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2007.12.14

宣雄、小十人頭の同僚(5)

以下は、つぶやきである。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)の小十人組の頭(かしら)時代を検証していて、彼のころには、組が10組あったことは、分かった。(『文化武鑑l』では7組に減っている)。

頭は1000石高だが、いってみれば通過ポストで、7,8年で次のより役料の高い職席へ栄進するのが筋道、ということも推察できた。

1組に20人いる組衆の家禄は、100俵10人扶持で、桧の間席ということも、分かった。
2勤1直1休(昼の勤務を2日したら1晩宿直、翌日は休み)だろう。

組衆の中の一人---家禄が150俵とやや高い者が、与(組)頭(くみがしら)となって内務をとりしきっていることも、分かった。2007年12月7日[多可の嫁入り](5)『文化武鑑l』では1組に2人)。

わからないのは、小十人組のすべてを統括しているのが誰かということ。手元の参考書などでは若年寄の支配となっているが、譜代の大名である彼らが、徒(かち)組などまで、直接に統括しているとは思えない。

さらに、10人の頭の中に、代表がいるにちがいない、と推測してみた。先任順だろうか、家禄によるのだろうか、それとも年齢?

宣雄が頭に選任された時点---宝暦8年(17589) 9月に在職していた10人を検証。
まず、先任順。年齢は頭席へ着任時。

堀甚五兵衛信明(のぶあきら) 宝暦2年(1752) 43歳
仙石監物政啓(まさひろ)    宝暦3年(1753) 50歳
本多采女紀品(のりただ)     宝暦3年(1753) 39歳
佐野大学為成(ためなり)     宝暦4年(1754) 51歳
神尾五郎三郎春由(はるよし) 宝暦4年(1754) 35歳
山本弥五左衛門正以(まさつぐ)宝暦5年(1755) 54歳
荒井十大夫高国(たかくに)   宝暦6年(1756) 45歳
曲渕勝次郎景漸(かげつぐ)   宝暦7年(1757) 38歳
長崎半左衛門元亨(もととお)  宝暦8年(1758) 45歳
長谷川平蔵宣雄          宝暦8年(1758) 41歳
同年の場合は、発令が1日でも早いほうが上位に就くのがきまり。

宣雄の着任時の年齢で並べると、

山本弥五左衛門     57歳
仙石監物政啓       55歳
佐野大学為成        55歳
堀甚五兵衛信明     49歳
山本弥五左衛門正以  57歳
荒井十大夫高国     47歳
長崎半左衛門元亨    45歳
本多采女紀品       44歳
長谷川平蔵宣雄     41歳
神尾五郎三郎春由    39歳
曲渕勝次郎景漸     39歳
神尾春由と曲渕景漸が特別の存在であることが、うかがえる。

家禄で見ると、

仙石監物政啓    2700石
本多采女紀品    2000石
長崎半左衛門元亨 1800石
曲渕勝次郎景漸   1650石
神尾五郎三郎春由 1500石
堀甚五兵衛信明   1000石
佐野大学為成      540石
長谷川平蔵宣雄    400石
山本弥五左衛門    300俵
荒井十大夫高国    250俵

年齢的には山本弥五左衛門正以が長老、仙石監物政啓が次老---といっても、先手組の長老、次老、三老とは20歳以上の開きがある。

けっきょく、仙石監物政啓あたりが表向きの代表となり、荒井十大夫高国が雑務を引き受けていたかも。
荒井高国は、宣雄が慣れたころに、若返りをいいたてて交替を申し出たろう。
このほかに交替で月番---といっても1ヶ月で交替するのではなく、半年ぐらいは勤めたか。

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