明和3年(1766)の銕三郎(6)
お静(しず 18歳)が、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45,6歳)によって、京都へ連れ去られたあとしばらく、銕三郎(てつさぶろう 21歳)は、胸の中に大きくて黒い空洞ができたようで、剣術の稽古にも身がはいらなかった。
〔狐火〕の、
「お前さんは、武家方のお子だ。人のもちものを盗(と)っちゃあいけねえ---人のもちものでも、金ならまだゆるせる。だがねえ、女はいけませんよ」(文庫巻6)[狐火]p160 新装版p168
この言葉もこたえたが、〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち)が、
「長谷川の若さま。お静さんは、〔狐火〕のお頭が、これまでで、いっち、大切にしていなさる女子(おなご)です。可愛いと感じるこころに、齢の数は関係ありません。あれぐれぇのお小言ですんでよかった。ほんとうなら、お命がなかったところです」
これで、勇五郎の痛みの大きさと、それを抑えるきびしさもわかったが、それ以上に、これからずっと〔狐火〕と暮らしていくお静のこころにつけた傷の深さにも配慮がおよんだ。
(自分だけが苦しんでいるのではないのだ。でも、もう、どうしてやることもできない)
人生の無情をおもい知った。
岸井左馬之助(21歳)は、立会い稽古を中途でやめ、法恩寺の門前の蕎麦屋へ銕三郎をつれて行き、
「銕っつぁん。高杉銀平先生が申されていた。長谷川は、いまがもっとも苦しい時期であろう。若い者には、剣よりも恋だからな。しかし、悩みの谷が深ければ深いほど、それをふっ切った時、剣はより鋭くなっている、と」
「師のお心は、温かい」
お静が京へ去ってから、おまさ(10歳)の手習いの筆の運びに、変化がでた。のびのびとしてきたのである。
口では、
「気をゆるしあった相談相手がいなくなって、寂しい」
とこぼしているが、胸のうちの嫉(や)きもちの炎は消えたように見えた。
銕三郎とすれば、手習いの師範に、お静とおまさを差別した気はなかったのだが、おまさは、敏感になにかを感じとっていたのであろう。
おのれのこころのうちを隠す修行を、自分に課した。
それは、真剣で立ち会った相手に、こちらの意図を隠す訓練にもなった。
(高杉先生が、「それをふっ切った時、剣はより鋭くなっている」とおっしゃったのは、このことでもあったのであろう)
銕三郎は、手前勝手に解釈した。
夏の日ざしの中にも、秋がすぐそこまできている気配が感じられる日、おまさが、
「銕(てつ)お兄さん。亀戸(かめいど)の竜眼寺が、こんどから〔萩寺(はぎでら)〕と名前を変えること、ご存じですか?」
「だって、あそこは、もともと、〔剥寺(はぎでら)〕だろう?」
「〔はぎ〕の字がちがうんです。銕お兄さんが言っている〔剥寺〕は、あのあたりで追い剥(は)ぎに、着ている着物を剥ぎとられるることが多かったからって、つけられた名前でしょ。それを苦にやんだ住職さんが、池のまわりに萩を植えこんで、花のほうの〔萩寺〕に変えるんですって」
「寺も、考えたものだ」
「萩の花見に連れてってくださいな」
そう、この明和3年(1766)から、〔剥寺〕は〔萩寺〕と呼び名を変えることになった。
おまさが起居している四ッ目の〔盗人酒屋〕から竜眼寺へは、東へ横十間川(天神川とも)に突き当たり、川沿いに北行、(亀戸)天神橋をわたってすぐ、である。片道全行程7丁(約800m)。
(上=北 下の基点=〔盗人酒屋〕 終点=竜眼寺)
境内は人出が多く、離ればなれになってしまうおそれがあるとの口実のものとに、おまさは銕三郎と手をつないだ。
まあ、21歳の若侍と10歳のおまさだから、人目に照れるほどのコンビとはいえない。
おまさの思惑勝ちであった。
(手をつないでいるのがお静さんじゃなくって、悪るうございましたね)
おまさが腹の中で小さな舌をだしていることに、銕三郎は気がつかなかった。
(竜眼寺 萩見 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
【参照】『江戸名所図会』[竜眼寺 萩見]
【参照】2008年6月7日~[明和3年(1766)の銕三郎 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
2008年6月2日~[お静という女](1) (2) (3) (4) (5)
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