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2007.12.07

多可の嫁入り(5)

「2人の与頭(くみがしら)に、それぞれ、代行者をつけるとしますと、だれとだれが適任とお考えでしょう?」

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が西丸・書院番士から、小十人組・5番手の頭(かしら)に抜擢さりれたのは、宝暦(ほうりゃく)8年(1758)の中秋であった。40歳だった。
ひととおりの就任挨拶廻りをすませた宣雄は、前任者の芝山小兵衛正武(まさたけ 56歳 800石)を、四谷南伊賀町の屋敷へ訪ね、後任の頭としての心得を儀礼的にうかがったあとで、質(ただ)した。
芝山小兵衛は、先手・弓組5番手の組頭へ栄転したので、機嫌がよかった。

柴山は、小十人組の頭を足かけ13年も勤めていた。
中奥御番から、延享2年(1745)に、5番手組の頭へ栄進。同じ日に、組衆・須藤三左衛門盛胤(もりたね 廩米150俵 48歳)が与頭に引きあげられた。

10組ある小十人組の番衆は1組20人。与頭は各組に2名ずついる。
5番手の与頭の先任者は、酒井弥三郎元嘉(もとよし 当時74歳 廩米150俵)で、すでに与頭を19年もこなしている老練の仁であった。

須藤老は、毒にも薬にもならない好人物だが、与頭の役高300俵を手放したくないのでありましょう。お役目をまっとうするには、長谷川どののお考えどおり、与頭の代行者がいたほうが万事につけてよろしいが、さて、手当てをどうするか」
高齢の酒井弥三郎という先例も経験している芝山小兵衛は、代行のことを検討したこともあったらしいが、役料のことで断念した気配だ。

「代行の役料はともかく、芝山さまの人選をお聞かせください」
「そうさな、須藤老の代行には、できるということでは幸田善太郎でしょう」
「人望もございますか?」
「もちろんのこと」

与頭の役高は300俵である。満額支給されるのではなく、足高(たしだか)といって、須藤三左衛門の場合は家禄が廩米150俵だから、300俵になるように150俵が足(た)される。

家禄150俵の須藤三左衛門にとってみれば、収入が倍になっているのだから、高齢になったからといって、うかうかとは手放せない。辞められない。
番衆たちからの音物(いんもつ 贈り物)も捨てたものではない。

将軍へのお目得(みえ)はふつうなら200俵以上の幕臣だが、小十人の番士は百俵お目見といって、100俵の家禄でもその資格がある。

こうした経緯で、幸田善太郎の与頭代行がきまった。
特別の手当ては、じつは、宝暦9年に田沼意次(おきつぐ)と面識ができてから、5人扶持が特別にでるようになった。
1人扶持は1日に玄米5合だから、5人扶持だと2.5升、1年だとざっと130俵(注:当時の1俵は3斗5升計算)。

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(小十人組 5番手与頭 須藤・幸田系の前後 『柳営補任』)

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(須藤家譜)

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