを怖れています」
「なるほど。ありえますな」
「それで、ともに歩くのは、畑宿村からの下り---畑宿から小田原まで、権七どのの配下で、口の堅い馬方を2頭、手くばり願えないかと。1頭は、打田内記(ないき)どの気付の書状に書きましたとおり、箱根宿から乗りますが---」
三島大社前から、最初の登りが愛宕坂である。
(箱根街道(西坂道)=茶色 白色=国道1号
青○=三島大社 赤○=富士見平 三島観光協会バンフ)
(富士見平からの富士山 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 芭蕉
三島観光協会バンフより部分)
富士見平でひと息入れた。
「あにうえ。ここのおやま(山)も、おおきいでしゅ---です。おかし(菓子)みたい」
「お砂糖がたっぷりかかったお菓子です。藤六。与詩を茶店の厠へ。ついでに、食べるものをなにか求めてやってくれるか」
銕三郎は、気になるのか、坂下のほうを見やる。阿記と都茂(とも)の姿は見えなかった。支度によほど刻(とき)がかかったらしい。
(藤六め。あれだけ言っておいたのに、けっきょく、都茂の粘っこい求めに屈したな)
口には出さなかった。藤六も、都茂の口封じになればと、励んでくれたのであろう。
(栄泉『古能手佳史話』[強い誘い]部分)
「長谷川さま。〔めうが屋〕の2人づれがご心配ですか。大丈夫でごぜえます。あっしの手下(てか)の若いのを、こっそり、尾行(つ)けさせておりますから」
「いつの間に?」
「〔甲州屋〕を見張らせておりました」
「どうして、〔甲州屋〕と---?」
「蛇(じゃ)の道は蛇---っていいましてね」
「権七どのには、隠しごとはできませんな。ははは」
「ふふふ」
「火盗改メの密偵さながらですな」
「なんでごぜえます、その火盗改メの密偵というのは?」
「ま、登りながらお話ししましょう」
銕三郎の父・平蔵宣雄(のぶお)が小十人・5番手の頭(かしら)に任じられた時、6番手の頭・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 2000石)と親しくなり、銕三郎も面識がある。
幕臣のあいだで、大久保99家、本多100家といわれるほど一族が多いので、引きもある代わりに、不始末のとばっちりで譴責をくらう率も高いとの自嘲も、本人の口から聞いたこともあったが、前年の宝暦12年(1762)11月7日付でめでたく先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭(くみがしら)に発令された。
本人はいつもの軽口もどきに、「家禄2000石の身が、引下(ひきさげ)勤めよ」と苦笑していたが、鉄砲の16番手というのは、別称〔駿河組〕といって、家康公以来の伝統のある組なので、ほんとうは満更でもないらしかった。出世ポストの一つなのである。
引下(ひきさげ)勤めとは、先記したように、本多家の家禄は2000石、先手組頭の役高はそれよりも低い1500石だから、足(たし)高が補填されない役についたことをいう。
(本多采女紀品、先手・鉄砲の頭から火盗改メに)
しかし、本多紀品は、その年の12月16日から、火盗改メの助役(すけやく)に就いた。
助役とは、年間を通して火盗改メを勤めている本役に対して、火事の多い冬場から春先に併勤する火盗改メのことを指す(『鬼平犯科帳』では、読み手の混乱を防ぐためであろう、助役には触れられていない)。
火盗改メの役料は、40人扶持。1人扶持は1日玄米5合。40人分が支給されるが、屋敷内に白洲や仮牢も新たに設けなければならないから、それっぽっちの手当てではまかないきれなかったとも、史料にある。
ま、それはともかく、父・宣雄ついて、番町の屋敷へお祝いに行ったとき、本多紀品が、
「銕三郎よ。躰が空いているときには、密偵でもやってくれないか」
と親しげに言い、火盗改メの密偵としての仕事の内容を話してくれた。
もちろん、父は反対で、密偵仕事よりも、番方(武官系)の家柄の嫡子として、四書五経の勉学や剣術や乗馬、弓や水練などの武術の修行に励め---ときつく言われた。
【参考】
2007年5月30日[本多紀品と曲渕景漸]2007年5月31日[本多紀品と曲渕景漸](2)のほか、 [本多家]の各項を。
「そうですかい、現役の火盗改メとお親しいのでは、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛なんざあ、ますます、恐れ入谷(いりや)の鬼子母神(きしもじん)でごぜえますよ。ところで、火盗改メといえば、3日ほど前に、小田原の有名な店---〔ういろう〕に不思議な盗賊が入ったんでございますよ」
「え! あの、〔ういろう〕に---〕
盗賊と聞いて、銕三郎の頭に浮かんだのは、なぜか、京の天神口で太物商いの店〔天神屋〕をやっているいると言っていた助太郎の顔であった。
【参考】
2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4)
2007年12月28日[与詩(よし)を迎えに(8)]
【ちゅうすけからのお薦め】
このところ、当ブログは、アクセス約400/日をいただき、感謝しております。
立ち上げて3年ほどになりますが、この6ヶ月ほど前からアクセスしてくださっている方は、今日、【参考】にあげた本多采女紀品の2日分、クリックして、お読みいただいておくと、これからのストーリーの展開がラクに執筆できます。
薄すうすお気づきとおもいますが、当ブログは、長谷川家を中心において、当時の幕臣の生き方や庶民の生活ぶりを、史実を踏み台にして書きすすめております。
究極の狙いは、未完の『誘拐』を補筆して、おまさを救出することですが、さて、それまで、筆者の体力が保ちますかどうか。
ご愛読、感謝するとともに、お知り合いの鬼平ファンの方にもおすすめいただけると嬉しいです。
このブログを、本にする意思はまったくありません(DVDなら考えますが)。このブログのままでも十分とおもっております。
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コメント
>究極の狙いは、未完の『誘拐』を補筆して、おまさを救出することですが、さて、それまで、筆者の体力が保ちますかどうか……。
ぜひぜひ、読ませていただきます。
若い頃の放蕩も密偵活動の一部でしょうか。
それにしても、銕三郎(ちゅうすけさん)の
気配りの凄さといったら。
投稿: おっぺ | 2008.01.23 10:45
>おっぺ さん
お礼が遅れて、ご免なさい。
きのう、ベルギー観光局のM局長の「お世話になりました」会に出席していて、帰りが遅くなつたものですから。
『ベルギー風味 メグレ警視の料理』(東京し出版 絶版)を書くときにお世話になつたのです。
いまは、ほとんどの余力をあげてブログ[『鬼平犯科帳』Who's Who]に取り組んでいます。
鬼平こと長谷川平蔵の調査もさることながら、今に残滓がある徳川時代の気風・風習を調べる
ことのほうに興味が移ったものですから。
幸い、コピーライター時代に購入しておいた史料が役立っています。
そして、おっぺさんのような褒め上手の方のコメントがつくと、犬も木にののぼる---のたとうそのままに、やる気が満ちてくるのです。
やる気のある間は、健康でいられますからね。
もっとも、やる気だけでは、知的に面白いブログにはならないことも承知していますが。
ありがとう御座いました。
投稿: ちゅうすけ | 2008.01.24 07:18
今朝の新聞のコラムに。
「最高齢のドライバーは108歳の米国人。
最高齢の新聞コラムニストは、舞台芸術・芸能に関する業界紙に
87歳から書き始めた英国人…
アイルランドには103歳で国立大学から名誉学位を受けた女性。
日本では95歳でユニセフ大使になったドクター日野原重明さん、
講演で海外にも行く101歳の「しいのみ学園」園長の昇地三郎さん……」
とありました。
ちゅうすけ先生まだまだ。(笑)
知的好奇心を満足させてください。
なまめかしい若き日の長谷川平蔵もさることながら、
史実に基づいた書き込みもとても面白く拝読しています。
それにしても「女」はやっぱり、名前がないのですねぇ。
投稿: おっぺ | 2008.01.25 00:18