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2008年6月の記事

2008.06.30

平蔵宣雄の後ろ楯(15)

江戸城・菊の間で、寛延元年(1748)4月3日、16人の後継者たちに遺跡を継ぐ許しが出たことは、2008年6月25日のこの項の (11)に、判明した下記の面々13名の名をあげておいた。

・長谷川平蔵宣雄(のぶお) 30歳 400石
 倉林五郎助房利(ふさとし) 28歳 160石
 伊藤文右衛門祐直(すけなお) 28歳 ?
 波多野伊織義方(よしかた) 27歳 200石
 米津昌九郎永胤(ながたね) 17歳 100俵
・石河(いしこ)勘之丞勝昌(かつまさ) 24歳 200石
・名取半右衛門信富(のぶとみ) 23歳 800石相当
 本多作四郎玄刻(はるとき) 17歳 200石
 田村長九郎長賢(ながかた) 20歳 330俵
・板花安次郎昌親(まさちか) 20歳 100俵
 榊原権七郎政孚(まささね) 19歳 400俵
・松平(松井)舎人康兼(やすかね) 18歳 2000石
 津田富三郎信尹(のぶまさ) 17歳 150俵
(・ は、養子)

申し渡しが終わって退出のときに、
「ごいっしょに家督を許されたのもなにかのご縁です。これを契機として、年に1回ずつ集まって、なにやかや、話しあうというのは、いかがでございましょう」
「名案ですな。2月22日に寛延と改元されて初めての卯月の遺跡を継ぐお許しだから、〔初卯(はつう)の集い〕などとでも名づけまして---」
やりとりがあって、15日後に第1回の〔初卯の集い〕が、深川・富岡八幡宮の境内の料亭〔二軒茶屋・伊勢屋〕で開かれた。

Photo
(深川八幡宮境内の〔二軒茶屋・伊勢屋〕)

参加しなかったのは、伊藤祐直榊原政孚、 津田信尹の3名。
一同が驚いたのは、松平(松井)康兼のような徳川一門、それに一族の分家が多い本多玄刻が勤番先の古府中(甲府)からわざわざ上府してきていて、この日まで滞在を延ばして顔を見せたことである。

松平(松井)康兼の遠祖・金四郎忠直(ただなお)は、家康の祖父・清康(きよやす)、父・広忠(ひろただ)に従って軍功をあげているし、その継嗣の後ろ楯となっていた康親(やすちか)は、三河国東条の城を守っている。

康兼は、みんなに説明した。
「将軍家のゆかりといっても、本家の四男が支家してから、もう、五代を経ています。さらに私は、末期(まつご)養子ですから、多くの方のご支援をいただかないと、家を支えてゆけませぬ。なにとぞ、よろしゅうに---」

ちゅうすけ注】(松井)松平の祖・康親が拠った東条の城址については、宮城野昌光さん『古城の風景 1』(新潮文庫 2008.4.1)に訪問記がある。
本家の八代目・康福(やすよし)は、田沼意次(おきつぐ)とともに老中職につき、むすめを意次の継嗣・意知(おきとも)の正室に嫁がせていたが、意次の失脚後の処置には、なにかと批判もある。

頬を紅潮させて下手(したで)にでた松平康兼の言葉に、一同、快げにうなずいた。
もっとも、康兼のその後は、さすがに家柄である、ご覧のように順調満帆だったともいえる。

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(松平(松井)金四郎康兼の個人譜)

本多作四郎玄刻の自己紹介には、みんながどっと笑い、座がほぐれた。
本多も、元服名(諱 いみなとも言う)が、かの、勇猛・忠勝(ただかつ)ご先祖のように「忠」で始まるとか、知恵者・正信(まさのぶ)老のように「正」が頭にきていればたいした家柄ですが、小生のように、玄(げん)がついていては、まさに、幻滅・泡沫の本多であります。甲府勤番で塩漬けがつづいておりますが、諸兄のお引きたてで、早く帰府がかない、山猿どもからの餞別の勝ち栗をもって、この集いに出席がかないますよう---」

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(本多作四郎玄刻の個人譜)

平蔵宣雄は、作四郎玄刻の陽気さを見習わないといけないと、自分に言い聞かせたが、
(あのような才能と修辞のあやつりは、天賦のものであろう)
半分、あきらめた。

発言がひとわたりしたところで若年寄の役宅へのお礼のあいさつの話題が出、つづいて、
「ところで、本多うじは、ご親戚筋のご老中・本多侯へのお礼をなされましたか?」
腹のさぐりあいめいた質問に、作四郎玄刻が、
「えっ? ご宿老の管轄は大名がたでござりましょう? 大名にお取立てくださったのであれば、お礼にも参じましょうが、われら200俵級の雑魚は、若年寄の網目にかかるか、かからないか、で---」
また、みんなを肯首させた。

宣雄は、退席まぎわに、駿州・田中城がらみで本多侯から声をかけられていたので、きちんとお礼に行っていたが、そ知らぬふりをよそおった。

毎年の当番はまわり持ちということにして、〔初卯の集い〕の代表の選出になって、石河勘之丞勝昌が突然、宣雄を指名した。
長谷川どのは、最年長のことでもござれば---」
「いえ。不義の子持ちでございますから、お上に対したてまつり、申し訳なく、この儀は、ひらに---」
と断った。
「不義の子とおっしゃると---」
「世間では、上手(じょうず)の手から水が洩れたといいますが、手前のは、下手(へた)というより、下手(しもて)からもらしたで、知行地のむすめが孕んでしまい、責任上---」
「下手から洩らした---は、まさに、適言」
みんな口々にいいながら、笑った。
若いときは、つまらない冗談でも、こころが開く。

代表は、言いだしっぺの石河に決まった。

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(石河勘之丞勝昌の個人譜)


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2008.06.29

平蔵宣雄の後ろ楯(14)

長谷川どのはご存じよりとおもいますが、それがし、23人兄弟姉妹の下から7番目でしてな」

新道五番町の戸田家の客間で盃を置いた、当主の縫殿助(ぬいのすけ)忠褒(ただかつ 31歳 600石)がしみじみと言った。

忠褒は、このたび、長谷川平蔵宣雄(のぶお)が組み込まれることになった小普請・第4組支配・柴田七左衛門康闊(やすひろ 49歳 2000石)組の、先任与頭(くみかしら)である。

そのお礼のあいさつに伺いたいと使いの者を出したら、組支配の柴田家と、もう一人の与頭・朝比奈織部昌章(まさよし 30歳 500石)からは、
「当主は柳営で繁忙につき、お会いできまいとおもわれるゆえ、いつにてもけっこう」
用人の返辞であった。
つまり、音物(いんもつ)だけは置いてゆけ、というわけである。

ひきかえ、戸田忠褒からは、
「明後日の七ッ半(午後5時)に、粗餐をととのえて待ち申しております」
丁重な誘いが返ってきた。

同じ与頭でも、あまりにも違う対応に、宣雄のほうが驚いた。

先任・戸田忠褒は、2年前の延享3年6月2日に任じられている。
朝比奈昌章は、1年遅れの延享4年7月24日。

家格からいうと、戸田一門は、家康の祖父・清康(きよやす)の代から徳川の傘下に入っていた。

朝比奈には2流あり、一つは今川家に仕え、もう1系統は武田勢であった。
昌章の家は、武田系である。

宣雄は、戸田忠褒からの誘いを受けたことを、本家の当主・太郎兵衛正直(まさなお 39歳 1450石余 西丸・小姓組与頭=当時)に相談すると、
「あの仁は、組下のものを私心なくお扱いなるとの評判だ。お受けなさるがよかろう」

しかし、いま、忠褒が口にした言葉は、あまりに唐突すぎた。
「それはそれは---」
「いや、まあ、23人と申しても、13人の男子のうち育ったのは7人。それがしは育った男子の6番目。姉妹は10人のうち7人」
「13方も---一人っ子であった手前には、想像もつきかねます」
「そうでしょうな。まあ、それがしにしても、13人の兄弟姉妹の全員が時・所をおなじゅうして暮らしたわけではありませんがな。それがしがものごころがついたころには、姉1人は嫁(とつ)いでおったし---4人は足利の居館で生まれて---」
「あ、ご父君・戸田忠囿(ただその)侯は、足利のご藩主(1万1000石)であられたから---」
「はっ、ははは。それゆえ、母親もそれぞりれ異なり、顔を見たこともないという兄弟姉妹もおりましたが、1万1000石の貧乏な小藩なので、兄弟姉妹間の競争がきびしゅうて---」
「---想像の外のこと」

忠褒は、付き添いの女中をうながして宣雄の盃を満たせる。
「長谷川どの。ここだけの話として胸に納めおきいだきたいのですが、それがし、実家時代のそのこともあって、競りあいというものがつくづく嫌になり---ほかの方々のように、出世を争う気がとんと失せ申しましてな」
「------」

徳川の世になり、この国から戦乱の火が消えて100年以上の歳月が経った。かつて武家は命をはった戦功によって禄高を増やしたのに、いまは算盤勘定と巧言が家禄に資している。
武士の矜持(きょうじ)は、いまいずこ---とおもうと、出世を競うのもどうかとおもう。

「戸田一門は現在35家にもふえており申す。それというのも、本多一門や大久保、榊原、水野一族と張り合ったせいです。35家というのは、ちゃんと家名を保っていくには多すぎます。いまの幕府には、それだけの口を養っていく力はありませぬな」
「-------」
「あ、口がすべりました。聞き上手の長谷川どのだと、つい、気がゆるむ。この戸田のもともと病身であったのが先代当主・忠雄(ただお)が、3年前に逝ったので、戸田のつづき縁で養子として2年前に、遺跡(600石)を継ぎ申した」
「手前の長谷川家も、先代は病身の当主で、手前はその当て馬といいますか---」
「似た立場ですな。で、遺跡を継いで、金が自由に使えるようになったので、かねてからやりたかった菊花づくりにのめりこみましてな」
「秋がお楽しみでございますな」
「なに、まだ、初手の初手ですが、出世ごころを捨てると、人の気持ちが手にとるように読めるようになり申しましてな---」
「------」

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(戸田縫殿助忠褒の個人譜)

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(戸田35家のうちの忠褒の家譜 『寛政譜』)

長谷川どの。これからも菊づくりのときどきの丹精を、のぞきに来てくだされ」
「身にあまるお言葉---さいわい、手前の住まいも、谷一つへだてただけの赤坂台と近間でございますれば、お言葉に甘えさせていただきます」
「お待ちしておりますぞ」

宣雄が京都西町奉行職のまま、京師で歿した安永2年(1773)年の秋、「長谷川備中」と記した小札をさした鉢の忠褒の細管(ほそくだ)は、とりわけみごとな花姿(はなすがた)であったそうな。

縫殿助忠褒は、71歳まで長命した。


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2008.06.28

平蔵宣雄の後ろ楯(13)

これは、真の長谷川平蔵ファンであれば、きっと面白がるにちがいない、長谷川家3代にわたる、史実を基にした因縁話である。
池波さんに話してあげたら、きっと喜ばれたであろうが、ちゅうすけが気がついたのが、つい最近なのだ。

池波さんとちゅうすけの関係は、そう、いまから25年ほど前から10数年間、読売新聞社がやっていた「映画広告賞」の審査員をいっしょにやり、年に1回の審査会で顔があうとよもやま話に興じた。
その一端は、同じく審査員だった落合恵子さんが拙著『剣客商売101の謎』(新潮文庫 2003.3.1 絶版)の解説に書いてくださっている。
そのころ、ちゅうすけは、『鬼平犯科帳』の研究家ではなく、コピーライターの現役をしていた。

鬼平犯科帳』には顔は見せないが、鬼平---長谷川平蔵には、強力なライヴァルが2人いた。
一人が森山源五郎孝盛(たかもり 400石相当)で、平蔵が死の床にあって生涯を終えるという間際に、火盗改メの代役をもぎとり、そのまま居座って、平蔵流の捕追の仕方を著書で批判しまくった。『(あま)の燒藻(たくも)』がそれである。

参照森山源五郎孝盛がらみのコンテンツは、このブログのファースト・ページの左手のサブ・ウィンドゥのカテゴリーから[森山源五郎孝盛]を指定。

もう一人は、松平(久松)左金吾定寅(さだとら 2000石)で、時の宰相・松平定信とも姻戚関係にあった。どういうわけか、平蔵を敵視して、平蔵が火盗改メの本役に就くや、2000石という大身のくせに、自ら1500石格の先手組頭に降り、火盗改メ・助役となって平蔵を監視した。

たぶん、松平定信が、『よしの冊子(ぞうし)』で報告されれていた初期の平蔵評をまともにうけとって、従兄ともいえる定寅に命じたのかもしれない。

参照】『よしの冊子(ぞうし)』の平蔵がらみの200項目以上を、現代語訳してこのブログに収録してある。
このブログのファースト・ページの左手のサブ・ウィンドゥのカテゴリーから[現代語訳 よしの冊子]を指定。

平蔵
が没するや、定寅は、平蔵が組頭として、火盗改メの職務で8年も鍛え上げた先手・弓の2番手の組頭に着任、平蔵色の払拭につとめた。

参照】松平左金吾定寅の気質や性癖がらみのコンテンツは、当ブログのトップ・ページの左手サブ・ウィンドゥのカテゴリーから[松平左金吾定寅]を指定。

森山孝盛も松平定寅も、平蔵宣以にからんでいるだけだから、長谷川家3代というからには、父・宣雄(のぶお)と伯父・権十郎宣尹(のぶただ)が関係してくる。

34歳で逝った長谷川家六代目当主・権十郎宣尹は病気がちであった。
両番(書院番と小姓組)に入れる格の家柄だったのに、病欠が多かったから、あまりいい幕臣とはいえなかった。
生前最後の勤めは、、6ヶ月勤務した西丸の小姓組・一番組、番頭(ばんかしら)は久松松平長門守定蔵(ながもち)。当時(延享4年 1747)45歳。

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(松平長門守定蔵の個人譜)

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(長門守定蔵と左金吾定寅)

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(久松松平家 ただし一家のみ 『寛政譜』)

屋敷は麻布桜田町。2000坪ほど。現在は中国大使館。

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(久松松平長門守定蔵の麻布の屋敷。切絵図は時代的に左金吾名になっている 池波さん愛用の近江
屋板)

与頭(くみかしら 組頭とも表記)は、牟礼清左衛門葛貞(かつさだ 53歳 800石)。屋敷は、牛込築土下五軒町。
神保新五左衛門長勝(ながかつ 31歳 900石)。屋敷は、小川町雉子橋通り横町神保小路。

あまりにしばしばの権十郎宣尹の病欠届けなので、用人・松浦恭助や若侍・桑嶋左門ばかりでは失礼になると、宣雄が直接に当主に会って謝罪することもあった。

そのうちに、年齢も近いせいもあり、神保葛長とは友人のような付き合いになった。
書院番、小姓組の与頭への推薦の弁も葛長はやってくれていたらしい。

もちろん、組頭・長門守定蔵宣雄の温和な人柄と深い教養には好意をもっていたが、この仁は、家柄がよすぎて、人の希望を察して世話を焼くという気くばりが苦手らしかった。

家庭にあっても、息子の扱いに気をくばることも少なかった。
そのせいか、兄の死によって継嗣となった左金吾定寅は、自己を肥大させた仁に育ったようである。

もちろん、宣雄と顔をあわせたことはない。

もし、定信が宰相になっていなければ、定寅は江戸の片隅のお山の大将で終わったはずである。

ちゅうすけのつぶやき】森山源五郎孝盛の家禄を400石相当と書いたが、実際は300石と廩米100俵。しかし、100俵は知行地の100石に相当するから、本文中では、あえて省略した書き方をした。知行地の100石からの収入は年間100両と概算する。廩米100俵も大雑把にいうと100両見当である。

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2008.06.27

ちゅうすけのひとり言(15)

鬼平こと、長谷川銕三郎(てつさぶろう 遺跡相続前の名)宣以(のぶため)の父・平蔵宣雄(のぶお)の跡目継承のあれこれにことよせて、徳川幕府の制度に寄り道をしている。

ついでにいうと、鬼平の家---長谷川の分家の当主の呼び名は、五代目の宣安(のぶやす)まで伊兵衛(いへえ)であった。

六代目の権十郎宣尹(のぶただ)は、寛保16年(1731)の宣安の死とともに17歳で家督したが、なぜか、伊兵衛を名乗っていない。

家督から6年間、病いがちで、出仕がかなわなかった。
元文2年(1736)、西丸の書院番士として番入りしたが、病欠しがちで、けっきょく5年で病気辞職となった。
小康を得た2年後の延享4年(1747)の5月に、西丸の小姓組に復帰したものの、半年でまたも病欠つづき。
上役や親類に迷惑のかけっぱなしで、この翌年正月の10日に他界した。

寛政譜』の宣尹逝去の日付は、寛延元年(1748)1月10日と記載されている。

菩提寺の「霊位簿」も1月10日と、同簿を検証した釣 洋一さんが記している。

ただ、辰蔵(呈上時は平蔵宣義 のぶのり)が幕府へ呈上した[先祖書]には、延享5年(1748)1月10日とも2月10日とも読みとれる記載をしている。

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([先祖書] 六代目・宣尹の項)

上掲の末尾の四行を活字化したものを写す。

延享五年二(または一)月十日卒 齢不知葬
同所 号 円耳院郎是日順
   宣尹妻  無御座候
   宣尹養子 譜末ニ有之 


延享5年は、7月12日に寛延と改元されたから、それ以前に書かれた記録は、延享としているはずで、しかも記したのは宣雄だろうから、10日は間違いない。

1月10日ととれば、すべてが合致する。

2月10日と読んだ場合は、[先祖書]に意図的なものが匂う。

すなわち、宣尹の死は、西丸・小姓組番士として現役中の死であるから、辞職届、実妹・波津(小説での名)の養女願い、波津と従弟・平蔵宣雄との婚姻届、さらには宣雄の跡目相続願いなどを無事に終えなければ、家が絶えてしまう。

その間の手続きを、与頭(くみがしら 組頭とも表記する)をとおして番頭(ばんかしら)へ、さらには若年寄へとすすめる。
その猶余期間が、余裕をみての1ヶ月。

34歳にもなって妻帯できなかったのは、病気が伝染しやすい種類---つまりは肺病(肺結核)だったのではないか。

それからの類推で、養女にした実妹・波津(はつ 小説での名)も同じ病疾で30歳前後まで嫁にもいけなかったばかりか、寝たきりだったとみる。

彼女の婿養子となることを宣雄が承諾したのは、もちろん、家禄を維持するためもあるが、同居していた銕三郎(てつさぶろう 3歳)の実母・(たえ 23歳 このブログでの名)も、嫉妬に狂乱することもなく納得したからであろう。

幼い銕三郎を、波津の病室へ近づけないことのほうに気をつかっていたと想像しているのだが。
当時、肺病は、不治の病気と恐れられていた。

つぶやき辰蔵が幕府へ上呈した[先祖書]のコピーは、長谷川本家の末裔・長谷川雅敏さんが国立公文書館から写したものをいただいた。
それを、研究家の釣 洋一さんが古文書の専門家に活字化を依頼されたものをいただいた。
両方を読みくらべて、引用させていただいている。ご両所に感謝。
なお、雅敏さんとのお付き合いは、平蔵の末裔を訊ねられたことから始まった。
九州の日銀小倉支店勤務だったこともあるらしいとまでは耳にしたのだが。

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2008.06.26

平蔵宣雄の後ろ楯(12)

寛延元年4月3日。
(じっさいには、延享5年4月3日であったろう。延享が寛延と改元されたのは、この年の7月12日であった)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)の跡目相続の認承が、江戸城・菊の間で、老中・本多伯耆守正珍(まさよし 39歳 駿州・田中藩主 4万石)から申しわたされたことは、このシリーズ (11) に記した。

下がりぎわ、本多老中宣雄に声をかけたことも、すでに2007年5月1日[宣雄、異例の出世]に書き留めている。

「長谷川平蔵宣雄どの。ご先祖の評判は、いまなお領内でもなかなかによろしゅう御座るぞ」

詳細は、上のオレンジ色の[宣雄、異例の出世]をクリックしてご覧いただきたい。

参照】2007年6月1日~[田中城の攻防] (1) (2) (3)

この時、本多侯は、もう一つのことを宣雄に申しわたした。
すなわち、番入りするまで、小普請支配・柴田七左衛門康闊(やすひろ 49歳 2000石)の組に入っているようにと。

辰蔵(じっさいに呈上した寛政11年には、平蔵宣義 のぶのり 30歳 西丸・小納戸)が呈上した[先祖書]で、

四月三日 養父権十郎宣尹(のぶただ)の跡目を賜る旨、菊の間で本多伯耆守から伝えられ、小普請組は柴田七左衛門の支配。

と書き記しているのを読んだ時には、跡目相続の申し渡しにも、柴田七左衛門康闊が付き添ったのかと早合点してしまった。
よく考えてみると、格式の高い2000石の幕臣が、400石の組下の拝命に、いちいち、付き添うはずがない。
仮に付き添ったとしても、9組の各組に2人ずつ任命されている与頭(くみかしら 組頭とも表記 200俵高 役料300俵 20人扶持)であろう。

先祖書]をよくよく読むと、跡目相続が許さていないのに小普請入りするはずはないから、柴田支配の下へ入ったのは、この日からとおもえる。

その柴田支配の組だが、『柳営補任』を吟味、たぶん、5番目の組だろうと推測。
そうだとすれば、与頭の朝比奈織部昌章(まさよし 30歳 500石)戸田縫殿助忠褒(ただかつ 31歳 600石)のいずれかが---ともおもったが、支配下にはいる前の者の家督拝命なんかには、付き添ってもいなかったろう。

が、ま、柴田七左衛門康闊のほうはせっかく調べたのだし、柴田一門とは今後もかかわりがでるので、七左衛門康闊の個人譜と家譜をかかげておく。

Photo
(七左衛門康闊の個人譜)

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(七左衛門康闊の養子先の柴田家家譜)

宣雄は、両番の格の家の跡目を相続したのち、半年で西丸・書院番の任に就いている。
幕臣の役にこうした欠員がでた場合、小普請の有資格者が優先されるらしいが、その推薦は、与頭・支配の胸先三寸というから、日ごろのあいさつが大切である。

宣雄の性格からいって、そのあたりはぬかりがなかったろう。

ついでに、宣雄がお礼をもってあいさつに出向いた柴田康闊の屋敷は、麹町元山王下三軒家。
その当時の長谷川家は、赤坂中之町築地にあったから、8丁(1km近く)と離れていなかった。

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(日吉山王社 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

朝比奈織部昌章の屋敷は小日向服部坂上。これは急坂だから、あいさつとはいえ、登りがたいへんだったろう。

戸田縫殿助忠褒は、新道五番町。

それぞれの屋敷へは、前もって若侍か小者を使いに出し、先方に都合のいい訪問時刻を確かめておく。
いま、電話でアポイントをとるようにだ。

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2008.06.25

平蔵宣雄の後ろ楯(11)

大人の人間関係には、いろいろ、ある。勤め先の先輩・同僚・部下、取引き先の窓口や責任者とかこれからの人、クラス・メート、学校の先輩・後輩、部活の先輩・後輩、親戚、趣味を同じくする友人、年賀状のみの知己などなど。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)にも、いろんな人間関係があった。

その一つが、家督をいっしょに許された、いわば同期の仲というのもある。
武功の時代がすぎた徳川の幕臣にとって、将軍への初見(いわゆるお目見)と家相続の許認、出仕、役職拝命、叙勲は、なによりの公的履歴であり、けじめである。

宣雄の初見についての記録はない。
ないというのは、孫の辰蔵(公式には平蔵宣義のぶのり)が幕府へ差し出した[先祖書]にも、なぜか、記されていないし、そのため、『寛政重修諸家譜』にも『徳川実紀』にも記載がない。
([先祖書]は国立公文書館に残されている)。

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(長谷川家から呈出された[ 先祖書]の宣雄の項)

実紀』は、初見を重要記録とみているらしく、ほとんどの場合、親の氏名ともども書きとめている。

六代目当主・権十郎宣尹(のぶただ)の病死と宣雄の跡目家督の経緯については、これまでに幾度も報告しいきている。

参照】2007年4月21日[寛政重修諸家譜] (17) (20)
2007年5月2日[ 『柳営補任』の誤植

宣雄の跡目相続が許されたのは、寛延元年(1744)年4月3日であったことも、幾度も書いてきた。

この寛延元年には、将軍・家重にとって、かなり重大な事件が一つ起きた。
2月26日に、世嗣・竹千代(のちの十代将軍・家治)の生母・お部屋の方と呼ばれていたお幸の局が逝去したのがそれである。
お幸の局は、家重の正室・伏見宮邦永親王の姫宮に付き添ってくだってきていた、梅渓中納言通條の息女であった。
その忌事のせいか、4月まで、家督のことは延期されていた。

喪があけた4月2日、まず、14人が父の家を継いだ。『実紀』には3人の名が記されているが、『寛政譜』から拾った9名を、年齢順にあげてみる。(頭に ・ がついているのは養子)

・小長谷(こながや)織部正武(まさたけ) 30歳 400石
 松平(能見)岩之助義問(よしとふ) 28歳 400石相当
 天野伝蔵久豊(ひさとよ) 27歳 810石
・榊原政之助政贇(まさよいし) 22歳 320俵
・小笠原数馬長儀(ながよし) 25歳 3000石
 多田主水正幸(jまさゆき) 25歳 200俵
 鈴木金五郎正栄(まさてる) 25歳 200俵
 加藤猪十郎正意(まさおき) 22歳 600石
 三宅大学康倶(やすとも) 20歳 1000石

家督の認可を言い渡された14人が、年長順にならんだのか、家禄順だったのかは知らない。
致仕した父親が付き添っていたとしたら、家禄順かもしれない。
ただ、儒教のしきたりで、年齢順に書いた。

翌4月3日、当主の死によって遺跡を継ぐことが許された16人が江戸城の菊の間に呼ばれて、月番老中・本多伯耆守正珍(まさよし 39歳 駿州・田中藩主 4万石)から、申しわたされた。
寛政譜』から拾えたのは13人。

・長谷川平蔵宣雄(のぶお) 30歳 400石
 倉林五郎助房利(ふさとし) 28歳 160石
 伊藤文右衛門祐直(すけなお) 28歳 ?
 波多野伊織義方(よしかた) 27歳 200石
 米津昌九郎永胤(ながたね) 17歳 100俵
・石河(いしこ)勘之丞勝昌(かつまさ) 24歳 200石
・名取半右衛門信富(のぶとみ) 23歳 800石相当
 本多作四郎玄刻(はるとき) 17歳 200石
 田村長九郎長賢(ながかた) 20歳 330俵
・板花安次郎昌親(まさちか) 20歳 100俵
 榊原権七郎政孚(まささね) 19歳 400俵
・松平(松井)舎人康兼(やすかね) 18歳 2000石
 津田富三郎信尹(のぶまさ) 17歳 150俵

見おとしもあるかも知れないが、『寛政譜』22冊全8,800ページを、1週間費やして、じっくりあたった成果が、16人中の13名である(もう一度やれといわれても、逃げ回るであろう。それほど体力的にも精神的にもきつい作業であった)。
それで気づいたことの一つが、『寛政譜』編纂のために、各大名家とお目見以上の幕臣へ[先祖書]の呈出を命じたのはいいが、雛形を示したのか、必記事項の指示はあったのか---といった疑問と、整理・採否の基準はどうだったのか---の疑問が生じた。

これらのことは、具体的に、13名の中から事例をしめしながら、しばらく考えてみたい。

それはそれとして、16名の中のだれかが、
「ごいっしょに家督を許されたのもなにかのご縁です。これを契機として、年に1回ずつ集まって、なにやかや、話しあうというのは、いかがでございましょう」
「名案ですな。2月22日に寛延と改元されて初めての卯月の遺跡を継ぐお許しだから、〔初卯(はつう)の集い〕などとでも名づけまして---」
こいういう提案は、たいてい、なにやら、下ごころのある者からなされる。

ちゅうすけのつぶやき】『寛政譜』も『実記』も、父が致仕しての後継は「家を継ぐ」とし、当主の歿後の家督は「遺跡を継ぐ」と、分けるようにしている。
後者は、審理を要するようである。

また、寛延元年には、9月に朝鮮からの使節がきたので、その応接もあり、家督の件数は少なかったのかもしれない。
「家を継ぐ」相続は、4月2日につづいては、
8月14日 14人
12月3日 10人

「遺跡を継ぐ」は、4月3日の次は、
6月8日 8人
7月5日 10人
閏10月3日 12人
12月3日 6人
同月23日 11人

総計 76人



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2008.06.24

平蔵宣雄の後ろ楯(10)

奥右筆の五番格、上村政次郎利安(としやす 150俵)を検討してみる。

利安は三代目で、将軍・綱吉の時に召抱えられた初代・甚右衛門高道(たかみち)は、廊下番から土圭間(とけいのま 時計係り)へ転じたが、正徳3年の定員縮少にひっかかって、小普請入り。
6年間、小普請のまま過ごして、60歳で他界し、谷中の大円寺に葬られた。

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(上村家 『寛政譜』)

大円寺は、台東区谷中3丁目に現存しており、春信による笠森おせんの碑で知られている。

_300
(春信 笠森おせん)

もっとも、おせんがいた茶店〔かぎ屋〕があったのはここではない。
三崎坂上の功徳林寺のほうである。三崎坂は別名が、池波さんの短編の題名にもなっている、〔首ふり坂〕である。
14歳のおせんの美貌をたしかめに行ったのも、20歳の銕三郎(てつさぶろう)と岸井左馬之助(さまのすけ)たちであって、父・宣雄(のぶお)ではない。
おせんはお庭番のむすめで、同じお庭番の倉地家へ嫁(とつ)いだ。

大円寺は、日蓮宗である。
長谷川家の菩提寺・戒行寺(新宿区須賀町)も法華宗だから、伝手(つで)を求めていた平蔵宣雄を、大円寺の住職に引きあわせたのが、戒行寺ということも考えられないことではない。

とすると、宣雄が紹介された政次郎利安は奥右筆になって4年目、28歳。

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(上村政次郎の個人譜)

宣雄も30歳になったばかり。腰が低く、なにごとにも慎重な宣雄を、利安は好もしくおもったろう。
「諸届けを、与頭(くみがしら 組頭とも表記)どのをとおして呈上なされているのであれば、なんのご心配もないと存じます」
利安は、宣雄に安心して待つように言ったとおもう。

利安が奥右筆の組頭になったのは、それから25年後の、安永2年(1773)7月1日。53歳。
奇しくも、この年の6月に、宣雄は京都で逝っている。55歳であった。

この安永2年という年は、上村家にはもう一つの慶事があった。息・求馬利言(としのり 28歳)が小姓組番士に登用されたのである。
父・利安が組頭に昇格した5日後であった。
利安の手くばりの巧みさがうかがえる。

28歳は、銕三郎と同年ということだ。
ここにも、運命の糸を感じるのは、いささか、読みがすぎるというものであろうか。

ちゅうすけの妄想は、さらにひろがっている。
上林家の屋敷は、本所南割下水、二ッ目と三ッ目のあいだである。
南本所三ッ目の長谷川家から、5丁(500m)ほど。
小説の入江町の長谷川邸からだと1丁。

ちゅうすけのつぶやき】 上村家は、天保期に、本所から神田柄木町へ屋敷替えになっているから、市販の幕末期の切絵図で南割下水あたりをさがしても見つからない。入江町の「長谷川」はそのままある。


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2008.06.23

平蔵宣雄の後ろ楯(9)

鬼平---長谷川平蔵宣以(のぶため 家督前は銕三郎 てつさぶろう)の父・平蔵宣雄が、30歳の時に跡目相続を許された寛延元年(1744)に、陰ながら口を添えたかもしれない奥祐筆をあらいだしながら、江戸城内のあれこれを推察している。

前々回では、奥祐筆の筆頭・柴田藤三郎忠豊(ただとよ 廩米200俵)、二番格・臼井藤右衛門房臧(ふさよし 150俵)を、前回は三番格・清須孫之丞幸登(ゆきのり 廩米150俵)を紹介した。

この回は、四番格の橋本喜八郎敬惟(のりのぶ 150俵)を検討するわけだが、視角をすこし広くとってみたい。

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(橋本家家譜 『寛政譜』より)

寛政譜』を読むかぎり、この家系は、1軒のみである。
喜八郎敬惟は三代目で、初代・喜平次敬近(ねりちか)の記述の前に、

敬近はじめ猿楽の技をもって松平伊予守より扶助をうけ、召しだされ家を興す。家伝に、橋本は山城国都筑郡(つづきこおり)のうちにあり。その先住せしところなりといふ。

岩清水八幡宮が鎮座している土地で、『鬼平犯科帳』文庫巻3[兇剣]で、鬼平が歌姫街道を経由して奈良見物に出かけるはな、参詣した神社である。p152 新装版p159
境内に、橋本口という道があることは、『都名所図会』に記されている。

岩清水八幡宮と橋本家の初代・喜三郎敬近の猿楽とは、何か関連があるのであろうか。
この神社は、菜種油の監察を独占発行していたことは、司馬遼太郎さん『国盗り物語』で教わった。

能楽師の子で幕府の重職となったのは、新井白石(はくせき)とともに六代将軍・家宣(いえのぶ)を支えた用人・間部(まなべ)詮房(あきふさ)の例がある。
徳川将軍や武家の能楽好きは、『徳川実紀』の新年の、町人にも解放される恒例の公演の記述によっても推察がつく。

喜三郎敬近の場合は、御側用人・間部ほどの出世ではなく、土圭間(とけいのま)詰であった。
土圭---すなわち、時計---殿中の時刻を正確にする係りである。

二代目・敬問(ゆきとう)は養子だが、表祐筆から奥祐筆へ転じ、表祐筆の組頭で終えている。

その間、下馬札の筆法を蜷川八右衛門親雄(ちかお)からうけて、息・喜八郎敬惟へ伝授したとあるが、「下馬札」なるものは未調査。わざわざ、『寛政譜』に記載するほど貴重なものなのであろう。

参照】蜷川八右衛門親雄 2008年6月11日[平蔵宣雄の後ろ楯] (3)

当の三代目・喜八郎敬惟は、19歳の寛保2年(1741)に表祐筆、翌年には奥祐筆に昇格。
明和3年(1766)、44歳で組頭。21年間在職し、天明3年(1783)に留守居番という名誉職に。
現職のまま、67歳で歿。

_360_2
(橋本喜八郎敬惟・個人譜)

その死によつて跡目相続ができた四代目・喜平太敬問(ゆきまさ)は、この時。44歳。
もっとも、21歳から小姓組番士として出任、船手、御膳奉行を歴任しているから、廩米200俵前後は加俸されていたとおもうが。

言いたかったのは、祐筆の家職を継がなかったこと。

拝領屋敷は、神田明神下だから、銭形平次とは隣組でも、長谷川家との地縁はなかったようだ。

ちゅうすけのつぶやき】 調べごとがあって、『寛政譜』の全22冊8,800ページを7日がかりで繰っていたら、七代将軍・家継の2年目---正徳3年(1713)5月に、土圭間(時計の間)の縮小で、何人かの詰人が任を解かれて小普請入り。理由は書かれていない。
推察するに、寛永3年(1626)に本石町3丁目に時の鐘を設立して刻時を民営化し、これにならって江戸の諸所に時の鐘ができてすで100余年を経過したからと、役人べらしの一つだったのかもしれない。

その証拠に、吉宗が八代将軍となってすぐの享保元年(1716)年5月には、土圭間そのものが廃止され、150俵級の数人が任を解かれたことも記録されている。

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2008.06.22

平蔵宣雄の後ろ楯(8)

鬼平の父・宣雄(のぶお 34歳の時)の、寛延元年(1748)年早春の遺跡の相続申請と、小十人頭への抜擢の後ろ楯探しをつづけている。

この回は、候補者と目している奥祐筆の一人、清須孫之丞幸登(ゆきのり 廩米150俵)の登場だが、じつは、これまでとは観点を変えて、下級幕臣にひろがっていた、ある習慣について考察したい。

その前に、例によって、個人の項を抽出した、孫之丞幸登の[寛政譜]を見ていただきたい。_360
(清須幸登の[寛政譜])

冒頭に、享保19年(1734)12月22日、祖父が家を継ぐ。

とある。17歳の年だが、そう、父でなく、祖父の遺跡(いせき)---これが、この回の主題なのだが、細見はのちほど。

まず、経歴をざっとさらっておく。

相続から6年後の元文5年(1740)11月19日、23歳で表右筆入り。
2年後の寛保2年(1742)7月18日に、能筆を認められて奥右筆に。

平蔵宣雄の家督申請はこの7年後の寛延元年だが、この時期には幸い、孫之丞幸登は西丸の右筆への出向から、本城へ復帰している。

10数年を経た宝暦13年(1763)7月9日に組頭(46歳)へ上りつめ、2年後の明和2年(1765)には、将軍・家治の世嗣・家基(4歳)の御名折り紙を書いて時服二領を賜っている。
21歳になっていた銕三郎(てつさぶろう)が、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎の若い妾・おとできたのは、この翌年の初夏であったことは、ご記憶のはず。

参照】『鬼平犯科帳』文庫巻6[鬼火]p157 新装版p165

明和3年は、孫之丞幸登(49歳)にもいい年で、西丸の納戸頭へ栄進。
しかし、2年後に現職のまま歿。享年51歳。

さて。年代を遡る。
孫之丞幸登が祖父の遺跡を継いだのは、享保19年12月22日であった。

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(孫之丞幸登の父・幸哉と祖父・幸信の部分抽出の家譜)

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(清須家の[寛政譜])

養子だった父・助之進幸哉(ゆきなり)は、その年の4月2日に、家督しないまま、病死してしまっていたからであるが、23歳の時の子が幸登と仮定すると、40歳の死である。
お目見(めみえ)をすませてから40歳まで20数年間、無役のままでおかれた。

養子の死におどろいた祖父・三之丞幸信(ゆきのぶ)は、あわてて孫・幸登への家督相続を急いだが、推定するに、男子の実子にめぐまれないとわかって養子をとったのであれば、30歳をこえてからであろうから、この時は60歳を越して70歳に近かったのではなかろうか。
その齢で、役をはずされても家督をゆずらなかったのは、どういう理由であったのか。現役に執着していたと見られても仕方がない。

じつをいうと、このところ、『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』22冊の全巻を詳細に眺め直しているが、清須家のような、祖父から孫への、手遅れともいえる相続が、徳川中期から50家に1家の割りのように増えている。
長生きが常態化して、現世への執着が流行しているようにおもえるのだが。

その点、55歳で京都町奉行の現職で歿した宣雄、やはり火盗改メの現職のまま50歳で逝ってしまった平蔵宣以---鬼平は、いさぎよかった(?)。

いや、ちゅうすけ自身もすでに喜寿をこえている。長寿をいましめているのではない。次世代へのバトン・タッチの円滑を言っているだけである。
「後期医療制度」反対ではあるが、これは、それとは無関係の意見である---念のため。

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2008.06.21

平蔵宣雄の後ろ楯(7)

長谷川平蔵宣以(のぶため 小説の鬼平。家督前は銕三郎 てつさぶろう)の父・平蔵宣雄(のぶお)が、両番の家柄の婿養子になったとはいえ、六代つづいてヒラのままだったのに、突然、役付に引きあげられた経緯(ゆくたて)を類推する手がかりの一つとして、奥右筆の推挙の有無を調べている。

両番の家とは、小姓組番士と書院番士がほぼ約束されている格をもっている幕臣のことである。

銕三郎(21歳)が、京都の盗賊・〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45,6歳)の新しい妾・お(しず 18歳)の躰を盗んだのは明和3年(1766)の初夏---病死した従兄から家督を引き継ぐ宣雄が奥右筆に縁を求めたのは、その18年前の、寛延元年(1748)の春のことであった。宣雄は30歳。 

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(歌麿 お静のイメージ 「蚊帳からでる女」)

参照】 [お静という女](1) (2) (3) (4) (5)

前の回 (6) で、『旧事諮問録』(青蛙房 1964 岩波から文庫化されてもいる)から、旧幕時代の末期に奥右筆・外交担当だった河田煕氏の懐古談を引いた。

その問答の中に、奥右筆への〔頼み〕に伴う謝礼について、組頭へはもちろんだが、その下の筆頭、「それから二番、三番、四番、五番あたりまで」は受ける、「新規の人は甘い露は吸えないというわけ」うんぬんとある。

そういうことだと、宣雄も対策を立てるであろう。
(たかが、家督の円滑と、そのあとの番入りについての頼みである。しかし、どうせ頼むなら、いま3歳の銕三郎が成人する20年先に筆頭とかニ、三番目につけているくらいの人に渡りをつけておくほうがいいかもましれないな)

いわゆる、先物買いである。
泰平がつづいていた時代だから、今日の次は、かならず明日(あした)になる---と信じていた。

しかし、3歳の銕三郎が番入りするのは20年はおろか、30年先のことかもしれない。
投資の効果が、それほど長つづきする期待をするのは、ちょっと虫がよすぎよう。
奥右筆になった能筆家が、その職にあるのは、だいたい、20年から25年間がせいぜい。

すでに、候補---というには、位が高すぎている4人を見てきている。
岡本弥十郎久包(ひさかね 廩米200俵)
蜷川(にながわ)八右衛門親雄(ちかお 44歳 250石)
水谷又吉勝昌(かつまさ 150俵)
神保(じんぼう)左兵衛定興(さだおき 200石余)

筆頭格といえる、柴田藤三郎忠豊(ただとよ 廩米200俵)に登場してもらおう。

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(柴田藤三郎忠豊の個人譜)

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(柴田一門の[寛政譜] 3段目が忠豊の家)

平蔵宣雄が家督願いを上申した寛延元年(1748)には、45歳。奥祐筆に移って16年のキャリア。
7年後の宝暦5年(1755)の12月6日には、52歳で組頭(400俵高)の席に就いている。
宣雄が小十人頭(1000石格)の役付になったのは、宝暦8年(1758)であった。

組頭を8年勤めて、納戸の頭(400俵高)へ栄転。
それより一足先に、宣雄は先手・弓の組頭へ出世。

二番格は、臼井藤右衛門房臧(ふさよし 150俵)。

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(臼井藤右衛門房臧の個人譜)

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(臼井家の[寛政譜])

寛延元年(1748)には、40歳。奥右筆に転じてから6年目の38歳の時である。
組頭への栄進は47歳の宝暦7年(1757)。
柴田とのコンビだが、7歳若い。

安永2年(1773)、63歳で広敷の用人に。
宣雄は、この年、京都西町奉行の現職で卒(しゅつ)している。
銕三郎は28歳。いよいよ、自分の英知と判断で幕臣として、世渡りしていかなければならなくなった。
ま、物語としては、先の先のことだが。


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2008.06.20

平蔵宣雄の後ろ楯(6)

深井雅海さん『江戸城-本丸御殿と幕府政治-』(中公新書 2008.04.25)がきっかけで、長谷川平蔵宣雄(のぶお)の才能が認められたのは、奥右筆の組頭の推挙があったからかもしれないとおもいつき、口利きをしそうな組頭を調べつづけている。

とはいえ、じつのところ、奥右筆の職能がもひとつ、理解できていない。
手っとり早く、笹間良彦さん『江戸幕府役職集成』(雄山閣 1965.6.20)を見たが、収録されていなかった。

稲垣史生さん編『三田村鳶魚 武家事典』(青蛙房 1959.6.10)に[◇奥祐筆・表祐筆〔補〕 職務一般〕があったから、書き写す。

奥祐筆は(老中・若年寄が執務している)御用部屋へ詰めて、機密文書を取扱うので非常に権威ある職とされた。すなわち請願書を調査し、大名旗本の人事について意見を述べ、また御用部屋へ参入する者は、まず奥祐筆に会い用向きを述べてからでないと許されなかった。

営繕、土木の課役にしても、事実上この奥祐筆が人選するので、後には堕落して収賄がひどくなり、ために諸士との交際を禁じられたことさえある。

これに比べて表祐筆は、書類の作成だけで調査に当らないから権威はなかった。

奥祐筆はニ人から後に四十人、表祐筆は三十人から、のちには八十人になった。

奥祐筆と目付の評議(補)] 祐筆には外国の係り、寺社の係り、大名の係り---と老中、若年寄の持っていることは残らず手分けして担当していたのです。

例えば外国奉行が、今日こういう応対をして、これだけの物を出さんければならぬと建白します。それが政府の老中の手に上ると、祐筆の組頭という者にそれが老中から下るのです。組頭がそれを通常の外国係りの奥祐筆に渡す。金のことは御勘定の方へゆき、修築等のことなれば御作事奉行、御普請奉行の方へ下げ渡します。

そこで下げ渡した局々で評議して、またお目付へも出すのです。それでお目付までが評議をしまして、その書面に下札〔注・意見を書き、その箇所に貼った紙札をいう〕にしてよいとか悪いとか評議をします。

事によっては方々の諸局を廻って来ることがありますが、それをまたお祐筆の方へ返すのです。
お祐筆はさらにそれを見て、どこの局の評議がよいとか悪いとかを調べ、自分の意見をつけ加える、つまりそれが老中の腹になるのです。(旧事諮問録・旧事諮問録会・旧幕奥祐筆河田煕氏述)

_150ここに引かれている『旧事諮問録』は、明治20年(1887)ごろ、東京帝大の学者たちのなかに史談会グループというのがあって、幕臣の生き残りから生の回顧談を座談会形式で訊いた。その速記録を、7編11回刊行してから、中絶。

それが戦後、昭和39年(1964)に青蛙房から復元・出版され、のち、岩波文庫 上下2冊にもなっている。

諮問は、将軍の日常生活や大奥の話から御庭番にまでおよんでいるので、時代小説作家の座右の書となった。

いろんな分野の学者連が集まった史談会に招かれ、それぞれの質問に答えた河田煕さんは、奥祐筆の次に就いた外国掛目付。
その職にあって幕府からの欧州派遣使節として渡航、さらに大目付に任じられた仁だが、明治20年前後に60歳をいくつかこえていたとして、平蔵宣雄が家督した寛延元年(1748)には生まれていないどころか、影も形も存在していなかった。

とはいえ、『旧事諮問録』には、平蔵宣雄・宣以にも関係がありそうなくだりが語られている。
〇「奥という字の附いた役人は、たいてい交際をしませぬように聞きましたが」
◎「中には交際家もあった様子で、帰宅して、客を待ち受けて酒を呑むということもあったようです」
〇「そうすると御小姓などよりも、ゆるやかでしたナ」
◎「左様です。御側、御小姓、御目付は、親類たりとも滅多に行くことも出来なかったようです」
〇「やはり広く交際はしなかったものですナ」
◎「左様、なるたけ嫌疑を避けました」
〇「機密の方から言うと、奥御祐筆の方が知っている筈ですナ」
◎「知っているのです。威権のある(奥祐筆の)組頭などは勿論のことですが、側から見ては少しも分からぬことが沢山あります。別して人の黜陟(ちっちょく)などは少しも分かりませぬ。老中なり若年寄なりが書付をちょっと出します。それをすぐに持って帰って、自分で調べることがありますから、そうすると大黜陟などが始まることがあります」
〇「黜陟のことは奥祐筆が調べるのですか}
◎「左様です」
〇「調べる所はどのくらいの所までですか}
◎「低い所は並の者がしますが、重い役には組頭の手です。御目付から探索して、この者はこういう風聞があるということを申し上げますと、それが御祐筆の手に下がるのです」

黜陟とは、辞書によると、無能者を降官または免職し、有能者を昇進または採用する---とあり、一種の人事評価である。

さて、寛延、宝暦、明和のころの奥祐筆のありようは、別の史料に頼るしかない。

150松平太郎さんの名著『江戸時代制度の研究』(柏書房・復刻 1964.6.30)[第九章 右筆所の官制]〔第一節 奥右筆および組頭〕から、現代文に置きかえながら、アトランダムに引用する。

奥右筆は天和元年(1681)八月、小嶋次郎左衛門重貞(しげさだ 400俵)・蜷川彦左衛門親煕(ちかひろ)の二人をもって用部屋にはべらせ、機密の文書を扱わせたことに始まる。その後、だんだんに員数をふやし、幕末には四十余人にも達していた。

【参照】蜷川彦左衛門親煕については2008年6月17日[平蔵宣雄の後ろ楯] (3)

この職掌は、勝手(勘定財務)、仕置(公事)、寺社、証文、隠居(致仕)・家督、縁組、官位補任、屋敷、初拝謁、薬種、養子調、鷹野、馬帳調、小普請、役人系図、女官および外国、その他の分担に分かれていた。

勝手係は、老中に進達された出納に関しての書類を調査し、あるいは老中の指示でその調査に従事する。

仕置係は、重罪の審理にあたり、評定所一座の人選をし、あるいは三奉行、遠国奉行等が審判に関する伺いの文書をあげてきたらその判例ならびに当否を調査決定する。

隠居家督係は、大名・旗本をはじめ、席以上御家人の隠居家督に関する査閲を行う。
(略)

幕府の諸役付の黜陟(人事評価)に関しては、関係する諸役人、目付等からの意見を徴するといえども、奥右筆も一応の調査を行ってから決済される。目付が呈出する風聞書は、奥祐筆が必ず査閲して、自分の所見を付するのである。

奥右筆の役料は200俵で、それに満たない者へし足(たし)料をくださる。また別に四季施金24両2分(約400万円か)を給され、次は職たいがい、組頭か天守番頭である。

奥右筆組頭は、元禄2年(1689)に蜷川彦左衛門親煕の補任にはじまり、享保19年(1734)から2人制になった。

組頭は、配下の奥右筆を統率し、機密の文書・記録をつかさどり、また大礼の式次第にあずかる。
その職掌は秘密の政務にあずかるのであるから、それらを書き写したりしてはならない。
また、老臣らによる政事のことを聞いても、これを親子、兄弟、知り合い同僚に漏らしてはならない。

評定所に同席しても訴訟の裁決に口をはさんでもならない。
そのほか、外様の諸侯や藩士に接見してもならない。

享保16年(1731)、役高400俵となり、別に役料200俵が給され、四季施金は24両2分。さらに毎年の歳暮の賞与は金3枚(100万円相当)。

管轄は若年寄。


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2008.06.19

平蔵宣雄の後ろ楯(5)

銕三郎宣以(てつさぶろう・のぶため のち、小説の鬼平)の父・平蔵宣雄(のぶお)の能才をみとめて、だれが若年寄の耳へ推輓(すいばん)したかを憶測するために、その一候補として、奥右筆の組頭を調べている。

神保(じんぼう)左兵衛定興(さだおき 200石余)も、奥右筆の組頭だが、その職に抜擢されたのは宝暦2年(1732)で、同7年(1757)7月29日に卒(しゅっ)したことが公式に記録されている。享年44歳。
宣雄が小十人頭へ抜擢されたのは、翌宝暦8年(1758)9月15日だから、宣雄の推挙とは、あまり関係がなさそうでもある。

しかし、左兵衛定興の奥右筆の在職は、19歳から20年間におよんでいる。組頭でなくても祐筆の幹部級に、若年寄から声がかかることもあろうではないか。
が、いまはそのことより、定興自身---というか、彼の家柄に目を向けたい。

定興神保家は、『寛政重修諸家譜』によると、祖は、畠山家に仕えて、大和国河原合戦および高間合戦で討ち死にした彦九郎茂政(しげまさ)・則茂(のりしげ)父子だという。
それで、家系を失ったらしいのだが、茂政・則茂の子孫が、紀伊国有田郡石垣鳥屋城の主で、秀吉・家康の配下として6000石を知行しているのだから、話はややこしい。

_360
([寛政譜]の上3段がその神保家)。

定興の5代前の祖・甲斐定家(さだいえ)が仕えていた宇都宮下野守国綱(くにつな)が所領を没収されために浪人となり、その子が本多正信(まさのぶ)の麾下(きか)に入り、さらにその子が幕臣に加えられて鷹方牽同心10人を預かった(下野守国綱の不祥事については未調査)。
四代目・定栄は富士見蔵番。

五代目・勝之助(かつのすけ のちの左兵衛)は、6歳で遺跡(200石余)を継いでいる。

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(神保左兵衛定興の個人譜)

そして、19歳の4月に表右筆に登用され、5月1日には家光にお目見(めみえ)。
同年閏5月25日に奥右筆に転じた。

この転籍はひじょうに速い。

鷹方牽犬の頭だったという三代目の妹が大奥に勤めていたというから、その曳きがあったかともおもったが、曾祖母だから、それほどの老齢になるまで大奥にいられるわけはあるまいから、べつの縁か、定興自身の能筆が認められたか。

まあ、このあたりは、下級幕臣のことだけに史料はほとんどありえず、妄想するしかないのだが、楽しくなってくるではないか。

左兵衛定興の後妻の実家・柳沢備後守信尹(のぶただ 800石)は、例の柳沢吉保(よしやす)の一族である。
姓の源は、武田の臣で、巨摩郡(こまこおり)武川(むかわ)の柳沢村(現・山梨県北杜市武川 柳沢?)に住したから。
柳沢吉保の父・安忠(やすただ)の甥・吉次(よしつぐ)の継嗣は信尹(のぶただ)、彼女はその八番目の妹。

それでも、柳沢の一員ということで、彼女が産んだ継嗣・元太郎定和(さだかず)は、西丸の書院番士から小納戸にすすんでいる。
小納戸は、主(あるじ)にじかに接する機会の多い職である。


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2008.06.18

平蔵宣雄の後ろ楯(4)

水谷又吉勝昌(かつまさ 150俵)の名を、『柳営補任』の奥右筆組頭のリストで目にした時、大げさでなく、動悸が早まった。

水谷を(みずたに)でなく、(みずのや)と読んでしまったのである。

このプログの、かなり前からのアクセサーなら、了解してくださるとおもうのだが---。

とりあえず、動悸の素(もと)といえる記述を掲げる。

【参照】2006年4月28日[水谷伊勢守が後ろ楯?
2006年4月29日[水谷家
2006年9月28日[水谷伊勢守と長谷川平蔵
2006年11月8日[宣雄の実父・実母
2007年5月25日[平蔵と権太郎の分際
2007年5月22日~[平蔵宣雄の『論語』学習 (1) (2)
2007年5月21日~[平蔵宣雄が受けた図形学習 (1) (2)

すなわち、備中・松山藩主の水谷家の家臣だった者のむすめが、平蔵宣雄(のぶお)を産んだのである。
銕三郎(てつさぶろう)にとっては、実の祖母にあたる。

寛政重修諸家譜』で調べたら、(みずのや)ではなく、水谷(みずたに)と読み、『姓氏家系辞書』によると、美濃の浅野の系統とわかり、安堵(?)した。

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_360_2

初代は、のちに六代将軍となった甲府宰相・綱豊(つなとよ のちの家宣)の桜田の館に右筆として採られているから、能筆だったのであろう。
それ以前の家譜はない。

又吉勝昌は、奥右筆を18年勤めたのち、50歳で組頭に抜擢され、59歳の時に致仕している。
勝昌が致仕した時、継嗣・七郎勝興(かつおき)は16歳、生母は某女。家督は2年後。
勝興は、右筆でなく書院番士として召されているから、書のほうはそれほどでもなかったのかも知れない。

勝昌の実母は、同職・右筆の本目(ほんめ)勝左衛門親宣(ちかのぶ 200俵)の養女とあるが、勝昌自身は妻帯しないでいたのか、記録されていない。

ということから推測するに、閨閥づくりの意志が薄かったか。
であれば、平蔵宣雄の後ろ楯になってやる気もなかったとみておこう。

こういう、無駄に見える寄り道も、やってみると、江戸時代の何かを知るよすがにはなる。
そこがアマチュア史家の醍醐味ともいえる。
ストレートに歩くばかりが、歴史探索ではなかろう。


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2008.06.17

平蔵宣雄の後ろ楯(3)

長谷川家の六代目当主・権十郎宣尹(のぶただ 34歳)が、いまわのきわの病床にあって、まず、実妹を養女ということにした。
狙いは、いうまいでもなく、家名を絶たないためである。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻1[本所・桜屋敷]p56 新装版p60 に、修理とあるのは、権十郎と改める2,3年ほど前の名である。
また、宣雄が叔父となっているのは、池波さんの小説的意図で、史実は従弟。

養女にした実妹・波津(小説の中での名前)に、婿養子として娶(めあ)わせて家督させた平蔵宣雄(のぷお 30歳)の素性は、これも病身で養子にもいけずに、甥・宣尹の厄介として生家で養生していた、宣尹にとっての叔父・藤八郎宣有(のぶあり)が、看護にきていた浪人のむすめに産ませた子で、この時30歳、しかも連れ子(銕三郎 3歳)というおまけつきであった。
寛延元年春のことである。

参照】2006年11月8日[宣雄の実父・実母]

この婿養子・宣雄を引き立てる糸口となった仁を探している。

前の回で、奥右筆の陰の力を告げるために岡本弥十郎久包(ひさかね 200俵)の名を出したが、じつは、[寛政譜]で見たとおり、この仁は、平蔵宣雄が家督を継ぐことがゆるされた寛延元年(1748)4月3日の6年前、寛保2年(1742)納戸の頭(かしら 58歳)に転じている。
後任の組頭は、蜷川(にながわ)八右衛門親雄(ちかお 44歳 250石)が引き継いだと書いた。

参照】2008年6月11日[平蔵宣雄の後ろ楯] (2)

蜷川八右衛門親雄という仁は、[寛政譜]の後段に記されているところから判断するに、鷹揚(おうよう)というか、ものごにあまり細かくこだわらない性格であったらしい。

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(蜷川親雄の個人譜)

奥祐筆の組頭となって11年目の宝暦5年(1755)11月29日、57歳の時に役を取り上げられて小普請に貶(おと)され、閉門という、重い罰を受けた。
その罪状というのが、いつだったか、同輩の久米なにがしが蜷川家を訪問して歓談した時、かねて顔なじみの町人・松木なにがしも同席し、久米に願いごとをした。
そのことについては、蜷川当人は関知していなかったとはいえ、町人を同席させたのは不正であるというのだ。
町人・松木某が久米右筆に何を頼んだかは記載されていないが、処罰の重さからいって、汚職に近い頼みごとだったのではあるまいか。

_130_2処罰の重さに驚いて、町人を私邸にあげることが、どんな条例に抵触するのかと、延享3年(1746)発布の「武家諸法度(しょはっと)」、宝暦元年の「御条目」をあらためて確認してみたが、該当する条々は見つからなかった。

さかのぼって『御触書寛保集成』(岩波書店 1934.11.15)を開くと、それらしい条文が正徳2年(1712)にあった。
現代文にして披露。

 覚
一 前まえより、諸職人・町人たちへ発注するすべての役所の責任者へ仰せつけの御誓詞の内容は、受注元であるすべての職人・町人からの贈り物は、たとえ前まえには受けていた物といえども、一切受け取ることのないよう、新規に厳重に通達する。
責任者にかぎらず、妻子や召使のものも同様である。(以下略)

右筆といえば、触書や達しなどを筆写する仕事が多いわけだから、そのような文書には通じているはずなのに、八右衛門親雄は、脇が甘かったといえないこともない。

翌6年には許されているが、表右筆として召しだされていた継嗣・兵四郎親寿(ちかなが)も役職は取り上げられているから、同家の痛手は大きかった。
ついでに記すと、兵四郎親寿は、失意の生活に我慢がならなかったのであろう、6年後に逐電して行方しれずとなっている。

じつは、蜷川家の家譜には、祐筆の特質みたいな面が記されていて、興味深い。

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(蜷川2家の[寛政譜])

寛政譜]の上段は本家で、親雄が属する分家は3~4段目。

本家の初代・彦左衛門親煕(ちかひろ)は、青蓮院宮尊純法親皇の門下にはいり、入木道を伝授された能筆を買われ、五代将軍となるまえの館林侯の綱吉の神田の館に、右筆として採用された。
(入木道について不詳)。
綱吉の江戸城入りにしたがって幕臣の身分(700石)となり、奥右筆の組頭もつとめている。

五代目・養子の善九郎親贇(ちかよし)は、天明3年(1783)に、組頭・橋本喜八郎敬惟(ゆきのぶ 150俵)に、故実書法と下馬札などを伝授している。

初代の三男で分家した八右衛門親和(ちかかず 200俵)は、曽我流の書法を父から、下馬札の書法を実兄・彦左衛門親英(ちかふさ)から伝授をうけた。

親雄はその継嗣である。享保3年(1718)、家重の長子・家治に手ほどきをしているが、さて、7歳だった竹千代がどこまで習得しえたか。ふつうの手習い子は6歳の6月6日から習字をはじめたというが---。

蜷川2家の特記事項を拾い、記したことによって、右筆の家柄が察せられたとしたら、幸い。


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2008.06.16

平蔵宣雄の後ろ楯(2)

男の評価がほぼ定まるのは何歳あたりからであろう?

「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」ともいうが、西洋では「10歳(とう)で神童、15で才子、20歳(はたち)をすぎれば只の人」ともいい伝えてきているらしいから、いちおう、20歳前後で定まるとみていいのではなかろうか。もちろん、例外は多々あろう。

ということで、銕三郎(てつさぶろう 21歳)の父・平蔵宣雄(のぶお 48歳)の18歳から29歳まであたりのころというと、元文(1736)から寛保・延享(1747)で、家督を継ぐ目もなかったから、冷や飯食いの気やすさから、知行地の新田開鑿(かいさく)の知識をもとめてあちこち旅をしたり、得たものを実地に応用したりしていたろう。

ちゅうすけ注】もちろん、見ていたわけではないが、新田開鑿のことは、シャーロック・ホームズでなくても、別のデータ(記録)から、十分に推量できる。

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(長谷川家六代目・宣尹(のぶただ)と小十人頭までの宣雄)

知行地の一つである上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村へ開墾監督に行っていて、名主のむすめとできて、銕三郎(てつさぶろう)をもうけてもいる(延享3年 1746)。

宣雄の新田開拓の豊富な知識と実績は、家計が逼迫しがちな幕臣たちのあいだに羨望の的であったともおもえる。
噂は、新田拡張を政策の一つにかかげていた将軍・吉宗の耳へも達していたろう。
吉宗は、奥右筆の組頭へも、宣雄の実績を調べさせていたかもしれない。

当時の奥右筆・組頭の一人が、岡本弥十郎久包(ひさかね 廩米200俵)である。

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(奥祐筆組頭・岡本弥十郎久包)

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(岡本一門の[寛政譜])

家禄は少ないが、方々から用頼みのつけとどけが大きかったらしい。

深井雅海さん『江戸城-本丸御殿と幕府政治』(中公新書 2008.4,25)に、『五月雨草紙(さみだれそうし)』からの引用がある。
時代は平蔵宣雄の家督相続のころより70年ほどくだった文政の話だが、さる奥祐筆組頭が、浅草・新鳥越町の高級料理屋〔八百善〕の料理切手を贈られた。用向きが遅くなったら食事でもして帰れと、何気なく用人に渡したところ、食べたうえに、お土産がつき、さらに15両の現金が返されたと。50両の料理切手であったのだ。

50両もの料理切手を贈れるのは、もちろん、400石取りの長谷川平蔵家のような旗本ではあるまい。
何万両もかかる河普請のようなお手伝いの下命を回避するための、国持ち大名の江戸留守居役からの必死のまいないの〔かけら〕であったろう。

弥十郎久包は、かかげた個人譜にあるとおり、家宣が六代将軍となる以前---甲府35万石の家門大名であったころの江戸屋敷---桜田御殿に勤めていた1300名の一員であった。
宗家は、家康から3850石を給されていたのに不祥事があって断絶、一門は浪人となっていたのを、宗家の五男の孫が桜田御殿に召されたのにつづいて、久包も職を得ている。能筆が幸いしたのであろうか。

これから順次記していく奥右筆の家禄は、みな、それほど高くはない。
しかし、老中・若年寄の諮問に応えたりして、直接に接しているために、時には人事の推薦などにもからんだとみているのだが。

さて、奥右筆の陰の力を告げるために岡本弥十郎久包の名を出したが、じつは、[寛政譜]で見たとおり、この仁は、平蔵宣雄が家督を継ぐことを許された寛延元年(1748)4月3日の6年前、寛保2年(1742)に納戸の頭(かしら 58歳)に転じている。
後任の組頭は、蜷川(にながわ)八右衛門親雄(ちかお 46歳 250石)が引き継いだ。


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2008.06.15

平蔵宣雄の後ろ楯

鬼平こと、長谷川平蔵宣以(のぶため)が先手・弓の組頭に出世し、すぐれた火盗改メとして名を後世にのこすことができたのは、本人の才能もあるが、七代目の父・平蔵宣雄(のぶお)の能力と幸運が大きい、とかねてから思っていた。

というのは、父・平蔵宣雄までの当主たちは、書院番と小姓番組入りできる両番の家柄とはいえ、ヒラのままで一生を終えている。
もちろん、病身の当主もいたし、自分の愉しみを優先して出世に背をむけていた者もいた。

それが突然、七代目になって、家禄に加えて、役高のつく、いわゆる出世をしたのには、能力とか幸運ばかりでなく、引き立て役・後ろ楯がいたのではないかと推量していたが、それがだれか、雲をつかむような話なので、半分、あきらめかけてもいた。

参照】いったん、小十人頭の役についてからの与頭(くみがしら)や先達は、
2007年5月5日[宣雄、西丸書院番士時代の上役
2007年5月6日書院番与頭[松平新次郎定為
2007年5月20日同[組頭、能勢十次郎頼種
2007年5月9日書院番頭[仙石丹波守久近
2007年5月10日同[岡部伊賀守長晧
2007年5月28日[宣雄、先任小十人頭へのご挨拶
2007年12月10日~[宣雄、小十人頭の同僚] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
 
_120深井雅海さん『江戸城-本丸御殿と幕府政治』(中公新書 2008.4.25)から、大きなヒントをいただいたというか、目をさまされた。

同書は、老中と若年寄には3種類の秘書官---奥祐筆(おくゆうひつ)と同朋頭(どうぼうがしら)と御用部屋坊主---がブレーンの役目もしていたという。

中でも、[政界の隠れた実力者、奥右筆]は、「政治の社会でとくに大きな役割を果たし」「両者の決済を要する書願書などについては前もって先例を調査・検討し、場合によってはその諮問に応じて当否の判断を提示することである」

大名である若年寄が、幕臣の人事について、個々の人格・資質・能力などについて知っているはずがなかろうから、情報はどこからとっていたろうと、かねてから懸案にしていたが、これで一挙に納得がいった。
奥右筆をこれまで、まったく、視野に入れていなかった。

それで、平蔵宣雄の小十人頭、宣以の西丸徒頭に任じられた前後の奥右筆組頭を『柳営補任』から抜きだし、その『寛政譜』をあたって、長谷川家にかかわりあいがありそうかどうかを調べた。

柳営補任』には組頭しか記載されていない。
20人ほどいたらしいヒラの右筆は載っていない。
組頭は、だいたい、2人制のようで、ほとんどが、右筆から昇格している。

もう一つ、抜擢に関して、気がついたことがある。
長谷川本家も、両番の家柄だが、五代目・刑部正利(まさとし)まではヒラで、六代目・監物正冬(まさふゆ)が小納戸などを経て書院番士を勤めている。
正冬は、織田家臣系の坪内家(750石)からの養子である。長谷川本家の四代目の次女が坪内藤九郎長定(ながさだ)に嫁ぎ、長男が14歳になった時に養子に、という次第。

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(長谷川本家の四代目・正定の妻、五代目・正利の没年と妻、
六代目・正冬の実家と家督の年齢と妻に注目)

じつのところ、正冬はあとまわしにしたい。
内室は安藤出羽守愛定(ちかさだ 3000石)の養女である。
養女といっても、父親の信濃守定行(さだゆき)は愛定の父でもあるから、愛定は妹を養女としたことになる。
(これは、長谷川宣尹が実妹(小説の波津)を養女にして、従弟・平蔵宣雄を婿養子としたのに、やや似ている)。

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(安藤家からの2人目の嫁としてきた愛定の養女が七代目・太郎兵衛正直を産んだ)

この安藤家というのが、徳川の重鎮なのである。
本家は、紀伊藩の家老ながら田辺3万8300石。さらに一族が陸奥・平3万石の大名。これまでに老中を勤めたのが2人(平蔵宣以の火盗改メ時代にも老中がでている)。

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(安藤家の[寛政譜]の部分。5段目緑○=直政、赤〇=六女が長谷川正定の妻女となり、正利を産んだ。ニ女が坪内家へ嫁ぎ、その長男・正冬が長谷川本家の六代目へ養子)

安藤家の姓は、奥州の安部氏と、一大勢力の藤原氏からなったというから、名門中の名門といえる。

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(安藤家の始まり)

長谷川本家と安藤家とのつながりは、四代目・隼人正定(まささだ)の時に生じた。
(上の長谷川本家の[寛政譜]部分参照)

内室が、家康の知恵袋の一人ともいわれた、安藤帯刀直次(なおつぐ)の長男・彦四郎重能(しげよし)が興した分家のニ代目・彦四郎直正(なおまさ)の六女だった。

この内室が長谷川本家の五代目・正利(まさとし)を産んだが、家督して8年目の元禄15年(1702)の暮れ近くに、21歳で若死にしてしまった。
実家の威光をもって、これから正利の出世を---と思っていたろうに。

急遽、前記の正冬(15歳)が坪内家から養子にきて家督した。
坪内家とのつながりは、正利の次妹が正冬の父・藤九郎長定(ながさだ)に嫁いで産んだ長男だからである。
坪内家が長男を養子に出したのは、長谷川本家がせっばつまっていたからであろう。
もっとも、正利、次妹、正冬の年齢関係は、どう考えても、まゆツバものであるが。

とにかく、この安藤家の口ききがあったか、長谷川本家は七代目・太郎兵衛正直(まさなお)が西城徒頭、先手・弓の頭、持筒頭へと出世している。

長谷川一族には、三方ヶ原で戦死した紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)の遺児のうちの三男・正吉(まさよし)が興こした4070石余の大身幕臣の家もあるが、調べてみて、経済力はともかく、どうも、幕閣に口がきけるほどの力はあるようにはおもえないのだ。

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2008.06.14

明和3年(1766)の銕三郎(6)

(しず 18歳)が、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45,6歳)によって、京都へ連れ去られたあとしばらく、銕三郎(てつさぶろう 21歳)は、胸の中に大きくて黒い空洞ができたようで、剣術の稽古にも身がはいらなかった。

狐火〕の、

「お前さんは、武家方のお子だ。人のもちものを盗(と)っちゃあいけねえ---人のもちものでも、金ならまだゆるせる。だがねえ、女はいけませんよ」(文庫巻6)[狐火]p160 新装版p168

この言葉もこたえたが、〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち)が、
長谷川の若さま。おさんは、〔狐火〕のお頭が、これまでで、いっち、大切にしていなさる女子(おなご)です。可愛いと感じるこころに、齢の数は関係ありません。あれぐれぇのお小言ですんでよかった。ほんとうなら、お命がなかったところです」
これで、勇五郎の痛みの大きさと、それを抑えるきびしさもわかったが、それ以上に、これからずっと〔狐火〕と暮らしていくおのこころにつけた傷の深さにも配慮がおよんだ。
(自分だけが苦しんでいるのではないのだ。でも、もう、どうしてやることもできない)
人生の無情をおもい知った。

岸井左馬之助(21歳)は、立会い稽古を中途でやめ、法恩寺の門前の蕎麦屋へ銕三郎をつれて行き、
っつぁん。高杉銀平先生が申されていた。長谷川は、いまがもっとも苦しい時期であろう。若い者には、剣よりも恋だからな。しかし、悩みの谷が深ければ深いほど、それをふっ切った時、剣はより鋭くなっている、と」
「師のお心は、温かい」

が京へ去ってから、おまさ(10歳)の手習いの筆の運びに、変化がでた。のびのびとしてきたのである。
口では、
「気をゆるしあった相談相手がいなくなって、寂しい」
とこぼしているが、胸のうちの嫉(や)きもちの炎は消えたように見えた。

銕三郎とすれば、手習いの師範に、おおまさを差別した気はなかったのだが、おまさは、敏感になにかを感じとっていたのであろう。
おのれのこころのうちを隠す修行を、自分に課した。
それは、真剣で立ち会った相手に、こちらの意図を隠す訓練にもなった。
高杉先生が、「それをふっ切った時、剣はより鋭くなっている」とおっしゃったのは、このことでもあったのであろう)
銕三郎は、手前勝手に解釈した。

夏の日ざしの中にも、秋がすぐそこまできている気配が感じられる日、おまさが、
(てつ)お兄さん。亀戸(かめいど)の竜眼寺が、こんどから〔萩寺(はぎでら)〕と名前を変えること、ご存じですか?」
「だって、あそこは、もともと、〔剥寺(はぎでら)〕だろう?」
「〔はぎ〕の字がちがうんです。お兄さんが言っている〔剥寺〕は、あのあたりで追い剥(は)ぎに、着ている着物を剥ぎとられるることが多かったからって、つけられた名前でしょ。それを苦にやんだ住職さんが、池のまわりに萩を植えこんで、花のほうの〔萩寺〕に変えるんですって」
「寺も、考えたものだ」
「萩の花見に連れてってくださいな」

そう、この明和3年(1766)から、〔剥寺〕は〔萩寺〕と呼び名を変えることになった。

おまさが起居している四ッ目の〔盗人酒屋〕から竜眼寺へは、東へ横十間川(天神川とも)に突き当たり、川沿いに北行、(亀戸)天神橋をわたってすぐ、である。片道全行程7丁(約800m)。

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(上=北 下の基点=〔盗人酒屋〕 終点=竜眼寺)

境内は人出が多く、離ればなれになってしまうおそれがあるとの口実のものとに、おまさ銕三郎と手をつないだ。
まあ、21歳の若侍と10歳のおまさだから、人目に照れるほどのコンビとはいえない。
おまさの思惑勝ちであった。
(手をつないでいるのがおさんじゃなくって、悪るうございましたね)
おまさが腹の中で小さな舌をだしていることに、銕三郎は気がつかなかった。

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(竜眼寺 萩見 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

参照】『江戸名所図会』[竜眼寺 萩見

参照】2008年6月7日~[明和3年(1766)の銕三郎 (1) (2) (3) (4) (5)  (6)
2008年6月2日~[お静という女](1) (2) (3) (4) (5)

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2008.06.13

ちゅうすけのひとり言(14)

徳川家康の一生のうちで唯一の敗戦といわれている、元亀3年(1572)12月22日、三方ヶ原での武田信玄の大軍に対しての負け戦で、家康側は幾10人もの武将を失った。

その中の2人が、徳川時代の長谷川家の祖・紀伊守(きのかみ)正長(まさなが 37歳)、弟・藤九郎(とうくろう 19歳)である。

戦死者の遺族を丁重にあつかわないと、軍の志気が高揚しない。
長谷川家は、遺児の長男・正成(まさなり)がのちに、1750石で番方(武官系)に召された。
戦死した正長の属していた年月が3年そこそこということからいうと、まあまあの待遇である。
平蔵の家は次男・宣次(のぶつぐ 300石)で、やはり番方。
三男・正吉(まさよし)は、よほどに美男系だったかして、秀忠の小姓に召されて4070石余。これは異例。

このひとり言の出発点である喜三郎勝宗(かつむね 35歳)の細井家は、三河の土豪で、家康の父・広忠の時代から仕えていて、史書には戦死者として名も上げられていないが、弟・金兵衛勝久(かつひさ)は、兄の戦死ばかりでなく、当人のその後の武勲や働きもあったろう、1650石を賜っている。
これも、まあ、とうぜんの所遇であろう。

史書に名が記録されている三方ヶ原での戦死者の、長谷川家(の2名と従卒たち)を含めた45家のうち、『寛政譜』を一覧用に手づくりしているのは、その後の分も含めて17家22人と報告した。

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(三原ヶ原の合戦の戦死者 史書4冊分に『寛政譜』追加)

手づくりの一覧用は、おいおいに増えてはいっているが、目的が長谷川家に何らかのかかわりあいがある幕臣を重点的につくってきているので、5200余家の家譜が集められている『寛政譜』のうちの5パーセントもすすんでいない。
だから、三方ヶ原での戦死者45家のうち17家---約3分の1にもなっていたのは、驚異的といってもいいすぎではない。
なぜ、そんなに多かったか?

手づくりの一覧用家譜が入っていたファイル名をご覧になると、納得していただけようか。

家康の駿府時代(人質・竹千代の近習として)
  石川家、加藤家、近藤家、榊原家、鈴木家、外山家、鳥居家、中根家、野々山家、原田家、門奈家、渡辺家

徳川重臣
  天野家、安藤家、小笠原家、夏目家、成瀬家

長谷川備中守宣雄関連
  本多家

長谷川宣以・先手組頭就任時の同僚
  なし

・ その他
  大河原家

このことからいえるのは、三方ヶ原の合戦は、家康の本陣・親衛隊まで武田側との死闘に巻き込まれ、戦死者を出したほどの壮絶な闘いであったということ。
戦死したのは、先手の武将たちだけですまなかったのである。

もちろん、長谷川紀伊守正長とその弟が戦死したから、史書4冊の記録をあさり、かつ、意識もしないでその家譜の手づくりをすすめていた。

今後は、あとの28家の一覧性化もすすめることになろうが、手づくりは平均すると、1家分をつくるのに90分から120分要するから、27家だと40~64時間もかかる計算になる。

しかも、いまわかっている分だけでも、秋山家石川小大夫宇野三十郎政次松平(竹谷)弥右衛門なども、どうしたわけか収録されていないし、荒川甚太郎本多忠勝の配下だったことはまではわかっているが、これも記載がない。

史書は、何を基準に氏名をあげたのであろう?

こういう調べものの時間までふくめると、ため息がでるほどの仕事となろうが、ま、やってみれば、まったく、おもってもみなかった発見があるかもしれない。

人生の残り時間が少なくなってはいるが、予定していた家譜の再構成は、

・今川から徳川へ移った家
・武田から徳川へ移った家
・吉宗とともに紀州から幕臣となった家

としているが、こちらは、三方ヶ原の戦死者のあと---ということになりそうである。

 

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2008.06.12

ちゅうすけのひとり言(13)

ちょっと気ぜわすぎる嫌いもあるが、細井金右衛門正利(まさとし)を調べていて、気になったので---。

参照】2008年6月11日[明和3年(1766)の銕三郎] (5)

細井家が、三河国八名郡(やなこおり)細井村の土豪で、家康の父・広忠からに仕えていた家柄であることは、上記に記した。
そのことは、『寛政重修諸家譜』の冒頭に記録されている。

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始祖の弟・喜三郎勝宗(かつむね)と2代目・金兵衛勝久(かつひさ)を拡大してみる。

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勝宗は、元亀3年(1572)12月22日、遠江国浜松の北・三方ヶ原での武田信玄の大軍との合戦で戦死している。

味方敗走するのとき殿(しんがり)し、二度まで小返して、従者木梨新兵衛某馬を牽(ひき)来て、これに乗せて引退かむとするといえども、敵いよいよ競ひきたるにより、しばしば取て返し、つゐに馬を乗はなち、敵と槍を合せ苦戦して死す。年三十五。

金兵衛勝久は、戦死した勝宗の7歳年少の弟で、三方ヶ原での参戦は28歳の時。

兄勝宗とともに(家康に)供奉し、勝宗敵にあたりて討死にせるのとき、勝久ただちに兄の首奪ひ、その敵を撃ちとり、なを殿して首一級を得たり。

勇武の兄弟である。
ところが、三方ヶ原の徳川軍の主だった戦死者60余名を記録している4冊の史書にその名が見えないのである。

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このリストは、同じく三方ヶ原の合戦で討ち死した、徳川の家臣としての長谷川家の祖・紀伊守(きのかみ)正長(まさなが 35歳)と弟・藤九郎(19歳 一説には藤五郎とも)が属していた部隊などを推測するために、数年前に作成した。
その時も、かなり手を尽くして詳細を探索したが、ついに戦死の詳細はわからずじまいで、今日にいたっていた。

長谷川紀伊守正長は、その3年前には今川方の駿河・田中城主だったが、武田勢の猛攻にあって、一族をつれて浜松へ走り、徳川の軍門に入っていたのである。
そういう事情をもった武将は、たいてい先手にまわされるから、負け戦の時には早ばやと戦死することが多い。
その前の姉川の戦いにも、徳川軍の一員として参戦していた。

先手の部隊は、敗走時には殿となる。
細井喜三郎・金兵衛兄弟もそこに配属されていたのではなかろうか。
従者が馬を牽いてきた---とあるが、それまで徒歩だったとすると、武将の域には入っていまいから、史書に名が載らないこともあろう。

とにかく徳川軍は、この時は、大敗した。戦死者の数も1000名前後であったとか、いや、それ以上であったとか諸書にあるが、4書に名が残っているのは60余名。

つまり、長谷川紀伊守正長は、新参の武将ではあったが、それなりの扱いをうけていたとみていい。

告白すると、こんどの細井金右衛門正利の火盗改メの調査の件に触発されて、三方ヶ原の合戦の戦死者のリストをつくっていることをおもいだした。
取り出してみて、右端に[寛政譜]と記しているのを見て、作成時に、同家譜の確認という手間仕事をやっていたことの記憶もよみがえった(とはいえ、この欄は、その後、追補していなかった)。

しかし、冒頭の細井の家譜で示したような、[寛政譜]の一覧性を高め、かつ、配布可能なように貼り替えシートを全員に作成したわけではない。

それで、ほかの目的で一覧用貼り替えシートをつくっている家譜のうち、三方ヶ原での60名余の戦死者の家系がいくつあるかを確認してみると、19家22人---ほぼ3分の1であった。

ここまででも、ごたごたと、プログ1日分の記述としては重くなりすぎているので、ファイル区分ごとの家系名とかその意味づけは、明日---。

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2008.06.11

明和3年(1766)の銕三郎(5)

これまでの事件より遡ることになるが、とりあえず、明和3年3月15日の『徳川実紀』をひもといてみる。

先手頭細井金右衛門正利、盗賊考察を命ぜらる。この頃火災繁きにより、組子引きつれ昼夜街衢(がいく)を巡廻すべしとなり。

この時期の火盗改メは、銕三郎(てつさぶろう 21歳 のちの鬼平)の大伯父で、本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石余)であることは、たびたび、記してきた。

しかし、助役(すけやく)をぬかっていた。

浅井小右衛門元武(もとたけ 57歳 540石余 先手・鉄砲の11番手の頭)が、前年の明和2年(1765)9月22日から勤めていた。
江戸に火災の多い冬場の、いわゆる、加役(かやく)である。

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(浅井小右衛門元武の[個人譜])

助役は、春の終わり---4月には役を免ぜられるはずなのに、明和3年にかぎって、浅井元武はそのままとどめられ、重ねて細井金右衛門正利(まさとし 59歳 廩米200俵 先手・弓の5番手の頭)が増役(ましやく)として発令され、先手34組のうち、3組が火盗探索の職務にはげむこととなった。

ちゅうすけ注】この当時の先手組は、弓が10番手まで、鉄砲(つつ)が1番手から20番手までに、西丸に4番手の計34組が置かれていた。各組、与力が5名から10名、同心は30名(鉄砲の1番手と16番手のみ50名)いた。

3組も、というのは異例で、めったにあることではない。
(もっとも、『鬼平犯科帳』にも書かれている、葵小僧探索には、増役が発令されたが、これは先の話)。
小右衛門元武の火盗改メの加役は、夏もさかりの同年6月1日に免ぜられている。

それほど、冬場から春口にかけて、小さな火事が多かった。
もちろん、放火をし、騒ぎにじょうじて盗みを働く手合いが跋扈したのだとおもわれる。

_200火事の記録を『風俗画報 江戸の華 中編』(明治32年1月25日号 表紙=図版)から拾うと、

3月5日下槙(しもまき 京橋)町より出火、大風にて数町類焼す。

の1件が記されているにすぎない。

大火にはいたらないで鎮火した小火事が多発していたとみる。

浅井小右衛門元武の火盗改メ・助役の任期終了を、『実紀』は、同年の6月2日としている(ついでに補筆しておくと、元武はこの4年後に火盗改メの増加役を命ぜられている)。

柳営補任』は6月朔日(1日)と記しているが、『実記』は幕府の正規の記録だから、こちらを採る。
じつは、『柳営補任』は、長谷川太郎兵衛の火盗改メ解任日も、6月朔日としているが、『実紀』は6月18日。これも『実紀』にしたがっておいた。

大伯父・太郎兵衛正直の火盗改メの任期満了が近いとおもえる5月のある日、銕三郎は、役宅を兼ねている番町の長谷川邸を訪ね、正直の後任者に、探索手伝いを引き継いでおいてほしいとたのんでみた。
浅井どのは、ふつうであれば、とっくに任を解かれているべきなのだから、まさか、引き継ぎということはあるまい。細井どのはまったくの臨時の任ゆえ、のことを頼みおくのもどうかとおもわれる。困ったものよ」
銕三郎の探索上手の素質を見ぬいていた太郎兵衛正直も、当惑していた。

「奥祐筆の先任組頭・臼井どのにでも、さぐりをいれてみようかの」

奥祐筆の組頭は、幕臣の人事にとってきわめて影響が大きいようなので、臼井藤右衛門房臧(ふさとし 56歳 廩米150俵)のことは、稿をあらためて調べるつもりである。

実紀』をもうすこし先、明和3年6月18日までめくってみる。

先手組頭・長谷川太郎兵衛正直に盗賊考察をゆるされ。細井金右衛門正利代り命ぜらる。

なんと、火盗改メ・増役であった細井正利(60歳)の、本役への横すべりではないか。

寛政重修諸家譜』によると、姓は三河国幡豆郡(はずこおり)細井村に住んでいたためというから、土豪として徳川広忠に任えたものであろう。

本家は、1300石。家康に仕えた2代目の長男が別に家をかまえて500石。その2代目の5男が分家した廩米200俵の家を継いだのが正利である。

金右衛門正利は、小姓組、中奥の番士、西丸の徒頭(かちのかしら 37歳)と目付(49歳)を経て、先手・弓の5番手の組頭になったのが59歳の時。

徒頭と目付は1000石格、先手の組頭は1500石格だから、廩米200俵の細井家とすれば、破格の出世だし、本人の世故もふくめての有能ぶりがうかがえる。

火盗改メ・本役の引継ぎは59歳。
性格からいって、銕三郎のことは気軽に引きうけたろう。
が、じっさいに探索のことを頼んだとはおもえない。

というのは、1年後の翌4年(1767)6月20日に火盗改メの任を解かれたのは、3ヶ月後の9月に、在任中の不始末の不審が発覚したからとしかおもえない。
審議の結果は、放火犯の糾問を与力まかせにした職務怠慢ということで、先手の組頭・1500石格の職も召しあげられて小普請に貶(おと)されたうえ、逼塞を命じられているからである。
それだけではすまなかった。
嫡男・銕三郎正相(ただすけ)も家督前に召しだされていたのに、父の不始末の責めをおわされて、小納戸役を免じられた。

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(浅井金右衛門正利の個人譜)

このブログのヒーローのほうの銕三郎も、金右衛門正利の性格を、一度面接しただけで見抜いた。
「わが家の婿どのも銕三郎といいましてな。なかなかの出来ぶつでござるよ。銕三郎という名の仁は、どうやら、能才に恵まれているようですな。わが婿どのの銕三郎は38歳ゆえ、長谷川どのの指南役ということになりますがな。は、ははは」
先任者・太郎兵衛正直の前で、ぬけぬけと言ったものである。
(この仁は、人の言葉に異を唱えないことで、ここまで出世をなさっているが、そのような世渡りの術が、凶悪で悪知恵をもった盗賊たちに通用するであろうか)

この例から感ずるのは、火盗改メという職は、おもった以上に厳しいということ。
よく考えればとうぜんのことで、法を扱い人の命を左右するのだから、念にも念を入れた詮議が必要で、与力にまかせきり---というのは、無責任すぎる。

もっとも、金右衛門正利にも言い分はあった。
この先手・弓の5番手という組は、宝暦3年(1753)10月から、金右衛門正利が任を解かれた明和4年6月までの14年間に、就任した組頭5名のうち4名までがなんらかの形で火盗改メを命じられおり、その通算は44ヶ月におよぶ。
この数字は、この期間中だけにかぎると、最長の組といえる。
つまり、与力も同心もこの職務の心得と経験が十分にあったのである。

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新任の組頭・細井金右衛門正利(=緑○)としては、古参の与力たちを頼りにし、なにごともまかせたとおもう。
運が悪かったともいえないでもない。
まあ、悪運にしろ幸運にしろ、『寛政重修諸家譜』を拾い読みしていると、つきにくい人と、つきやすい人がいるようにおもえてくるから妙である。
運命論者ではないつもりなのだが---。

【参照】[明和3年(1766)の銕三郎] (1) (2) (4) (6)

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2008.06.10

明和3年(1766)の銕三郎(4)

新堀川に架かっている薬師橋西詰の旗本20数家が、諸掛費用をだしあって設けている辻番小屋にもく゛りこんでいた盗賊・〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛(やへい 42,3歳)一味を、火盗改メに捕縛させたが、発見に一と役買った〔相模(さがみ)〕の(ひこ)(32歳)が、手柄を吹聴するので、銕三郎(てつさぶろう 21歳)は、
彦十どの。その話はほかではしていないでしょうね。もし、盗人仲間の耳に入ると、火盗改メの狗(いぬ)ということで、ただではすませてはくれませぬぞ。彦十どののだち(友)という雄鹿も、さすがに助けようがありますまい」
釘をさしておいて、両国広小路の「読みうり」屋に、ネタ集め人の〔耳より〕の紋次(もんじ 23歳)を訪ねた。

いつぞや、緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕の盗難の件で、紋次に貸しをつくっておいた。

参照】2008年4月26日~[〔耳より〕の紋次] (1) (2)

「やあ、初瀬川(はつせがわ)さまの旦那」
紋次はおぼえていた。
人の顔と名前をおぼえるのと、相手を安心させる術が商売のコツといわれるネタ集め人である。
武士とちがい、ふつうの江戸町人は名刺を使わない。
まあ、武士だって、訪問先の玄関で差し出した名刺は、帰る前に引きとるのだが。

初瀬川と書いてわたしていた。
長谷川は、大和の初瀬川(はせがわ)のたもとの土豪だった先祖が、長谷寺にちなんで、いつか、書きあらためた姓である。

両国橋西詰の例の橋番小屋で、
「なにか、いいネタでも?」
「〔窮奇〕という盗賊一味が、火盗改メに捕まったのは知っているな」

細工の手のうちは、翌日売り出された「読みうり」の大要を引用する。

かまいたち〕の正体を暴露(あば)いてみると、
有りようは弁天小僧

神代のむかし、イザナギ神の男根(やり)の穂先のしずく、イザナミ神の陰門(ほこ)の湿りから、この国が産まれたと、もの本はいう。イザナミ神のこの世でのお姿が弁天であることは承知だが、陰門(ほこ)の神といってはあまりにもあからさまなので、銭(ぜに)洗い弁財天と書いて蓄財に、弁才天のほうは芸事・音楽・学問の神としている。

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(某分限者が購入したと伝えられる裸体の弁天像)

稲田に下田(げでん)、中田(ちゅうでん)、上田(じょうでん)があるように、人にも物にも位づけがなされるのも世の道理で、なににも、門口の広狭、湿りの潤乾、締めの強弱、毛並の濃淡によって下(げ)ノ品(ほん)、中(なか)ノ品(ほん)、上(じょう)ノ品(ほん)と分ける。

だから男どもは、見たがり、触りたがり、入れてたしかめたがる。

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(国芳「枕辺深閨梅」口絵 見たがる イメージ)
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(国芳 触りたがる イメージ)
弁天が上ノ品の持ち主であることは、宝船に6人の男神が群がっていることでもわかかろうというもの。

その弁天像をわが家に安置して朝晩拝み、萎えた一物の回春を願う長者もあまたいる。
そこに目をつけたのが〔かまいたち〕。弁天社のご本尊を盗みだして長者に高く売りつける。盗まれた寺社はご本尊がなくては信者もこないから、ひそかに代わりの弁天像を高値で購う。盗むも〔かまいたち〕なら売り手も〔かまいたち〕。ことは簡単。東海道筋の弁天社は軒並みに被害をこうむった。

ここに一人の火盗改メ・同心が登場(氏名はこんごの探索にさしさわりがあるので伏せる)。公務で江ノ島へ出張った際、あろうことか、江ノ島の弁天像を狙っている〔かまいたち〕の素顔を目にしたが、その時は、さすがの賊もこれはあきらめた。

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(江ノ嶋弁天 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

江戸へ帰ってからのかの同心、洲崎弁天はもとより、浅草観音の塔頭---松寿院、寿命院、青流院などの弁天像に監視の目を向けていたところ、〔かまいたち〕がのこのこと現われた次第。

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(洲崎弁天社 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

隠れ家は新堀川の薬師橋西詰の辻番小屋と知れ、火盗改メが一網打尽の大捕物に、さしもの〔かまいたち〕も化けの皮をはがれて弁天小僧に堕してしまったというお粗末。

この「読みもの」が命名した〔弁天小僧〕が、『白浪五人男』の一人に冠されたか(冗談)。

これにつづいて銕三郎は、〔雨女(あまめ)〕のおの逮捕の立役者も、先手・弓の七番手の長谷川組の同心の探索にすりかえて、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 34歳)とお須賀(すが 28歳)に復讐の手がおよばないように、紋次を使った。

ちょうすけのつぶやき斉藤月岑(げっしん)『武江年表』を東洋文庫(1978.11.15)で校訂した金子光晴さんは、寺の開帳が多くなったのを指摘。なかでも江ノ島の弁天の開帳は江戸人の人気が高かったと。たしかに、上ノ宮の弁天(宝暦5年4月)、岩屋弁天(同11年4月)、下ノ宮の弁天(明和4年4月)の開帳には、江戸からの参詣の男女が大勢押しかけたと、月岑がわざわざ付記している)。

【参照】[明和3年(1766)の銕三郎] (1) (2) (5) (6)


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2008.06.09

明和3年(1766)の銕三郎(3) 

口合人・〔雨女(あまめ)〕のお(とき 36歳)が網にかかったのと捕り物を賞して、火盗改メ本役のお頭(かしら)---長谷川太郎兵衛正直(まさなお 58歳 1450石余)が銕三郎(てつさぶろう 21歳)と〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 34歳)にくれた紙包みには、3両と1両がつつまれていた。
もちろん、3両は銕三郎のほう。

権七どの。これは、お須賀(すが 28歳)どのに---」
3両のうちの2両を包みなおしたものを、銅壷(どうこ)の火をみているお須賀の前に置いた。
「とんでもございやせん、長谷川さま。お須賀は、ちゃんと商べえになっていたのでやすから---」
権七が包みを押し戻す。
「それとこれとは、別です。お須賀どの。産着(うぶぎ)の1枚にでも---」
「お言葉に甘えてそうさせていただきます」
須賀は、紙包みを押しいただいて、さっさと懐にしまった。
「ちぇっ。そんなもなあ、おれが揃えるのに---」
権七はがぼやくが、お須賀はすましたものである。

そのすべてを横で、うらやましそうに(ひこ)(32歳)が見ている。
彦十どのには、お願いがあります。どこかの賭場へ連れて行ってください。元金は、おのおの2分(ぶ 半両=約8万円)ずつ」
去年鋳造されたばかりの明和五匁銀を6枚、じゃらじゃらと手のひらにのせられた彦十は、
「ひゃあ、五匁銀だあ。生まれて初めて、手にのっけやしたぜ」
「そりゃあ、そうだ。暮れに月満ちて、銀座で生まれたばっかりだからねえ」
権七がまぜっかえして、大笑いとなった。

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(明和五匁銀 弘文堂『江戸学事典』より)

「月満ちて---といえば、お須賀どのの産み月は?」
銕三郎があらためて訊く。
「10月です」
「8月には休店ですね」
「いえ。叔母が三島在からきてくれて替わりを勤めてくれますから、店は休みません」
「では、権七どの。そろそろ、店と住まいを分けないと---」
「おこころづかい、ありがとうごぜえます、まもなく見つかる手はずでやす」

長谷川さまよ。賭場には、いつ、ご出陣なさいます?」
「昼間からやっている賭場は?」
「ごぜえます」
「では、きょうの八ッ半(午後3時)にでも---」
「あっしも、お供をいたしやす」
権七が言う。
「では、元金を---」
銕三郎は、五匁銀を3枚、押しつけた。
「お預かりいたしやす」

時刻までに、銕三郎権七の極細縞(めくら縞と称していたのだが)の単衣(ひとえ)に着替え、近くの床屋で町人まげに結った。
大小と着物・袴は、お須賀に預けた。

彦十が案内した賭場は、浅草・聖天宮(しょうでんぐう)の丘すそにあった。
いわゆる新鳥越町1丁目で、山谷堀(さんやぼり)側には間口1間半ほどの船宿がずらりと並んでいる。
丘側の、わら屋根の民家であった。
顔見知りの彦十の連れということで、すぐに筒(どう)ノ間へ通される。
筒板(どういた)のほかは、薄暗い。
彦十が、五匁銀を張り木札に替えてくる。手馴れたものである。

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(浅草・聖天宮下---新鳥越1丁目の賭場 近江屋板)

銕三郎は目がなれてから、筒板を囲んでいる十数人の客たちのそっと顔をあらためた。
42,3歳のでっぷりと肥えた男に気づいたが、そ知らぬふりで、筒板へ集中したふりをよそおった。
いたのは、〔窮奇(かまいたたち)〕の弥兵衛(やへえ)である。
3年前に江ノ島・片瀬村の旅籠〔三崎屋〕の大広間で出合った盗人だ。
与詩(よし 6歳=当時)が持っていた、紀州侯がお使いになる黒漆塗の木匙に目をつけられた。

参照】2008年2月2日[与詩(よし)を迎えに] (39)

つぎは、同じ年の初冬、本多采女紀品(のりただ 49歳=当時 火盗改メ・助役)の夜間の市中見回りに随伴した折り、新大橋北詰の辻番所の番人にもぐりこんでいた弥兵衛を見つけたが、うまく逃げられた。

参照】2008年2月21日[銕三郎(てつさぶろう) 初手柄] (3)

1刻もたたないで、彦十は元手のほとんどをすっていた。
権七は、箱根道の荷運び雲助時代からの修練で、賽(さい)の目の流れを読むのに長じており、元金を5倍に増やしていた。
銕三郎は、張らないで、弥兵衛の目にとまらないように、権七の後ろにひかえつづけた。

中休みになったので、彦十に精算するように言いつけ、権七には、会いたくない男がいるので退散したい、と耳うちした。

権七は、彦十がわたした1分2朱(6万円前後)のうちから、1朱(1万円)を賭場の若い者に華代としてわたして表へ出た。
そこで銕三郎は、木札に替えないままだった5匁銀の1枚を彦十へ手わたし、弥兵衛の特徴を伝え、賭場へ戻り、できたらでいいから、気づかれないように尾行(つ)けてみてくれ、と頼んだ。

山谷堀で権七が、日本橋川への帰り舟の船頭をみつけ、やりとりの末に、永代橋際までを40文で話をまとめた。こういう時の権七は手馴れていて、手ぎわがあざやかである。

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(浅草・聖天宮下山谷堀舟着き=緑○ 永代橋東詰の〔須賀〕=赤○
江戸大地図 天保期)

舟のなかで、権七は、
「お預かりしてた元金でやす」
そういって、2朱金2枚(4万円)を銕三郎に押しつけもした。
「江戸へ逃げてくる時、博打はもうしねえとお須賀とげんまんしたんでやす。きょうは、長谷川さまの後見ということで、認めてくれやしたんです」

窮奇〕の弥兵衛は、新堀川西岸、薬師橋近辺の旗本20数軒で設けている辻番屋に、仲間の盗賊3人でもぐりこんでいたところを、長谷川正直組に逮捕された。
20数軒で設営している辻番だから、番人の採用にもいい加減なところがあったのである。
弥兵衛たちにしてみれば、番人としての給金などは目ではなく、身の隠し場所でさえあればよかった。

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(緑〇=〔窮奇かまいたち)の弥兵衛がひそんでいた新堀川に架かる薬師橋西(上)詰の武家20数軒の辻番小屋 近江屋板 下は大川と御米蔵)

この逮捕で、一番鼻を高くしたのは、いうまでもなく、彦十である。
それから、尾行(つ)ける苦労話をしては、銕三郎からなにがしの小遣いをもらっていたが、
彦十どの。その話はほかではしていないでしょうね。もし、盗人仲間の耳に入ると、火盗改メの狗(いぬ)ということで、ただではすませてはくれませぬぞ。彦十どののだち(友)という雄鹿も、さすがに助けようがありますまい」

【参照】[明和3年(1766)の銕三郎] (1) (2) (4) (5) (6)

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2008.06.08

明和3年(1766)の銕三郎(2) 

銕三郎(てつさぶろう 21歳 のちの平蔵)が 井戸端で稽古着をぬいで汗をふいていると、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 34歳)も道場から出てきた。
権七は、箱根の荷運び雲助の頭株だったが、関所抜けにかかわって土地(ところ)にいられなくなり、情婦のお須賀(28歳)と江戸へ出てき、永代橋東詰で居酒屋をやらせている。

参照】2008年3月19日[於嘉根という女の子] (1) 
2008年3月23日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎 (8)

朝、日本橋の魚河岸と神田多町(たちょう)での野菜類の仕入れがおわると、あとは夜まで暇をもてあましていたので、剣術でも習ってみたらと、銕三郎高杉銀平師へつないだ。
は、
「武士でもないものが剣術を習うというのはどうかとおもうが、道中差での喧嘩もあろう。斬られず、相手も斬らない極意を覚えるといい」
といって、ふつうの木刀の寸をつめて、指導にあたっておられる。

高杉師じきじきの、道中差での斬りあい---いや、ちがった、斬らずあいは、きわめて珍しい立会いなので、権七が稽古のときには、銕三郎岸井左馬之助( さまのすけ 21歳)、井関録之助(ろくのすけ 17歳)など、真剣に剣の奥儀をきわめようとこころがけている門弟は、自分の稽古をやめて、権七の対峙を目を凝らして拝観している。
学ぶべきところが多い、というのが、3人の述懐である。

高杉師によると、権七の足腰は長年、門弟のだれよりも鍛えられているので、腰がきまっており、相手の剣を避けるのも、おどしの突きをいれるのも、じつに、はしこい---とほめるので、権七はますますやる気になっている。

録之助がいみじくも言ったものだ。
「奥義はつまるところ、足腰だね。女を抱いて極楽へみちびく秘技と同じなんだ」
「ばか。女との地獄も、まだ知らないくせに---」
これは、左馬之助

が、それは、きょうの話題ではない。
井戸端で、権七が、
「お時間をいただけやすか?」
「法恩寺の門前の蕎麦屋〔ひしや〕ですむ話ですか。それとも、〔須賀〕へ同道したほうがいい話ですか?」

〔ひしや〕ですむということだったので、2人は着替えて、入れ込みの奥の卓についた。
長谷川さまは、口合人(くちあいにん)ってえ、裏の稼業(かぎょう)を耳になさったことがおありでやすか?」
「口合人? 聞いたことはありませぬ」
「手っとりぱやく言うと、盗人にかぎっての口入れ屋なんでやすがね」
「ほう。そういう仕組みもあるのですか。かんがえてみると、ふつうの口入れ屋では盗人の周旋はしないものな」
「それもありやすが、口合いには、保証つきで紹介するって意味もあるんで---」
「なるほど」

「それらしいのが、〔須賀〕にきたんです」
「どんな男でした?」
「いいえ、女でやす」
「女の盗人の口合人とは---」

権七によると、その口合人は〔雨女(あまめ)のおと名乗ったという。
ある晩、ふらりと入ってきて、銅壷(どうこ)の前で燗酒をみている女将(おかみ)・須賀(28歳)の前にぴたりとすわったきり動かない。
もちろん、酒と肴は注文するのだが、盃を口に運びながらも、お須賀から目をはずさない。
気づいた須賀が、
「顔に、墨でもついてますかえ」
と訊くと、にぃっと微笑み、
「いい女だねえ、女将さん」
「お客さんほどではござんせん」

齢のころは35,6に見えたその女が、銅壷ごしにお須賀の手にさわろうとしたので、板場から出た権七が、
「お客さん、須賀はいま仕事中なんでごぜえやす」
「あたしゃあねえ、男には興味がないのさ」
「おや。すると、女男(おんなおとこ)---須賀、お客さんは、あの賀茂(かも)と同類らしいぜ。そういやぁ、賀茂は、おめえなんかにゃ、鼻もひっかけなかったが---」
須賀に手をださせないようにと、権七が、からかうと、女は、
「ちょいと、伺いますが---」
とのってきた。

賀茂が三島宿の本陣〔世古〕の女中をしていたと知ると、
「ちきしょう、そんなところへ身を隠していたのか」
本気で腹を立てるから、
「お客さんは、賀茂さんとはどういう?」
「わたしの相方(あいかた)だったのよ」

参照賀茂は、〔荒神(こうじん)〕の助太郎 (10)

女は、権七にほだされて、〔雨女〕のお時(とき)と名を告げ、巽(たつみ)橋東詰の中島町に一軒家をかまえているといった。
巽橋は、〔須賀〕から南へ1丁ばかり行った、熊井町の名店〔翁蕎麦〕の先だ。

_360_4
(南深川 赤○=居酒屋〔須賀] 緑○=〔雨女〕のお時の家)

ちゅうすけ注】中島町のそこは、北原亜以子さんの、『深川澪通り木戸番小屋』のあるところ。

権七どの。そのおが、盗人の口合人とどうしてわかりました?」
「その後、何度か店へ呑みにきましたが、そのつど違う女を連れているので、商べえを訊いてみたのでやす。そうしたら、働き口をほうぼうへ世話しているのだといいやした。で、口入り屋の鑑札もなしにそんな世話をしてもいいのかった訊きやしたら、ふつうの口入れ屋ができねえ世話で、口合人というのだと」

がいうところによると、お賀茂もそのように幾度も世話してやった。
「盗人仲間では、飯炊きとか女中として送りここんで、内情を盗みとる役を、引き込みとかいうんだそうですが、お賀茂は、酒好きがたたり、どこでも長つづきしなかったのだと」

それで、おのうちで家政をやらされたのとともに、女男の道もしこまれた。
ところが3年前、京都の荒神口で太物屋をやっていると自称している〔荒神〕の助太郎というのに引き合わせたら、たちまち気にいられて、行方をくらませてしまったのだと。

荒神〕の助太郎の手はずで、三島宿の〔世故〕へ入れ、箱根抜けをする時期を待たせていたらしい。
「廻りあわせというのは、あるものなのですな」
銕三郎がため息をついた。

後日談だが、火盗改メ本役の大伯父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 58歳)の組の、高遠(たかとう)与力たちがおをとらえて、女たちの世話先も吐かせ、引き込みを5人ばかり逮捕した。あと3人は、おが捕まったとわかると、さっと消えたらしい。

太郎兵衛正直は、紙包みを銕三郎権七の前に置き、
や。おの通り名の〔雨女〕の由来を存じておるか?」
「なにかの遠出に、その女がいるとかならず雨が降るという迷信みたいな---」
「ばか。もっと勉強せい」

家で、父・平蔵宣雄(のぶお 48歳)に〔雨女〕のことを尋ねると、
「むかし、西隣りの大国の王が、夢で出会った美女と交合し、別れの時がくると、美女が、朝には雲となり夕べには雨となって、朝な夕なに巫山(ふざん)でお逢いしましょうといったそうな。それで、男女のひめやかな交情を朝雲暮雨という。銕三郎とおも、朝雲暮雨であったな」
「あ、ご存じでしたか?」
「命を惜しめよ」
「はい。ところで、雨女は?」
「ばか。美女が雨女なのじゃ」

参照】[明和3年(1766)の銕三郎] (1) (3) (4) (5) (6)

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2008.06.07

明和3年(1766)の銕三郎 

長谷川銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため 21歳)にとっての明和3年で、特記すべきことの数件。

すでに記したが、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45,6歳)が、1年前に妾にしたお(しず 18歳)と、躰の結びつきができてしまったことを、まず、あげておく。

は、
「お金のやりとりなしで、自分の気持ちにしたがった時って、こんなに高まるのですね。ふつうのむすめが好きな男の人とする時の自然な感じは、きっとこうなんでしょう、初めて知りました」
と感激して告白したが、ことはあっけなく勇次郎の知るところとなった。

参照】[お静という女](1) () (3) (4) (5)

勇五郎の老練な愛技をほどこされて恍惚となっていた時に、銕三郎の名を口ばしったのだという。
勇次郎は、さすがに巨盗のお頭らしく、おをとがめなかった。
自分が、駿府での大きな盗(おつと)めを差配するために、お静を一人にしておいたことによる不祥事---とあきらめたのである。
もっとも、若い時には男女とも、臍(へそ)から下には人格がない---ということも、苦労人らしく、心得ていた。

「お前さんは、武家方のお子だ。人のもちものを盗(と)っちゃあいけねえ。盗人のおれが、こんなことをいうのはおかしいようなものだが、お前さんだからいうのさ。人のもちものでも、金ならまだゆるせる。だがねえ、女はいけませんよ」(文庫巻6)[狐火]p160 新装版p168

銕三郎は一言もなかった。
勇五郎は、おを上方へ連れ去った。

それから2年後---明和5年(1768)の初夏、銕三郎は、再会した〔狐火〕から

「おが、可愛い女の子を生んでくれてねえ」(文庫巻6〔狐火〕p160 新装版p169)

相好をくずした言葉を聞いて、また、首をすくめたものだった。

物語の[狐火]は、寛政3年(1791)の夏---平蔵が火盗改メのお頭となって5年目、46歳の時だから、明和3年からすでに25年の歳月を経ている。
勇五郎は4年前に歿した。
享年は68。もちろん、畳の上での大往生。
は、勇五郎より6年早く、2人目のむすめ・お(ひさ 6歳=当時)をのこして歿している。享年34。

つぎの事件は、長谷川本家の大伯父・太郎兵衛正直(まさなお 57歳)が、この年の6月18日に火盗改メ本役をめでたく免じられたこと。
出費の多い火盗改メを1年もつづけると、先祖からの蓄えをほとんど費消しつくすといわれている。「費消しつくす」かは大げさとしても、私財が大幅に減ることはまちがいない。
太郎兵衛正直がお頭だから、銕三郎を助手としてあつかってくれ、なにくれと手当てもはずんでくれた。

しかし、この先は、探索が好きなら、費(ついえ)えは自分もちということになる。
銕三郎は、思案に暮れた。
が、それよりも、大伯父の在任中に銕三郎が立てた手柄を記しておかないと、無駄金をもらっていたことになってしまう。

銕三郎が、〔盗人酒屋〕の〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)や、そのお頭だった足利に本拠をおく〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん)一味のこと、さらには、〔狐火〕の勇五郎一味のことも、大伯父に告げなかったことは、すでに記した。

では、銕三郎が立てた手柄とは?

その前に、ご存じのファンも多いとおもうが、『鬼平犯科帳』の盗賊の「通り名(呼び名とも)」の出所について触れたい。

_120じつは、盗賊たちの「通り名」が、長谷川平蔵と同時代にいた絵師・鳥山燕石の絵筆になる『画図百鬼夜行』からも採られているのではないか---と気づいたのは、『剣客商売』文庫巻2[妖怪・小雨坊]の数行を読んだ時である。

「これはおもしろい」
買いもとめてきた絵本があった。
〔画図・百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)〕と題したもので、出版元は元飯田町中坂の遠州屋弥七。絵師は鳥山石燕である。

だいたい、物語の篇名[妖怪・小雨坊(こさめぼう)]からして、『画図百鬼夜行』に描かれている百鬼の一匹なのである。
かつて講じていた[鬼平熱愛倶楽部]のメンバーの一人---I・Sさんからも、〔野槌(のづち)〕の弥平(文庫巻1[唖の十蔵]に登場)の〔野槌〕もその本に描かれていると指摘をいただいた。

で、図書館で全図復元の『画図百鬼夜行』(国書刊行会 1992.12.21)を借りてきて調べたら、なんと15人の「通り名」が借りられていた。
50音順に並べてみる。

〔青坊主(あおぼうず〕の弥市 [2-5 密偵]
〔網切(あみきり)〕の甚五郎 [5-5 兇賊]ほか
〔犬神(いぬがみ)〕の権三   [10-1 犬神の権三]
〔鎌鼬(かまいたち)〕の七兵衛 [24-1 女密偵女賊] 
〔川獺(かわうそ)〕の又平衛 [2-6 お雪の乳房]
〔火前坊(かぜんぼう)〕の権七 [1-5 老盗の夢]
〔狐火(きつねび)〕の勇五郎 [6-4 狐火]
〔蛇骨(〔じゃこつ)〕の半九郎 [10-6 消えた男]
〔土蜘蛛(つちぐも)〕の金五郎 [11-2土蜘蛛の金五郎]
〔野槌(のづち)〕の弥平   [1-1 唖の十蔵]
〔墓火(はかび)〕の秀五郎 [2-2 谷中・いろは茶屋]
〔火間虫(ひまむし)〕の虎次郎[14-3殿さま栄五郎]
〔蓑火(みのひ)〕の喜之助] [1-5 老盗の夢]
〔狢(むじな)〕の豊蔵    [16-5 見張りの見張り]
〔轆轤首(ろくろくび)〕の藤七 [14-6 さむらい松五郎]
推奨】呼び名の(ひらがな)がオレンジ色になっている盗賊は、(ひらがな)をクリックで銘々伝へリンクします。
        
もっとも子弟(?)の多い〔蓑火(みのひ)〕のお頭までが、そうだったのには、池波さんのなみなみでない言葉の感覚に驚嘆したものである。

_200ついでにもう一人つけ加える。というのは、『画図百鬼夜行』には漢字---幽谷響に、ふりがなが「やまびこ」とついていたことを、今回の再調査で発見したので。

〔山彦〕の徳次郎 [4-6 おみね徳次郎]
参照】〔山彦(やまびこ)〕の徳次郎

お断りも。
このプログで、『画図百鬼夜行』に〔窮奇〕とあったので、これは『鬼平犯科帳』で見た記憶がないと早合点して、〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛という盗賊を新しく登場させたが、池波さんはちゃんと、〔鎌鼬〕の字をあてて文庫巻24[女密偵女賊]に命名ずみであった。

参照】〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛

そうそう、400名からいる『鬼平犯科帳』の「通り名」を冠された盗賊のうち、16名は『画図百鬼夜行』によるもので、あとの360名は、明治後半に吉田東伍博士が独力で編んだ『大日本地名辞典』(冨山房)からとられている。

さて、本題。

鎌鼬〕と重複していた〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛の「通り名」を変えようと、2年ぶりに図書館から『画図百鬼夜行』を借り出して、適当な名を探したら、池波さんが使っていなかった84の妖怪名のうち、盗賊にふさわしいのが一匹ものこされていなかったのには、唖然とした。

しいてあげると、

〔見越(みこし)〕---無髪で、身の丈(たけ)が高く、背後から頭越しに人の顔をのぞくという化け物。

〔枕反(まくらがえし)---寝ている者の枕を逆にするいたずらお化け。盗みに入って、主人の枕を蹴って起こし、金庫蔵へ案内させる盗賊がいてもいいかなあと。しかし、いちいち、ふりがなをつけないと、「反」を「かえし」とは読みにくい。

ということで、〔窮奇〕の弥兵衛はそのままの名で、銕三郎に捕まるストーリィを、次回に紹介しよう。

参照】[明和3年(1766)の銕三郎] (2) (3) (4) (5) (6)

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2008.06.06

お静という女(5)

屋敷を出がけに、母親・(たえ 41歳)に呼び止められた。

「殿さまからのお言いつけを伝えます。若いのだから夜遊びもいいけれど、お目見(めみえ)前のことゆえ、くれぐれも深入りをしないようにとのことでした。とりわけ、女の人を助けようなどとうぬぼれるでないと、釘をさしておけと、それは、きつく、おっしゃいました」
「心得ました」

屋敷から1丁の菊川橋のたもとの船宿〔あけぼの〕は、父・平蔵宣雄(のぶお 48歳 先手・弓の8番手・組頭)がたまに使っている。
「高橋(たかばし)で買い物をするあいだ、待ち舟をしてもらい、橋場でも待ち舟し、木母寺(もくぼじ)の舟着きまで、いかほどかな?」
〔あけぼの〕の女将は、銕三郎の顔をおぼえていて、
長谷川の若さまのことですから、200文(6400円)ぽっきりにおまけしておきましょう。待ち舟賃は、舟頭へのおこころづけいうことにいたしまして---」

高橋で降りて、常盤町3丁目の呉服太物の〔槌屋〕で、ことしの柄の浴衣をみているうちに、男女対(つい)の色ちがいの柄が目にとまった。
(大人げないな)
おもったが、おが憂い顔をくずして喜びそうだと、つい、求めてしまった。

万年橋をくぐり、橋場へ向かう舟の中で、
(あまいぞ、銕三郎
自分につぶやく。

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(手前=大川 左下=万年橋・小名木川 「霊雲院」の部分
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

(癒(いや)し屋)
という言葉が、口からこぼれた。

そういえば、銕三郎が14歳の時に、三島宿で初穂をもいだお芙沙(ふさ 25歳前後=当時)は、後家になったばかりだったが、亡夫がかなり年長だったので、初めてという少年との出会いを望んでいた。

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(歌麿「歌満くら・後家の睦」 芙沙とのイメージ)

18歳の銕三郎の子を宿した阿記(あき 21歳=当時)は、婚家の姑にいじめられたこともあるが、自らが選んだ男との出来合いに満足していた。

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(国芳「江戸錦吾妻文庫」 阿記とのイメージ)

もきのう、最初の交わりが終わった時、歎声をもらした。
「お金のやりとりなしで、自分の気持ちにしたがった時って、こんなに高まるのですね。ふつうのむすめが好きな男の人とする時の自然な感じは、きっとこうなんでしょう、初めて知りました」

梅雨前の大川の、川面(かわも)すれすれに、燕が反転して飛び去った。

(そういう廻(めぐ)りあわせの男なのかもしれぬ。要するに果報者なのだ、おれは---)
自嘲ではなく、ほのぼのとしたものが胸に満ちた。

「若。橋場です」
船頭が声をかける。
「しばらく、待っていてほしい」
銕三郎は、砂尾不動院前の料亭〔不二楼〕で、ありあわせのものを折箱につめてもらった。

木母寺への舟着きにつけた。
梅若塚のあるこの寺号は、「梅」の字を「木」と「母」にひらいたものと聞いている。
境内に、〔武蔵屋〕と、植木屋半右衛門が料理屋に転じた〔植半〕という有名店があるので、舟でやってくる上客のために桟橋が設けられている。

1
(木母寺 『江戸名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)

の妾宅は、木母寺の南、水神宮と並んでいる。

50歳をすぎている船頭には、4文銭5枚に15文をそえてわたした。
きのう、お静から用心棒代としてもらった2分(半両)は、元禄二朱金が1枚に減っていた。

「用心棒、参りました」
大声で言うと、
「裏です」
と返ってきた。
裏へまわると、手ぬぐいを姉さんかぶりにしたおが洗たくをしている。
ゆうべ、銕三郎が寝着に使った浴衣を洗っているらしい。

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(歌麿 「洗たく」 お静のイメージ)

(そうなんだ、おは、母親が病没してからは、魚師の父親のために家事を引き受けていたのだ)
の家事のこなしぶりを見るのは、昨夕の食事づくりとともに、すがすがしく、快(こころよ)い。
銕三郎の肌に触れたものということで、小女・おに触れさせないで、おが自分の手で洗っているこころ根も感じとれた。

参照】 [お静という女](1) (2) (3) (4)

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2008.06.05

お静という女(4)

朝七ッ半(午前5時)すぎ。
さすがのお(しず 18歳)も、きのうの夕刻前から夜半までの睦みごとの疲れがでたか、唇をぽっちりとあけて眠りこけている。

銕三郎(てつさぶろう 21歳)は、衣紋架けから着物と袴をおろして、きのうの夕立でできた小皺を、手のひらで軽くととのえ、脇差だけを腰に、家を出た。
隅田(すだ)村から大川ぞいに南へ2丁で法泉寺。
その北側に点在する農家の一軒で、前庭の鶏にえさをまいている老婆に、ゆうべ、物置に投げこんでおいた仙吉長次郎のことを訊くと、
「あの悪がきどもが、また、なにかしでかしょりましかい?」
抜けた歯のあいだから、はじきだすようにつぶやく。
(たしかに、この辺の若者だな)

「いや、なに---たいしたことではありません」
しかし、老婆は耳をかさない。
「あの悪がきども、うちの鶏を2羽も盗みおってからに---のお、お侍さん」
銕三郎は、そうそうに引き上げた。

蚊帳の中から太刀をとって腰へ落とし、物置をあけて2人の足のいましめを小柄(こづか)で切ってやる。
「お主(ぬし)ら、婆さんの飼っている鶏を盗んだんだってな。火盗改メに注進すると、50叩きだな。そうされたくなかったら、鶏の代金を婆さんに払うことだ」
「あのぅ糞婆ぁ」
「なにか言ったか?」
「いえ。こっちのことで---」
「それから、ゆうべのことは、お頭(かしら)には内緒にしておいてやる。もし、お主(ぬし)らの密告で、火盗改メがこの家を探りにきたら、お主らの命はないものとおもえ。〔狐火〕一味は30人からいるのだ」
「おねげえがごぜえます。〔狐火(きつねび)〕とかのお頭へ、おれたちを配下にと、口をそえてくだせえ」
「ばかッ! お主らみてえなドジが、一味にはいれるものか。掟はきびしいのだ。女には手をださない。殺傷はしない。盗(と)られて困る者からは盗らない---この三ヶ条のうち、すでにお主らは二つも破っておる。婆ぁさんは鶏を盗られてこまっていたぞ。ま、身をつつしんで、三つの掟が守れるように修行しておけ」
「へえ」
2人は、ぺこぺこと頭をさげて帰っていった。
(これで、逆うらみはしないだろうが---)

井戸で水を汲んで、台所の水甕(みずかめ)を満たしていると、おがあらわれた。
「早くから、すみません。おの仕事がなくなってしまいます」
「そのおとやらの小むすめは、何刻(なんどき)にくるのかな?」
「七ッ(午前8時)です」
「それまでに、消えておかないと---」
「では、いそいで朝の支度をしますから、蚊帳の中で待っていてください」
「蚊帳?」
「蚊がひどいんです」
「分かりました」

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(歌麿「蚊帳の内と外」部分 お静のイメージ)

「だいじょうぶです。もう、中へははいりません。はいって、お目ざのウマウマをいただきたいのはやまやまですが、おがきてしまいますから」
蚊帳からでると、ゆうべののこりの飯を白粥にしたものと、梅干、きゅうりの糠漬けが膳にのっかっていた。
「どうして、白粥を?」
おまさちゃんに聞いていたんです。長谷川さまの朝は白粥と梅干だって---」
「そんなことまで、話題になっているのか?」
「だって、2人とも、手習い子ですもの。会えば、先生の話です」

「ゆうべの賊だが、ここから近い寺島村の若者でね。もうこないとはおもうが、〔狐火(きつめび)〕が戻ってくるまで、おまさどののところへでも避難しておく?」
「それより、(てつ)さま。今夜、用心棒に雇われてくださいませんか?」
「用心棒? 高いですよ」
「前金でお払いします」
は、用意していた紙包みを手渡した。

「いつもお帰りの時にお使いになっている船宿〔桜木屋〕の舟は、お使いにならないで---橋場の渡しで向こう岸の船宿か舟駕籠(舟ハイヤーのようなもの)の舟をつかってください。きょういらっしゃる舟も、いつもの〔秋本〕じゃない舟宿の舟できていただけますか?」
「わかった。そのようにしましよう。〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち)は勘がするどいから、船頭や船宿に手をまわしていないでもないからね」

【参照】[〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七の項
2008年5月28日~[瀬戸川(せとがわ)〕の源七] (1) (2) (3) (4)

それぞれの船宿には、手習い出張師範用として、あらかじめ、源七が半年分の賃銀をわたしている。手習い師範代よりも舟賃のほうがはるかに高い。

寺島村の渡し場から対岸の橋場までの大川のわたし賃の6文は、銕三郎は武士なので払わなくてもいい。
橋場では、〔水鶏(くひな)屋〕という店名がおもしろかったから、この船宿の舟をたのんだ。
季節の野鳥の水鶏は、橋場の名物で、〔水鶏屋〕は、鳥が好む池をつくっているのだと、船頭が教えてくれた。この鳥の鳴き声はかわっていて、戸をたたくような、コツコツと鳴く。銕三郎はまだ、聞いたことがない。

がくれた用心棒代の紙包みを開いて、〔水鶏屋〕へ用舟賃を前払いした。
元禄二朱金が4枚(2分=半両)と、寛永通宝4文銭が20枚入っていた。明和南鐐2朱銀が鋳造されたのは6年後のことだ。4文銭も入れてくれるとは、細かいこころづかいである。

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(実物大 弘文堂『江戸学事典』より)

南本所の菊川橋まで、2朱金(約2万円)わたして、釣りを360文(1文=約32円)もらった。
船頭へのこころづけには、この中から50文に4文銭を2枚も足してやれば十分すぎるほどである。
ずいぶん、物の値段があがった。

夕方持参する寝着の浴衣を買っても、だいぶのこる。
最初は、家で使っている寝着をもっていこうと考えたが、やはり、真新しいので睦みあったほうが礼にかなっているようにおもった。なにが礼だか---。

(そうだ。橋場の料亭で、酒の肴をあつらえて、おみやげにしよう)
もともとはおの金なのに、気が大きくなっているのが、自分でもおかしかった。

参照】 [お静という女](1) (2) (3) (5)

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2008.06.04

お静という女(3)

「お召しになる湯あがり衣ですが、旦那のでよろしいですか?」
風呂から先にでたお(しず 18歳)が訊く。

「いや。3日したら〔狐火(きつねび)〕(45,6歳 京の盗賊・勇五郎)がやってくるのでしたね? その時、きちんと糊がきいた浴衣がないと不審がられましょう。きょうのことは、いつか発覚するとしても、なるべく遅いほうがよろしい」
「わたし、覚悟はできています」
「拙も、こころはできていますが、ことはできるだけ、穏便にすませるほうがいいのです」
「いいえ。このことで、さまにはご迷惑はおかけしません」
「それは、あとで話しあうとして、の浴衣があまっていたら、それを貸してほしい」

女ものの浴衣を着た短い裾から、銕三郎の足首が2本、にゅうっとはみ出ている姿がおかしいと、おが笑った。
笑うと、憂い顔の目じりが下がって、少女の泣きべそのようになる。
いつも憂い顔をくずさないおとしては、愛宕下の水茶屋の茶汲み女になって以来、はじめて、躰の芯からあふれでた笑いだった。

「晩のご飯ですが、お酒はありますが、お菜が、鯵(あじ)の干物と卵しかありません。木母寺(もくぼじ)境内の〔植半〕か〔武蔵屋〕へでも食べに行きますか?」
「この浴衣で?」
「あ。わたしとしたことが---長谷川さまを見た人が、驚いて腰を抜かしたりして---」
は、また、笑いころげる。

1824
(木母寺境内の料理屋 『江戸買物独案内』1824刊)

「〔武蔵屋〕から料理を取り寄せたとしても、人の記憶にのこります。人目につくことは、できるだけひかえましょう」
「鯵の干物を焼きます。卵は茹でます」

2人は、火をおこして飯を炊いたり、魚をやいたり、まるで新婚夫婦のように、騒ぐ。
あれを取って---とか、水が足りないから汲んできます---といったことまでが、楽しくて仕方がないみたいに、おは、ずっと笑顔をたやさなかった。

酒は、おのほうが強かった。
「お父(と)っつぁんが元気な時は、相手をしていましたから」
酌をし、酌をされる---幼な子のままごとにも似ている。
このところ、酒もすこしはいけるようになっていた銕三郎は、ふだんよりは4,5杯多く、すごしたらしい。
いい酔いが自覚できた。

「こうして、おと呑んでいると、ふしぎに、酒がするすると、喉に落ちてゆく」
「うれしいことを、おっしゃってくださいます。あすも、ごいっしょに呑めればいいのに---」

「やかましい家なのです」
「そうでしょうね。お旗本のお家柄ですもの。でも、長谷川さまは、ちっともお気どりがなくて---」
「生まれが生まれなものだから---」
「あら?」
「父上がまだ家督なさっていない時に、知行地の名主のむすめに手をつけて、生まれたのが拙なのだよ。もっとも父上には、強運がついてまわっているというのか、おもってもみなかった家督を相続なされ---。だから、拙には農民の血が半分---」
「おっ母(か)さんは?」
「いまの母上。正式の内室ではないが、父上とずっといっしょに---」
「女としてはなによりのこと。うらやましい」

かすかな物音に、銕三郎は目覚めた。
箱枕にそわせて、おに手枕をさせていた左腕をそっと抜く。
下布団の右に横たえておいた太刀を引き寄せ、耳をすます。
カリカリという音---。
はっと気づいて、蚊帳を出、戸口へ。
太刀を抜く。
板戸のつっかい棒をはずす。
外の犯人は、戸締りの横栓と落しを、表から小刀かなにかで切りとろうとしているようだ。
そっと横栓を引き、落しをあげて、一気に戸をあけ、太刀で戸口をふさぎながら、躰を入れ替えて、外を見た。

2人だ。
すばやく、戸口から表へ出る。
賊は、口をぽかんとあけて、女ものの浴衣姿の銕三郎を見つめている。
「お主(ぬし)ら、こっちへこい」

2人は、銕三郎の指示のままに、家から離れた。
「斬リ殺して、大川へ投げこんでもいいのだが、同業のよしみで、見逃してやる。いいか、よく聞け。この家は、〔狐火〕とおっしゃる大泥棒さまの別宅だ。きょうは、遠国盗(おんごくづと)めに出ていらっしゃるが、あさってにはおもどりだ。おれは、用心棒。お主らの首ぐらい、一刀のもとに落すだけの修行をしている。それと、知恵がねえようだから教えてやる。同じ盗人でも、戸締りや錠をやぶって押し入ったら重罪だ。女を手ごめにしても獄門」
2人はふるえあがった。
「さっき使っていた小刀をこっちへ寄こせ」
すなおに差し出す。
「ばかッ!柄のほうをこっちへ向けてだすのだ」
それを、大川めがけて投げた。
かすかに水音がした。
舟行灯をつけて往来していた舟の船頭が驚いたろう。

切っ先を相手の胸に突きつけて、
「お主の名は?」
仙吉です」
「齢は?」
「23です」
「住まいは?」
「寺島村です」
「寺島は広い。寺島のどこだ?」
「諏訪明神の裏手です」
「よし。夜が明けたら、うそかどうか、確かめてやる」
「あ、間違えました。法泉寺の北脇です」
「よし。そっちの名は?」
長次郎ってんで」
「齢は?」
「19」
「住まいは?」
仙吉兄(あに)いの隣」り
仙吉。この家のことを誰から聞いた?」
「法泉寺の墓守の捨次から、若い女の一人ぐらしだと」
「よし。捨次は、明日の夜、斬りすてにゆく。仙吉長次郎の手足を縛れ」
それから、仙吉をしばった銕三郎は、ふたりを物置にころがして、
「明日、お前らの言葉に嘘がないとわかったら、縄を解いてやる。それまでここで寝ていろ。蚊ぐらいは辛抱するんだな」

_360_3
(向島・大川沿岸 隅田村、寺島村など)

気配に、起きてきていたおに、
「戸口を傷つけられたら、〔狐火〕が不審におもいます。幸い、わずかだから、真新しい傷口は、あすの朝にでも泥でも塗りこんでおけば気づかれないすみましょう。また、あの者たちを傷つけると、村役人へ届けなければならなくなります。それは困る。だから、あす、あの者たちの言ったことの裏をとったら、おどして放してやります。あの者たちをそそのかした法泉寺の墓守は、風をくらって消えるでしょう」

くぐって蚊帳へ入ったおが、燈芯を明るくし、立ったまま、
「長谷川さま。ほら、見て」
寝着の前をまくって、太ももをさらした。
内股に、一条の筋がたれている。
長谷川さまのお宝---」
「早く、拭きとりなさい」

時刻は、夢うつつに渕崎村の弘福寺の四ッの鐘を聞いた気がしたから、四ッ半(午後11時)をすぎたばかりとおもえる。

七ッ(午前4時)をまわると空が白む季節だから、
「もう、ひと眠りできます」
「いえ、眠れそうにもありません」
向きあっていたおが、左足を銕三郎の股へ入れて、
「お眠(ねむ)のお薬をくださいな」

参照】[お静という女] (1) (2) (4) (5)


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2008.06.03

お静という女(2)

横のお(しず 18歳)の横顔をながめながら、銕三郎(てつさぶろう 21歳)は、ある感慨にふけっている。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分 お静のイメージ)

女躰と情熱を共にしたのは、3年ぶりだった。
3年前は、芦ノ湯の湯治宿のむすめ・阿記(あき 21歳=当時)と、思いがけなくむすばれ、三島から鎌倉まで、4日ほど、いっしょに旅をした。
嫁に行って3年、子宝にめぐまれなかった阿記が、その4日のあいだ---というより、阿記のいい分だと、最後の夜、於嘉根(かね)をみごもって、縁切り寺で産んだ。

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(国芳『葉奈伊嘉多』部分 阿紀とのイメージ)

まだ一度も会ったことのないわが子の於嘉根は、阿記とともに実家にいる。
3歳である。

それなのに、こうして、おとできてしまった。
この女(こ)を嫌いではない。
むしろ、17歳という若さで、家のためとはいえ、45,6歳の中年男、しかも盗賊の頭(かしら)の囲われ者になったことに同情はしている。
だが、人の運命はいろいろである。
(きょうの雷鳴の中でのことが、おの人生を狂わせなければいいが---。身ごもっていたら?)

(いかん!)

どの。起きなさい」
「いい気持ち。もうすこし寝させていてくださいな」
「そうもしておれないのです。風呂場へ行こう」
「あら、どうして? 湯は沸いていませんよ」
「もし、孕んていたらどうします?」
「だ、い、じょ、う、ぶ」
「どうして、そう、きっぱりと言えるのですか?」
「女には、わかるのです。でも、どうして、沸いてもいない湯へ?」
「洗うのです。水で洗い流すのです」
「そんな---長谷川さま、3日後に、旦那がいらっしゃいます。仮に、ややができていたとしても、旦那の種と言いはれます」

「おどの---」
「お願いですから、2人だけのときは、おとだけ、呼んでください」
「では、拙のことも、銕三郎と---」
さま、にします」

たよりなげな憂(うれ)い顔で、自分の考えをいうより、男の言いなりになっているようなおの、別の一面を見たおもいだった。
(女は強い。いや、相手まかせのふりをして、ちゃんと、自分なりの生き方をするすべを身につけている)
そうおもいいたると、阿記於嘉根長谷川家にわたさなかったことも、なんとなくわかったような気がする。

初夏の明るい陽ざしが、蚊帳の細かい網目の影を、おの白い肌に投げかけている。
雷雲はすっかり去ているらしい。

さま。お力はもどりましたか?」
「えっ?」
「ここ---」
は、銕三郎のものを、やさしくつかんで、力(りき)ませる。

「好きあっている若い者同士が、自然にすることを、もう一度---」

終わって、しばらく恍惚としていたおが、蚊帳からするりとでて、薄物をまとった。
「風呂を焚きつけてきます。おがいるとやらせられるんだけど、いればいたで、こうは、おおっぴらに抱き合えないし---」

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(歌麿 蚊帳から出た女 お静のイメージ)

着物をまとうと、1,2歳若くなり、齢相応に見える。
狐火(きつねび)〕の勇五郎がきている時の、夜の気づかいの結果が裸躰にあらわれているようだ。
その気配は、湯屋で、おの裸躰を、見るともなく見たときに、より強くなった。
まだ、日没までたっぷり間があるので、風呂場が明るいせいかも知れないが、18歳のむすめらしい張りが、肌から消えている。
午後の遅い陽をうけた、腕のうぶ毛が金色に光っているのが、いたいたしい。

狐火〕の勇五郎は、よほどに風呂好きか、あるいは湯殿での情事が好みとみえて、妾宅の少ない部屋数の割には、不釣合いなほど広い風呂場に改築させ、外の明かりもしっかりとりこむようにしていたのである。

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(国芳『野光の玉』部分 お静のイメージ)

三島での風呂で見た芙沙(ふさ)は、25歳の後家だったが、それでも、いまのおよりもつやのある肌をしていたようにおもう。

_160_2乳房のふくらみも量感があったかも。
もっとも、14歳の時の、銕三郎としては初体験といえる女躰だし、7年間、おもいだすたびごとに美化しているはず。(右絵:歌麿『美人入浴図」 お芙沙のイメージ)

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)

そうなんだ、接した女の躰のどの部分であっても比較しては、男として、抱く資格がない。
いま抱いている人を、これこそ最高の女躰とおもいきわめて睦む。

(そうでないと、おれに抱かれて、せっかく、18歳のむすめのこころにもどろうとしているおに失礼だぞ)
自分に言いきかせる。

長谷川さま。若いむすめと若い男は、湯殿では睦みませんか?」
そこにあった糠袋で躰を洗っている銕三郎に、おがしなだれかかった。
どの。どうせ、夜になっても着物と袴が乾いていませぬ。どこかの暇な年寄りにでもお使い賃をわたし、拙の屋敷へ、今夜は帰らないと告げにいってもらいます。だから、そのときに、ゆっくり---」
「お泊りくださるのですね。一晩中、いっしょなんですね。うれしい」
は、銕三郎の小さな乳首をちゅっと吸ってから、湯桶に躰を沈めた。

ちゅうすけのつぶやき】
長谷川家のような400石取りの旗本の嫡男が外出する時は、ふつうなら、家僕が付き添う。
しかし、おの手習い師範のように、行き先と用件がはっきりしている場合は、省略することがある。
省略した時にきょうのような突発的な不都合(?)ができると、連絡手段にあわてる。

参照】[お静という女] (1) (3) (4) (5)


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2008.06.02

お静という女

どうして、こういう仕儀(しぎ)になってしまったのか、銕三郎(てつさぶろう 21歳)は、まだ、納得がいっていない。
蚊帳の中では、銕三郎の隣りに臥(ふせ)っているお(しず 18歳)も、すっかり安心しきって、全裸の腰のあたりに浴衣をかけいるだけだ。
腕は、銕三郎の下腹にあてたまま。

は、〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45歳前後)という盗賊が、1年前から、隅田(すだ)村のこの家に囲っている女(こ)である。
大川ぞい左岸の隅田村は、梅若塚のある木母寺(もくぼじ)に近い。

狐火〕は、愛宕下の水茶屋の茶汲み女として働きに出たばかりの、すれていないおがいたく気にいり、相応の支度金を水茶屋にわたして引きとり、ここに囲った。
水茶屋への交渉も、法泉寺の前の納所の頭(かしら)の妾宅だったこの家を買う手つづきも、おの病気の父親への手当ても、〔狐火〕から頼まれた〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)が、中にはいってすすめた。

は、深川・平井新田のそばで漁師をやっていた金兵衛(きんべえ)のひとりむすめだが、母親の病死につづきtrong>金兵衛も倒れたので、若い女が手っとりばやく金をつかめる芝の水茶屋へ出た。

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(木場の東の埋立地・平井新田は数十万坪、黄〇=大名の下屋敷。
緑○=町屋、漁師・金兵衛の家はその堀っぷちにあったろう)

憂い顔というのか、お本人はべつに意識はしていないのだが、たおやげなその風情を見かけた男性に、なんとか支えてやりたいという気持ちを起こさせてしまうらしい。
40歳も半ば、京都には本妻と8歳の実子、小田原宿にも妾・お(きち 31歳)を囲って男の子をもうけていた〔狐火〕が、おにころりとまいったのは、女の子をほしがっていて得られなかった代償だったのかもしれない。
その証拠に、囲ってからのこの1年というもの、着せ替え人形もどきに、おに髪型や衣装をとっかえひっかえさせ、変容を楽しんでいた。

そうはいっても〔狐火〕は、京の河原町に上品で小じんまりした高級骨董屋も構えているし、盗(おつとめ)の地盤は京坂と近江、越前、飛騨、美濃、三河、遠江、駿府である。
江戸へ出てくるのは1年のうちに2,3度、大仕事のあとの骨休めだから、ひと月もは滞在しない。
小田原宿に置いていた妾・お(きち)は、本妻・お(せい 没年26歳)が病死したのを機に、3歳の又太郎ともども京・川原町の骨董店へ呼び寄せ、本妻が産んだ文吉も育てさせていた。
そのとき小田原の家は、老僕夫婦にあずけたままにしてあり、江戸への往還に宿泊していた。
は、又太郎文吉が16歳の年に病没した。行年38。

銕三郎が、〔狐火〕の勇五郎と右腕の〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 50歳近く)を盗賊と見やぶったのは早かったが、火盗改メのお頭(かしら)の大伯父---長谷川太郎兵衛正直(まさなお 58歳 1450石余)には告げなかった。
狐火〕一味が、江戸と近郊ではお盗(つと)めをしていないことがわかったからである。

勇五郎源七を引きあわせたのは、〔盗人酒屋〕の主(あるじ)・忠助である。
まだ、居酒屋が店をあけない昼間で、銕三郎おまさの手習いに朱墨をいれいているところに来合わせた。
もちろん、京の骨董店の主人と一番番頭というふれこみであった。
銕三郎のほうは、旗本の次男として。

銕三郎忠助のひとりむすめ・おまさに手習いを教えているとわかると、〔狐火〕は、
「うちのおの面倒も見てもらえないですか。わたしは、ほとんど京都の店のほうにおります。おとともにすごせるのは年のうち、2,3ヶ月あるかなしです。この齢になって、おの手による恋文がもらえたら、これほどの幸せはありません」

そういうことで、銕三郎は、月に3回ずつほど、隅田村のおが暮らしている妾宅へ出向いた。かならず、〔相模(さがみ)〕の(ひこ)がつきそった。
彦十もおとおなじ手本を銕三郎からもらい、朱墨の手直しをうけた。
おまさとちがい、2人は、漢字からはじめた。
いうまでもないが、彦十の手習いのあゆみは、おの半歩にもおよばない。
彦十は、監視役としての手当てを、〔狐火〕から過分にもらっていた気配があった。

明和3年(1766)4月(旧暦)下旬---入梅前の蒸すこの日にかぎって、彦十が呑みすぎで供につかなかった。
高杉道場の稽古を終え、法恩寺橋ぎわの船宿〔秋本〕から、横川、源森川、大川とたどり、橋場の渡しの向島側の舟着きについたころから、空を真っ黒い雲が蔽い、下流の月島のほうで雷が鳴った。

妾宅に着き、
「雨がきそうだから、洗たくものを取り入れたほうが---」
と告げた瞬間、ザッーときた。
「おがきょうはきてくれていなくて---」
2人で取りこんでいるうち、ズブ濡れになった。
(さと 15歳)は、隣り村の関屋ノ里から通っている小女である。

座敷へ上がるまえに、2人とも着物を脱いで水をしぼる。
銕三郎は下帯一つ、おは湯文字だけ---顔を見合わせて笑った。
着物を衣紋架けにつるし、下帯も湯文字もとって、風呂場で躰をふく。

寝室になっている部屋には、蚊帳が半分吊ってある。
沼が多いので、4月になると、蚊がひどいのだ。
用がないときは、蚊遣りを焚くか、蚊帳の中にいる。

眼もくらむほどの雷光とともに家をふるわせるほどの大きさで雷が鳴った。
が耳をおさえながら、はずしてあった蚊帳の片側の吊り手をかけ、銕三郎の手を引っ張って蚊帳に入れた。
「雷の時は、蚊帳っていいますから---」

さっきより強い雷光につづき、ドカンと近くに落ちたような雷音に、おが悲鳴をあげ、銕三郎に抱きつく。
銕三郎も、おもわず、おの背中に手をまわした。

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(栄泉『艶本ふじのゆき』 お静と銕三郎のイメージ)

じっと待つ。
また、雷光と耳がやぶれそうな雷音。

の乳頭が銕三郎の胸で動いた。
顔をあげた。
憂いをふくんだといわれている瞳が、銕三郎を睜(みつめ)る。
形のいい唇がふるえた瞬間、光と雷鳴。
「えっ?」
聞きなおす銕三郎の口を、おの唇がふさぎ、銕三郎に抱きついたまま、自分から仰向けに倒れる。

曲げた膝で、上の銕三郎の両脇腹をしっかりとしめつける。
腰が小きざみにうねりはじめた。
「あ、止まらないのです。どうして?」
「こわがらないで---」
また雷光と爆音。

銕三郎をつかんで、導き入れた。
どちらも、熱いほどに熟しきっている。

終わって、おがつぶやいた。
「お金のやりとりなしで、自分の気持ちにしたがった時って、こんなに高まるのですね。ふつうのむすめが好きな男の人とする時の自然な感じは、きっとこうなんでしょう、初めて知りました」

雷鳴は遠ざかっていた。
どちらからともなく、ふたたび抱きあい、むさぼった。

いま、おは、くずれた髪をほどいて、横たわっている。

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(向島・大川ぞい 隅田村も鐘ヶ渕も切絵図下(北)部
尾張屋板)

ちゅうすけのつぶやき
剣客商売』の主人公の一人---秋山小兵衛おはるの隠宅は、綾瀬川が大川にそそぎこむ鐘ヶ渕である。池波さんが隠宅をここにロケーションを決めたのと、『鬼平犯科帳』文庫巻6[狐火]で、先代・勇五郎がおを隅田(すだ)村の妾宅に囲ったのと、どっちが早かったのだろうと、疑問が湧いた。

剣客商売』の第1話[女武芸者]は、『小説新潮』1972年(昭和47)新年号に掲載。
狐火]は『オール讀物』1971年(昭和46)4月号に掲載。

単純に比較すると、勇五郎のほうがさきに妾宅を構えたともいえる。
しかし、『鬼平犯科帳』の連載がきわめてあわただしく始まったのに対し、『剣客商売』のほうはかなり早くからノートがつくられ、隠宅の間取りなども設計されている。

ということで、決めがたいのだが、まあ、常識的に判断すると、おが先に住みついたと見たい。

参照】[お静という女 (2) (3) (4) (5)
[瀬戸川)(せとがわ)〕の源七 (1) (2) (3) (4)
[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)


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2008.06.01

〔名草(なぐさ)〕の嘉平

『鬼平犯科帳』文庫巻4に所載[おみね徳次郎]に登場した時は、すでに70歳近い白髪の老人で、千駄ヶ谷にある仙寿院の総門の前で、わら屋根の百姓家を改造した風雅な茶店の主(あるじ)として登場。
もちろん、その茶店は30年ほど前に、巨盗〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門の盗人宿(ぬすっとやど)として手に入れたものである。]

参照:〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門の項)

店は、新日暮(ひぐらしの)里といわれるほど幽谷に雅趣がうりの仙寿院への参詣人を相手に、嘉平の手づくりの草餅が人気。嘉平とすると、故郷で節句につくる鄙びた餅のつもりでだが、在方から江戸へ出てきて住まっている者たちにとっては、わが家ふうの味がうれしいのであろう。

〔法楽寺〕の一味の本拠は、直右衛門の通り名(呼び名)にしている禅宗の法楽寺のある、下野国(しもつけのくに)足利に置かれている。
女賊おみねの亡父・〔助戸(すけど)〕の万蔵も〔法楽寺〕の一味で、嘉平とは気があって仲良くしていたが、甘いものに眼がなく、その上、酒はあびるほど---というので、明和2年(1765)の初夏、あっけなく卒中で歿した。35歳であった。

6歳のおみねと後家となったお紺(こん 27歳)が残された。もっとも、この顛末は、『鬼平犯科帳』では語られていない。

女好きの直右衛門が、後家のお紺を囲ったばかりか、むすめざかりに育ったおみねまで女として練りあげてしまった経緯も、聖典では簡単に明かされているだけである。

【参照】女賊・おみねの項)
直右衛門は老齢とともに糖尿の持病が重くなり、男としての機能が働かなくなっているのとは逆に、おみねのほうは、母親ゆずりの女躰と、耕された性の深淵と悦楽に、男の肌なしではすまなくなっている。
江戸で、そのおみねを監督している嘉平とすると、痛し痒しの心境。

_4

年齢・容姿:白髪、としか書かれていないが、長く〔盗人宿〕を預かっているところから70歳近いと判断。

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(足利・法楽寺と在方の名草村)
生国:下野(しもつけ)国足利郡(あしかがこおり)名草(なぐさ)(現・栃木県足利市名草中町(なかちょう))。足利市の中心部から約6km。

探索の発端: 四谷の全勝寺の前で、女密偵・おまさが幼な馴染のおみねと出会い、〔法楽寺〕一味はもちろん、〔網切〕の配下まで看視の目がおよんだ。

結末: 〔法楽寺〕一味は、直右衛門がお盗(つと)めを早める気になって上府してき、〔名草〕の嘉平のところに滞在。浅草の盗人宿にいる配下たちと打ち合わすために集まったところを、逮捕された。

この時、いまは火盗改メの密偵となっている〔相模(さがみ)〕の彦十が、かつての縁で顔をさらしたため、密告(さ)したのはおまさでなく彦十とおもわせえた。

つぶやき: 仙寿院は、オリンピック道路が墓地の下を貫通し、境内も墓域だけに縮小、江戸期に新日暮里と文人・遊客を楽しませた面影は、いまは見る影もない。

294
(仙寿院庭中 『江戸名所図会』塗り絵師:ちゅうすけ)

400名からの盗賊たちのWho’s Who(名鑑)を、3年ごしにつくってきたが、〔名草〕の嘉平が洩れていたので、この機会に、ほかの者たちとフォーマット(形式)をそろえてつくってみた。

[盗賊たちのWho’s Who] は、当ブログの最初のページの左枠に掲示されているカテゴリーのリストから、[出身県別]と[50音別]にクリックで検索できる。

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