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2008.06.14

明和3年(1766)の銕三郎(6)

(しず 18歳)が、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45,6歳)によって、京都へ連れ去られたあとしばらく、銕三郎(てつさぶろう 21歳)は、胸の中に大きくて黒い空洞ができたようで、剣術の稽古にも身がはいらなかった。

狐火〕の、

「お前さんは、武家方のお子だ。人のもちものを盗(と)っちゃあいけねえ---人のもちものでも、金ならまだゆるせる。だがねえ、女はいけませんよ」(文庫巻6)[狐火]p160 新装版p168

この言葉もこたえたが、〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち)が、
長谷川の若さま。おさんは、〔狐火〕のお頭が、これまでで、いっち、大切にしていなさる女子(おなご)です。可愛いと感じるこころに、齢の数は関係ありません。あれぐれぇのお小言ですんでよかった。ほんとうなら、お命がなかったところです」
これで、勇五郎の痛みの大きさと、それを抑えるきびしさもわかったが、それ以上に、これからずっと〔狐火〕と暮らしていくおのこころにつけた傷の深さにも配慮がおよんだ。
(自分だけが苦しんでいるのではないのだ。でも、もう、どうしてやることもできない)
人生の無情をおもい知った。

岸井左馬之助(21歳)は、立会い稽古を中途でやめ、法恩寺の門前の蕎麦屋へ銕三郎をつれて行き、
っつぁん。高杉銀平先生が申されていた。長谷川は、いまがもっとも苦しい時期であろう。若い者には、剣よりも恋だからな。しかし、悩みの谷が深ければ深いほど、それをふっ切った時、剣はより鋭くなっている、と」
「師のお心は、温かい」

が京へ去ってから、おまさ(10歳)の手習いの筆の運びに、変化がでた。のびのびとしてきたのである。
口では、
「気をゆるしあった相談相手がいなくなって、寂しい」
とこぼしているが、胸のうちの嫉(や)きもちの炎は消えたように見えた。

銕三郎とすれば、手習いの師範に、おおまさを差別した気はなかったのだが、おまさは、敏感になにかを感じとっていたのであろう。
おのれのこころのうちを隠す修行を、自分に課した。
それは、真剣で立ち会った相手に、こちらの意図を隠す訓練にもなった。
高杉先生が、「それをふっ切った時、剣はより鋭くなっている」とおっしゃったのは、このことでもあったのであろう)
銕三郎は、手前勝手に解釈した。

夏の日ざしの中にも、秋がすぐそこまできている気配が感じられる日、おまさが、
(てつ)お兄さん。亀戸(かめいど)の竜眼寺が、こんどから〔萩寺(はぎでら)〕と名前を変えること、ご存じですか?」
「だって、あそこは、もともと、〔剥寺(はぎでら)〕だろう?」
「〔はぎ〕の字がちがうんです。お兄さんが言っている〔剥寺〕は、あのあたりで追い剥(は)ぎに、着ている着物を剥ぎとられるることが多かったからって、つけられた名前でしょ。それを苦にやんだ住職さんが、池のまわりに萩を植えこんで、花のほうの〔萩寺〕に変えるんですって」
「寺も、考えたものだ」
「萩の花見に連れてってくださいな」

そう、この明和3年(1766)から、〔剥寺〕は〔萩寺〕と呼び名を変えることになった。

おまさが起居している四ッ目の〔盗人酒屋〕から竜眼寺へは、東へ横十間川(天神川とも)に突き当たり、川沿いに北行、(亀戸)天神橋をわたってすぐ、である。片道全行程7丁(約800m)。

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(上=北 下の基点=〔盗人酒屋〕 終点=竜眼寺)

境内は人出が多く、離ればなれになってしまうおそれがあるとの口実のものとに、おまさ銕三郎と手をつないだ。
まあ、21歳の若侍と10歳のおまさだから、人目に照れるほどのコンビとはいえない。
おまさの思惑勝ちであった。
(手をつないでいるのがおさんじゃなくって、悪るうございましたね)
おまさが腹の中で小さな舌をだしていることに、銕三郎は気がつかなかった。

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(竜眼寺 萩見 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

参照】『江戸名所図会』[竜眼寺 萩見

参照】2008年6月7日~[明和3年(1766)の銕三郎 (1) (2) (3) (4) (5)  (6)
2008年6月2日~[お静という女](1) (2) (3) (4) (5)

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