本多紀品と曲渕景漸
東両国の料亭〔青柳〕での同役へのお披露目の接待が無事におわって数日後、長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、出仕して詰めている桧(ひのき)の間から小用に立った。
厠の前で、するりと近寄ってきた同朋(茶坊主)が、紙片を握らせた。
用をたし、そのまま厠の中で開いてみると、6番組の本多采女(うねめ)紀品(のりただ)からの伝文だった。
「今夕、酉(とり)の上刻(6時)、表六番町の拙邸へお越しいただきたい」
手水をつかい、手拭きをすすめている先刻の同朋に軽く会釈を返した。
下城してから酉の上刻まで、どう時間をつぶそうかと思案するまでもなく、さっきのとは別の同朋を呼び、西丸の小十人頭をしている従兄・長谷川小膳正直(まさなお)へ走らせた。小膳はのちの太郎兵衛で、長谷川一門の本家(1450余石)の当主である。宣雄より13歳年長で、伝承の屋敷が一番町新道(現・千代田区三番町6あたり)にあった。ここからだと、本多家までは500歩もない。
さいわい、従兄からの返事は、半蔵門からまっすぐに帰宅後は、手空(てす)きとのことであった。
宣雄は、本家の書院で正直から、本多紀品の風評を聞いた。
数多い本多一門の中でも、まっとうなのは、紀品までがすべて養子相続だからではなかろうか、というのが大方の月旦であるという。
(右上:本多一門の家紋=丸に右離れ立葵)
ただ、本多伊勢守忠利(ただとし)の七男で、初代を立てた利朗(としあきら)は、筋をとおすというか、やや意固地のところがあり、本多一門の家紋である〔右離れ立葵〕を〔左離れ立葵〕に変えたという。一族から離れて井上を称した時期があり、のち本多へ戻したことによると。
(丸に左離れ立葵。線が幹の左を縦に割っている)
「もっとも、4代つづいての養子相続だから、家祖・利朗どのの血は紀品どのにはまったく入ってはおらぬ。本筋を見誤らない、まっとうなお人柄である」
従兄・正直の本多紀品観である。
本家から借りた同じ家紋・左藤巴を描いた提灯で、小者が宣雄の足元を照らしながら、表六番町へ向かった。
本多紀品の屋敷は、番町を東西に貫らぬいている表六番町(現・三番町7 九段小学校向かい)にある。長谷川本家からだと、御厩谷坂下から西へ、2000石級の数家が向かいあっている区画にあった。囲りは400~500坪に区切られた下級旗本の家々が櫛比している中、それらの数家だけは間口も広く、邸内には樹々が茂っている。
客間へ招じられて席につくと、紀品は、先夜の〔青柳〕でのもてなしの礼をのべ、酒盃をすすめた。
「あいかわらずの貧乏暮らしで、お恥ずかしいかぎりだが、肴はこんなものしかなくての」
丸干しを焼いたのが数匹---いまは芝二葉町の中屋敷に隠居している、駿州・田中藩4万石の藩主だった本多伯耆守正珍(まさよし)を訪ねたときにでる肴と同じであった。
正珍は、丸干しをすすめながら、藩領に近い小川(こがわ)湊で採れ、送られてくるのだといった。
小川湊は、今川家が勢力を張っていた時代から、長谷川家が開発した地であった。だから、祖先の味覚ともいいうる。
宣雄は、本多家の質素ぶりに、むしろ、好意をいだいていた。
「先夜、曲渕(まがりぶち)どのから、何かたのまれ申したかの」
なんでもないことを訊くように、ぽつんと、紀品が切りだした。
宣雄は、正直に答えたものかどうか、一瞬、迷った。
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