平蔵宣雄の僚友たち調べ
両番(小姓組と書院番組)の家柄とはいえ、長谷川伊兵衛(伊兵衛は6代目当主までの相続名)家は、その6代目・宣尹(のぶただ)までは、全員がヒラの両番づとめであった。
7代目当主の平蔵宣雄(のぶお)の代で、初めて小十人頭(1000石格)、先手組頭(1500石格)、京都町奉行(1500石格。ただし余収が多かったらしい)まで出世した。家禄は400石だから、それぞれの格高との差額を足(たし)高として給されることは、これまでも記した。
宣雄が抜きんでていたことを推量するのに、これまで、西丸書院番士の時代の彼の才能を認めた上役を報告してきた。
じつは、調べなければならない源泉は、ほかにも、
1. 寛延元年(1748)4月3日、老中・本多伯耆守正珍(まさよし)から江戸城の菊之間で、平蔵宣雄とともに、父の死により相続の許しを告げられたあとの15名の氏名とその後の栄達など。
2. 寛延元年閏10月9日から宝暦8年(1958)9月14日までの10年間、西丸の書院番第3組の番士としてともに勤めた50人の中で、親しくしたと思われる者の割り出し。
3. 宝暦8年9月15日から勤めた小十人組頭時代の、10組の同僚組頭の氏名とその後の出世ぶり。
4. 明和2年(1765)4月11日から勤めた先手弓の頭の、ほかの9組の組頭の氏名とその後の栄達ぶり。
これらを、 『寛政譜』をじっくりとくりながら記録していきたい。
もっとも、3.と4.は『柳営補任』で抑えられるから、23冊に活字化してまとめられている『寛政譜』を1巻ずつ調べつつ、まず、3.から報告していくことにしよう。
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