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2006.04.27

天明飢饉の暴徒鎮圧を拝命

『続徳川実紀』の天明7年(1787)年5月23日の項を、いま風の文章に整理して引用してみよう。

先手弓頭(10組中)
 長谷川平蔵宣以(のぶため)  400石 42歳
 松平庄右衛門穏光(やすみつ) 730石 60歳

先手筒組頭(20組中)
 安部平吉信富(のぶとみ)    1000石 59歳
 柴田三右衛門勝彭(かつよし)   500石 65歳
 河野勝左衛門通哲(みちやす)  600石 64歳
 奥村忠太郎正明(まさあきら)  600石 56歳
 安藤又兵衛正長(まさなが)    330俵 60歳
 小野治郎右衛門忠喜(ただよし)  800石 55歳
 武藤庄兵衛安徴(やすあきら)   510石 47歳
 鈴木弾正少弼政賀(まさよし)  300石 48歳

の10組に、
「今日からただちに市中を巡行し、市井を騒擾させている無頼の徒を見つけたら召しとらえて町奉行の廳へ渡すべし。手にあまるときは斬りすててもよろしい」

すなわち、4日前の19日の夜からはじまった暴徒による米穀商舗のうちこわし鎮圧出動命令である。

7年前の安永9年(1780)からはじまった米の不作はずっとつづいていた。加えて、天明元年(1781)の関東諸州の洪水。
翌2年7月14日夜には地震。同3年秋には噴火した浅間山が関東一円に火山灰をふらせて作物を枯らせ、田畑を荒れさせた。
その上にこの年は東北地方は五穀の収穫量が極端におちた。

4年には全国的に飢饉(*ききん)で、疫病もひろがり、5年には夏から秋に雨がなく、米麦ともに大きな損害をうけた。

6年正月には湯島天神裏の牡丹長屋から出た火が、神田一円から日本橋の北東、つまり江戸の目抜きの商店街の半分を焼く大火となった。さらに7月には水害。この水害のことが[本所・桜屋敷]にさりげなく取り入れられていることはご存じのとおり。

 横川河岸・入江町の鐘楼の前が、むかしの長谷川邸で、あたり
 の情景は、数年前の水害で水びたしになったと聞いたが少しも
 変っていない。

天明7年の春には6合100文だった米価が、5合100文になり、4合となって、4,5月にはついに3合、と倍にはねあがっていた。
それにつれて麦、大豆、小豆、粟、稗)の類の値段も高騰したばかりか、利にさとい商人たちの売りおしみがはじまった。
消費都市・江戸の庶民の生活はもう我慢の限界にきていた。

先任の北町奉行・曲淵甲斐守影漸(かげゆき)が町役人たちに、「そちたちの願いを聞き入れて舂米(つきまい)商人たちを詮索してみたが、米を秘匿してはいなかった。商人なんだから手持ちの米があれば売るはずである。こうなったら、食えるものはなんでも口にして、秋まで我慢するほかはない。かつての飢饉には猫1匹が銀3匁していたが、今年はいまだそういう話を聞かないから、まだ大丈夫なんだろう」

冗談のつもりだったとしても為政者の言葉としては不謹慎にすぎる。奉行のこの言葉は江戸の庶民の怒りに火をつけた。

暴徒は、米穀商の襲撃からはじめて質屋や酒屋、ふだんから儲けすぎているとのねたみをふりまいていた商店へと、うちこわしの対象を広げた。

ほとんどの商店は大戸をおろして成りゆきを見まもっているばかり。江戸の町はいちどにさびれ、通りにいるのは下ごころのある連中ばかりだった。

そこへ先手組の出動、62歳の曲淵甲斐守の更迭、まだ24歳だった郡代・伊奈半左衛門を米穀運送の惣奉行へ抜擢することによって暴動は沈静化にむかう経緯はべつの物語である。

注目したいのは『続実紀』の先手組頭の記述順序である。

10人のそれぞれに家禄、天明7年の年齢を加えたが、平蔵宣以が10組の代表のような形で筆頭におかれたのは、なぜか?

年齢順、家録順でないことは明らかだ。

いろいろ試行錯誤の末に、先手組頭への発令順とわかった。ただし、弓組は筒組よりも格が上なので先へ書かれて当然である。

長谷川平蔵は天明6(1786)年7月26日から先手頭、松平庄右衛門は平蔵より18歳年長だが先手組頭への着任は天明6年ながら11月15日で、平蔵のほうが先任。

つぶやき:つまり、着席順をきめるときなど、同役なら先任順にしておけば間違いないということであろう。

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