ちゅうすけのひとり言(14)
徳川家康の一生のうちで唯一の敗戦といわれている、元亀3年(1572)12月22日、三方ヶ原での武田信玄の大軍に対しての負け戦で、家康側は幾10人もの武将を失った。
その中の2人が、徳川時代の長谷川家の祖・紀伊守(きのかみ)正長(まさなが 37歳)、弟・藤九郎(とうくろう 19歳)である。
戦死者の遺族を丁重にあつかわないと、軍の志気が高揚しない。
長谷川家は、遺児の長男・正成(まさなり)がのちに、1750石で番方(武官系)に召された。
戦死した正長の属していた年月が3年そこそこということからいうと、まあまあの待遇である。
平蔵の家は次男・宣次(のぶつぐ 300石)で、やはり番方。
三男・正吉(まさよし)は、よほどに美男系だったかして、秀忠の小姓に召されて4070石余。これは異例。
このひとり言の出発点である喜三郎勝宗(かつむね 35歳)の細井家は、三河の土豪で、家康の父・広忠の時代から仕えていて、史書には戦死者として名も上げられていないが、弟・金兵衛勝久(かつひさ)は、兄の戦死ばかりでなく、当人のその後の武勲や働きもあったろう、1650石を賜っている。
これも、まあ、とうぜんの所遇であろう。
史書に名が記録されている三方ヶ原での戦死者の、長谷川家(の2名と従卒たち)を含めた45家のうち、『寛政譜』を一覧用に手づくりしているのは、その後の分も含めて17家22人と報告した。
(三原ヶ原の合戦の戦死者 史書4冊分に『寛政譜』追加)
手づくりの一覧用は、おいおいに増えてはいっているが、目的が長谷川家に何らかのかかわりあいがある幕臣を重点的につくってきているので、5200余家の家譜が集められている『寛政譜』のうちの5パーセントもすすんでいない。
だから、三方ヶ原での戦死者45家のうち17家---約3分の1にもなっていたのは、驚異的といってもいいすぎではない。
なぜ、そんなに多かったか?
手づくりの一覧用家譜が入っていたファイル名をご覧になると、納得していただけようか。
・家康の駿府時代(人質・竹千代の近習として)
石川家、加藤家、近藤家、榊原家、鈴木家、外山家、鳥居家、中根家、野々山家、原田家、門奈家、渡辺家
・徳川重臣
天野家、安藤家、小笠原家、夏目家、成瀬家
・長谷川備中守宣雄関連
本多家
・長谷川宣以・先手組頭就任時の同僚
なし
・ その他
大河原家
このことからいえるのは、三方ヶ原の合戦は、家康の本陣・親衛隊まで武田側との死闘に巻き込まれ、戦死者を出したほどの壮絶な闘いであったということ。
戦死したのは、先手の武将たちだけですまなかったのである。
もちろん、長谷川紀伊守正長とその弟が戦死したから、史書4冊の記録をあさり、かつ、意識もしないでその家譜の手づくりをすすめていた。
今後は、あとの28家の一覧性化もすすめることになろうが、手づくりは平均すると、1家分をつくるのに90分から120分要するから、27家だと40~64時間もかかる計算になる。
しかも、いまわかっている分だけでも、秋山家も石川小大夫も宇野三十郎政次も松平(竹谷)弥右衛門なども、どうしたわけか収録されていないし、荒川甚太郎は本多忠勝の配下だったことはまではわかっているが、これも記載がない。
史書は、何を基準に氏名をあげたのであろう?
こういう調べものの時間までふくめると、ため息がでるほどの仕事となろうが、ま、やってみれば、まったく、おもってもみなかった発見があるかもしれない。
人生の残り時間が少なくなってはいるが、予定していた家譜の再構成は、
・今川から徳川へ移った家
・武田から徳川へ移った家
・吉宗とともに紀州から幕臣となった家
としているが、こちらは、三方ヶ原の戦死者のあと---ということになりそうである。
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