仙石丹波守久近(ひさちか)
長谷川平蔵家の9代目・辰蔵宣義(のぶのり)が『寛政譜』のために書き出した[先祖書]---7代目・宣雄が寛延元年(1748)閏10月9日に西丸・書院番士として出仕し、西丸・小十人頭に栄進した、宝暦8年(1758)9月15日までの上司の中に、宣雄の後ろ盾がいたのではないかと、探索している。
候補者のリストは、2007年5月5日[宣雄、西丸書院番士時代の上役]にあげておいた。
第一候補は、あの5人の中にいるにいるはず。
辰蔵宣雄が上呈した[先祖書]の、その期間の項を写す。
同年(寛延元年)閏九月九日 西丸御書院番柴田丹後守
組え御番入被命 其後岡部伊賀守組
之節
宝暦八戌寅年九月十五日 小十人頭被命
[先祖書]ははしょっている。
『柳営補任』の[書院番頭]の項を確認すると、仙石丹波守久近(ひさちか)が抜けている---というより、宣雄の栄進には直接には関わりがないというので省いたのであろう。
仙石本家は、秀久(ひでひさ)が美濃国から発し、豊臣太閤に仕え、上杉攻めでは秀忠の軍に加わっている。のち丹後・但馬・美作で5万8000石。
久近の家は、最末4番目の分家で2000石の旗本。
久近の『寛政譜』を取り出して掲げるが、さしたる事跡はなく、西丸書院番頭に在職中に42歳で歿しているから、宣雄の後ろ楯とは断じがたい。
しかし、久近の父・丹波守久尚(ひさなお)は、絵島・生島事件の大目付として歴史や俗書に名を残している。
事件は、幼い七代将軍家継の生母月光院側の老女・絵島を冤罪で陥れた、天英院側の作戦勝ちなのだが、世評は判官びいきで、
人に嫌われる物は食いつき犬と仙石丹波守
と落首されたが、長谷川平蔵宣雄にはまったく無縁の劇なので、詳細は歌舞伎なり小説でどうぞ。
http://www6.ocn.ne.jp/~kai/yam.html
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