岡部伊賀守長晧(ながつぐ)
2007年5月10日[仙石丹波守久近(ひさちか)]の項に、辰蔵宣義(のぶのり)が上呈した[先祖書]の、宣雄(のぶお)のくだりの一部を紹介した。
もちろん、『寛政譜』には採記されていない。
同年(寛延元年)閏九月九日 西丸御書院番柴田丹後守
組え御番入被命 其後岡部伊賀守組
之節
宝暦八戌寅年九月十五日 小十人頭被命
小十人頭に栄進したときの西丸書院番の番頭が、岡部伊賀守長晧(ながつぐ 2000石)だったことがこれで分かる。
宣雄が書院番士だった時の、3人目の番頭である。
岡部という姓からいっても、駿州・東海道筋の岡部に縁が深い。
初代から14代目・信綱(のぶつな)と15代目・正綱(まさつな)は今川義元(よしもと)の家臣であった。
最初に詳細な記述が書かれている仁が15代目の正綱である。
朝日山城(現・藤枝市)を居城としていた。
家康が幼少・竹千代のころ、駿府に今川方の人質として囲われていた時から、親しくしていた。
義元が桶狭間で戦死後、武田信玄に攻められて守っていた駿府城を開城したあと清水に隠棲したが、その正綱のもとへ、家康からしばしば連絡があったという。
この後、家康にしたがって甲州・信州へも従軍、けつきょく、泉州・岸和田6万石の藩主におさまった。
正綱から5代、祖氏から数えると20代目・内膳正長敬(ながたか)から分家したのが、伊賀守長晧である。父の所領から廩米3000俵を分与された。
宝暦3年(1753)10月15日、宣雄の番頭として着任したのは43歳。
平蔵宣雄は、足かけ6年間、長晧の下で番衆として励んだ。
今川方の出であること、朝日山の城は、長谷川正長が守った田中城と指呼の間にあること、長谷川の祖が小川(こがわ)を地盤としていたこと---などから、宣雄とそんな会話を交わしたと想像してもおかしくはない。
ついでにいっておくと、岡部宿は幕末まで幕府直轄となっていた。
伊賀守長晧の屋敷は赤坂溜池端で、赤坂築地中之町の長谷川邸から至近の距離である。
だからといって、宣雄がしばしば岡部邸を訪問したとはいわない。ヒラの番士と番頭では格が違いすぎる。
とはいえ、長晧が宣雄に目をかけなかったといもいえない。
ただ、長晧が宣雄の後ろ楯となったとしても、宝暦10年には大番の頭に転じているし、その5年後には55歳で卒(しゅっ)しているから、ながくは影響力を発揮してはいまい。
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