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2007.07.27

田沼邸(3)

佐渡奉行の石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ)が田沼意次にいった。
「侯へは手紙で申しあげておりますが、佐渡・相川金銀山の採掘の割合は、銀20に対して金1でございます。この点から申して、山の呼称は、銀金山としたほうが理にかなっていると、山奉行とも笑って話しあっておりますが、ありようは、銀の値打ちにもっと目をむけてほしいからでございます」

「ほれ、いつもの石谷どのの持論がでましたな」
と受け流す意次に、田夫士然としている石谷がわざと憮然とした表情をつくり、
田沼侯には幾度上申しても、時期尚早---とばかりで。銀をいまのように低く見ておりますと、そのうち、この国中から銀が逃げてしまいます。銀も立派な通貨でございますれば---」
意次が引き取って、
「金と銀との両替えの按配を、金1両につき銀20匁(もんめ)に引き上げよ---というのが石谷どのの献策なのじゃ。相川金銀山の採掘の実績からきているのではなく、異国での値打ちなどから導き出された献策での。したが、拙は、勝手掛(かってがかり)はおろか、いまだ老職ではないのでの」
「金1両に対して銀50~60匁という、いまの両替え率は、この国に銀がどっさり産出していた300年も昔にきまったことでございます。ひとつことが300年も変わらないというのは、あまりにも浮世ばれしております」

そこへ、召使いの女性が廊下で、取り次いだ。
源内さまが、来駕なされましたが---」
「おお。天竺浪人め、何用でまいったか---」
意次がわらっているうちに、勝手に入ってきたのは、顔も目も髷(まげ)も細づくりの、武士とも儒者ともつかぬ、30歳なかばの男であった。

_120「平賀源内どのと申されての。元讃岐・高松藩の本草学者であったが、いまは自由気ままな、うらやましいようなご身分の仁じゃ。いずれからの帰りかの」
源内は、けろりとした顔で、一同に軽く会釈し、
「越後の佐竹侯のところで、金山の指導をしておりました」
「ほう。で、いかがかな」
田沼侯がいかがと仰せられるは、幕府の天領にならないかとの意味でしょうな。これはむつかしい」
「人聞きの悪いことをぬけぬけと申す。お上は、そこまで、逼迫してはおらぬは。いかがと申したのは、陸奥の各藩の飢饉のあとの回復加減じゃ」
「天竺浪人は幕府隠密を勤めるほど、落ちぶれてはおりませぬ」
あいかわらず、けろりとしたものである。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、
田沼侯の底の知れないほど大きな器量)
を、またも見せつけられた気がしてきて、ただ、驚くばかりであった。

源内焼
相良の平賀源内墓碑
平賀源内と相良凧
平賀源内と田沼意次(つづき)
平賀源内と田沼意次

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コメント

ついに平賀源内まで登場して、驚いております。
移転した総泉寺の跡地に今も残る浅草橋場の平賀源内の墓所を思い出しました。

投稿: みやこのお豊 | 2007.07.27 08:08

こういう人たちが、時代と宣雄にどう影響したか、その結果が、銕三郎にどう伝わったかを、一生懸命にさぐっています。
それも、面白く書かないと、ね。

投稿: ちゅうすけ | 2007.07.27 12:21

このシリーズ、田中城から話が始まって、とうとう田沼時代論につながってきて、驚いております。もしかしたらたくさん本を出していらした西尾先生の、最初の歴史小説ということになるのでしょうか?

投稿: えむ | 2007.07.27 20:09

私もえむさんと同じように感じております。
長年温めておられた西尾先生の歴史小説の構想が花開きつつあるような・・・・。

投稿: みやこのお豊 | 2007.07.27 23:22

>えむ さん、みやこのお豊さん

小説を書いているつもりは、ほんと、まったくありません。小説なら、もつと情緒的なむ配慮をしませんとね。
いまのところは、宣雄という人物像を、自分なりに考えているいるだけです。

お楽しみいただけていればも、幸い

投稿: ちゅうすけ | 2007.07.28 18:47

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