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2008.06.15

平蔵宣雄の後ろ楯

鬼平こと、長谷川平蔵宣以(のぶため)が先手・弓の組頭に出世し、すぐれた火盗改メとして名を後世にのこすことができたのは、本人の才能もあるが、七代目の父・平蔵宣雄(のぶお)の能力と幸運が大きい、とかねてから思っていた。

というのは、父・平蔵宣雄までの当主たちは、書院番と小姓番組入りできる両番の家柄とはいえ、ヒラのままで一生を終えている。
もちろん、病身の当主もいたし、自分の愉しみを優先して出世に背をむけていた者もいた。

それが突然、七代目になって、家禄に加えて、役高のつく、いわゆる出世をしたのには、能力とか幸運ばかりでなく、引き立て役・後ろ楯がいたのではないかと推量していたが、それがだれか、雲をつかむような話なので、半分、あきらめかけてもいた。

参照】いったん、小十人頭の役についてからの与頭(くみがしら)や先達は、
2007年5月5日[宣雄、西丸書院番士時代の上役
2007年5月6日書院番与頭[松平新次郎定為
2007年5月20日同[組頭、能勢十次郎頼種
2007年5月9日書院番頭[仙石丹波守久近
2007年5月10日同[岡部伊賀守長晧
2007年5月28日[宣雄、先任小十人頭へのご挨拶
2007年12月10日~[宣雄、小十人頭の同僚] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
 
_120深井雅海さん『江戸城-本丸御殿と幕府政治』(中公新書 2008.4.25)から、大きなヒントをいただいたというか、目をさまされた。

同書は、老中と若年寄には3種類の秘書官---奥祐筆(おくゆうひつ)と同朋頭(どうぼうがしら)と御用部屋坊主---がブレーンの役目もしていたという。

中でも、[政界の隠れた実力者、奥右筆]は、「政治の社会でとくに大きな役割を果たし」「両者の決済を要する書願書などについては前もって先例を調査・検討し、場合によってはその諮問に応じて当否の判断を提示することである」

大名である若年寄が、幕臣の人事について、個々の人格・資質・能力などについて知っているはずがなかろうから、情報はどこからとっていたろうと、かねてから懸案にしていたが、これで一挙に納得がいった。
奥右筆をこれまで、まったく、視野に入れていなかった。

それで、平蔵宣雄の小十人頭、宣以の西丸徒頭に任じられた前後の奥右筆組頭を『柳営補任』から抜きだし、その『寛政譜』をあたって、長谷川家にかかわりあいがありそうかどうかを調べた。

柳営補任』には組頭しか記載されていない。
20人ほどいたらしいヒラの右筆は載っていない。
組頭は、だいたい、2人制のようで、ほとんどが、右筆から昇格している。

もう一つ、抜擢に関して、気がついたことがある。
長谷川本家も、両番の家柄だが、五代目・刑部正利(まさとし)まではヒラで、六代目・監物正冬(まさふゆ)が小納戸などを経て書院番士を勤めている。
正冬は、織田家臣系の坪内家(750石)からの養子である。長谷川本家の四代目の次女が坪内藤九郎長定(ながさだ)に嫁ぎ、長男が14歳になった時に養子に、という次第。

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(長谷川本家の四代目・正定の妻、五代目・正利の没年と妻、
六代目・正冬の実家と家督の年齢と妻に注目)

じつのところ、正冬はあとまわしにしたい。
内室は安藤出羽守愛定(ちかさだ 3000石)の養女である。
養女といっても、父親の信濃守定行(さだゆき)は愛定の父でもあるから、愛定は妹を養女としたことになる。
(これは、長谷川宣尹が実妹(小説の波津)を養女にして、従弟・平蔵宣雄を婿養子としたのに、やや似ている)。

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(安藤家からの2人目の嫁としてきた愛定の養女が七代目・太郎兵衛正直を産んだ)

この安藤家というのが、徳川の重鎮なのである。
本家は、紀伊藩の家老ながら田辺3万8300石。さらに一族が陸奥・平3万石の大名。これまでに老中を勤めたのが2人(平蔵宣以の火盗改メ時代にも老中がでている)。

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(安藤家の[寛政譜]の部分。5段目緑○=直政、赤〇=六女が長谷川正定の妻女となり、正利を産んだ。ニ女が坪内家へ嫁ぎ、その長男・正冬が長谷川本家の六代目へ養子)

安藤家の姓は、奥州の安部氏と、一大勢力の藤原氏からなったというから、名門中の名門といえる。

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(安藤家の始まり)

長谷川本家と安藤家とのつながりは、四代目・隼人正定(まささだ)の時に生じた。
(上の長谷川本家の[寛政譜]部分参照)

内室が、家康の知恵袋の一人ともいわれた、安藤帯刀直次(なおつぐ)の長男・彦四郎重能(しげよし)が興した分家のニ代目・彦四郎直正(なおまさ)の六女だった。

この内室が長谷川本家の五代目・正利(まさとし)を産んだが、家督して8年目の元禄15年(1702)の暮れ近くに、21歳で若死にしてしまった。
実家の威光をもって、これから正利の出世を---と思っていたろうに。

急遽、前記の正冬(15歳)が坪内家から養子にきて家督した。
坪内家とのつながりは、正利の次妹が正冬の父・藤九郎長定(ながさだ)に嫁いで産んだ長男だからである。
坪内家が長男を養子に出したのは、長谷川本家がせっばつまっていたからであろう。
もっとも、正利、次妹、正冬の年齢関係は、どう考えても、まゆツバものであるが。

とにかく、この安藤家の口ききがあったか、長谷川本家は七代目・太郎兵衛正直(まさなお)が西城徒頭、先手・弓の頭、持筒頭へと出世している。

長谷川一族には、三方ヶ原で戦死した紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)の遺児のうちの三男・正吉(まさよし)が興こした4070石余の大身幕臣の家もあるが、調べてみて、経済力はともかく、どうも、幕閣に口がきけるほどの力はあるようにはおもえないのだ。

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