平蔵と権太郎の分際(ぶんざい)
鬼平こと平蔵宣以(のぶため)の実父・初代平蔵(のちの宣雄 のぶお)へ、実母・牟弥(むね)がいいきかせた話がある。
それは、息・平蔵が8歳のときで、儒学塾へ出かけようとして、4歳年長の従兄・権太郎(のちの6代目当主・宣尹 のぶただ)の支度がのろのろしているのを、「権兄上のあゆみは、かたつむりのようじゃ」とからかった日であった。
牟弥は、塾から下がってきた平蔵を一室へ呼んでかしこまらせ、のちに3代将軍となった家光の竹千代時代の逸話をきかせた。
竹千代には、同腹で2歳年下の弟・国千代がいた。母親というのは秀忠の正室・浅井長政の三女・於江与。秀頼の母・淀の方の妹である。
秀忠・於江与ともに、なぜか国千代を偏愛した。容貌が母似の美形ででもあったためであろうか。
ある日、家康は、秀忠・於江与に竹千代と国千代を伴って機嫌を伺いにくるように命じた。
参上しすると、宿将たちも左右に控えていた。
上座から家康が声をかけ、自分の横を示し。
「竹千代どのはこちらへ」
兄の後ろを幼い国千代がついていこうとするのへ、家康がぴしりといった。
「国千代は、あなたの座へ」
それは、末座であった。
用意されていた菓子も、竹千代へは手づから渡したが、国千代へは、群臣のつぎに配られた。
このさまを見た秀忠・於江与は、世継ぎは竹千代と覚悟したという。
もっともこれは、出来すぎた逸話とおもえる。
家康が秀忠へ将軍職をゆずったのは慶長10年(1605)、その2年後には駿府へ大御所として隠居している。
竹千代が生まれたのは慶長9年(1604)だから、5、6歳のころの逸話とすると、駿府城でのことでなければならない。
まあ、祖父・家康が駿府から江戸城へやってきたとしてのときのことであったのかもしれないが。
牟弥はいつになくぎびしい口調で、平蔵少年にいった。
「権どのは、この家を相続なさるお子です。平どのは、権どのをもり立てていく立場の人、くれぐれも権どのを敬い、舎弟の分際(ぶんざい)を忘れないようになさりませ」
権太郎の母親は長谷川家の家婢で、すでに家には置かれていなかった。
また、徳川幕府としては、家督争いの絶滅を期して、竹千代のころから嫡男相続を徹底することにしていた。
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コメント
一連の平蔵宣雄に対する母牟弥の教育方針をみていますと、牟弥は大変教養のある婦人に思われます。
彼女は長谷川家の家卑、実家は備中松山藩の浪人、
いくら武家の娘といえ、論語から兵法、図形まで教えられるとは到底考えられません。
先日伯備線で備中松山城のある中国山脈の山間の小さな城下町高梁を通りました。
牟弥の生い立ちが気になります。
投稿: みやこのお豊 | 2007.05.25 13:07
>みやこのお豊さん
いくら武家の娘といえ、論語から兵法、図形まで教えられるとは到底考えられません。
それでは、誰が、厄介者の厄介者に生まれた宣雄を教育したのでしょう?
牟弥以外には、考えられません。
浪人したとはいえ牟弥の父親は、備中・松山5万石で100石をもらっていた馬廻り役です。30万石の藩であれば600石。50万石の藩なら1000石です。
そういう家格の家の娘なら、一通り以上の教養は身につけていただろうと考えていますが、どんなものでしょう?
投稿: ちょうすけ | 2007.05.25 13:31
備中松山藩藩主水野勝美が急逝され、末期嫡子が認められなくて、改易になったのが1693年(元禄6)です。
牟弥の父親が浪人したのも其の頃、宣雄の西の丸書院番出仕の年齢から考えて、父親が浪人した時の牟弥は
幼児だったろうと思いました。
浪々の身分であれだけの教養を身につけるのは・・・・と色々想像をいたしました。
投稿: みやこのお豊 | 2007.05.25 18:18