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2008.06.16

平蔵宣雄の後ろ楯(2)

男の評価がほぼ定まるのは何歳あたりからであろう?

「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」ともいうが、西洋では「10歳(とう)で神童、15で才子、20歳(はたち)をすぎれば只の人」ともいい伝えてきているらしいから、いちおう、20歳前後で定まるとみていいのではなかろうか。もちろん、例外は多々あろう。

ということで、銕三郎(てつさぶろう 21歳)の父・平蔵宣雄(のぶお 48歳)の18歳から29歳まであたりのころというと、元文(1736)から寛保・延享(1747)で、家督を継ぐ目もなかったから、冷や飯食いの気やすさから、知行地の新田開鑿(かいさく)の知識をもとめてあちこち旅をしたり、得たものを実地に応用したりしていたろう。

ちゅうすけ注】もちろん、見ていたわけではないが、新田開鑿のことは、シャーロック・ホームズでなくても、別のデータ(記録)から、十分に推量できる。

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(長谷川家六代目・宣尹(のぶただ)と小十人頭までの宣雄)

知行地の一つである上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村へ開墾監督に行っていて、名主のむすめとできて、銕三郎(てつさぶろう)をもうけてもいる(延享3年 1746)。

宣雄の新田開拓の豊富な知識と実績は、家計が逼迫しがちな幕臣たちのあいだに羨望の的であったともおもえる。
噂は、新田拡張を政策の一つにかかげていた将軍・吉宗の耳へも達していたろう。
吉宗は、奥右筆の組頭へも、宣雄の実績を調べさせていたかもしれない。

当時の奥右筆・組頭の一人が、岡本弥十郎久包(ひさかね 廩米200俵)である。

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(奥祐筆組頭・岡本弥十郎久包)

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(岡本一門の[寛政譜])

家禄は少ないが、方々から用頼みのつけとどけが大きかったらしい。

深井雅海さん『江戸城-本丸御殿と幕府政治』(中公新書 2008.4,25)に、『五月雨草紙(さみだれそうし)』からの引用がある。
時代は平蔵宣雄の家督相続のころより70年ほどくだった文政の話だが、さる奥祐筆組頭が、浅草・新鳥越町の高級料理屋〔八百善〕の料理切手を贈られた。用向きが遅くなったら食事でもして帰れと、何気なく用人に渡したところ、食べたうえに、お土産がつき、さらに15両の現金が返されたと。50両の料理切手であったのだ。

50両もの料理切手を贈れるのは、もちろん、400石取りの長谷川平蔵家のような旗本ではあるまい。
何万両もかかる河普請のようなお手伝いの下命を回避するための、国持ち大名の江戸留守居役からの必死のまいないの〔かけら〕であったろう。

弥十郎久包は、かかげた個人譜にあるとおり、家宣が六代将軍となる以前---甲府35万石の家門大名であったころの江戸屋敷---桜田御殿に勤めていた1300名の一員であった。
宗家は、家康から3850石を給されていたのに不祥事があって断絶、一門は浪人となっていたのを、宗家の五男の孫が桜田御殿に召されたのにつづいて、久包も職を得ている。能筆が幸いしたのであろうか。

これから順次記していく奥右筆の家禄は、みな、それほど高くはない。
しかし、老中・若年寄の諮問に応えたりして、直接に接しているために、時には人事の推薦などにもからんだとみているのだが。

さて、奥右筆の陰の力を告げるために岡本弥十郎久包の名を出したが、じつは、[寛政譜]で見たとおり、この仁は、平蔵宣雄が家督を継ぐことを許された寛延元年(1748)4月3日の6年前、寛保2年(1742)に納戸の頭(かしら 58歳)に転じている。
後任の組頭は、蜷川(にながわ)八右衛門親雄(ちかお 46歳 250石)が引き継いだ。


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