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2008.06.10

明和3年(1766)の銕三郎(4)

新堀川に架かっている薬師橋西詰の旗本20数家が、諸掛費用をだしあって設けている辻番小屋にもく゛りこんでいた盗賊・〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛(やへい 42,3歳)一味を、火盗改メに捕縛させたが、発見に一と役買った〔相模(さがみ)〕の(ひこ)(32歳)が、手柄を吹聴するので、銕三郎(てつさぶろう 21歳)は、
彦十どの。その話はほかではしていないでしょうね。もし、盗人仲間の耳に入ると、火盗改メの狗(いぬ)ということで、ただではすませてはくれませぬぞ。彦十どののだち(友)という雄鹿も、さすがに助けようがありますまい」
釘をさしておいて、両国広小路の「読みうり」屋に、ネタ集め人の〔耳より〕の紋次(もんじ 23歳)を訪ねた。

いつぞや、緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕の盗難の件で、紋次に貸しをつくっておいた。

参照】2008年4月26日~[〔耳より〕の紋次] (1) (2)

「やあ、初瀬川(はつせがわ)さまの旦那」
紋次はおぼえていた。
人の顔と名前をおぼえるのと、相手を安心させる術が商売のコツといわれるネタ集め人である。
武士とちがい、ふつうの江戸町人は名刺を使わない。
まあ、武士だって、訪問先の玄関で差し出した名刺は、帰る前に引きとるのだが。

初瀬川と書いてわたしていた。
長谷川は、大和の初瀬川(はせがわ)のたもとの土豪だった先祖が、長谷寺にちなんで、いつか、書きあらためた姓である。

両国橋西詰の例の橋番小屋で、
「なにか、いいネタでも?」
「〔窮奇〕という盗賊一味が、火盗改メに捕まったのは知っているな」

細工の手のうちは、翌日売り出された「読みうり」の大要を引用する。

かまいたち〕の正体を暴露(あば)いてみると、
有りようは弁天小僧

神代のむかし、イザナギ神の男根(やり)の穂先のしずく、イザナミ神の陰門(ほこ)の湿りから、この国が産まれたと、もの本はいう。イザナミ神のこの世でのお姿が弁天であることは承知だが、陰門(ほこ)の神といってはあまりにもあからさまなので、銭(ぜに)洗い弁財天と書いて蓄財に、弁才天のほうは芸事・音楽・学問の神としている。

Photo
(某分限者が購入したと伝えられる裸体の弁天像)

稲田に下田(げでん)、中田(ちゅうでん)、上田(じょうでん)があるように、人にも物にも位づけがなされるのも世の道理で、なににも、門口の広狭、湿りの潤乾、締めの強弱、毛並の濃淡によって下(げ)ノ品(ほん)、中(なか)ノ品(ほん)、上(じょう)ノ品(ほん)と分ける。

だから男どもは、見たがり、触りたがり、入れてたしかめたがる。

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(国芳「枕辺深閨梅」口絵 見たがる イメージ)
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(国芳 触りたがる イメージ)
弁天が上ノ品の持ち主であることは、宝船に6人の男神が群がっていることでもわかかろうというもの。

その弁天像をわが家に安置して朝晩拝み、萎えた一物の回春を願う長者もあまたいる。
そこに目をつけたのが〔かまいたち〕。弁天社のご本尊を盗みだして長者に高く売りつける。盗まれた寺社はご本尊がなくては信者もこないから、ひそかに代わりの弁天像を高値で購う。盗むも〔かまいたち〕なら売り手も〔かまいたち〕。ことは簡単。東海道筋の弁天社は軒並みに被害をこうむった。

ここに一人の火盗改メ・同心が登場(氏名はこんごの探索にさしさわりがあるので伏せる)。公務で江ノ島へ出張った際、あろうことか、江ノ島の弁天像を狙っている〔かまいたち〕の素顔を目にしたが、その時は、さすがの賊もこれはあきらめた。

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(江ノ嶋弁天 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

江戸へ帰ってからのかの同心、洲崎弁天はもとより、浅草観音の塔頭---松寿院、寿命院、青流院などの弁天像に監視の目を向けていたところ、〔かまいたち〕がのこのこと現われた次第。

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(洲崎弁天社 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

隠れ家は新堀川の薬師橋西詰の辻番小屋と知れ、火盗改メが一網打尽の大捕物に、さしもの〔かまいたち〕も化けの皮をはがれて弁天小僧に堕してしまったというお粗末。

この「読みもの」が命名した〔弁天小僧〕が、『白浪五人男』の一人に冠されたか(冗談)。

これにつづいて銕三郎は、〔雨女(あまめ)〕のおの逮捕の立役者も、先手・弓の七番手の長谷川組の同心の探索にすりかえて、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 34歳)とお須賀(すが 28歳)に復讐の手がおよばないように、紋次を使った。

ちょうすけのつぶやき斉藤月岑(げっしん)『武江年表』を東洋文庫(1978.11.15)で校訂した金子光晴さんは、寺の開帳が多くなったのを指摘。なかでも江ノ島の弁天の開帳は江戸人の人気が高かったと。たしかに、上ノ宮の弁天(宝暦5年4月)、岩屋弁天(同11年4月)、下ノ宮の弁天(明和4年4月)の開帳には、江戸からの参詣の男女が大勢押しかけたと、月岑がわざわざ付記している)。

【参照】[明和3年(1766)の銕三郎] (1) (2) (5) (6)


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