小川町の石谷備後守邸
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、東本所・四ノ橋橋界隈の〔盗賊酒屋〕で、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 37歳)と他愛もないむだ話をやりとりしていたころ---というのは、明和9年9月中旬(旧暦)であるが---。
長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳 火盗改メ・組頭)は、雉子橋通小川町(きじばしどおり・おがわまち)にある勘定奉行・石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 58歳)の屋敷に呼ばれていた。
石谷清昌とは、老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 54歳 相良藩主 3万石)が側用人時代に、木挽町の中屋敷で幾度か会ったことがあった。
宣雄は、能吏としての石谷清昌に一目おいている。
清昌は、田沼意次とは別の意味で、宣雄の独創の才能と清潔さを買っていた。
【参照】2007年7月29日~[石谷備後守清昌] (1) (2) (3)
2007年12月12日~[平蔵の五分(ごぶ)目盛り紙] (1) (2) (3)
2009年5月7日[相良城の曲輪内堀の石垣] (4)
「こちらは、所司代・土井大炊頭(おおいのかみ)侯の公用人をおつとめの矢作(やはぎ)どのです」
ひかえの者を遠ざけてから、清昌が先客を紹介した。
土井大炊頭利里(としさと 51歳)といえば、下総・古河(こが)藩主(7万石)で将来の老中候補である。
御所の修理がなった仙洞院について幕閣への報告に、代理として、こころ利いた矢作喜兵衛(38歳)を下らせたのである。
矢作は、小柄だか引きしまった躰をしており、なにより、目が澄んでいて、頭の回転がはやそうにみえた。
「これから申しあげることは、所司代の役人衆も存じおりませぬ。大炊頭侯とこちらの矢作どの、それに田沼侯だけが胸を痛めておられることゆえ、ゆめゆめ、ほかへお漏らしにならぬよう。長谷川どのには、近々、京の西町奉行職が発令になりましょう。ついては、このこと、含みおかれて、ご着任までに、なんぞ、方策をおたておきいただければと---」
石谷勘定奉行のひそやかなもの言いに、矢作喜兵衛も声をださないで大きくうなずいた。
この10年ばかり、御所の経費が目立ってふくれているのだという。
御所の経費は、山科の代官所が検閲し、割りあててある金額を超えたばあいは、幕府からの貸付金の名目で補っているが、その金高が、黙視できないまでにふくれあがってきていた。
これには、御所の役人の不正がからんでいる疑いもある。
ただ、禁裏のことゆえ、下手に表沙汰にするわけにはいかない。
「長谷川どの。京へ赴任されたら、秘密のうちにお調べ願えまいか」
さすがに、怜悧といわれた石谷勘定奉行である。
平蔵宣雄なら、あるいは、探索の糸口をつかむやもしれないと、厳秘の事項を話したのであろう。
宣雄は、勘定奉行からの、まるで雲をつかむような依頼に、ただただ、頭をさげて請けるしかなかった。
まあ、まだ正式に京都町奉行を下命されたわけでもない。
また、禁裏のことは東町奉行の所管であるから、西町奉行の噂が洩れている自分が解決しなければならない事項でもあるまいと、半分、気軽に考えていた。
その宣雄のこころのうちを察したように、石谷勘定奉行は、
「この任は、長谷川どのへ、と仰せられたのは、木挽町の君です」
「はっ---」
とたんに、宣雄は、胃がきりきりと傷むのをおぼえた。
「京の町奉行所の与力・同心は、代々、土地(ところ)育ちの者たちゆえ、禁裏の役人や町方商人と縁故やなじみができていることもあろうゆえ、このこと、洩らしてはならぬと、木挽町が申しておられます」
「では、手の者は?」
「銕三郎どのがおられよう。それに、江戸から、徒(かち)目付、小人目付を選んで上京させるもよろしかろう」
宣雄は、思わず大きく息を吐いた。
石谷はそれを見ると、初めて眉根をゆるめ、笑顔をもらした。
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