平蔵の五分(ごぶ)目紙
「長谷川どの。いま営中で評判の、〔平蔵の目紙〕というものを、ご披露ねがえませぬかな?」
席へ落ち着くなり、勘定奉行(3000石高)の石谷(いしがや)淡路守清昌(きよまさ 48歳 500石)がきりだした。
平蔵宣雄(のぶお 44歳 小十人組の頭)が石谷清昌と私ごとでこう間近で向きあうのは、3年前の宝暦9年(1959)の秋に、田沼意次の下屋敷で会って以来であった。
【参考】2007年7月25~28日[田沼邸] (1) (2) (3) (4) 2007年7月29~ [石谷備後守清昌] (1) (2) (3)
「これは、恐れ入ります。そのようなことが、淡路(あわじ)さまのお耳にまで達していましょうとは---」
「いや、拙も耳にしておるぞ」
笑顔で言ったのは、この屋敷の主・側衆の田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ 44歳 相良藩主 1万石)。
じつは、この年---宝暦11年6月に薨じた家重の喪事と、将軍職の継承の諸事もほとんど片付いたので、久しぶりに浜町(蛎殻町)の下屋敷で、くつろいだ食事をしたいからと、宣雄、本多采女紀品(のりただ 48歳 小十人組の頭 2000石)、佐野与八郎政親(まさちか 31歳 西丸小姓組)が招かれた。
田沼の息がかりは、石谷清昌のほかに、横田和泉守準松(のりまつ 29歳 西丸小姓 5500石)、川井次郎兵衛久敬(ひさたか 38歳 小普請組頭 530石)がはべっている。
横田家の祖は武田方からの幕臣入り、川井家の祖は遠江の出で今川方の徳川家への奉仕---よほど意次に目をかけられているのだろう。
酒と肴が出る前に、平蔵宣雄は、
「せっかくのお声がかりなので、不本意ながら---」
そう謙遜の辞をのべ、懐から厚めの美濃紙をとりだして、淡路守清昌の前に差し出した。
清昌がそれを、意次へ渡す。
意次から和泉守準松へ、そして、川井久敬へ。
それは、美濃紙に碁盤の目のような桝目を刷らせたものであった。
久敬が訊く。
「長谷川どのは、この〔平蔵の目紙〕---失礼、世間の呼び名に従いましただけです、これを組衆全員にお配りとか---」
「はい。幸いにも、手前の5番手組には、目が弱った者がおりませんので---」
「拝見しましたところ、この桝目は1寸(いっすん 約3センチ)の半分、5分(ごぶ 1.5センチ)ごとの目のようですな---」
「ゆえに、〔五番手の碁盤目紙〕とか、〔平蔵の五分目紙〕と呼ばれておるようでございます」
宣雄が赤面した。
「〔五番手の碁盤目紙〕とは、いいえておるのお。はっははは」
意次が細い目をさらに糸のように細めて笑った。
宣雄は恐縮の体(てい)で、首を縮める。
そこへ、井上寛司が指揮して、酒と肴が運ばれてきた。
「おお、わが屋敷の名用人どのよ。ちょうどよいおりじゃ。長谷川どのの公費の節約ぶりを勉強させていただくがよい。とくと拝見なさい」
意次は、〔平蔵の五分目紙〕を筆頭用人の井上寛司へ渡す。
突然のことで、井上用人は、首をかしげている。
意次は、みなに酒をすすめながら、
「それはな、井上。半紙の下において、その桝目の中に納まるように字をしたためるのじゃ。そうすると、字が小さくなる。その分だけ、用紙が少なくてすむし、文も曲がらない。なんとも、名案ではないか」
「なるほど---」
「どうじゃの、井上。わが田沼家は、家が新しいゆえ、老いて目がかすんでいる者もいない。長谷川どのに伺って、〔五分目紙〕の板木(はんぎ)を彫った彫り師と刷り師のところへ参り、わが家分を刷ってもらってこい」
「いや、井上どの。勘定奉行所であつえたものをおすそ分けいたします」
石谷清昌が横から、井上寛司を助けた。
と、すかさず、
「淡路どの。そのように、公けでつくったものを横流しして、勘定奉行がつとまりましょうや?」
意次が軽く応じた。
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