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2008.06.11

明和3年(1766)の銕三郎(5)

これまでの事件より遡ることになるが、とりあえず、明和3年3月15日の『徳川実紀』をひもといてみる。

先手頭細井金右衛門正利、盗賊考察を命ぜらる。この頃火災繁きにより、組子引きつれ昼夜街衢(がいく)を巡廻すべしとなり。

この時期の火盗改メは、銕三郎(てつさぶろう 21歳 のちの鬼平)の大伯父で、本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石余)であることは、たびたび、記してきた。

しかし、助役(すけやく)をぬかっていた。

浅井小右衛門元武(もとたけ 57歳 540石余 先手・鉄砲の11番手の頭)が、前年の明和2年(1765)9月22日から勤めていた。
江戸に火災の多い冬場の、いわゆる、加役(かやく)である。

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(浅井小右衛門元武の[個人譜])

助役は、春の終わり---4月には役を免ぜられるはずなのに、明和3年にかぎって、浅井元武はそのままとどめられ、重ねて細井金右衛門正利(まさとし 59歳 廩米200俵 先手・弓の5番手の頭)が増役(ましやく)として発令され、先手34組のうち、3組が火盗探索の職務にはげむこととなった。

ちゅうすけ注】この当時の先手組は、弓が10番手まで、鉄砲(つつ)が1番手から20番手までに、西丸に4番手の計34組が置かれていた。各組、与力が5名から10名、同心は30名(鉄砲の1番手と16番手のみ50名)いた。

3組も、というのは異例で、めったにあることではない。
(もっとも、『鬼平犯科帳』にも書かれている、葵小僧探索には、増役が発令されたが、これは先の話)。
小右衛門元武の火盗改メの加役は、夏もさかりの同年6月1日に免ぜられている。

それほど、冬場から春口にかけて、小さな火事が多かった。
もちろん、放火をし、騒ぎにじょうじて盗みを働く手合いが跋扈したのだとおもわれる。

_200火事の記録を『風俗画報 江戸の華 中編』(明治32年1月25日号 表紙=図版)から拾うと、

3月5日下槙(しもまき 京橋)町より出火、大風にて数町類焼す。

の1件が記されているにすぎない。

大火にはいたらないで鎮火した小火事が多発していたとみる。

浅井小右衛門元武の火盗改メ・助役の任期終了を、『実紀』は、同年の6月2日としている(ついでに補筆しておくと、元武はこの4年後に火盗改メの増加役を命ぜられている)。

柳営補任』は6月朔日(1日)と記しているが、『実記』は幕府の正規の記録だから、こちらを採る。
じつは、『柳営補任』は、長谷川太郎兵衛の火盗改メ解任日も、6月朔日としているが、『実紀』は6月18日。これも『実紀』にしたがっておいた。

大伯父・太郎兵衛正直の火盗改メの任期満了が近いとおもえる5月のある日、銕三郎は、役宅を兼ねている番町の長谷川邸を訪ね、正直の後任者に、探索手伝いを引き継いでおいてほしいとたのんでみた。
浅井どのは、ふつうであれば、とっくに任を解かれているべきなのだから、まさか、引き継ぎということはあるまい。細井どのはまったくの臨時の任ゆえ、のことを頼みおくのもどうかとおもわれる。困ったものよ」
銕三郎の探索上手の素質を見ぬいていた太郎兵衛正直も、当惑していた。

「奥祐筆の先任組頭・臼井どのにでも、さぐりをいれてみようかの」

奥祐筆の組頭は、幕臣の人事にとってきわめて影響が大きいようなので、臼井藤右衛門房臧(ふさとし 56歳 廩米150俵)のことは、稿をあらためて調べるつもりである。

実紀』をもうすこし先、明和3年6月18日までめくってみる。

先手組頭・長谷川太郎兵衛正直に盗賊考察をゆるされ。細井金右衛門正利代り命ぜらる。

なんと、火盗改メ・増役であった細井正利(60歳)の、本役への横すべりではないか。

寛政重修諸家譜』によると、姓は三河国幡豆郡(はずこおり)細井村に住んでいたためというから、土豪として徳川広忠に任えたものであろう。

本家は、1300石。家康に仕えた2代目の長男が別に家をかまえて500石。その2代目の5男が分家した廩米200俵の家を継いだのが正利である。

金右衛門正利は、小姓組、中奥の番士、西丸の徒頭(かちのかしら 37歳)と目付(49歳)を経て、先手・弓の5番手の組頭になったのが59歳の時。

徒頭と目付は1000石格、先手の組頭は1500石格だから、廩米200俵の細井家とすれば、破格の出世だし、本人の世故もふくめての有能ぶりがうかがえる。

火盗改メ・本役の引継ぎは59歳。
性格からいって、銕三郎のことは気軽に引きうけたろう。
が、じっさいに探索のことを頼んだとはおもえない。

というのは、1年後の翌4年(1767)6月20日に火盗改メの任を解かれたのは、3ヶ月後の9月に、在任中の不始末の不審が発覚したからとしかおもえない。
審議の結果は、放火犯の糾問を与力まかせにした職務怠慢ということで、先手の組頭・1500石格の職も召しあげられて小普請に貶(おと)されたうえ、逼塞を命じられているからである。
それだけではすまなかった。
嫡男・銕三郎正相(ただすけ)も家督前に召しだされていたのに、父の不始末の責めをおわされて、小納戸役を免じられた。

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(浅井金右衛門正利の個人譜)

このブログのヒーローのほうの銕三郎も、金右衛門正利の性格を、一度面接しただけで見抜いた。
「わが家の婿どのも銕三郎といいましてな。なかなかの出来ぶつでござるよ。銕三郎という名の仁は、どうやら、能才に恵まれているようですな。わが婿どのの銕三郎は38歳ゆえ、長谷川どのの指南役ということになりますがな。は、ははは」
先任者・太郎兵衛正直の前で、ぬけぬけと言ったものである。
(この仁は、人の言葉に異を唱えないことで、ここまで出世をなさっているが、そのような世渡りの術が、凶悪で悪知恵をもった盗賊たちに通用するであろうか)

この例から感ずるのは、火盗改メという職は、おもった以上に厳しいということ。
よく考えればとうぜんのことで、法を扱い人の命を左右するのだから、念にも念を入れた詮議が必要で、与力にまかせきり---というのは、無責任すぎる。

もっとも、金右衛門正利にも言い分はあった。
この先手・弓の5番手という組は、宝暦3年(1753)10月から、金右衛門正利が任を解かれた明和4年6月までの14年間に、就任した組頭5名のうち4名までがなんらかの形で火盗改メを命じられおり、その通算は44ヶ月におよぶ。
この数字は、この期間中だけにかぎると、最長の組といえる。
つまり、与力も同心もこの職務の心得と経験が十分にあったのである。

Photo

新任の組頭・細井金右衛門正利(=緑○)としては、古参の与力たちを頼りにし、なにごともまかせたとおもう。
運が悪かったともいえないでもない。
まあ、悪運にしろ幸運にしろ、『寛政重修諸家譜』を拾い読みしていると、つきにくい人と、つきやすい人がいるようにおもえてくるから妙である。
運命論者ではないつもりなのだが---。

【参照】[明和3年(1766)の銕三郎] (1) (2) (4) (6)

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