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2007.12.17

宣雄、小十人頭の同僚(8)

小十人組の頭(かしら)から、次のポストに進むのに、吉宗家重のころから、先手組頭と目付が増えているように思えるので、その実証をしている。

これまで、長谷川平蔵宣雄(のぶお 400石)と同期ともいえる中で、宣雄の5番手、そして宣雄とかかわりが濃かった本多采女紀品(のりただ 2000石)の6番手を、 『柳営補任』からすでに引いた。

もう一組、宣雄が小十人の頭になったときに、閥づくりの講への誘いをかけておきながら、翌年---宝暦9年(1759)11月に、さっさと新番頭(2000石高)へ栄転していった神尾(かんお)五郎三郎春由(はるよし 40歳 1500石)のいた7番手を掲げよう。
【参考】 講への誘いは、2007年5月27日[宣雄、小十人組頭を招待]

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15人の頭のうち、享保10年以降3人---神尾春由の後任の能勢(のせ)助十郎頼寿(よりひさ 廩米300俵)も、宣雄在任中ということで加えると、15人中4人が先手組頭に進んでいる。

別件だが、安永5年(1776)閏9月、将軍・家治は、日光参詣をした。幕臣たちはそれに供奉(ぐぶ)したこと誇らしげに「家譜」にしたためて提出している。能勢家もそうしている。時に、頼寿は74歳であった。
喜寿に近い老武士が、江戸から日光まで、まあ、先手の組頭だから騎馬だろうが、それでも姿勢を正して供をしている姿を想像すると、なんともおかしい。
---というか、74歳になっても先手・弓の頭を引退しない執念には唸るほかない。

小十人の3組だけだが、吉宗家重の時代に、小十人組の頭たちが、次のポストとして、できればと、一つには先手組頭を望んだらしいことは、だいたい推察できた。

これは、吉宗の人材登用りの方針にしたがって、享保8年に、各職位の役料が引き上げられたり、きちんと定められたことによるようだ。

『柳営補任』は、先手組頭の役料について、次のように記している。

一 元御役料五百俵、天和二年四月廿一日御役料地方直御加増、その後千五百高三百俵御役料被下、享保八卯六月十八日ヨリ千五百石高定ル

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