多可の嫁入り(3)
銕三郎(てつさぶろう 16歳 元服後の諱:いみなは宣以 のぶため)が、母・妙(たえ)の部屋へ、挨拶に行った。
「母上。これより、講書へ参じてまいります」
「供は、太助ですね」
「はい」
妙の部屋には、尾張町の呉服商・布袋屋の手代・清助が、多可(たか)の紋服をひろげていた。
多可の嫁ぎ先---水原(みはら)善次郎保明(やすあき 40歳 小普請組 150俵)の家紋の〔丸に三橘〕である。
婚儀は菊の季節と決まっていた。
(わが家の家紋は左藤三巴、駿州・田中藩主の本多伯耆守正珍(まさよし)侯は立ち三葵だったなあ。多可は三木家からの養女だし、三つの縁かな)
宣以は、愚にもつかない数あわせをしながら、南八丁堀の横井黄鶴塾へ向かう。
このところ、愚にもつかないことを考えるのが、楽しくて仕方がない。そういう年齢なのだろう。
同年輩の塾生たちとの意味のない軽口のやりとりも、気楽な仲間づきあいと割り切れるようになった。
(三つ---など、たまたま、並んだだけだ、ばかばかしい)
その苦笑に、
「若。なにか?」
供をしている太助が訊いた。
「おお、そうだ。塾の帰りに、回向院(えこういん)へ詣でるから、迎えはいらないぞ」
回向院は嘘だった。本所の南割下水の水原家を下見に行った。
両国橋を渡らないで、瓦町から対岸の横網町へ不二見の渡し舟に乗った。
武士の装(なり)をしているので、渡し賃をはらわなくてよい。
(不二見の渡し 『風俗画報 新撰東京図会 浅草区之部』
明治41年4月20日号)
川面(かわも)に反射する光も真夏とは異なり、やわらいで見える。
頬をかすめる微風にも、秋の気配があった。
横網町をすぎ、御竹蔵の堀ぞいに東へ。
右手に津島侯の上屋敷の屋根がのぞめるあたりが二ッ目の通り。
南堀下水はそこから東へ、先端はとりあえず大横川につらなる。
堀幅は2間たらず。ものを運ぶ小舟を通すための掘割である。
水原保明の拝領屋敷も、保明の生家の幸田家も、二ッ目にあると聞いていた。
南掘下水をはさんで、両側は1戸あたり150坪(約500平方メートル)前後の下級幕臣の家が肩をよせあうように並んでいる。
門札はでていないし、人通りはないので、どれが水島家がわからない。
(俺は、いったい、なんのためにこんなことをしているのだ)
自嘲ぎみに、舌を鳴らした。
(これから、多可がどんな所で暮らすのか、見ておこうと思ったのだ)
(それを知ったからといって、どうなるものではないな)
自問自答している自分があわれに思えてきいて、また、舌打ちした。
(俺は、多可の兄者なのだ)
(多可は、ここで、しみが浮き出た40歳のおやじの手で躰をなぶられるのだ。一文字の左右になびいている若い芝生も---だ)
突然、横の道から、幼い子どもが5人、走りでてきた。
「ちと、尋ねるが---」
子どもたちは、立ち止まりしないで、駆け去って行った。
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