明和3年(1766)の銕三郎(3)
口合人・〔雨女(あまめ)〕のお時(とき 36歳)が網にかかったのと捕り物を賞して、火盗改メ本役のお頭(かしら)---長谷川太郎兵衛正直(まさなお 58歳 1450石余)が銕三郎(てつさぶろう 21歳)と〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 34歳)にくれた紙包みには、3両と1両がつつまれていた。
もちろん、3両は銕三郎のほう。
「権七どの。これは、お須賀(すが 28歳)どのに---」
3両のうちの2両を包みなおしたものを、銅壷(どうこ)の火をみているお須賀の前に置いた。
「とんでもございやせん、長谷川さま。お須賀は、ちゃんと商べえになっていたのでやすから---」
権七が包みを押し戻す。
「それとこれとは、別です。お須賀どの。産着(うぶぎ)の1枚にでも---」
「お言葉に甘えてそうさせていただきます」
お須賀は、紙包みを押しいただいて、さっさと懐にしまった。
「ちぇっ。そんなもなあ、おれが揃えるのに---」
権七はがぼやくが、お須賀はすましたものである。
そのすべてを横で、うらやましそうに彦(ひこ)十(32歳)が見ている。
「彦十どのには、お願いがあります。どこかの賭場へ連れて行ってください。元金は、おのおの2分(ぶ 半両=約8万円)ずつ」
去年鋳造されたばかりの明和五匁銀を6枚、じゃらじゃらと手のひらにのせられた彦十は、
「ひゃあ、五匁銀だあ。生まれて初めて、手にのっけやしたぜ」
「そりゃあ、そうだ。暮れに月満ちて、銀座で生まれたばっかりだからねえ」
権七がまぜっかえして、大笑いとなった。
(明和五匁銀 弘文堂『江戸学事典』より)
「月満ちて---といえば、お須賀どのの産み月は?」
銕三郎があらためて訊く。
「10月です」
「8月には休店ですね」
「いえ。叔母が三島在からきてくれて替わりを勤めてくれますから、店は休みません」
「では、権七どの。そろそろ、店と住まいを分けないと---」
「おこころづかい、ありがとうごぜえます、まもなく見つかる手はずでやす」
「長谷川さまよ。賭場には、いつ、ご出陣なさいます?」
「昼間からやっている賭場は?」
「ごぜえます」
「では、きょうの八ッ半(午後3時)にでも---」
「あっしも、お供をいたしやす」
権七が言う。
「では、元金を---」
銕三郎は、五匁銀を3枚、押しつけた。
「お預かりいたしやす」
時刻までに、銕三郎は権七の極細縞(めくら縞と称していたのだが)の単衣(ひとえ)に着替え、近くの床屋で町人まげに結った。
大小と着物・袴は、お須賀に預けた。
彦十が案内した賭場は、浅草・聖天宮(しょうでんぐう)の丘すそにあった。
いわゆる新鳥越町1丁目で、山谷堀(さんやぼり)側には間口1間半ほどの船宿がずらりと並んでいる。
丘側の、わら屋根の民家であった。
顔見知りの彦十の連れということで、すぐに筒(どう)ノ間へ通される。
筒板(どういた)のほかは、薄暗い。
彦十が、五匁銀を張り木札に替えてくる。手馴れたものである。
(浅草・聖天宮下---新鳥越1丁目の賭場 近江屋板)
銕三郎は目がなれてから、筒板を囲んでいる十数人の客たちのそっと顔をあらためた。
42,3歳のでっぷりと肥えた男に気づいたが、そ知らぬふりで、筒板へ集中したふりをよそおった。
いたのは、〔窮奇(かまいたたち)〕の弥兵衛(やへえ)である。
3年前に江ノ島・片瀬村の旅籠〔三崎屋〕の大広間で出合った盗人だ。
与詩(よし 6歳=当時)が持っていた、紀州侯がお使いになる黒漆塗の木匙に目をつけられた。
【参照】2008年2月2日[与詩(よし)を迎えに] (39)
つぎは、同じ年の初冬、本多采女紀品(のりただ 49歳=当時 火盗改メ・助役)の夜間の市中見回りに随伴した折り、新大橋北詰の辻番所の番人にもぐりこんでいた弥兵衛を見つけたが、うまく逃げられた。
【参照】2008年2月21日[銕三郎(てつさぶろう) 初手柄] (3)
1刻もたたないで、彦十は元手のほとんどをすっていた。
権七は、箱根道の荷運び雲助時代からの修練で、賽(さい)の目の流れを読むのに長じており、元金を5倍に増やしていた。
銕三郎は、張らないで、弥兵衛の目にとまらないように、権七の後ろにひかえつづけた。
中休みになったので、彦十に精算するように言いつけ、権七には、会いたくない男がいるので退散したい、と耳うちした。
権七は、彦十がわたした1分2朱(6万円前後)のうちから、1朱(1万円)を賭場の若い者に華代としてわたして表へ出た。
そこで銕三郎は、木札に替えないままだった5匁銀の1枚を彦十へ手わたし、弥兵衛の特徴を伝え、賭場へ戻り、できたらでいいから、気づかれないように尾行(つ)けてみてくれ、と頼んだ。
山谷堀で権七が、日本橋川への帰り舟の船頭をみつけ、やりとりの末に、永代橋際までを40文で話をまとめた。こういう時の権七は手馴れていて、手ぎわがあざやかである。
(浅草・聖天宮下山谷堀舟着き=緑○ 永代橋東詰の〔須賀〕=赤○
江戸大地図 天保期)
舟のなかで、権七は、
「お預かりしてた元金でやす」
そういって、2朱金2枚(4万円)を銕三郎に押しつけもした。
「江戸へ逃げてくる時、博打はもうしねえとお須賀とげんまんしたんでやす。きょうは、長谷川さまの後見ということで、認めてくれやしたんです」
〔窮奇〕の弥兵衛は、新堀川西岸、薬師橋近辺の旗本20数軒で設けている辻番屋に、仲間の盗賊3人でもぐりこんでいたところを、長谷川正直組に逮捕された。
20数軒で設営している辻番だから、番人の採用にもいい加減なところがあったのである。
弥兵衛たちにしてみれば、番人としての給金などは目ではなく、身の隠し場所でさえあればよかった。
(緑〇=〔窮奇かまいたち)の弥兵衛がひそんでいた新堀川に架かる薬師橋西(上)詰の武家20数軒の辻番小屋 近江屋板 下は大川と御米蔵)
この逮捕で、一番鼻を高くしたのは、いうまでもなく、彦十である。
それから、尾行(つ)ける苦労話をしては、銕三郎からなにがしの小遣いをもらっていたが、
「彦十どの。その話はほかではしていないでしょうね。もし、盗人仲間の耳に入ると、火盗改メの狗(いぬ)ということで、ただではすませてはくれませぬぞ。彦十どののだち(友)という雄鹿も、さすがに助けようがありますまい」
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