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2007.12.09

多可の嫁入り(7)

多可の婚儀には、長谷川家側からは宣雄(のぶお)養父母と銕三郎宣以(てつさぶろう のぶため)、本家の小膳正直(なおまさ 徒頭 43歳 1450余石)夫妻が、水原(みはら)家側は実兄・幸田(こうだ)善太郎精義(まさよし 43歳 小十人組衆 廩米150俵)が、花婿(?)の水原善次郎の本所・二ッ目南割下水の家に、出席した。

再婚でもあり、自邸での婚儀でもあるということで、小普請組の与頭(くみがしら)をつとめていた善次郎正明(まさあきら 40歳 廩米200俵)の上役である支配・戸田弥十郎忠汎(ただあつ 54歳 2570石)は、別の日に料亭へ招いて挨拶をすることになった。

水原善次郎の小普請与頭には役料300俵と20人扶持がついていたから、生活はほどほどに余裕があったが、格式の高い長谷川正直宣雄に丁寧に挨拶されて、善次郎はいささか、緊張気味であった。
(あれなら、多可も粗略にはされまい)
銕三郎は、末席で、そうおもいながら、酌をしつされつする大人たちを眺めながら、箸を使っていた。

翌宝暦12年(1762)秋、男子を産んだ多可は、産後の肥立ちが悪しく、あっけなく歿した。
子どもは、幼名を源之助とつけられ、丈夫に成長したが、長谷川家とは縁がきれたも同然となった。
善次郎が、また後妻を迎えたからである。こんどは、一門の多い水野家の女で、父親は書院番与頭だった甚五兵衛忠堯(ただたか 500石)だが、むすめが嫁ぐ前年に歿しており、弟・忠居(たたおき 34歳)が家督していた。
女は36歳まで、嫁(い)きおくれていたのである。それでも、2人の男子を産んだ。
水野一門の引きがあったのであろう、善次郎は、着実に出世をつづけた。
息子の源之助保興(やすおき)も書院番士にとりたてられた。

しかし、水野から来た女は、源之助正興(ただおき)をどういう育て方をしたのか、博打をおぼえ、松平定信が老中になって綱紀の粛正をはかったとき、、幕臣で博打の首謀者だった者の家士を自分の屋敷にかくまったりしたことが発覚、遠島になった。27歳だった。
おかまいなしだった父親・善次郎保明は68歳。

天明8年(1788)8月9日だから、捕縛したのは、長谷川平蔵宣以(43歳)ではない。
平蔵宣以が火盗改メ・助役を勤めたのは、その前年の9月19日から、翌8年春までで、本役を拝命したのは、その年の10月2日からである。

平蔵宣以とすれば、多可の産んだ子を、わが手で捕縛しないですんだことが、まだしもの慰めであったろう。

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005長谷川宣雄の養女と園 」カテゴリの記事

コメント

小普請与頭(くみがしら)の役料300俵は、水原善次郎保明の場合は、家禄200俵との差---100俵が足高(たしだか)として支給されます。
20人扶持は、日に1斗の玄米支給ですから、年では365斗---約100俵(1俵3.5斗計算)。
結局、両方でプラス200俵(200両相当)の増収です。

投稿: ちゅうすけ | 2007.12.09 17:13

水原保明の長男、後に遠島になった保興ですが、このエントリーに掲示された「寛政譜」には明和六年に初お目見えとあります。ということは、この時点で元服は済んでいたのでは?十五歳くらい、少なくともそう自称して不自然でない外見だったのでは?宝暦四年(1754)くらいの出生でしょうか?
安永五年には書院番士になっていますし、この時点で二十歳は過ぎていたでしょうから、どんなに早く見積もっても安永五年に二十歳として、宝暦六年(1756)くらいの出生ということにならないでしょうか?

天明八年に遠島になった時には三十過ぎていたと思われますので十五歳を過ぎた息子がいても不思議ではないのでは?

水原家の系譜の保興の「母は宣雄が女」の部分が間違っているか、長谷川家の兄弟の長幼の序列が間違っているかのどちらかでしょうか?

水原家の方が間違っているのではないかという気がします。
先祖書を出した時点で水原保明は亡くなっており、家督を継いだのは三度目の妻、水野氏の産んだ子ではないでしょうか?
父の前の妻が産んだ子だという認識で、二人目の妻の子と届け出してしまたっということはないででょうか?

投稿: asou | 2010.04.19 12:35

>asou さん
長谷川家から帰嫁した多可が没したあと、さらに後妻が入ったので、三原家との縁はきれたといえましょう。
そういう家のことは、平蔵宣以とはかかわりが薄すぎるので、あまり考察していません。

水原家の系譜は、寛永譜をもとに、保明の3代前に分家というより、勘定に取り立てられた次々弟の水原家が提出したと考えられます。
もちろん、保興が流島になったとき、分家・親政の家へ移されたのでしょう。

長谷川家のほうをたしかめましたが、提出原簿
も銕三郎の妹となっています(公文書館所蔵のもの)。提出時、久栄はまだ生存していましたから、チェックはしたとおもいます。

また、多可の養女を迎える場面で、数多くのデータをあたりましたから、銕三郎と同い年でないと、ほかとの整合性がとれなかったことを記憶しています。

水原家は、寛政譜には、分家と、滅した家しかありません。

また、訂正しましたが、三原としたのは、もともと、近江の水原郷の出である水原家は、信長の時代は三原を称したとあったので、変換の間違いを見過ごしたのでしょう。

水原家は、その後の平蔵宣以にかかわらないのですから、あまりつっこんでも、ブログの鬼平ファンには興味が薄いのではないでしょうか。

投稿: ちゅうすけ | 2010.04.19 14:26

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