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2006.04.28

水谷伊勢守が後ろ楯?

知人に、組織の長として人の扱い方を学びたいなら『鬼平犯科帳』を読め、とすすめている大メーカーの人事部の長がいる。

たしかに池波正太郎さんが描いた小説『鬼平犯科帳』の中の鬼平……長谷川平蔵の人あしらいはみごとだ。人情の機微を心得、心のひだをくすぐる。まさに人間通。教えられるところが多い。

が、史実の長谷川平蔵はいまの中央官庁――幕府の中堅武官だけに、部下の扱いや上司、同僚やライヴァルとの関係は生々しい。中間管理職としての平蔵の生き方は、ある面では小説以上に教訓を得られる。

父の死によって家禄400石の家を継いだ平蔵は、29歳で西丸書院番士として出仕する。書院番は、番方(武官)の出世街道のスタート台である。
それだけにライヴァルも多い。

書院番は12組。一つの組の番士は50人。ここだけでもライヴァル600人。

だが、平蔵のスタートには幸運がついてまわった。

番頭の水谷(みずのや)伊勢守勝久が、平蔵の父・宣雄の出生に関係のある備中(岡山県)松山藩主・水谷家の後裔だったので、平蔵へ特別に目をかけてくれた。

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水谷(みずのや)家は、かつてこの備中・松山城(岡山県高梁市)の城主(5万石)であり、平蔵の父・宣雄を産んだのは、松山藩で馬廻役(100石)をしていた藩士の娘だった。

出世コースの第2ステップの進物係へ推薦してくれたのも伊勢守だ。

周囲に明るい雰囲気をもたらす平蔵の性格も幸いした。
ふつうは10年近くつとめる徒頭(かちのかしら)を1年半で終え、41歳で先手の組頭(くみがしら)へ抜擢。この早すぎる出世には同僚のねたみも買った。

役職には実収がともなっているからだ。
徒頭は1000石高格、先手組頭は1500石格。家禄が400石の平蔵が先手組頭となると、長谷川家には差額の足高(たしだか)1100石の増収がもたらされる。

34組ある先手組の、過去50年間(600か月)に火盗改メを経験した月数を試算してみた。ダントツは平蔵が着任した弓組二番手の144か月、つづくのは鉄砲組11番手の109か月、弓組五番手の92か月。あとはぐっとさがる。
50年間で区切ったのは、その期間なら実務経験が与力や同心に伝承されていると推測したため。

じじつこの組は平蔵の1年半前まで、火盗改メとして著名だった横田源太郎松房(1000石)の下にあったし、横田の前もこれも名長官といわれた贄越前守正寿(300石。のち100石加増)が5年半ものあいだ腕をふるっていた。

浅間山の噴火、長雨による洪水、凶作など「なにごとも天命」と天明の年号をもじった江戸庶民のふてくされが社会不安へ発展しそうなおそれは十分に予見できた。

幕府もそれを察して、火盗改メとしてもっともよく訓練されている最強チームの弓・二番手の組頭へ、期待の平蔵をすえたのだ。

組織を活性化するのに、弱いチームに強いリーダーを配して鍛える方法もあるが、天明のような非常時にはそんな悠長なことはしていられない。

平蔵は、経験十分の与力や同心たちに要望した。
「今日よりは町方から心づけをうけてはならない。町々の協力がえられるように振るまってほしい」

つぶやき:
備中・松山藩が世継ぎの不手際で取りつぶされたとき、城受け取りに行ったのが赤穂藩の重役・大石良雄だった。
水谷家は、関ヶ原などで大坂方の情報を家康へ送った功績もあり、5万石は召し上げられたが、藩主は3000石で幕臣となっていた。

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