石谷備後守清昌
平賀源内(げんない)が、田沼主殿頭意次(おきつぐ)になにやら相談ごとがありげだったので、本多采女紀品(のりただ)、長谷川平蔵宣雄(のぶお)、佐野与八郎政親(まさちか)の初席組は、はやばやと退出した。
本多紀品の屋敷は表六番町、佐野政親は永田町馬場なので、築地・鉄砲洲の宣雄とは、まるで方角が違う。
そのことを承知しているが、田沼邸の角で、宣雄にいった。
「先刻の石谷どのだが、稀にみる能吏と、田中(藩)のご隠居から聞いていた。精錬所を一つにまとめたのも、諸掛りが半減するからと田沼侯はいわれたが、ありようは、〔かなこ(坑夫監督)〕と〔買石(精錬請負業者)〕とのつるみを断ち切るのがねらいと、これもご隠居からの話でござる。老中方は、たいそうなご評価のよう---」
「はて。本多どのは、はやくも目付のご気分---」
宣雄が顔を寄せて、冷やかすように小声でいったのは、どこに耳があるかしれないからでもあった。
それをしおに、本多と佐野は三十間堀に架かる新シ橋のほうへ歩み、別れた宣雄は、大名屋敷の塀がつづく暗い道を築地川へ向かった。
ここで、宣雄に代わり、石谷備後守清昌について若干解説しておく。
石谷家が紀州藩の出であることは、先刻の田沼意次の『わが家とちがい、初代さま(頼宣)につけられて紀州へ下られたお家柄』との言ですでにお分かりのはず。
吉宗との関連でいうと、20歳の享保18年(1733)--というから、吉宗が将軍在位18年目から7年間、小納戸をつとめた。小納戸とは、将軍の側近くで私用を果たす役である。
そのときの気くばりと器用と勤勉ぶりが気にいられたかして、27歳の元文5年(1740)から37歳の宝暦元年(1751)まで、小姓(側衆)として、吉宗の後半期の政策実施---とりわけ、財政の改革をじっくりと勉強する。
つまり、延享2年(1745)9月、吉宗が将軍職を嫡子・家重に譲り、大御所として西丸へ移るとともに、清昌も西丸の小姓として勤務したわけである。
宝暦元年6月20日、吉宗の病死によって、勤務を解かれるが、翌2年には西丸の小十人頭となり、目付を経て、宝暦6年(1756 42歳)には佐渡奉行に栄進。
この人事には、田沼意次の後ろ盾が大きく働いていたという。
清昌の妻は意次の同母妹の義姉にあたる。また、嫡子・清定(きよただ)の妻は意次の姪で、その直ぐの姉は田沼の養女という姻戚関係である。
ついでに記すと、佐渡奉行の役料1000俵。
ここで、前任者たちが重い年貢を課して、農民が疲弊つくしていることを老中へ訴えるともに、吉宗時代に神尾(かんお)若狭守春央 (はるひで)が行った年貢増徴に疑問を投げかけ、のちに、物流への課税を意次に進言している。
春央の嫡子・五郎三郎春由(はるより)が、宣雄の小十人頭就任お披露目の宴会のあと、誘いをかけてきた、かの仁である。
勘定奉行、長崎奉行以降については、『寛政譜』をご覧いただきたい。
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コメント
神尾春由、思い出しました。神田御門外の屋敷に宣雄を招いて知行地の開墾を相談してましたが、あの八田の地はその後どうなったのでしょう。
投稿: みやこのお豊 | 2007.07.30 09:28