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2007.03.13

源内焼

静岡県牧之原市の相良地区福岡62の長勝山浄心寺(日蓮宗)にあった寺尾俊平家の墓域で、湯沢宗兵衛こと平賀源内といわれている墓石が発見された経緯は、当ブログ[相良の平賀源内墓碑]に記した。

事実は、地元の郷土史家・川原崎次郎翁(1923生)の著書『凧あげの歴史 平賀源内と相良凧』(羽衣出版 1996.11.17  3,300円)に拠っている。

同書は、伝・平賀源内のその墓石の下から、副葬品の軟陶三彩焼の花瓶が2コ、出てきたこと、その花瓶は源内焼の特徴をそなえていると記す。

源内焼について、手許の加藤唐九郎編『原色陶器大事典』(淡交社 1972.10.25)の解説を書き写す。

讃岐国志度(香川県大川郡志度町)の陶器。舜民焼ともいう。
平賀源内が宝暦年間(1751~64)長崎から伝えた交趾(コーチ)焼の陶法によって始めたもので、作品は主に弟子の脇田(堺屋)源吾(舜民)や五番屋伊助(赤松松山)が源内の指導によってつくったものであるが、特に源吾の手になるものが多く「志度舜民」「舜民」「民」などの印銘がある。

Photo_313

世界図・日本図の地図や、西洋風の斬新な意匠が特色であるが、これは源内の案に出たものと思われる。
陶土は主に付近の富田村(大川町)の土を用いた。

一方、『平賀源内と相良凧』の[軟陶三彩]についての記述は、すこし異なる。

郷里の志度では、以前から源内の指導で、いわゆる源内焼を造っていた。(略)
これとは別に本窯を築いた源内は、中国風の技法で源内焼を造らせていた。
軟陶三彩焼は線を中心とし、文様の輪郭をつよい彫線と、細い線状の泥土で区切り、紫や黄の色を美しく彩った
艶(あで)やかな焼物で、交趾(こうち)手と呼ばれ珍重された。
三彩というのは三色という意味ではなく、文様が浮きでる技法にその特徴があり、内外に異なる釉(うわぐすり)をぬる。

『現色陶器大事典』が「源内焼」として掲示している写真の鉢がいうところの「軟陶三彩」かも。Photo_314

出土した花瓶の写真は、川原崎翁の著書には掲げられてはいない。相良の資料館にでも蔵されているのであろうか。
花瓶の印銘についても、なぜか、言及がなされていない。

小伝馬牢を脱出し、湯沢宗兵衛となって相良に住みついた平賀源内は、その花瓶を持って陸奥国下村や秋田へ旅したのであろうか。
あるいは、世話になった相良の誰かに贈ったものか。

謎は謎を呼ぶ。

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コメント

平賀源内の墓が、橋場の総泉寺にある事は、知っていましたが、源内の本を読み直してびっくりしました。
なんと、総泉寺に墓があるのは、千賀道有の関係だということです。

千賀道有と言えば、『鬼平犯科帳』(2-1蛇の眼)に登場しているではないですか。
あの千賀道有が、千賀家の菩提寺である「総泉寺」に
「源内」を葬ることに尽力したとのことです。
このことは、栗本鋤雲の兄の喜多村香城(1804-1876)の書いた『五月雨草紙』の中に
「源内、何故にや罪を得て入牢し遂に獄中に死したり、その頃千賀道有という医官、源内に縁故ありしや、同家の菩提所、橋場の総泉寺に葬りて・・・」とあり。

又、同書には『鬼平犯科帳』(2-1蛇の眼)新装版p17-p19の「千賀家」のことがそっくり書かれていました。
池波さんがこれを読んだのではないかと思うぐらいそっくり同じです。

投稿: 秋山太兵衛 | 2007.03.17 12:44

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