宣雄、西丸書院番士時代の上役
平蔵宣雄(のぶお)を、長谷川家の中興の祖---と持ち上げた。
というのは、両番の格の家柄なので、それまでの6代の当主たちは、たしかに書院番士と小姓組番士にはなった。
しかし、6人ともヒラのまま終わっている。両番は、将軍の親衛隊とはいえ、200俵格だから、400石の長谷川家には経済的な恩恵はもたらしていない。
宣雄は違う。
掲げた表の一番下をみてほしい。
西丸の書院番士を10年ほどこなして、小十人組の組頭に栄転している。
小十人組頭は1000石格である。
長谷川家は家禄が400石だから、宣雄が小十人組頭になると、差額の600石が足(たし)高として補ってもらえる。
つまり、小十人組頭にふさわしい体裁を整えよ---ということ。
長谷川家にとって、足高が入る---つまり、収入がそれだけふえることになったのは、宣雄が初めてである。
しかも、その余慶は、宣以にも孫・宣義にも引き継がれた。幕府が、長谷川家をそういう格と家柄と認識したということだ。
長谷川家の幕臣としての、家禄はともかく、家格をあげる要因は、宣雄の西丸書院番士時代に仕込まれた---と見た。
それで、その時期の上役をリスト化してみた。
ついでにいうと、寛延3年(1750)年、宣雄が西丸へ書院番士として出仕している足かけ3年目の8月16日、名ばかりの本妻・波津が病歿した。
銕三郎(のちの平蔵宣以)は5歳になっていた。葬儀にまつわる奥の仕切りは銕三郎の実母が行なった。
宣雄は、先祖からずっと住んでいた赤坂から、屋敷を大川べりの、築地鉄砲湊町(現・中央区湊2-12)へ移した。
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コメント
おお!嬉しい今日の資料!!
ここ数日の長谷川宣雄に関する一連の推移を、後へ戻り前へ進み返して読むのに手惑っておりました。
何とか便利な表を作らなければと思案中でしたので、
早速この表をコピーしました。これにどんどん付け加え乍、読めば鈍な私でも一目瞭然に理解できそうです。
早速、宣雄の時代に長谷川家の禄高、家格がはじめて上がったという事は宣雄が優秀で政治力にも優れていたということですね。
(たとえ後ろ盾が良くてもそれを活用できなくては・)
後の平蔵宣以の人使いの旨さは父親からの影響でなんですね。
投稿: みやこのお豊 | 2007.05.05 11:34
つくらないと、自分でも推理ができなくなりますからね。
ただ、書院番の10年間に才覚を認められたことは想像がつくのですが、書院番士としての才覚とはどんなものなのか、また、直接の上司のだれが強く認めたのか---などは、上司の属性を洗い、推定していくしかありません。
その手がかりは、いまのところ、『寛政譜』だけなのです。
投稿: ちゅうすけ | 2007.05.05 12:25
そうそう、番頭に仙石丹波守久近ってのがいますね。
これの父親の丹波守久尚(ひさなお)が、大目付時代に絵島を糾明する側の責任者でした。
人に嫌われる物は食いつき犬と仙石丹波守
実際にやったのは、目付の稲生次郎左衛門正武だったらしいけど、
歌舞伎ファンには、こっちの話のほうが興味ありそう。
投稿: ちゅうすけ | 2007.05.05 13:55