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2007.12.06

多可の嫁入り(4)

長谷川さまの若さまではありませんか」

声をかけてきたのは、つい先ほど、子どもたちが駆けだしてきた横丁から現れた中年の侍であった。
庭木の手入れでもしていたのだろう、丸腰で、手に剪定ばさみを持っている。
長谷川ですが、そちらさまは?」
「やはり、そうでしたか。いや、失礼とはおもいながら、見覚えがありましたゆえ---」

男は、宣雄(のぶお)が頭(かしら)をしている、小十人組の5番手で、与頭(くみがしら)代行役の幸田(こうだ)善太郎精義(まさよし 43歳。廩米150俵)と名乗った。
「お頭には、たいそう、お引き立てをいただいております。いつでしたか、築地・湊町のお屋敷へ所用で訪ねしましたおり、若さまをお見受けしたことがあったのでございます」
「さようでしたか。私はうつけで、お顔も覚えず、失礼いたしました」
「なんの、なんの。それより、お急ぎでなければ、拙宅にて、お茶なと、さしあげたいのですが---」
「せっかくですが、いささか、急いでおりますゆえ、ご辞退させていただきます」
「無理にとは申しかねますが、たまたま、非番だったので、若さまへお目にかかれました。重畳々々」

幸田善太郎は、丁寧すぎるほどに腰を折って、銕三郎宣以(てつさぶろう のぶため 16歳)に別れの挨拶をしたが、目は、なぜ、銕三郎が本所・二ッ目の南割下水のあたりをうろついているのか、疑っていることがはっきりと見てとれた。
庭木の手入れをしながら、あたりを行きつ戻りつしている銕三郎を、しばらく監視していたのであろう。

銕三郎はいい訳をすれば、かえって疑いを濃くするばかりだと観念し、黙ったまま、横網町のほうへ歩いた。

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(本所絵図 尾張屋板 赤○=二ッ目南割下水)

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(二ッ目通・南割下水あたりを拡大)

夜、銕三郎は、二ッ目の通りで幸田善太郎精義に会ったことを、父・宣雄に報告しておいた。
「おお、幸田どのにな---」
といってから、組のいまの与頭の須藤三左衛門盛胤(もりたね 64歳 廩米 100俵)どのは、銕三郎が生まれる1年前から、17年間も現職をつめとめている組の生き字引のような存在だが、なにしろ高齢で、最近は物忘れも多い。いずれ引退をすすめるつもりでいるものの、後任には幸田どのを推そうとこころづもりしており、内々に須藤どののやり方を見習うように申しつけてある---と、つねになく、役筋のことを話してくれた。
宣雄は、配下の者にもかならず「どの」をつけて話す。それも組下の者たちにうけがいい素因の一つでもあった。

Photo
(幸田家譜 緑○=長兄・精義 赤○=養子に出た次男・保明)
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(緑○=長兄・精義 赤○=次男・保明)

幸田さまも、父上には、たいそう、引き立てをうけている、と感謝しておりました」
幸田どのの舎弟が、多可(たか)が嫁入りする水原(みはら)保明(やすあきら 40歳 廩米150俵 小普請)どのなのだよ」
「それで、幸田さまの懇請をお断りになれなかったと---?」
「そうではない。多可はわしの養女にはなっているが、出が陪臣の三木どののむすめであるために、正式には、徳川の旗本には嫁入りがむずかしい。(てつ)は、水原どのを40男と老人あつかいをするが、いまは小普請でも、いつお役に就かないものでもない」
「そうしますと、幸田さまとも、親類づきあいを---?}
「いや。舎弟は水原家へ養子に入っているゆえ、表むき、わが家とは、陪縁よりも薄かろう」
「あいわかりました。先夜のふとどきのこと、お許しください」
多可のことは、みなで、こころから祝ってやりたい」
「はい」
宣雄は、なぜ、銕三郎が本所・二ッ目などへわざわざ出向いたのか、訊かなかった。

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