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2007.12.15

宣雄、小十人頭の同僚(6)

小十人組の頭(かしら 1000石格)に就任することは、中流以下・お目見(おめみえ)以上の幕臣にとって、幹部候補生として、スタートを切ったことになる。

つぎに目指すのは、番方(ばんかた 武官系)なら先手の組頭(1500石格)、役方(やくかた 行政官)なら目付(めつけ 1000石格)。目付は1000石格だが、家禄が500石以上の家の者には、町奉行(3000石格)がころがりこんでこないともかぎらない。江戸の町奉行でなくても、京都町奉行なら1500石格である。

小十人組の頭が、いつごろから出世の経過コースになったか、長谷川平蔵宣雄(のぶお)が任命された5番手の最初の仁から、宣雄までの『柳営補任』をあたってみた。

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宣雄を含めて15人。
うち、宣雄ともで5人が先手組頭へ栄転している。
上段・左端、先手組頭へ最初に任じられた細井金五郎勝則『寛政譜』勝行 かつゆき 49歳 1800石)の延宝といえば、四代将軍・家綱の時代である。幕府の職制がほぼかたまったころというえよう。
しかし、その後の3人は目付。
先手組頭へ復したのは、享保のころからだから、八代・吉宗の時代。これとそのころの番方の幕臣たちのこころがまえと、なにか関係があるのであろうか。たとえば、先手組頭なら、ほとんど老衰するまで1500石をもらいつづけられるとか。
中段の黄○・曽我七兵衛助賢(すけかた 46歳 800石)がその仁だが、5年後に新番頭(2000石高)へ移っている。
中段・左端の岩本内膳正正房(まさふさ 46歳 廩米300俵)は、吉宗の江戸城入りで紀伊から召された仁である。吉宗は、譜代の重臣たちに配慮して、紀伊から呼んで幕臣とした200余名には、大きな禄を与えなかったというが、職位についていた役料で報いたとみておきたい。もちろん、結論を出すには、200余名を検索してみなければならないが。
なお、岩本正房は61歳で歿するまで15年間、その職にあった。

芝山小兵衛正武(まさたけ)については、2007年12月7日[多可の嫁入り](5)を参照。

前の3人の先手組頭への昇進を知っている宣雄も、とうぜん、それを目標にして手を打ったと考えてもおかしくはあるまい。
伊兵衛名を受け継いで名乗っていた長谷川家の代々の面々は、一人も就くことができなかった番方の役職に、宣雄は初めてついたのであるから、子孫のために、さらに高のぞみをしたろう。

こういう、歴史にも残らない中流以下の幕臣の記録をあたって類推を重ねる作業は、きわめて困難で、想像の手がかりもまた少ない。

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