平蔵宣雄の後ろ楯(4)
水谷又吉勝昌(かつまさ 150俵)の名を、『柳営補任』の奥右筆組頭のリストで目にした時、大げさでなく、動悸が早まった。
水谷を(みずたに)でなく、(みずのや)と読んでしまったのである。
このプログの、かなり前からのアクセサーなら、了解してくださるとおもうのだが---。
とりあえず、動悸の素(もと)といえる記述を掲げる。
【参照】2006年4月28日[水谷伊勢守が後ろ楯?]
2006年4月29日[水谷家]
2006年9月28日[水谷伊勢守と長谷川平蔵]
2006年11月8日[宣雄の実父・実母]
2007年5月25日[平蔵と権太郎の分際]
2007年5月22日~[平蔵宣雄の『論語』学習 (1) (2)
2007年5月21日~[平蔵宣雄が受けた図形学習 (1) (2)
すなわち、備中・松山藩主の水谷家の家臣だった者のむすめが、平蔵宣雄(のぶお)を産んだのである。
銕三郎(てつさぶろう)にとっては、実の祖母にあたる。
『寛政重修諸家譜』で調べたら、(みずのや)ではなく、水谷(みずたに)と読み、『姓氏家系辞書』によると、美濃の浅野の系統とわかり、安堵(?)した。
初代は、のちに六代将軍となった甲府宰相・綱豊(つなとよ のちの家宣)の桜田の館に右筆として採られているから、能筆だったのであろう。
それ以前の家譜はない。
又吉勝昌は、奥右筆を18年勤めたのち、50歳で組頭に抜擢され、59歳の時に致仕している。
勝昌が致仕した時、継嗣・七郎勝興(かつおき)は16歳、生母は某女。家督は2年後。
勝興は、右筆でなく書院番士として召されているから、書のほうはそれほどでもなかったのかも知れない。
勝昌の実母は、同職・右筆の本目(ほんめ)勝左衛門親宣(ちかのぶ 200俵)の養女とあるが、勝昌自身は妻帯しないでいたのか、記録されていない。
ということから推測するに、閨閥づくりの意志が薄かったか。
であれば、平蔵宣雄の後ろ楯になってやる気もなかったとみておこう。
こういう、無駄に見える寄り道も、やってみると、江戸時代の何かを知るよすがにはなる。
そこがアマチュア史家の醍醐味ともいえる。
ストレートに歩くばかりが、歴史探索ではなかろう。
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