宣雄、小十人頭の同僚(7)
鬼平こと長谷川平蔵宣以(のぶため)の父・平蔵宣雄(のぶお)は、小十人組の頭(かしら 1000石高)から、番方(ばんかた 武官系)の栄達の最終ポストに近い先手・弓の8番手の組頭へ、明和2年に移った。47歳であった。
この、小十人組の頭から先手・組頭のコースは、吉宗・家重の時代にはよくあったケースかどうかを、検索している。
宣雄の5番手の『柳営補任』はすでに見た。2007年12月15日[宣雄、小十人頭の同僚(6)]
たびたび顔を見せてきて、宝暦12年12月28日に発令になった本多采女紀品(のりただ 48歳 2000席)の組---6番手を調べてみる。
この組の頭は、本多紀品(緑○)まで20人、うち4人が先手組頭へ栄進。
本多紀品の前は2人つづいている。両人ともりっぱな譜代の一門。
榊原大膳久明(ひさあきら 42歳 1000石)。その後、西丸の持弓の頭になり、致仕後は、養老米300俵を9年間賜った。
安藤弾正少弼惟要(これとし 39歳 300石 のち加増され800石)は、先手組頭を足かけ3年で終えて作事奉行(2000石高)、勘定奉行(3000石高)、大目付(3000石高)などの行政職へ転じ、養老米300俵を3年間賜る。
そうそう、この仁は、本多紀品といっしょで、先手組頭の時代に火盗改メも勤めている。
こうして見てみると、人によっては、先手組頭は、決して番方のふきだまりとはいいきれない。
あと、もう一組、検索してみれば、宣雄のころの趨勢がつかめるだろう。
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