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2007.12.19

平蔵の五分(ごぶ)目紙(2)

「〔五番手の碁盤目紙〕を、いつ、どのように、思いつかれましたかな」
勘定奉行(3000石高)の石谷淡路守清昌(きよまさ 48歳 500石)がうながした。

佐渡奉行(1000石高)だった彼の、勘定奉行への大抜擢は、2年前の宝暦9年(1759)10月4日で、平蔵宣雄(のぶお 小十人頭 400石)や本多采女紀品(のりただ 小十人頭 2000石)がはじめて田沼意次(おきつぐ)の下屋敷に招かれた年のことであった。

いまでは、一色周防守政沆(まさひろ 72歳 600石 勝手(財務)をのぞき、前任者がすべて辞めたり転任して、石谷清昌は政策を立案しやすくなっている。
意次の手まわしである。
高齢の一色周防守は、柔らかな性格で、ほとんど同僚や下役に異を唱えない。

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(4人の奉行の2人は公事(裁判)方がきまり)

宣雄が答えたことをかいつまんで記すと、30歳になるまで、当主で5歳年長の従兄(いとこ)・権十楼宣尹(のぶただ)の厄介(いそうろう)だった彼は、身の上だけは比較的自由であった。知行地の新田開拓の監督に行かないときには、知行地の名主・戸村五左衛門から次の村の名主へと申し送るように紹介状を書いてもらい、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、安房(あわ)などの村々を旅していることが少なくなかった。
訪れた村むらの中に、田づくりよりも紙づくりに精をそそいでいる小村があった。そこの村長(むらおさ)の家で、漉きあげた100枚近い紙を、規格の寸法に裁つのに、線が刷ってある基(もと)紙をあて、それに乗せた分厚い定規板紙裁ち包丁を沿わせて切っていくのを見て感心し、心にとめた。
小十人組の五番手の頭(かしら)を仰せつかったとき、組下のものが記録している『御勤日録』の文字の大きさが、人によってさまざまなので、もっと読みやすくできないものかと考えているうちに、かの山村での裁断の当て紙のことを思いだし、ついでに、文字の大きさもそろえようと考えてつくったら、用紙が7割方減ることになったと。

つまり、いまの原稿用紙に似たものである。

「すると、用紙の節約は、結果でございますか?」
訊いたのは、川井次郎兵衛久敬(ひさたか 37歳 小普請組頭)。
「さようです。紙を使う量を減らすことは、初手には考えつきませぬでした。ただただ、揃った字の日録にするには---との思いだけがありました」
「いや。長谷川どがいわれたこと、じつにうがったお話しです。組衆に、紙を節約するための〔碁盤目紙〕だといえば、不服をとなえる偏屈者も出てまいりましょう。それを、字をそろえて読みやすく---といえば、誰も傷つかず、みんな気をそろえてとりくみましょう。その結果は、いわずしての用紙の節約---税もそのようにいきたいもの」
すぐに気がまわるところが、いかにも石谷淡路守らしい。

それに、田沼意次がつけたした。
「かの奇才・平賀国倫(くにとも 源内のこと)も申していたが、機略(きりゃく 発明)というものには、そのことをつきつめていってことがなったものと、別のことを狙ってつくったはずなのに、思いもよらない新しい働きが生まれたものとの2通りがあるとな」


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