多可の嫁入り(6)
「長谷川どのは先刻、2人の与頭(くみがしら)に、それぞれ、代行者をつけるとなれば---と、お尋ねでしたな?」
「はい」
3年前の宝暦8年(1758)中秋、小十人の頭(かしら)に抜擢された長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、前任の芝山小兵衛正武(まさたけ 56歳 800石)宅に引継ぎのお礼に行った時の会話のつづきである。
「与頭・佐原三十郎からは、もう、聞き取りずみでござろう?」
「まだ一度だけですが---」
「おこころばえは?」
「52歳には、とうてい見えない達者さで---」
「はは、はは。後妻(のちぞえ)が、いこう若こうござるのでな」
「なるほど。内儀の齢(とし)は、うっかり、聞きもらしました」
「あれには、与頭代行は無用ですな。もっとも、内儀を可愛がりすぎて、腎虚でも病めば別ですが---」
佐原三十郎正房(まさふさ)は、宣雄が小十人組の5番手の頭になる2年前の宝暦6年に、50歳で与頭の席を射とめていた。
初めて召されたのが39歳での小十人組入りだから、かなり遅かった。
このところ、役づきの幕臣の老齢化を、幕閣たちも議論していた。人生が50年では終わりがたくなっていたのである。
もっとも、佐原三十郎の与頭の席は、偶然のようにころがりこんできたものだった。
前任・酒井庄右衛門実清(さねきよ 71歳 廩米150俵)が、つまらない事件にまきこまれて、40年も小十人組衆を勤めた末に、63歳でやっと手に入れた与頭の職を、棒にふったのだ。
実子・小文太実行(さねゆき)は、父・実清がいっこうに隠居する気配を見せないので家督できず、手をつくして田沼意誠(おきのぶ)に認められ、一橋家の近習番となっていた。ところが7年目に30歳で父に先立って逝ってしまった。
当主が50歳を過ぎてからの継嗣の養子は、手続きもうるさく、なかなかにむづかしい。
それでも、小沢某(小姓番組 400俵)の三男・熊之助というのを養子に決めたが、熊之助は実家に居座ってよりつかない。それというのも、浅草・田町にある実家が博打場となっていて、そっちがおもしろいからだった。そのバチ場での口論から、人を斬り殺してしまったのを、親子ともどもに糊塗しようとした罪で、熊之助は遠島、実清は71歳でお役ご免の蟄居、その後は小普請入りを命じられたのである。
佐原三十郎が与頭の後釜として引きあげられた。
「いや、酒井庄右衛門は、貧乏くじを引いたともいえます」
そう前置きした柴山小兵衛は、庄右衛門が与頭に執着した遠因は、その前の与頭・酒井弥三郎元嘉(もとよし 廩米150俵)が、77歳までの21年間も与頭の席を後進にゆずらなかったからだといった。弥三郎も引退を遅らせたので、長嗣子が先立ち、家督をゆずりそこなっている。
「長谷川どのは、酒井弥三郎や酒井庄右衛門といった頑固者たちがいなくなってからのお頭こ着任だから、まずはやりやすいはず。手前は、両というより老・酒井2人には手こずりましたからな。はっはは」
両酒井というが、弥三郎は大老も出す名門・酒井の(清和源氏を称する)一統の末だが、庄右衛門のほうの酒井は近江の平氏系で、両者はまったくつながりはない。
「長谷川どの。とにかく、幸田、佐原の手綱をたくみにおさばきあれ。そうすれば、組衆はことさらに波風をたてますまい」
(小十人組 絵版手 酒井・佐原系前後の与頭)
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