相良の平賀源内墓碑
2007年3月11日の本欄で、静岡のSBS学苑パルシェ[鬼平]クラス・メンバーの安池欣一さんが、いまは牧之原市の一部となっている旧・相良地区福岡62にある長勝山浄心寺(日蓮宗)を訪れたことを報告した。
安池さんは、湯沢宗兵衛こと平賀源内といわれている墓石の写真を撮り、住職・木内隆敬師から詳細をお聞きになった。
真ん中の墓石が源内のものと。
木内師の話は、地元の郷土史家・川原崎次郎翁(1923生)の著書『凧あげの歴史 平賀源内と相良凧』(羽衣出版 1996.11.17 3,300円)とほとんど同じだったということなので、同著から引用しよう。
湯沢宗兵衛こと平賀源内といわれている墓石の発見は、昭和34年(1959)の秋彼岸だったという。池波さんが[錯乱]で直木賞を受賞したのはその翌1960年、『鬼平犯科帳』の『オール讀物』での連載は、さらに8年置いた1998年新年号から始まった。
当時の川原崎翁の日記。
10月15日湯沢春太の墓碑が発見されたと言って(郷土史家の先達の)山本吾朗氏おおよろこび。(略)
東京の寺尾俊平家の墓域で、この人は相良の出身慶応大学の医学部長(医学博士)という。
その先代は、相良城下(源内屋敷)の名医、寺尾杏斉ということがわかった。
発見の経緯は、寺尾部長の家が、遺骨を東京の多磨霊園に改葬するべく、墓石の整理をしていてわかったと。
浄心寺の霊位簿には「宗兵衛・春太の父」としるされてい、墓碑の正面には、
一実院宗見日明
深浄院妙宗日法
左側面には、
寛政十己未四月廿六日
文化三丙寅正月廿六日
と刻まれているという。
戦前の平凡社『日本人名大事典』にしたがうと、源内の生年は享保11年(1726)だから、墓碑の寛政10年(1798)を没年とみなすと享年73歳という計算になる。
ただ、寛政10年は戌午で、己未は翌11年(1799)。
この件は、もうすこし探索してみたい。
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