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2008年2月の記事

2008.02.29

南本所・三ッ目へ(7)

平賀さま。発明というのは、どのようにして成るものでありましょう? われわれ凡人には、とうてい及びもつきませぬが---」
銕三郎(てつさぶろう 20歳 遺跡を継ぐことを許されたあとの平蔵宣以 のぶため)が、平賀源内(げんない 39歳)が示した火浣布(かかんぷ)から、視線を当人へ移して、おめずに訊いた。

田沼主殿頭意次(おきつぐ 46歳)の木挽町の中屋敷である。
銕三郎どのも共に参られよ---と意次に言われて、父・平蔵宣雄(のぶお 46歳 小十人組頭)は恐縮しながら、連れてきている。

ほかには、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 50歳 先手・鉄砲(つつ)の16番手組頭 2000石)と佐野与八郎政親(まさちか 33歳 使番 1100石)である。
政親は、西丸の小姓組から、去年の年初に使番に栄進している。

意次は、この3人が、前(さき)に老中を罷免された本多伯耆守正珍(まさよし 53歳 駿州・田中藩の元藩主 4万石)のところへ出入りしているのを知ってい、彼らの才幹をかって、目をかけている。

「発明ですか。そう、最初にどういいうものをつくりたいのか、想いえがくのです」
「火浣布のばあいは、どういうことを想いえがかれましたか?」
「ここの殿の思惑を---ですな」
「おいおい、紙鳶堂(しえんどう 源内の別称)。純真な若者に、妙なことを吹きこむでない」
それまでにこにこして源内の自慢話を聞いていた田沼意次が、盃を置いて、口をはさんだ。

「いえ。ほんとうのことを話しているのです。殿はつねづね、長崎の貿易の、出るをふやして、入るを減じたいと、愚痴(ぐち)をこぼしておられましょう。入るものの中に、天竺(てんじく インド)からの鹿の皮があります。銕三郎どの。鹿の皮をなにに使っているかご存じかな?」
「いえ---」
「火消しの法被(はっぴ)です。日本中の藩が定火消(じょうひけし)に着せているから、その量は莫大なものです。薬効の高い朝鮮人参も、出費の大きい貿易品です。だから、ここの殿は、それをこの国での栽培をお進めになった。この源内も、殿の世話になってばかりではこころ苦しい。鹿の皮に代わるものを発明すれば、いささかなりと、殿の悩みが薄らごうかと---」

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(町火消の重衣装・部分 『風俗画報』明治31年12月25日号)

紙鳶堂(しえんどう。そのように恩着せがせましく言わずとも、酒はふるまうぞ」
意次が、新しい酒を召使に催促した。

源内さま。火気をふせぐ鹿の皮を想い描いた、その次は?」
「そうであった、発明でしたな。想い描いたら、それにかかわりのありそうな文書をさがします」
「火浣布のばあいは?」
「かの国の、『述異記』という文書に記述がありましての。まあ、その内容は置くとして、そういったものを参考にしながら、いろいろと試していくのだが、もっとも肝心なのは、試したことをすべてこころ覚えに書き残すことです」

「こころ覚えを、書き残す?」
「そう。書き残していくことで、試しごとの順序が立つものです。やみくもに試していっても、万に一つはあたることもありましょうが、九千九百九十九はむだ弾です。人間、九千度(たび)試したところで寿命がつきるやも知れない」
「そうですか。発明の成る人と成らぬ人との違いは、試したことのこころ覚えを書き残すかどうかですか。きっと、こころに留め置きます」

銕三郎どの。火浣布の試作はできました。なれど、困難は、これからです。これを実際につくるのには、手当て金も要(い)りますし、大量に安く織るための織機も考案しないとなりませぬ」
「そう、安くじゃぞ、紙鳶堂。鹿の皮の半値でできないと、長崎での出金(しゅっきん)も減らぬし、国中にも弘まらぬ」

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(定火消役など提灯合印 『風俗画報』明治32年2月25日号)

しばらくして、意次宣雄に言った。
長谷川どの。何か、思案のつかぬことでもおありかな。この主殿(とのも)でできることかな?」
「恐れいります」
「遠慮は無用じゃ。言ってごらんなされ」
「じつは、阿波守さまのご用人どのとのご縁を探しております」
松平阿波どの?」
「手前どもの鉄砲洲の拝領屋敷は、阿波守さまの南八丁堀の中屋敷と接しております。それで、阿波守さまのいずれかのお下屋敷と相対で換えられないかとおもっておりまして、手ずるをと---」
「造作もないこと。在府の用人どのは、たしか、五島どのとか申された。よろしい、うちの用人・三浦庄司(しょうじ)に口をきかせましょう」
「かじけないことでございます」

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2008.02.28

南本所・三ッ目へ(6)

「南本所・三ッ目の下領地のお改めの件、私ごとにつき、お手やわらかにお願いいたします。本日は、咄嗟のお願いにもかかわらず、お聞きとどけいただき、かたじけのうございました」
平蔵宣雄(のぶお 46歳 小十人の5番手組頭 400石)は、神田橋門外で、目付・長崎半左衛門元亨(もととを 50歳 1800石)に挨拶をした。
長崎半左衛門は、自邸のある駿河台の方へ去っていった。
宣雄は、半左衛門の鶴のように細い長身の躰が見えなくなるまでその場に立ちつくして、見送った。
半左衛門は、自分の考えに沈みこんでいたのであろう、振り返らなかった。

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(神田橋門外から堀ぞいに竜閑橋へ 近江屋板)

(納戸町を訪ねてみるかな)
一瞬、その考えが浮かんだが、即座に、
(おれとしたことが、よほど、どうかしている---早まるでない)
打ち消した。
南本所・三ッ目の1200余坪の敷地が手に入ったとして、家が建つまでの仮住まいを、屋敷が広大な一門の叔父・長谷川讃岐守正誠(まさざね 69歳)に、前もって、頼み込こんでおこうとおもったのである。
そして、正誠が体調をくずして病床にあることを、つい、失念もしていた。

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(常盤橋門外から日本橋へ 近江屋板)

堀の北ぞいを、鎌倉河岸、竜閑橋(りゅうかんばし)、一石橋(いっこくばし)とすぎて、日本橋の手前で船宿をみつけたので、若侍・桑島友之助(とものすけ 30歳)に舟の手配をさせた。
めったにないことなので、供の挟み箱持ち繁造(しげぞう 38歳)が驚いた顔をした。
「お疲れになりましたか?」
「うむ。気疲れだな」

舟が日本橋川へ出ると、
桑島のおじじどのは、下野(しもつけ)・河内郡(かわちこおり)の桑島村の出とかいっていたな」
「はい。下桑島村と聞いております」
「村では、伯楽か馬医か、なにかだったかな?」
「いえ。畑百姓のニ男と聞いておりますが、それがなにか?」
「親戚に、牧場かなにかをやっていた家のことは、耳にしておらぬか?」
「一向に、存じませぬが---」
「そうか。それなら、それでいい」
(ふつうの島の字と、山のつく嶋との違いは、大きいのかもしれないな)

夕餉(ゆうげ)の時、銕三郎が報告をした。
「三ッ目から大手門まで、きょうのような曇りの日ですと、半刻(はんとき 1時間)ともう少々かかります」
「大儀であったな」
「父上。〔丸子(まりこ)彦兵衛は、信用してよろしいのでしょうか?」
「どういうことだ?」
「いえ。なんとなく---」
「なんとなく、で人を疑ってはならぬ。仮に疑わしいことがあっても、たしかな証(しる)しがあるまで、顔にも口にも出してはならぬ」
「はい。ただ、地券商売の場合、地券の持ち主ではない者と談合することがございましょうか?」
「そのような場を目にしたのか?」
「いえ」
「よいか。三ッ目の敷地のことは、以後、どこであっても、口にしてはならぬ。支障なく手に入るように、父が手をまわしている」


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2008.02.27

南本所・三ッ目へ(5)

父・平蔵宣雄(のぶお 46歳 小十人組頭)が、目付・長崎半左衛門元亨(もととを 50歳 1800石)に連絡(わたり)をつけた日、嫡男・銕三郎(てつさぶろう 19歳 家督後の平蔵宣以=小説の鬼平)は、黄鶴塾をおおっぴらに欠席して、南本所・三ッ目通りの1200余坪の土地を下見していた。

鉄砲洲・本湊町(現・中央区湊2-12)屋敷から掘割ぞいに北行、京橋川の河口に架かる稲荷橋をわたるとすぐに亀島川の高橋。
それから2万9000余坪もある松平越前守(福井藩 25万石)上屋敷にそって永代橋。
永代橋を渡って大川ぞいに佐賀町、新大橋、船蔵の南橋---〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛によく似た辻番人のいた番所までの行程は、先夜、本多采女(うねめ)紀品(のりただ)組の火盗改メの巡察で歩いた道。

【ちゅうすけ推薦】本多組に従って銕三郎が夜廻りにでたのは、2008年2月[銕三郎、初手柄] (1) (2) (3) (4)
永代橋から小名木川に架かる万年橋までの道順。ただし、下(しも)ノ橋から右折しないで、大川ぞいにまつすぐ万年橋へ。

ただ、暗い夜道と違い、昼間の深川・本所は庶民の生活の匂い---米飯や味噌汁の煮炊き、洗い張りの糊やおしめの匂いがたちこめている。
(うまく三ッ目に移転できると、父上は毎日、この匂いの中を登城・下城なさるわけだ。いや、家督すれば、おれだって、そういうことだ)。
銕三郎は苦笑した。
はからずも、10年後には、そうなった。

辻番所脇から、すとんと東へ。六間堀に架かる北ノ橋、さらに五間堀までは、深川らしい町屋つづきだが、伊予橋をわたると、その先は武家屋敷の密集と寺社ばかり。
(六間堀に架かる北ノ橋から、一つ小名木川寄りが猿子橋。土地の古老は「エテ公橋と呼んだらしい。 『鬼平犯科帳』ファンなら、文庫巻7[寒月六間堀]で、息子の敵討ちを助ける鬼平が、この橋のたもとで山下藤四郎を待ち伏せて仕留めさせる。
六間堀は、いま埋められてない。埋め立ては進駐軍の指示で、空襲の残骸をこの堀へ放りこんで行われた)

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(銕三郎の南本所・三ッ目の通りへの順路)

件(くだん)の辻番所からは、かれこれ半里(2km)ほども歩くと三ッ目通りである。
1200坪の敷地は、その角にあった。
その敷地だけに、仮小屋の店屋がならんで、たつきの品々を商っている。

ふつう、武家の妻女は買い物に店屋へは行かない。ほとんどはご用聞きにいいつけ、品物は出前してもらう。
だから、1200余坪にならんでいる店々も、店先に置いている商品の数は少ない。ご用聞きの詰め所のような形である。
もっとも、幕臣が敷地の一部を貸すときは、武家(ろうにん)か医者のほかは禁じられている。商人に貸すなどはもってのほかである。

宣雄が目付・長崎半左衛門元亨に相談し、半左衛門が、お目見え以下のご家人を監視する配下の小人(こびと)目付を桑島家へ行かせようと言ったのも、そこに仕掛けがある。
小人目付が、1200余坪の貸し先を糺(ただ)すだけで、桑島元太郎はふるえあがってしまう。
軽くて蟄居・閉門、重ければ遠島である。

(これは、解決が早そうだ)
敷地のぐるりをまわりながら、銕三郎でさえ、おもった。
もちろん、銕三郎は、父・宣雄が目付・長崎半左衛門に手をまわしていることなど、まったく知らない。

(さて、ここからのお城までの時間だが---)
そうおもいながら、敷地の西北角を三ッ目通りで出ようとした途端、左手、西南角に地券(ちけん)屋〔丸子(まりこ)彦兵衛が誰かと話しているのが目に入った。
瞬間、銕三郎は身を引いて、彦兵衛に見つかるのを避けていた。
なぜそうしたかは、銕三郎自身にも説明ができない。
反射的にそうしたほうがいいとおもったのである。

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(都営地下鉄・菊川駅の新しい銘板)


長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡
  住所 墨田区菊川三丁目十六番地二号

 長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。
平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三の橋通り菊川の千二百三十八坪の邸に移りました。ここは屋敷地の北西側にあたります。長谷川家は、家禄四百石で旗本でしたが、天明六年(一七八六)、かつて父もその職にあった役高(やくたか)一五〇〇石の御先手弓頭(おさきてゆみがしら)に昇進し、火附盗賊改役も兼務しました。火附盗賊改役のことは池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例二、三年のところを没するまでの八年間もその職にありました。
 また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職業訓練をもって社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。
 寛政七年(一七九五)、病を得てこの地に没し、孫の代で屋敷替えとなり、替って入居したのは、遠山左衛門尉景元です。通称は金四郎、時代劇でおなじみの江戸町奉行です。 遠山家も家禄六千五百三十石の旗本で、勘定奉行などを歴任し、天保十一年(一八四〇)北町奉行に就任しました。この屋敷は下屋敷として使用されました。
 屋敷地の南東側にあたる所(菊川三丁目十六番十三号)にも住居跡碑が建っています。
 平成十九年三月
                     墨田区教育委員会



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2008.02.26

南本所・三ッ目へ(4)

「下城をごいっしょ、願えましょうか?」
長谷川平蔵宣雄(のぶお 46歳 400石)は、顔なじみの表同朋頭・玄珍(げんちん 40歳 廩米200俵)にことづけた。
相手は、小十人の4番手組頭(くみがしら)から、いまは目付に任じられている長崎半左衛門元亨(もととを 50歳 1800石)である。4年前からいまの職へ移っているので、同僚だった時期は1年たらずであったが、対人関係には公平な仁であったので、宣雄としては、気がねなく付き合った。

【参考】小十人組頭当時の同職の名簿 2007年12月14日[宣雄、小十人頭の同僚](5)
2007年12月10日[宣雄、小十人頭の同僚
2007年5月30日[本多紀品と曲渕景漸]2007年5月31日[本多紀品と曲渕景漸](2)

小十人組頭から目付という栄進コースへ転じた、役職上の先輩だったのにはもう一人---曲渕勝次郎景漸(かげつぐ 45歳 1650石)もいるが、才気走り、上には慇懃(いんぎん)・丁重、下には意識的に無愛想なところが、宣雄の肌に合いかねた。
これから長崎半左衛門に話すようなことを曲渕へ話したら、それこそ、どんなふうに曲げてうけとられるか、知れたものではないとおもう。

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(小十人組頭から目付へ転じた2人 黄=曲渕景漸 緑=長崎元亨 『柳営補任』より)

玄珍が持ち帰った返事は、七ッ(午後4時)に、徒歩番所の前で待っていると。

中根伝左衛門正親(まさちか 75歳 書物奉行筆頭 廩米300俵)から、始祖が南本所・三ッ目に1200余坪を拝領している小普請組の桑嶋元太郎持古(もちもと 49歳 廩米200俵)のことを耳打ちされた翌日である。
五月雨(さみだれ)には、もうすこし間があったが、蒸す日和がつづいていた。

長崎半左衛門の屋敷は、駿河台---現在の千代田区神田駿河台1丁目、日大歯科病院のあたりにあった。

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(駿河台の長崎半左衛門元亨屋敷。子孫名。隣家は町奉行・根岸肥前守鎮衛の子孫。池波さん愛用・近江屋板)

大手門を出て大手濠(おおてぼり)ぞいに小川町へ向かいながら宣雄は、鶴のように細く長身の長崎半左衛門に、嫡子・市之丞元隆(もとたか 16歳)の病状を訊き、見舞いを述べた。
「気候の変わり目がよくないようでして---」
半座右門元亨の声は暗かった。
市之丞は、去年の春、将軍・家治にお目見(みえ)をすまして家督の資格をえたにもかかわらず、この春から体調がすぐれず、寝たり起きたりとの風評を耳にしていたのである。
父の齢に比して、市之丞の年齢が若いのは、半左衛門元亨の家つきの先妻が女子ばかり産んで病死、後妻がもうけた嫡子だからである。
不幸なことに、3歳下のニ男・寅之助元周(もとちか)も長く臥せっている。

神田橋門を出て、神田川を渡ったところで、長崎半左衛門が、供の者たちから離れて言った。
長谷川どの。お話はここで承りましょう。拙宅には病人が2人もおり、お招きできる仕儀ではありませぬ」
宣雄は、桑島家が他人に貸している南本所の厩(うまや)の跡と、湊町のいまの拝領屋敷との交換を考えていることを、手短に、正直に打ち明けた。

「分かりました。桑島元太郎---でしたか、その者のところへ、小人(こびと)目付でもやって、事情を調べさせましょう。小人目付を行かせるのは、4,5日のうちでよろしいかな? それとも、もうすこし後のほうが、そこもとの手順がととのいますかな?」
「4,5日のうちで、よろしいかと---」

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(目付・長崎半左衛門の個人譜。『寛政重修諸家譜』より)


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2008.02.25

南本所・三ッ目へ(3)

「小普請組に、桑嶋元太郎持古(もちもと 49歳 廩米200俵)というご仁がおられます」
書物奉行筆頭・中根伝左衛門正雅(まさちか 75歳 廩米300俵)のささやきによると、先祖が馬医として召された桑島姓の家は3家あるとのこと。
しかし、子孫で馬医として奉公しているのは1家にすぎず、それが、平蔵宣雄(のぶお)が知っている桑島新五右衛門忠真(ただざね 43歳 廩米100俵)である。

あとの2家は、番方(ばんかた 武官系)へ転じてしまっており、しかも1家は、不始末でもあったか、甲府勤番にまわされている。

もう1家が、桑嶋元太郎持古である。なぜか、勤仕はしていない。本所林町5丁目横町に住んでいて、先祖が厩用に拝領していた南本所・三ッ目通りの1200坪余の敷地の地代でけっこうな暮らしぶりだという。

「いや。手前は、『寛永譜』をのぞいただけですが、始祖の左近宗勝(むねかつ)という方から三代目までは、きちんとお馬医だったようです」

ちゅうすけ注】 『寛政譜』の前序は、出源をこう記している。
この家、旧記を失して先祖の出るところ詳(つまびらか)ならずという。
今、庶流鎰太郎宗英が家伝を按ずるに、その先、田原又太郎忠綱(官本系図・足利又太郎忠綱につくる)が後裔にして、陸奥国宮崎の寨(とりで)に住するがゆえに宮崎を称し、左近宗重がとき外家の称を冒して桑島にあらため、馬医をもって業とす。宗勝はその男なり。

陸奥国(むつのくに)津軽郡(つがるこおり)桑島村(257石余)は、現在は青森県中津軽郡西目屋村杉ヶ沢大字宮崎である。

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(陸奥国桑島出自の桑島家が幕臣となってからの『寛政譜』。上段右端の宗勝から三代が馬医)

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(始祖・宗勝と五代目・持古の個人譜)

「それだけの仔細をお漏らしいただけば、十分でございます。かたじけのうございます」
「いや、頼まれ甲斐があったというものです。ところで、銕三郎どのに、たまには、老人の話相手にお越しくだされと、お伝えのほど、お願いいたします」
「承知いたしました」

その夕べ、宣雄が地券(ちけん)屋の〔丸子(まりこ)彦兵衛を呼んだことはいうまでもない。
用人・松浦銕三郎(てつさぶろう 19歳 家督後の平蔵宣以=小説の鬼平)を同席させたうえで、中根書物奉行から聞いた桑島家の三ッ目の土地が手に入らないか、探索するように命じた。

〔丸子屋〕彦兵衛が退去してから、宣雄銕三郎に言った。
中根どのの非番を日を調べて、お訪ねするように。そのときには、お礼を届けてもらいたいから、事前に日時を教えること。それから、なるべく早く、南本所三ッ目菊川町の桑島家持ち分の1200余坪を見てくるように。できれば、その敷地からお城までに要する時間を実測してもらいたい。晴、雨、雪の日と、勘案してな」


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2008.02.24

南本所・三ッ目へ(2)

相良侯が羽目の間へお越しを---との仰せでございます」
茶坊主が躑躅(つつじ)の間へ、伝言を持ってきた。
相良侯とは、御側(おそば)・田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ 46歳 相良藩主 1万5000石)のことである。
城中での呼び出しとはただごとでない。
長谷川平蔵宣雄(のぶお 46歳)は緊張した。
この年の6月、改元があって、宝暦(ほうりゃく)14年(1764)が、明和元年となった。

宣雄が羽目の間へ行くと、襖が開かれ、阿部伊予守正右(まさすけ 40歳 備後国福山藩主 10万石)が出てくるところであった。
京都所司代から西丸老中に任じられていた。

ちゅうすけ補足】阿部伊予守正右については、2008年2月16日[本多采女紀品(ただのり)](5)
この日の阿部正右へのリンクもお読みのほどを。

目礼して、控えていると、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 50歳 先手・弓の16番手組頭 2000石)が茶坊主に先導されてやってきた。
茶坊主が揃ったことを室内へ通じると、呼び込まれた。

意次は笑顔で迎えて、
「なに。わざわざご足労いただくほどのことともなかったのだが、久しぶりに、お顔を見たくなりましてな」
言葉つきは相変わらず、柔らかくて、丁寧だ。
紙鳶堂(しえんどう 平賀源内 39歳)が、火浣布(かかんぶ)を発明したから披露したいといってきましてな。明後日の夕刻、木挽町(こびきちょう)の陋屋(ろうおく)のほうで、いっしょに、あやつめのうだを聞いてやるのはいかがかと---」
「参上させていただきます」

羽目の間を出たとき、書物奉行筆頭の中根伝左衛門正雅(まさちか 75歳 廩米300俵)が通りかかった。
「やあ、長谷川どの。ちょうど、よかった」
そういったので、本多紀品は、手で合図をして、詰めている躑躅の間へ戻っていった。

【ちゅうすけ付言】中根伝左衛門正親と長谷川家については、2007年10月16日[養女のすすめ](3) (4)

廊下の隅へ寄ると、中根正親は、
長谷川どのは、お馬医(うまい)のお家柄の桑嶋どのをご存じですか?」
「と申されると、桑嶋新五右衛門忠真(ただざね 43歳 廩米100俵)どののことでしょうか?」
「これは、失礼つかまつった」

中根書物奉行は改めて、清水門外(しみずもんそと)の野馬仕込み地をどう見るか、と訊いてきた。
「どう見るかとおっしゃられても---あっ」
「お察しになりましたか?」
「ようやくに---」

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(清水門外の野馬仕込み地と厩 板行・嘉永2年)

つまり、お馬方にかかわりのある旗本は、家禄が小さくても、広い敷地を下賜されている者がいるのではないかというのである。
もちろん、清水門外の野馬仕込み地や、その脇の厩(うまや)が手に入るわけではない。
考えどころのヒントである。

ちなみに、清水門外とくれば、『鬼平犯科帳』のファンは、すぐに火盗改メの役宅を連想するが、あれは小説での話で、池波さんも、火盗改メの役宅はお頭(かしら)の拝領屋敷ということは百も承知の上で、便宜上、清水門外の野馬仕込み地と厩のあいだの、幕府ご用地に仮設したのである。

参考に掲出したのは、池波さんがつねに開いては確かめていた近江屋板の清水門外である。「竹田伊豆守預かり」となっている。『柳営補任』によると、切絵図が板行された嘉永2年(1849)前後なら、竹田伊豆守忠吉(ただよし のち斯緩 本丸普請係 500石)だが、『寛政譜』記載の圏外なので確認できない。
ただ、野馬仕込み方は、馬術で仕えていた村松家の職掌であった。

「左様なのです。当初はお馬方、またはお馬医として召しかかえられたお家で、いまはその仕事をしていない旗本の中に、広い拝領屋敷を手放すことを考えている仁もいようということです」

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2008.02.23

南本所・三ッ目へ

「登城している留守に、地券(ちけん)屋の〔丸子(まりこ)彦兵衛が来たら、用人・松浦とともに、きちんと聞きおくように」
銕三郎(てつさぶろう 19歳 家督ののち平蔵宣以=小説の鬼平)が、父・宣雄(のぶお 46歳 小十人組頭)からこう申しつけられて5ヶ月経つが、宣雄が首を縦にふる話は、まだもたらされてきていない。
来たのは、帯に短し襷(たすき)に長し---の物件ばかりであった。

宣雄の条件は、敷地が1000坪以上で、江戸城まで徒歩半刻(はんとき 1時間)前後ですむところというのだから、〔丸子屋彦兵衛の、
「そんな美味しい話は、ご府内で10年に一つあれば、まさに、めっけものでございますよ。この商(あきな)いをはじめて、手前で七代目になりますが、これまで一度も手がけたことがございませんからねえ」
の言い分ではないが、たしかにむずかしい注文であった。
1000坪の敷地を持っている幕臣は、まず、家禄1500石以上3000石の家柄だから、お目見(めみえ)以上の旗本5200余家の中でも300家もない。

一方、彦兵衛が七代目と自慢しているのは、大権現・家康公の江戸入りを追っかけるように駿府から移って来て、地券屋として、幕臣の相対(あいたい)屋敷替えを主に手がけて200年近くを経ているためである。
幕臣の拝領屋敷で商売をつづけるには、駿府時代からの利権と、上層部への繋がりがものをいっている。
商いは、地価などない拝領地に町方だったらと仮の値段をつけ、交換する双方から5分(5パーセント)ずつの手数料をもらうこと成り立っている。

宣雄と〔丸子屋〕の先代との付き合いは14年前に、開府以来の赤坂築地の拝領屋敷(現・港区赤坂6-11)から、大川べりの築地のいまの屋敷へ移ったときから始まっている。

赤坂・氷川宮脇の陰気くさい屋敷を嫌ったのは、銕三郎を産んだ(たえ)で、銕三郎が5歳のとき、宣雄の正室・波津(はつ=小説の名)が病死した寛延3年(1750)に、移転を当主・宣雄に懇請。

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(赤○=赤坂築地時代のハセ川イ平邸 赤坂氷川宮の下)

田園育ちのの希望で、健康な潮風が吹く湊町・築地(現・中央区湊2^12)が選ばれた。

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(赤○=築地・湊町の長谷川邸 京橋から鉄砲洲にかけて)

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(上図の部分拡大 赤○=長谷川邸が松平阿波守の中屋敷にくいこんでいたので、蜂須賀家とすれば、その敷地を合わせる機会を狙っていた)。

宣雄が1000坪以上の敷地を断固として主張して、それ以下の物件に見向きもしないのは、小十人組頭時代の同僚で、いまは先手・弓の16番手の組頭として火盗改メの助役(すけやく)に任じられていた、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 50歳 2000石)の屋敷を施設を見たからだった。

白洲、仮牢、捕り物道具小屋などを案内してくれた本多組の与力が、
「一番の難題は、拷問小屋です。家族の者には悲鳴は聞かせたくはないでしょうが、お上からは見せしめのために、なるべく屋敷の外までとどくように、と申し渡されているのです」
と言ったのが、頭から消えないのである。

武家育ちではない妻同様のに、悲鳴は聞かせられないと、心に決めていたのである。
そのためには、これまで倹約に倹約を重ねて蓄えてきた、すべての金銭をあててもいいとまで考えている。

【ちゅうすけ・おすすめ】正室・波津の推理 2007年4月22日[寛政重修諸家譜](18)
実母・妙の推理 2007年4月18日[寛政重修諸家譜](14)

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2008.02.22

銕三郎(てつさぶろう) 初手柄(4)

_120_3幕府が大名屋敷や幕臣に通達している辻番所についての注意事項を見ると、昼夜ともに表戸を開けておくようにとのきまりのほかに、番人は4人から6人を詰めさせておくこととか、不寝番をかならず立てろとか、番人は60歳以下20歳以上の男性であることとか、番所に女や病人を入れてはならないとか、いろいろと細かく定めている。
現代の交番に近いのではなかろうか。(もっとも、犯罪人が警官に採用されることはないだろうが---)

銕三郎(てつさぶろう 18歳 家督後の平蔵宣以 のぶため)は、舟蔵の南端向いの辻番所で見かけた不審な番人のことを、こちらの行動がもうその男からは見えなくなったとおもわれる一ッ目の橋の南詰まで来てから、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 火盗改メ助役 すけやく)へ話した。
「お頭(かしら)」
それまでの「本多さま」から、組下の者のように呼びかけた。気分が高揚してきたのだ。

_360__4
(本多組の巡視順路 南本所 池波さん愛用の近江屋板)

「今夕、お屋敷でお話しした、江ノ島の旅籠で見かけた不審な男によく似た者が、先刻の辻番所にいました」
「表戸を開けた辻番人のことかな?」
「左様です」
「ふむ」
「生憎と、顔が陰になっていたので、しかとは確かめられませんでしたが---」
「名はなんといいましたかな?」
弥兵衛と---本名かどうかは定かではありませんが、あの時は、そう、名乗りました」

弥兵衛---とな」
それきり、本多紀品は口をきかなかった。
大手柄を立てたと勢いこんでいた銕三郎は、ちょっとがっかりであった。

【参考】舟蔵の東に沿ったこの道は、『鬼平犯科帳』文庫巻7[寒月六間堀]で、市口瀬兵衛の息子の敵(かたき)の山下藤九郎の駕籠が、御蔵前片町の料亭から一ッ目の橋を渡って籾蔵(もみぐら)の横道へ行った路筋である。

夜風がまだ冷たい両国橋を渡ると、
銕三郎どの。ご大儀でした。加藤同心に、お屋敷まで送らせます。羽織は、それまで着ていたほうが、辻番所や自身番所を通りやすいでしょう。加藤、頼んだぞ」
そういうと、さっさと一統を従えて西へ去った。

銕三郎は馬を下りて、同心・加藤半之丞と並んで歩きながら、弥兵衛に似た男のことを話してみた。
30代なかばとおもえる加藤同心は、えらのはった顔で、いちいちうなずきながら聞いてくれたが、
「お頭がすべてご存じなのですから、このあとのことは、お頭にまかせて、お忘れになることですな」
と、あっさり、かわされた。

2日後、下城してきた父・宣雄が、弥兵衛の件、本多どのの組の方々がお調べになったが、あの者は弥兵衛ではなく、ほかの辻番人の者たちの中にも疑わしい者はいなかった---と話した。

銕三郎は、その夜は大いにがっかりで、はやばやと寝についた。

事実は、そうではなかったのである。
あの者は、銕三郎が不審と思ったとおり、武蔵国多摩郡八王子在の鑓水(やりみず)村生まれの盗賊・〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛で、あの辻番所に3人の配下ともぐりこんでいたのである。

【参考】〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛との出会いは[与詩(よし)を迎えに](39)

辻番人の昼夜の務めはきついので、なり手が少ない。そこが賊たちのつけ目となっていた。

真相を告げなかったのは、ただでさえ捕り物に素質がありそうな銕三郎が、これに味をしめて、一層、このことにのめりこんでは、前途のある身を誤ると、本多紀品も父・宣雄も考えた末でのことであった。
火盗改メは、番方(ばんかた 武官系)の幕臣が一時的に任命される職務ではあるとしても、町方与力・同心のように一代かぎりが原則の身分のものがやる仕事に近いから、それを本業にしてはいけないし、仲間たちからも高くは評価されない---というのが、父親たちの結論であった。
銕三郎は、そのことは知らない。 

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2008.02.21

銕三郎(てつさぶろう) 初手柄(3)

万年橋の南詰の右手に、霊雲院という曹洞宗の名刹がある。将軍・吉宗による開基を得たという。。
『鬼平犯科帳』巻15長編[雲竜剣]で、この寺の前あたりで、うなぎ売りの屋台を出していたのが忠八。そのことを〔笹や〕のお鬼平に告げて、重要な手がかりとなった)。
もっとも、この時の銕三郎(てつさぶろう 18歳 のちの平蔵宣以)から30数年ものちの話だから、銕三郎は霊雲院の閉ざした山門を見てもなんの感慨もおぼえない。

【ちゅうすけ注】霊運院はいまはこの地にはない。戦災で東村山へ引っ越し、寺号を霊運院としたが、庵主が亡くなって、無住のようだ。ホームページ[『鬼平犯科帳』と彩色『江戸名所図会』]〔週間掲示板〕2005年1月1日をご覧ください。
なお、万年橋の北詰には正木稲荷が『剣客商売』の時代にもあった。秋山小兵衛は、おはるに漕がせた小舟を、この稲荷の前の茶店に預けるのがいつものやり方であった。

_360
(本多組の巡視順路 新大橋付近 近江屋板)

万年橋を渡り、幕府の籾蔵(もみぐら)の前から大川に架かっているのが新大橋。その北はずっと旗本の屋敷がつづく。
馬を並べている本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 2000石)が話しかけた。
銕三郎どの。今夜はあと、なにごとも起きそうにない。遅くなっては母ごが案じられよう。新大橋からお帰りになってはいかが?」
「えっ? あ、お願いでございます。両国橋までお供させていただくわけには参りませぬか?」
「当方は、一向にかまわぬ」
「若侍の桑島も従っております。母上はなにも心配してはおりませぬ」
「けなげなことよ、のう。銕三郎どのの意のままになされい」

事件は、その先の、舟蔵南端の向いの辻番所で起きた。
いや、起きたと言っては言いすぎかもしれない。
しかし、銕三郎が新大橋から帰っていたら、起きなかったはずである。

その辻番所は、舟蔵前の幕臣数軒が話し合って設けているものだが、火盗改メが巡行しているというのに、表の戸を閉め切っていたのだ。
本多組の小者が戸を叩いて、
「火盗改メ・加役(かやく 助役 すけやくの別称)・本多さまのご巡察である。戸をあけられよ」
中から、しぶしぶ、戸があけられた。
本多紀品が馬上から睨みつける。
40がらみの辻番人は、ようやく頭をさげた。

銕三郎は、本多組頭の左手にいたので、辻番人のほうは見ていなかったが、口取をしていた藤六(とうろく 45歳)が銕三郎の袴を引いて、声をださないで口を開閉した。
腰を折って近づけると、かすかな声で、
「若。辻番人をご覧なさいませ。江ノ島の宿で見かけた男に似ております」
「む。弥兵衛にか---」
藤六がうなずく。
銕三郎は、紀品の肩ごしにそっと見たが、辻番人は、番所の中の灯火を背にしているので、顔は暗くてよくわからない。
江ノ島では、本多紀品の名を公けにしているから、こちらの顔を見せてはいけないとおもったために、よけいに確かめられない。
(ま、確かめる手立てはいくらもあろう。ここは、そ知らぬ体(てい)でいたほうがよかろう)
藤六にも、そのように伝えた。

一行は、そのまま、一ッ目の橋へ向かう。

_120【ちゅうすけ注】武家屋敷の辻番所は、昼夜を問わず表の戸をあけておくこと、という触書(ふれがき)は、宝暦13年(1763)のこの時よりも100年も前の寛文10年(1670)から出ているし、その後もしばしば触れられている。もっとも近いのは4年後の明和4年(1767)の触れ。いくら禁止されても寒い季節には、深夜はやはり、表戸を立てたいのが人情というもの。
また、辻番人として無宿悪党がもぐりこんでいることがままあるから---という触れも出ている。手元にあるのは、安永7年(1778)の禁止令。
長谷川平蔵にからんだこの種の史実としては、2006年5月20日[過去は問わない]に公開している。

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銕三郎(てつさぶろう) 初手柄(2)

夜廻りの一行が千鳥橋を北へ渡ると、堀川町の自身番屋の町(ちょう)役人が、
「組頭(くみがしら)さま、はじめ、ご一統の皆さま。冷えます中のお見廻り、ご足労に存じます。お口よごしを用意いたしております。どうぞ、お休みになってくださいまし」
燗をした白酒の湯呑みをみんなに配った。

「これは、甘露」
「おお。躰が温まる」
「もう一杯、所望してもいいかな?」
同心も小者も、口々に礼をいっては、賞味している。

火盗改メ・助役(すけやく)のお頭・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳)も、下馬して湯呑みを手にした。
銕三郎(てつさぶろう 18歳)も、ならった。

本多さま。お訊きしてもよろしゅうございますか?」
「む?」
「火盗改メの本(定)役と、助役の巡廻区分は、どのようにきまっているのでしょう?」
「そのことか。はっきりした区分けは、まだ、決まってはおらぬ。本役・讃岐守どのの組の筆頭与力と、わが組の筆頭与力が合議して、おおまかに内定しているだけで、な」

ちゅうすけ注】松平太郎さん『江戸時代制度の研究』 (1) にある---



日本橋以北・以南に分けて巡邏地域の分担を定めた。

以北---神田、浜町、矢の倉、浅草、下谷、本郷、駒込、巣鴨、大塚、雑司ヶ谷、大久保とその近辺は本役の組の担当。

以南---通町筋、八丁堀、鉄砲洲、築地、芝、三田、目黒、麻布、赤坂、青山、渋谷、麹町、深川、本所、番町とその近辺は助役の組の担当。

神田橋外、一ツ橋外、昌平橋外、上野、桜田用屋敷、書替所、御厩2カ所と溜池などの定火消屋敷のあるところは定火消にまかせることとなった。


---は、この夜の巡回から2年後の安永2年11月。火盗改メの本役・横田越前守忠晶(ただあきら 37歳 先手・弓の2番手組頭 1400石)と、助役・庄田小左衛門安久(やすひさ 41歳 先手・弓の3番手組頭 2600石)が検討の上の結論を公儀へ上申、了解を取り付けたものである。

ちなみに、横田忠晶の先手・弓の第2組は、その15年後に、長谷川平蔵宣以=小説の鬼平が組頭に着任、あしかけ8年、火盗改メとして功績をあげた組である。

「さて、人ごこちがついたところで、あと一ト奮張りだ」
与力が声をかけた。

_360_2
(本多組の深川巡行の順路は点々。池波さん愛用の近江屋板)

一行は、横油堀にそった岸道を、西永代町、今川町と過ぎ、仙台堀に突きあたり、向こう岸に黒々と静まっている仙台藩の蔵屋敷を見ながら左折した。
堀の水面(みずも)に、中天の半欠けの月が映ってゆれている。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻1[唖の十蔵]で、小野十蔵が生まれて初めてこころと躰を通じあわせたおんな---おふさが〔野槌(のづち)〕の弥平一味に殺され、浮かんでいたのがこの堀である。

西行する。仙台堀の川口が大川へつながったところに架かっているのが、上(かみ)ノ橋。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻6[のっそり医者]の萩原宗順が、襲われて、この橋の欄干を越えて大川へ逃(のが)れた。

上ノ橋を過ぎ、仙台藩の蔵屋敷の黒門を右にみながらさらに北へ行くと、清住町。ここに店を構えている藍玉問屋・〔大坂屋新助方の借家を借りていて病み、試合敵(がたき)の剣客・石坂(いしざか)太四郎に斬殺されたのが、同心・沢田小平次の剣の師・松尾喜兵衛先生であることを、この夜の巡視に供をした銕三郎は、予想していたかどうか。

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2008.02.20

銕三郎(てつさぶろう)、初手柄

出かける銕三郎(てつさぶろう 18歳 家督後の平蔵宣以 のぶため)と若侍・桑島友之助(とものすけ 30歳)に、母の(たえ 38歳)が、
「まだまだ、夜が更(ふ)けると寒さがきびしくなろうほどに---」
と、綿を薄く入れて刺し子をした袖なし半纏(はんてん)のようなものを着物の下にまとわせた。

銕三郎は左藤巴の家紋をつけた陣笠をかぶり、野袴すがたで乗馬した。口取りは、下僕・藤六(とうろく 45歳)である。

指定された永代橋東詰までは、築地の長谷川邸から8丁ばかりで、小半刻(30分)の半分もかからない。

橋の東詰・佐賀町には、本多組の羽織を着た同心と小者が待っていて、挨拶した。
加藤半之丞(はんのじょう)です。ご足労です」
「長谷川銕三郎です。これは、わが家の若侍・桑島です。よろしくお引きまわしのほど、お願い申します」

組頭が火盗改メに任命されると、組頭は組下全員に揃い柄を染めた羽織を支給する。
今夜のような公式の巡回には、それを着るしきたりになっている。
ふだんの密行のばあいは、着流しである。

_100待つ間もなく、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 火盗改メ助役 2000石)が、与力(騎乗)1騎、徒歩の同心5名と、それぞれに丸の内左離立葵(ひだりばなれ・たちあおい)の本多家の家紋を描いた高張提灯を持った小者数人を従えて現われた。
(テレビの『鬼平犯科帳』で「火盗」と書いているのは、テレビ用である。史実は、組頭の表の家紋を描いている)。
_100_3本多一門の家紋は、右離立葵(みぎばなれ・たちあおい)で、茎の右側が縦に割れているのだが、本多紀品のところだけが異をとなえ、縦線は左側に入っている。

銕三郎どの。やはり、参られましたな。お待たせしたかな?」
「いいえ。お誘い、ありがとうございました。しっかり見習わせていただきます」
「だれか、本多組の羽織を長谷川どのに---」

「では、巡廻に出発いたすとしようか」
2騎は、並んで、佐賀町を大川ぞいに北行、油堀川に架かる下(しも)ノ橋の手前を右折、千鳥橋へ向かう。

_360
深川・北本所の見回りコース(1)

『鬼平犯科帳』巻5[深川・千鳥橋]で、三代目〔鈴鹿(すずか〕の弥平次に騙されてあやうく殺されそうになった〔間取り(まどり)〕の万蔵を、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵との約束を守って、鬼平が放免し、五郎蔵が号泣して鬼平に信服するのが、この橋ぎわであることは、ファンなら百もご承知)。

四ッ(午後10時)近いにもかかわらず、火盗改メから事前にお頭の巡行が告げられているのであろう、それぞれの町ごとの自身番所では、町名を記した腰高障子の前で、町(ちょう)役人と書役(しょやく)が迎えて、ふかぶかとお辞儀をする。
「ご苦労」
本多紀品が声をかけ、同心のひとりが、
「変わりはないな」
「はい。変わりはございません」

どこの自身番所でも、儀式のように繰り返される。
(これでは、見廻りもなにもあったものではないな)
銕三郎は、張り詰めていた気合いが薄らぐ思いであった。

それを察したかのように、本多紀品が言う。
「馬鹿々々しい儀式とお思いであろうが、こうすることで、町役人たちの気が引き締まるとともに、町内の自警の気構えも違ってくるのですよ」

与力が、躰を傾けた紀品へ耳打ちする。
「このあたりは、商家の倉が多いゆえ、盗賊たちが狙うのだと。ほかにも、堀の名にもなっているように、舟行きを便利している油問屋が多く、裕福でもある」
「油も狙われるのですか?」
「毎日の生活(たつき)に欠かせない品だが、米ほど重くはなくて、いい値で換金できるために、舟でしかけてくる」
「なるほど。盗賊たちの猟場というわけですね」
銕三郎は、いちいち、納得がいった。
(これは、仕置(しおき 政事 まつりごと)の勉強にもなる)


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2008.02.19

本多采女紀品(のりただ)(8)

「いたく、心得になりました。ありがとうございました」
式台のところで、父・宣雄(のぶお 45歳)が謝辞を述べる。
屋敷の主・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 2000石)は、
「それはともかく、近く、芝ニ葉町のご隠居を慰問しましょうぞ」
「けっこうですな」
ご隠居とは、駿州・益津(ますづ)郡田中藩の前藩主・本多伯耆(ほうき)守正珍(ただよし 55歳)のことである。4年前に老中を罷免され、そのまま隠居している。

銕三郎(てつさぶろう)どの。今宵の巡視は深川から北本所だが、見習いがてら相伴(しょうばん)してみないかな?」
父をうかがうと、かすかに肯首があった。
「はい。喜んでお供いたします」
「では、四ッ(午後10時)少々前に、永代橋の東詰で待たれよ。馬でよろしい」

帰り道、人気がまったく絶(た)えている桜田濠端(ほりばた)で、先導している若侍・桑島友之助(とものすけ 30歳)が言った。
「若。今夜の見廻り、友之助がお供いたします」
「父上。よろしいのですか?」
「明日も非番ゆえ、登城はない。心配無用」

「それにしても、本多さまのお屋敷は、番町の番方々の中でも、一段と広いですね。納戸町の正脩(まさなり)叔父の屋敷とどっちがどっちというほど---」
「これ、銕(てつ)。屋敷の広さのこと、家禄の高低のこと、刀剣の優劣のことは、こちらから先に口にしてはならぬ」
「しかし、父上。わが家に火盗改メのご下命がありました場合---」
「よせ。まだ、先手の組頭(くみがしら)も拝命しておらぬ。火盗考察の任は、先手の組頭に下される」
宣雄が先手組頭の栄進したのは、この時から2年後の、明和2年(1765)、47歳の時)。
納戸町の正脩とは、長谷川一門の中では、本家の1450余石を大きく上回る4070余石を給されている最も近い親戚筋、2家の一つである。

「本多紀品さまはご養子だそうですが、ご実家は、信州・飯山藩(2万5000石)のご家中とか」
桑島。どこから、そのようなことを---?」
「お待ち申しています間に、さき様の用人どのから、聞きました。用人どのは35年前に、ご実家から、当時14歳だった紀品さまについて本多家へお入りになり、先の用人に不祥事があったために昇格になったとか」
「これ、よそ様の内情を、めったなことで口にしてはならぬ」

これ以後、帰宅するまでも宣雄は、深い考えに没入してしまった。
屋敷の広さを思案していたのだろうか。

ところで、宣雄に口どめされてしまったのでは、話がすすまない。
代わって、ちゅうすけが記すよりほかなさそうだ。

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(本多采女紀品の個人譜)

本多采女紀品は、個人譜にあるとおり、信濃国飯山藩主・本多豊後守助盈(すけみつ)の家臣・本多弥五兵衛紀武(のりたけ)の子息である。
家臣といっても、藩主の一族で、江戸詰の重職---留守居役あたりであったことは、母の項を見るとわかる。
母なる女(ひと)は、石見国鹿足(かのあし)郡津和野藩主・亀井隠岐守矩貞(のりさだ 4万石)の家臣・阿曾沼五郎右衛門亮正(すけまさ)のむすめとある。
飯山藩士と津和野藩士が嫁のやりとりをするとなると、江戸詰か京詰の留守居役同士と考えるのが自然であろう。情報交換と称して、藩につけて、しばしば飲食を共にできる。
しかも、父・本多弥五兵衛紀武には、藩主の名に多い「」の字がふられている。一族か、それに近い家臣との想像がつく。

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(本多紀品から50年ほど後の『文化武鑑』の飯山藩主)

時代は違うが、手元の『文化武鑑』(柏書房 1981.9.25)で飯山藩の20人の要職のリストを改めると、うち8人が藩主と同じ本多姓である。こんな高比率の藩はきわめて稀である。

機会があったら、飯山市の教育委員会か郷土史家の方に問い合わせて、本多弥五兵衛紀武の藩での地位をご教示願おうと考えているのだが。
飯山市の鬼平ファンの方のご教示だと、もっと嬉しい。

【付記】区図書館に、『大武鑑l』があったので、もっとも近い享保3年(1718)を見た。この年、本多紀品は4歳。

飯山藩の重職に、本多弥五右衛門の名は、やっぱり、あった!

L_360
(飯山藩にいた本多弥五兵衛 『大武鑑l』享保3年分)

津和野藩の重職欄に、阿曾沼五郎右衛門の名はなかった。この人の江戸留守居については再考の余地がありそうである。

L_350
(津和野藩 『大武鑑l』享保3年分)

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2008.02.18

本多采女紀品(のりただ)(7)

「夜のご巡視を控えておられますのに、ご厚意に甘えて、とんだ長居をいたしました」
先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭(くみがしら)・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳)の書院で、長谷川平蔵宣雄(のぶお 45歳)が言った。
もちろん、小十人の組頭時代は先輩後輩の仲だし、気があった者同士だから、言葉ほどには恐縮してはいない。
季節は、宝暦(ほうりゃく)13年(1763)2月下旬。桜花もそろそろ終わるころあい。

「なに、夜廻りは五ッ半(午後9時)からでござる。それより、長谷川どのもいずれ、火盗改メを仰せつけられよう。この機会に、白洲や仮牢など、ご覧になっておかれますかな?」
先刻から、当直の与力・同心たちが、客を気にしいしい、打ち合わせのために、本多紀品のところへ出入りしているのを、宣雄の息・銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため 18歳)が興味津々の体(てい)で見ているのを察して、すすめた。
案の条、父・宣雄よりも先に、銕三郎が応じる。
本多さま。ぜひぜひ---」

紀品は、そんな銕三郎を微笑みの目で見やりながら、与力の一人を呼んで、案内をするようにいいつけた。

「こちらが白洲です」
内庭にしつらえられた、幅1間半(2m70cm)、長さ2間半(4m50cm)ほど、平らな三和土(たたき)になっている。
「白砂が撒かれているのかと思っておりました」
銕三郎
「三和土の時に混ぜる石灰が白いので、白洲というのでしょうか。火盗改メの白洲の大きさはこの程度ですが、町方(まちかた)の奉行所の白洲は、この3倍ほどもあります。われわれ火盗改メは、なにごとにつけても仮ですから---」
案内してくれている30がらみの背の高い与力の説明には、いささかも自嘲の口ぶりはない。
火盗改メの役宅の設備が、万事、小規模なところを、世間が称して、「町奉行は桧舞台、火盗はおででこ芝居」と揶揄(やゆ)していた。

「おででこ芝居」とは、神社などに仮がけの小屋をつくってやる旅廻りの芝居である。
そう書いたのは、江戸の諸事に詳しかった三田村鳶魚(えんぎょ)翁である。

池波さんは『鬼平犯科帳』で、それを「町奉行は桧舞台、盗賊改メは乞食芝居」と改めた。
いまの読者にはこのほうが理解しやすい、と判断したのだろう(文庫巻1[唖の十蔵]p13 新装版p13)。

(ぼくは、このことから、池波さんが三田村翁捕物の話』(早稲田大学出版部 昭和9年 のち中公文庫)から、長谷川平蔵を見つけたなと推察をつけた。

そうそう、『鬼平犯科帳』の、清水門外の役宅は、池波さんも、お頭の屋敷が役宅ということは承知の上で仮りにしつらえたもの)。

「白洲の向こうの塀の外に、証(あか)し人や町(ちょう)役人、身許引き受けの大家(おおや)などが控える腰掛が設けられています」

「これが仮牢です」
「2小間でたりるのでございますか?」
興味津々の銕三郎の問いである。
「ここには長くは置かないのです。2,3日で伝馬町の牢へ預けます。吟味の時に伝馬町からここへ連れてきます」
「伝馬町から、この番町まででございますか?」
「そうです。牢へ入れている者の食事の代(しろ)は、お上からは出ないで、お頭の懐から出るのです。ここへ永く入牢させておくと、それだけお頭の負担が増します。また、入牢者が多いと、牢番も増やさなければなりませぬ。牢番の手当てもお上はみてはくださらないのです」

「ここが、捕り物に使う刺股(さすまた)や分銅つきの投げ縄などを置いている武具小屋です」
「火盗改メのお役目が解かれたあと、これらの武具はどうなさるのでしょう?」
と、宣雄
「次にお役におつきになる組へお譲りします。これらも前任の組から譲られたものです、仮牢も組み立て式になっているために移設が可能なのです」

「順繰りにまわしていけるのはいいですな。で、一式、いかほどでしょう?」
「お人とお人の相対(あいたい)で決まるようです。手前は勘定方でないので立ち会ってはおりませぬすが、うちのお頭の場合は300両前後だったような、噂です」
「300両---」
「火盗改メしか使い道がないものなのに---です。このほか、白洲や内庭の塀、腰掛の仕切りなどは移転できませぬから、別に費用がかかります。さらに、うちのお頭のように、1300坪もの屋敷を拝領されていれば、どんな造作もこなせますが、500坪ほどの敷地のお方は、武具小屋などは、隣の屋敷の裏庭の一部をお借りになるようで、そのお礼もばかにならないと聞いております」

「500坪では---無理ですか」
いまは、500坪にちょっと足りない屋敷に住んでいる宣雄の溜息である。
「一番の難題は、拷問小屋です。家族の者には悲鳴は聞かせたくはないでしょうが、お上からは見せしめのために、なるべく屋敷の外までとどくように、と申し渡されているのです」

参考】2006年6月12日[現代語訳・松平太郎著『江戸時代制度の研究』火附盗賊改 (1) (2) (3)

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2008.02.17

本多采女紀品(のりただ)(6)

「本多さま。じつは---」
と、銕三郎(てつさぶろう宣以(のぶため 家督後の平蔵=小説の鬼平)は、江ノ島の旅籠〔三崎屋〕の大部屋での朝飯のときに、すり寄ってきて、弥兵衛と名のった、一と癖もニた癖もありげな男のことを打ちあけた。

「齢は40がらみで、でっぷりと肥えて、脂ぎった赤らがお。鼻のあたまがとりわけ赤黒く、大きな黒い毛穴が目立ちました。左の眉毛の先が剃刀ででもそいだように切れておりました。声が齢の割りにしてはかん高いのが耳ざわりでした。背丈は5尺2寸(1m56cm)見当---といったところでしょうか」
「通り名かなにか、言わなかったかな?」
「申しわけございません。名のりかけたのを、拙が遮ってしまいました。聞くとかかわりができそうに思いましたもので---」

聞き取った本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳)は、先手・鉄砲(つつ)の16番手組頭で、火盗改メの助役(すけやく)を拝命している。
銕三郎どののせっかくの人相こころ覚えだが、じつは、火盗改メが人相書をつくって残しておくのは、火付けの上に盗みをした盗賊ぐらいでな。もちろん、組にもよろうが---」
そういって本多紀品は、いま、火盗改メに任じられている3組の先手組の人員を明かしてくれた。

本役 本多讃岐守忠昌 屋敷・牛込山伏町
 先手・弓の8番手 与力10人・同心30人
    組屋敷 市ヶ谷本村町
【参考】個人譜は、2008年2月12日[本多采女紀品](4)

助役 本多采女正品 屋敷・表六番町  
 先手・鉄砲の16番手 与力10人・同心50人
    組屋敷 小日向切支丹屋敷
【参考】個人譜は、2008年1月23日[与詩を迎えに](33)

増役 篠山靱負佐忠省 屋敷・神田橋門外
 先手・弓の5番手 与力5人・同心30人
    組屋敷 四谷本村町
【参考】個人譜は、2008年2月11日[本多采女紀品](3)

_360_5
(四谷門外 先手・弓 緑○=5番手 青○=8番手組屋敷)

_360_6
(小日向 先手・鉄砲 赤○=16番手組屋敷 両地図とも尾張屋板)

先手組の構成員は、基本は与力10人、同心30人だが、組によって増減がある。
組頭は、小十人組の頭(かしら)、徒(かち)の頭、目付、使番、書院番や小姓組の与(組 くみ)頭などから指名される。
弓組10組。
鉄砲組20組。
西丸鉄砲組4組---幕府後半期の構成である。
この頭(かしら)の中から、火付盗賊考察---通称・火盗改メが選ばれる。
年間を通しての本(定)役の場合は、申請すれば同心の臨時補充もあるが、短期の助役(すけやく)や増役(ましやく)には、それはない。
助役は秋に任命され、晩春に解かれる。冬場に多い火事対策である。
増役は、適宜、

組の全員が火付けや盗賊の逮捕に当たるわけではない。、
若年寄への報告書や町奉行所への写しなどの書類仕事にほとんどの手をとられていて、捜査・逮捕に向けられる人員は、定員の3割ほど。
それでいて、24時間体制だから、とにかく忙しい。
人相こころ覚えなど、どの組もほとんどつくっていないのではなかろうか。

「ま、町奉行所へとどけた写しを、運がよければ、あちらで保管しているやもしれないが---」
本多紀品が気の毒そうにいうと、父・平蔵宣雄が引きとって、
「その、弥兵衛とやら---疑わしいだけで、盗賊という確かな証(あか)しがあるわけではないのだから、お忙しい本多さまのお手をわずらせしてはならない」
そう、銕三郎に釘をさした。

【ちゃうすけ注:】火盗改メは、頭(かしら)の自宅が役宅となる。それで、3人の頭の屋敷を書き添えておいた。
役宅に備えられる白洲、仮牢や捕物具の置き場所なとについては、また改めて。
 
     

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2008.02.16

本多采女紀品(のりただ)(5)

「そこでじゃ、銕三郎(てつさぶろう 家督後の平蔵宣以 のぶため=小説の鬼平)どのが先刻に話した、小田原城下の、薬舗---ほれ、なんとかいいましたな---」
「〔ういろう〕です。外郎とかいう、唐土の官職だそうで---」

先手・鉄砲(つつ)の16番手の頭(かしら)・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 2000石)の、番町・表六番丁の屋敷である。
銕三郎は、父・平蔵宣雄(のぶお 45歳 小十人組の頭)に連れられて訪問している。

というのも、東海道・平塚の宿はずれ、馬入(ばにゅう)の顔役に、つい、火盗改メ・本多紀品の相談役と大見得をきってしまったので、その無断詐称(さしょう)の謝罪にうかがっているのである。

「その薬舗〔ういろう〕の盗難にかかわりがありそうな、京の---」
「〔荒神(こうじん)〕の助太郎です」
「そう、その者のこと、京都町奉行所へ連絡(つな)いで、更(あらた)めさせるとして、はて、荒神口は、東と西のどちらの支配か?」
京都町奉行所は、東と西の2ヶ所ある(このときから8年後に、宣雄が赴任するのは、西町奉行としてである)。

このとき(宝暦13年 1763)の東町奉行は、小林伊予守春郷(はるさと 67歳 在職10年 400石。ただし京都町奉行の役高=1500石)。
西町奉行は、松前隼人順広(としひろ 36歳 在職7年 1500石)。

本多紀品は、行ったこともない京都の地図を、なんとか描こうと考えこんでしまった。
「うーむ」

宣雄が助け船を出した。
本多どの。所司代へ申されて、どちらへ申しつけるか、お任せになっては?」
「よいところへお気がつかれた。いまの所司代は、阿部伊予守正右(まさすけ 39歳 備後・福山藩主 10万石)侯でしたな」
「はい。3年前から---」

【参考】阿部伊予守正右については、2007年8月12日[徳川将軍政治権力の研究] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)   (11)
(阿部伊予守正右の個人譜は、上の(5) )

京都所司代は、譜代の大名が、奏者番(そうじゃばん)、寺社奉行を経て就く、若年寄なり老中へ手がとどく要職である。
本多紀品とすれば、その所司代へ書簡を送ることにより、名前が覚えてもらえるという利点がある。

銕三郎は、自分の発見が、こうして本多紀品の出世の手がかりの一つと化していくのを、目(ま)のあたりにして、さきざきの勤仕の要諦をかいま見た思いにとらわれた。

「本多さま。それで、小田原藩のほうは、いかがなりましょう?」
「おお、それもあったな。どうであろう、小田原侯の大久保大蔵大輔忠興(ただおき 51歳 11万3000石)侯の町奉行へは、大久保よしみで、笹本靱負佐(かなえのすけ)忠省(ただみ)どのから連絡(つなぐ)ということにいたしては? この案でいかが? 長谷川どの?」
「よろしいでしょう。では、笹本どのへは、本多どのから---」
「いや。これは、銕三郎どのお手柄ゆえ、銕三郎どののところへ、笹本どのの組(先手・弓の5番手)の与力なり、同心筆頭がうかがうように、申しつたえます。よろしいな、銕三郎どの?」
「はい」

銕三郎は、また一つ、学んだ。手柄は、手柄を立てた者につけてやることを。
もっとも、一番おいしいところは、本多紀品が巧みにくわえてしまったが。

【参考】笹本靱負佐忠省の大久保家つながりの詳細は、200年2月11日[本多采女紀品(のりただ)](3)

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2008.02.15

ちゅうすけのひとり言(8)

紀伊藩主・吉宗(よしむね 33歳)が将軍職を継いだとき、従って江戸城へ入り、ご家人の身分を得、その後、しかるべき家禄を付された藩士たちの、あれこれを調べている。
というのも、田沼意次(おきつぐ)がらみであることは、2008年2月13日[ちゅうすけのひとり言]で述べた。

4歳で七代将軍職についた家継(いえつぐ 8歳)は、正徳6年(1716)の4月のなかばから病床にあった。

4年前の正徳2年(1712)10月、自分の死を悟った前将軍・家宣(いえのぶ 51歳)は、3家の当主---尾張の吉通(よしみち 24歳)、紀伊の吉宗(29歳)、水戸の綱条(つなえだ 57歳)に、家継の後見をくれぐれも頼んでいた。

正徳6年4月30日。吉宗が紀州藩の中屋敷(現・赤坂迎賓館)で弓を射ていると、江戸城から急ぎの呼び出しがかかった。
登城してほどなく、家継の喪がつげられ、天英院(落飾した家宣夫人・近衛家出)から、将軍職を継ぐようにとの要請を受けた。
吉宗は、家格からいえば尾張の現当主・継友(つぐとも 25歳 故・吉道の弟)、年配なら綱条(61歳)と再三辞退したと、『徳川実紀』の有徳院(吉宗)付録は記している。
三顧の礼---逆にいうと、二度固辞してから受けるところがいかにも日本的といえる。
(三顧の礼をつくすとは、劉玄徳がその住まいに三度通って諸葛亮孔明を慫慂した故事による)
天英院は退(ひ)かず、「天下万民のため」と、口説いた。ついに吉宗は承諾したとある。
『実紀』はさらに言う。吉宗は、夕刻、そのまま、供奉(ぐぶ)の藩士たちとともにニの丸へ入り、ふたたび藩邸へ戻ることはなかったと。

そのことを記した『実記』の文章は、興味深い。

(家継が死去し)尾張・水戸の両殿は退出したのに、紀伊殿はとどまられると告げられ、控え室で待っていた供の者たちは拝伏して聞いたが、理由がわからない。おのおの、不審顔を見合わせるのみ。
やがて、また出てきた目付の者が「紀伊殿の乗り物、長刀、などすべての調度をこちらへお渡しあれ」と言ったが、紀州の藩士たちは、理由を説明されないので従わなかった。
そこへ、お供をしてきていた小姓・内藤一郎大夫が奥から出てきて、「殿の仰せである。速やかに本城の方々へ渡せ」と声高に言ったので、ようやくそれに従った。
そうしているうちに、日も暮れてきたので、灯火に導かれてみな本城へ上り、厨前をふるまわれた。
吉宗がニの丸へ入るというので、こんどは、輿を玄関へ乗りいれ、本城の役人たちの先導でニの丸へ向かった。
その夜は、供の者たち全員が吉宗を護衛して夜をあかした。
次の日になって、有章院(家継)殿が薨じられたので、公を上様と称し奉るようにと触れがでた。

深井雅海さん『江戸城御庭番』(中公新書 1992.4.25)は、こう書いている。

○正徳六年四月晦日----七代将軍家継死去。吉宗、家宣の遺命により、江戸城ニの丸に入る。紀州藩年寄小笠原主膳胤次(たねつぐ 60歳)・御用役兼番頭有馬四郎右衛門氏倫(うじのり 48歳)・同加納角兵衛久通(ひさみち 32歳)をはじめ紀州藩士九十六名が供奉する。

参考】有馬四郎右衛門氏倫の個人譜 2007年8月18日[徳川将軍政治権力の研究](4)

上記の、氏名が記されていない93名の中に田沼意次(おきつぐ)の父・専右衛門意行(もとゆき)が入っていたかどうかは不明だが、『寛政譜』はこう書いている。

有徳院(吉宗)殿に仕へたてまつり、享保元年(正徳6年 1716 が改元)本城にいらせたまふのとき御供の列にありて御家人に加へられ---

どちらともとれる文章ではある。

この重役3人にしても、供奉した93人にしても、たまたま江戸詰だったために幕臣になりえたともいえるが、子孫にとってみれば、幕臣になって江戸に根づき、故郷を失ったことがよかったかどうか。運なんてものは、長い目でみると、どうとも決着しかねる。
長谷川平蔵の子孫の行方がいまだに不詳なのも、人生の不可思議な様相といえるかなぁ)。

吉宗の親衛隊ともなる紀州藩からのあとの選抜は、小笠原有馬加納の3重役で行われたと推量されている。
このほか、吉宗の長子・長福(のちの将軍・家重)が西丸へ入った8月4日に従った紀伊藩士42名もご家人となった。
享保3年(1718)5月1日。吉宗の生母・浄円院が和歌山から江戸城西丸へ移ったときに供奉してきた藩士23名も幕臣として遇されている(『江戸城御庭番』)。

小笠原有馬加納の3名は、吉宗の御側となるが、小笠原胤次は2年後に62歳で卒したので家禄は4500石どまり。有馬加納は御側用人の格である1万石の小大名となった。

_360
(加納角兵衛久通の個人譜)

_360_2
(小笠原主膳胤次の個人譜)

ちなみに、小笠原胤次は、礼法の小笠原家の出とはいえない。
その祖は、信濃国の小笠原修理大夫貞朝(さだとも)の長男・長高として生まれたが、次男を生んだ側妾がわが子を継嗣にするべく讒言をしたため、信濃を出て尾張国で織田家つながりの武衛家を頼り、のち三河へ行って吉良家に寓居。のち今川氏親に属し、遠江国浅羽庄(現・袋井市)を領し、馬伏(まぶし)城主となる。

*馬伏城から、池波さんは、 『鬼平犯科帳』文庫巻11[穴]の、いまは京扇店〔平野屋〕の番頭・茂兵衛こと元盗賊の首領・〔帯川〕の源助の右腕の〔馬伏〕の茂兵衛の呼び名をえている。

今川の滅亡後、子孫は徳川に従い、頼宣(よりのり)につけられて紀州藩士となった。
胤次は、家柄と才能と人柄で、吉宗の御用役(総務部長)をつとめていたのであろう。


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2008.02.14

ちゅうすけのひとり言(7)

長谷川家を調べていて、田沼意次(おきつぐ)とのかかわりあいに視線がむいた最初は、平蔵宣以(のぶため 小説の鬼平)についての、『よしの冊子(ぞうし)』2007年9月5日(4)の、天明8年(1788)11月6日火事の項を読んだ時である。
読んだ直後は、平蔵の老中・田沼意次へのごますりと断じていた。

しかし、史料をいろいろあたっていくうちに、両家の関係は、もっと深そうだと思えてきた。
その1.は、平蔵宣以の先手組頭への抜擢が、ふつう以上に速かったこと。徒(かち)の頭(かしら)を1年半ほどですましている。

2.は、父・平蔵宣雄(のぶお)の書院番士からの小十人頭への昇進である。
長谷川家は、両番(小姓組番と書院番士)の家柄とはいえ、宣雄までの人たちはすべて、ヒラ番士のまま終わっていた。それが、宣雄の代になって、とつぜんの頭への抜擢である。
その裏に、なにかある---と思案しているうちに、宝暦9年(1758)における、老中・本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主)がらみの、郡上八幡藩の公事(くじ)事件の裁定を指揮したのが、側御用取次・田沼意次とわかり、深入りすることになった。

【参考】2007年8月12日[徳川将軍政治権力の研究] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)   (11)

記したように、本多伯耆守正珍は、駿州・益津郡(ますづこおり)田中城主である。今川時代末期の城主は、長谷川紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)といい、平蔵たちの祖であった。
そうした因縁から、宣雄は、本多正珍にも面識があったろうと推定した。

田沼意次は、本多正珍に邪意があって老中罷免という処置をとったのではなく、法を適用しただけ---というより、一揆処罰のみせしめの感なきにしもあらずである。隠居ですましたのがそのしるし。

というわけで、田沼意次という紀州藩士出身の男に興味をもった。
田沼は、大名として、相良藩を領した。
だから、静岡市のSBS学苑パルシェで講じている〔鬼平〕クラスでは、しばしば、田沼に言及したし、クラスの人たちと相良探訪もした。

【参考】2007年11月7日[相良の般若寺
2007年11月8日[相良の大沢寺]
2007年11月10日[相良史料館]
2007年11月12日[田沼意次の肖像画]など

そんなこんなで、〔鬼平〕クラスで、田沼家『寛政譜』を配布したついでに、意次の父・意行(もとゆき)の紀州藩での身分などの謎に触れた。

それを、クラスの安池さんが律儀に、リサーチしてくださったので、そのまま、紹介する。
安池さん、ありがとうございました。ご苦労さまでした。さらなる、リサーチを待っています。


1.将軍になる前の吉宗の所在について
『南紀徳川史』によれば吉宗の紀州藩主の期間は10年7ヶ月、その内紀州に在国したのはおよそ2年4ヶ月と考えられます。(表「吉宗の紀州藩在国調」及び「南紀徳川史」の一部---2008年2月12日[ちゅうすけのひとり言]に紹介)
将軍になる直前は正徳5年3月に参勤交代で江戸に来て、そのまま滞在し、正徳6年5月に将軍家を継承しています。
ですから、後藤一朗氏が『田沼意次』のなかで、「吉宗が江戸へ行くときそれに伴して旗本に取り立てられた」と書かれているのは、厳密な意味合いからすれば適当ではないということでしょうか。

2.吉宗が将軍になったときの田沼専左衛門意行について
『南紀徳川史』に「当日お供にて、そのまま居残、また、その夜俄かに召された面々」として「御小姓 50石 田代七右衛門養子 田沼専左衛門」とありますから、吉宗が将軍になるとき従っていて、一緒に二丸へも行ったと考えられます。
『南紀徳川史』に記載されている、この時のメンバーをみると、若年寄・御用役番頭・御伴番頭・御用達御小姓頭・御用達・中ノ間番頭・小十人頭の偉い人10名以外は御膳番・奥之番・御近習番・御小姓・御医師など32名ですから普段から側近く仕えていた人たちが従っていたのでしょうか。もっとも、深井雅海氏によると、正徳6年4月晦日吉宗が、家宣の遺命により江戸城二丸に入った際供奉した紀州藩士は96名としています。
(和歌山にいた小姓5名、中屋敷にいた小姓10名はこれとは別に後から召抱えられています。)

3.吉宗が将軍になったとき、紀州藩からつれて行った藩士について
これについては、深井雅海氏の論文「紀州藩士の幕臣化と享保改革」をみつけました。これによると、人選は吉宗有馬氏倫・加納久通であったのではないかと考えられます。

4.田沼意行の先祖が紀州藩に奉公した時期について
これについては難航しております。いままでの調査結果は以下の通りです。

・後藤一朗氏は『田沼意次』のなかで、
「二代目吉次は、鉄砲の射撃の天才的妙手といわれた。当時彼の主人佐野氏が大阪務めに出た時それにつて行き、その地にいるうち、彼の特技が紀州藩の耳にはいり、召抱えたいという交渉をうけた。・・・
・主人の同意を得て勤務替えをし、そのまま和歌山に住みついた。1615年(慶長20)5月のことというから、大阪夏の陣のころである。」
と書かれていますが、大阪夏の陣のとき、紀州藩の藩主は誰であったのかという疑問があります。

・和歌山県史によりますとこの前後の藩主は以下の通りです。
ア、慶長5年10月(あるいは11月) 関が原の戦いのあと、浅野幸長が紀州藩主として甲斐(21万5千石)から37万4千石で転封されてくる。
イ、元和5年(1619年)7月 福島正則改易のあと、浅野氏は広島へ5万石加増で転封。ですから、大阪夏の陣のときの紀州藩主は浅野氏であったわけです。
ウ、元和5年7月浅野氏のあとへ徳川頼宣が紀州へ入国となっており、鉄砲の名人が慶長20年に紀州藩に奉公したのなら、浅野氏であり、紀州徳川家に奉公したのなら、元和5年以降ということになります。
資料によりますと、浅野氏は紀州入国当時、加増されたこともあり家臣を大幅に増加させております。また、広島へ転封後も増加させており、浅野氏に奉公したのなら、当然広島へ行ったと考えられます。また、徳川頼宣も紀州へ入国後、多くの家臣を増強しております。鉄砲の妙手ならどちらにも奉公するチャンスはあったようです。

・そこで、和歌山県史の資料集にあたってみました。
ア、「国初御家中知行高」(寛永初年―1624年より前の編纂のようです)には田沼次右衛門の名前は記載されておりませんでした。もし、150石程度なら載っていると思いますが。
イ、「和歌山分限帳 全」(延宝5~6年頃―1677~1678年時点)には、「150石 左京様属 田沼次右衛門」と記載されています。左京様は寛文10年(1670年)に伊予西条藩の初代藩主となった松平左京太夫頼純のことでしょうか。
後藤氏が和歌山の金龍寺で確認したところでは
田沼次右衛門吉次  寛文12年(1672年)没
田沼次右衛門吉重  延宝8年(1680年)没
すると、この時の田沼次右衛門は吉重のことでしょうか。田沼次右衛門吉次の奉公時期は寛永初年から寛文12年までの間ということでしょうがこの間48年もあり、もう少し絞り込みたいものです。
ウ、やむなく和歌山県史人物を見たところ田沼意行の箇所に以下のように書かれています。
「田沼意行 たぬま もとゆき
1688~1734 近世中期の家臣・幕臣 重之助・専左衛門・主殿頭・良裕・重意  菅沼半兵衛の倅。田代七右衛門重章の養子となる。田代の田と菅沼の沼とを取り田沼と名乗るよう命ぜられる。50石の小姓。享保元年6月25日将軍となった吉宗に従い、幕府小姓となり、廩米300表を与えられる。・・・・・・・」

こういうことで、田沼を名乗り、菅沼の由緒書あるいは田代の由緒書とは関係なく田沼の先祖を自分の先祖として自分の由緒書に記載することが行われていたのでしょうか。
エ、上記ウを念頭におきながら田沼『寛政譜』を見てみますと
「・・・・男次右衛門吉次はじめて紀伊頼宣卿につかえ、其子次右衛門吉重、其子次右衛門義房相継て紀伊家に歴任し、義房のち病により、辞して和歌山城下の民間に閑居す、これを意行が父とす。
重之助 専左衛門 主殿頭 従五位下
父次右衛門義房仕官を辞するの時、意行は叔父田代七右衛門高近が許に養はれ、後紀伊家に於て召れて有徳院殿(吉宗)に仕えたてまつり、享保元年本城にいらせたまふのとき・・・・」

「これを意行が父とす。」という表現は「父である。」とは違って、「父ということにする。」という意味にもとれますね。養子ですから、本来は田代を名乗るべきでしょうか。
オ、意行は菅沼半兵衛の倅なのでしょうか。
和歌山県史によりますと徳川幕府が『寛政譜』を作成したとき、「紀州藩でも寛政8年2月お目見以下より格式が上の家臣に由緒書(和歌山県立図書館蔵)を差し出させた。」とありますので図書館でその由緒書をあたってもらいました。菅沼家は代々半兵衛を名乗っているようで、由緒書も虫食いがあって見辛いということで今現在確認できておりません。

どっちでもいいことかもしれませんが、意行が田沼次右衛門の倅なのか、菅沼半兵衛の倅なのか知りたい気持になっております。今後の調査方法としては
・和歌山県々史編纂委員会に問合せる。
・菅沼半兵衛の由緒書を他の資料で探す。
・叔父田代七右衛門高近がどういう叔父なのか調べる。
ということでしょうか。

_120大きな宿題をいただいてしまった感じだ。
今日から、解読にとりかからねば。
とりあえず、辻 達也さん『徳川吉宗』(吉川弘文館 1958.12.25)を借り出してきた。
歴史書の老舗の吉川弘文館の[人物叢書]のシリーズの1冊として、もう、50年も前に上梓されたもの。
その後、新装版となって、いまなお生命を保っている。
この学会はさら新しい発見・史料・見解が加わっているはず。安池さんが参考にした深井雅海さんの研究などもその一つ。

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2008.02.13

ちゅうすけのひとり言(6)

銕三郎(てつさぶろう 家督後・平蔵宣以=小説の鬼平)、14歳の宝暦9年(1757)に、東海道を上らせ、駿州・益津郡(現・藤枝市)の田中城へ旅をさせたことがある。
田中城は、今川領だった時代に、銕三郎の祖・長谷川紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)が城主だった。

【参考】銕三郎の初旅については、2007年7月1日[田中城しのぶ草] (13) (14) (15) (20)

幕臣の子らしく、宿々は本陣に泊まらせようと、参勤交替で上下する各藩の参府・帰国の月を、手元の『文化武鑑』(柏書房 1981.9.25)で調べた。
もちろん、宝暦9年と文化元年(1804)では50年近いへだたりがあるが、人名はともかく、家紋や槍印、参府・帰国の月などはそう変動はなかったろうとみたのである。あとで、 『大武鑑』ででも、宝暦年代を確認すればいいと安易に考えた。

_360
(文化元年の武鑑 紀州藩の項)

本陣は、4月が比較的、閑散そうだったので、銕三郎をこの時期に旅立たせた。

このとき、もっとも念を入れたのは、紀州家(55万5000石)と尾州家(61万5500石)。親藩だから本陣側も特別扱いにしたろう。大藩で従者の数も多かろうと推量した。

で、どちらも、3月に参府・帰国していたが、紀州藩は、参府が丑(うし)、卯(うさぎ)、巳(へび)、未(ひつじ)、酉(とり)、亥(いのしし)の年。
帰国は逆に、子(ねずみ)、寅(とら)、辰(たつ)、午(うま)、申(さる)、戌(いぬ)の年。

話は唐突に変わる。

七代将軍・家継(いえつぐ)が、正徳6年(1716)4月30日に8歳で歿する。六代将軍・家宣の遺言ということで、紀州侯・吉宗が江戸城ニの丸へ入る。

正徳6年は申年だから、吉宗は3月に帰国の年だが、将軍が重態ということで帰国を延ばし、諸事にあたるべく在府・待機していたのではないか---と考えた。

ところが諸書の記述は、吉宗が紀州藩の面々205名を引き連れて、江戸城に入ったかのごとく、である。
それで、静岡のSBS学苑パルシェの〔鬼平クラス〕でともに5年間学んでいる安池さんに、機会でがあったら調べておいてほしいと、口をすべらせた。
安池さんには、これまでも、もろもろのリサーチでお世話になっている。

_100最近では、深井雅海さん『江戸城御庭番』 (中公新書 1992.4.25)もお借りした。
長谷川平蔵=鬼平ら先手10組に出動命令がでた、天明7年(1787)5月20日からの江戸騒乱に、お庭番も探索に出て、風聞書をあげているので、長谷川平蔵に関係がなくもない。

安池さんから、詳細なリポートがメールできた。

吉宗の所在については、やはり江戸にいたと。
安池さんがEXCLLでおつくりになったリストを、ふつうのリストにして、引用させていただく。

吉宗の紀州藩在国調
年         月  日
宝永2年(1705)10月4日江戸着
   2年(1705)10月6日紀州藩相続
   3年(1706)11月1日真之宮 理子と婚礼
   7年(1710) 5月6日家督後、初帰藩9ヶ月
正徳1年(1711) 2月4日東覲 2月13日江戸着    12月18日長福丸家重)誕生
   2年(1712) 4月6日帰藩7ヶ月
         10月14日将軍家宣薨去
      2年4カ月東覲
         11月13日 御着座
   4年(1714) 4月 帰藩12ヶ月
   5年 (1715) 3月  東覲 
  11月27日小次郎(田安宗武)誕生
   6年(1716) 4月晦日将軍家継薨去
    5月1日将軍継承
在位 10年7カ月

吉宗が江戸にいたとすると、205名の人選を差配した者が江戸と紀州にいたことになる。
この研究書はあるのだろうか。会社の人事の参考になりそうだが。

このほかに、安池さんが田沼家についてお調べになったことは、明日。

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2008.02.12

本多采女紀品(のりただ)(4)

本多讃岐守昌忠(まさただ)どののことをお訊きしてよろしゅうございますか?」
銕三郎(てつさぶろう 18歳 のちの平蔵宣以 のぶため=小説の鬼平)が言ったとき、父・宣雄(のぶお 45歳)が、
(あれほど、他家のことを詮索してはならぬ、と言いきかせているのに、困ったことになった)
といった表情をした。

その気配を察した本多采女紀品(のりただ 49歳 先手・弓の16番手の頭 2000石)が、
「おお、そのことよ。銕三郎どのも、いずれ家督・出仕されれば、いやというほど、本多姓の者どもとお付き合いなさるであろうから、いま、心得ておいてもご損にはなるまい」

本多紀品が話したことを要約すると、次のようになる。

本多家は、もともと、藤原の流れで、助秀(すけひで)が豊後国本多郷に住み、郷名を姓として称したことから始まる。識者によると、本多郷がどこであったかは、いまのところ、特定されていないと。

本多一族のうちで、早くに三河国へきて、松平(のちの徳川泰親(やすちか 家康の11代前)の配下に入った者たちがいるらしい。
うち、2門の家譜が記録されている。
定通(さだみち)と定正(さだまさ)である。
定通の一族で名が高いのは、平八郎忠勝(ただかつ)と忠刻(ただとき)といってもよかろうか。

平八郎忠勝は、家康の陣営にあってまだ20代のときに、敵・武田方から「家康に過ぎたるもの二つあり。唐獅子頭と本多忠勝」と、その勇猛ぶりをはやされたという逸話が伝えられている。

【参照】2007年6月13日[本多平八郎忠勝(ただかつ)の機転 (1) (2) (3) (4) (5) (6) 

忠刻は、秀忠(ひでただ)のむすめ・千姫を正室に迎えたことで知られている。忠刻その人は31歳で卒したので、千姫は剃髪して天樹院と号した。

一方の定正の流れには、家康のために知略・策謀をめぐらせたで本多正信(まさのぶ)・正勝(まさかつ)父子、駿州・田中城主の本多伯耆守正珍(まさよし)もそうだし、本多紀品自身もそう。

【参考】2007年5月15日[本多伯耆守正珍の蹉跌 (1) (2) (3) (4)
2007年7月7日[本多佐渡守正信]

「豊後から遅れて東上し、大権現家康公の麾下となったのが、讃岐守昌忠どのの祖・権左衛門正敏(まさとし)どのでしてな。その息・権右衛門正房(まさふさ)どのは、大坂の夏の陣で、燃える城中から千姫さまをお救いしたお一人なのです」
「縁(えにし)ですな」
感に堪えたような声をだしたのは、宣雄であった。

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(火盗改メ・本多讃岐守昌忠の個人譜)

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2008.02.11

本多采女紀品(のりただ)(3)

「世間では、大久保99家、本多100家などといっているが、なに、譜代衆が一門をふやしたのは、大久保どのやわが本多にかぎったことではないので、水野酒井もそうだよ」
本多采女紀品(のりただ 49歳 先手頭 2000石)は、長谷川父子の久しぶりの訪問に気をよくしているらしく、いつになく、口が軽い。
「ほら、銕三郎(てつさぶろう)どのが学問をしているのは、黄鶴(こうかく)塾といったかな?」
「はい。黄鶴先生です」
「その塾に、大久保なんとやらという塾仲間がいるとか、いつぞや申されたな?」
「はい。大久保甚太郎(じんたろう)です」

【参考】2007年7月3日[田中城しのぶ草](14)

「その者の家系は、いま話題にしている紀州系の大久保ではない。その者は、平右衛門忠員(ただかず)どのの兄者(あにじゃ)・忠俊(ただとし)どのの流れです。
銕三郎どのもご承知とおもうが、徳川家で重きをなしている大久保家一門は、大権現さまの時代に武功が大きかった平右衛門忠員(たたかず)どののお子たちの忠世(ただよ)どの、忠佐(ただすけ)どの、忠為(ただため)どの、忠教(ただたか 彦左衛門)どの。

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(大久保家の主流の祖)

いま、名をあげた4人のご子息たちのうち、忠世どのの継嗣・忠隣(ただちか)どののご子孫が、今夕、銕三郎どのが話した箱根関所の守護を受けもっておられる小田原藩主・忠興(ただおき 11万3000石)侯」

本多采女紀品の話はつづく。

忠員の三男・忠為が、家康の十男・紀州権大納言頼宣(よりのぶ)にしたがった。

「火盗改メの増役(ましやく)となった笹本靱負佐(かなえのすけ)忠省(ただみ)どのは、忠為どの四男が立てられた大久保家のむすめを娶った、笹本正右衛門喜富(よしとみ)どのの遺児でござっての」

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(笹本忠省を養なった紀州の大久保家)

【参考】笹本靱負佐忠省の個人譜は、2008年2月10日[本多采女紀品](2)

本多紀品の話に付け加えると---、

八代将軍となった吉宗(よしむね)が、まだ紀州公で、麹町の藩邸(紀尾井坂)にいた時、迎えた正室---伏見文仁親王貞姫が、和子を産むことなく4年たらずで病死した。
そのあと、30代の吉宗のお部屋さまとして家重(いえしげ)を産んだのが、紀州家臣・大久保八郎五郎のちの伊勢守忠旧(ただふる)のむすめ・於須磨(すま)の方である。
須磨は、家重が将軍職に就くのを見ることもなく、26歳で歿している。

しかし、大久保八郎五郎一族からは、於須磨の縁もあったのであろう、数人のおんなたちが大奥へ仕えたので、その恩恵が男たちの身分や家禄に反映したともいえる。


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2008.02.10

本多采女紀品(のりただ)(2)

「100晩、夜回りをして、放火を防げるのは1件あれば上首尾というもの」
先手・鉄砲(つつ)の16番手の頭(かしら)・本多采女紀品(のりさだ 49歳 2000石)は、聞き手が、小十人の頭だったころの同僚・長谷川平蔵宣雄(のぶお 45歳 400石)とその息・銕三郎(てつさぶろう 18歳)宣以(のぶため)だけという安心感から、幕府の上層部にたいする批判めいたことを口にした。

盗賊たちに、目ざす家の近くに放火し、騒ぎに乗じて盗みを働くという手口が流行していた。
騒ぎが起こって、人びとの注意がそっちへ集まればいいので、たいていはボヤていどでおさまっていた。

『武江年表』に記されている府内の火事は、
・宝暦11年(1761)8月17日 堺町の芝居(操座)より失火、堺町、葺屋町(中村勘三郎が芝居は普請中なり)しがやけず)。
・同12年(1762)2月 日本橋南町々焼亡。
・同13年(1763)4月7日 滝山町より出火、数寄屋橋御門前迄焼亡。
この3件である。
もちろん、草分名主の家柄で、このころにはまだ生まれてもいなかった編者・斉藤月岑に多くを求めるのは無理である。

_120火事の記録を集めた『風俗画報・江戸の華 中編』臨時増刊第181号(明治32年1月25日)も、記録しているのは上記のうちの11年の堺町の火事(8月7日と記す)と、13年の滝山町の出火分だけである。出所は、『武江年表』と類推できる文章である。

徳川幕府の正史ともいえる『徳川実紀』の宝暦13年(1763)2月27日の項---

「先手頭・笹本靱負佐忠省火災しげければ。臨時盗賊考察命ぜらる。」

と、上記の火災記録よりも頻度高く、火災がしばしば起きていることをうかがわせる。
これで、同じ時期に、火盗改メが3組となった。ほとんど異例の処置である。

笹本靱負佐(かなえのすけ)忠省(ただみ)の個人譜を掲げる。

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 (笹本靱負佐忠省の個人譜)

なぜか、上掲の『実紀』の任命のことが省略されている。
書き控えたのが笹本家か、 『寛政譜』をまとめた側か、笹本家が幕府へ提出した、国立公文書館にあるはずの「先祖書」が未見なので、いまのところはなんともいえない。

ただ、本多紀品にいわせると、
笹本うじは、先君(家重)の亡き・ご生母(お須磨の方)や、紀州閥(有馬氏倫加納久通田沼意次ら)のお歴々とつながりがあるからなあ。出頭も速い」
ということになる。

忠省は、幼名を蓮之助といった。

大奥とのかかわりについては、家譜の前書き---、

「その後、母なるもの大奥につかえ、忠省が事こひたてまつるにより、めされて家をおこすにおよびてふたたび笹本を称すといふ」

「母なるもの大奥につかえ」たのは、紀州家臣・大久保八郎五郎忠寛(ただひろ)のむすめで、同じ紀伊家の臣・笹本正右衛門喜富(よしとみ)に嫁ぎ、蓮之助が生まれたのちに喜富が卒したので、将軍となった吉宗の大奥に入ったことを意味する。

【参照】大久保八郎五郎忠寛の家譜は、2008年2月11日[本多采女紀品](3)
いっとき、大久保忠寛の息子となっていたのを、家を立てられたので、笹本姓にもどった。

外祖父にあたる大久保八郎五郎忠寛は、八代将軍・吉宗が紀州公から江戸城へ連れて入り、小姓(700石)に登用されたが24歳で卒している。弟の往忠(ゆきただ)が家を継いだ。

忠省は、正徳2年(1712)の生まれのようだから、番方(ばんかた 武官系)の終着駅に近い先手組の組頭になった宝暦12年(1762)は51歳---年齢的には、まあまあの栄進である。

大奥につながりが深いことで、番方のみならず、譜代の役方(やくかた 行政官)たちから、人柄・実力を傍らにおいて、妬みをかっていたろう。

「いや、近づいていった者も少なくなかったようだ。人の世の常というものでしょうな」
本多紀品は、苦笑しながら言った。

それはそうだろう、strong>忠寛の姉でもあり、大伯母にあたる女性が、吉宗の侍妾・お須磨の方となり、家重を産んでいる。
家重の誕生は正徳元年(1711)12月21日。
須磨は、2年後の正徳3年(17123)に26歳で歿しているが。


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2008.02.09

本多采女紀品(のりただ)

「そのようなことは、詐称(さしょう)にあたるぞ。本多どのにお許しを得ねば---」
銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため=小説の鬼平)が、東海道・平塚の宿はずれの料理屋〔榎屋〕で、土地(ところ)の顔役である〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 35歳)に、 行きがかりで、江戸の火盗改メのお頭(かしら)・本多采女紀品(のりかず 49歳 2000石)どのの相談役、と言い放ったことに、父・平蔵宣雄(のぶお 45歳)が異を唱えたのである。

【参照】〔馬入〕の勘兵衛と対面の次第---2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに](37)

銕三郎は、番町表六番丁の本多紀品の屋敷へ、許しをもらいに行くために、一番丁新道の本家・長谷川主膳正直(まさなお 1450余石)の家で、城を下がってくる父・宣雄を待った。
大伯父・正直は、8年勤めた西丸の小十人の頭(かしら)から、52歳で本丸の徒(かち)の頭へ栄進していた。

七ッ(午後4)の鐘を聞いてほどなく、宣雄が下城してきた。

本多紀品の屋敷は、間口6間(10m)ほどの家が多い番町の中では、そうした家々の3,4軒分はあるとおもえるほど広く、1300坪はゆうにある。

訪問してみると、着替えた紀品は、酒の用意をして待っていた。
「いつものことで肴は、知行地の一つ、相模の荻園村から届いた自然薯の煮物だが---」

銕三郎が、〔馬入〕の勘兵衛紀品の名と役目をひけらかした経緯を話して詫びると、
「なに、それは、詐称とは申さぬ。呆弁(ほうべん)---阿呆(あほう)の呆に、弁舌の弁---と書いて、聞き手を煙にまく弁舌さ。まあ、べつに嘘も方便(ほうべん)ともいいますがな」
と、珍しく冗談を口にして笑った。
「そのようにお許しいただくと、胸のつかえがいちどに消えます」
すすめられた酒を、宣雄は形だけ受けたが、盃は口にしない。

「しかし、平塚の小悪党までが、火盗改メの名に恐れ入ると、お上の威勢も、まだ衰えていないようだな」
そういう紀品の盃へ、気が軽くなった銕三郎が注ごうとすると、
「じつは、今夜は、五ッ半(夜9時)から、組下を連れての夜回りがありましてな。あの者たちの手前、酒気の匂いを発するわけにもまいらぬので---」
「お役目、ご苦労さまでございます」
「なに、火盗改メといっても、冬場の助役(すけやく)ゆえ、あと、1ヶ月もすれば放免ですよ。それまでのお役目です」

紀品の予想ははずれた。助役は、3月中には免ぜられるのがふつうだが、紀品のこの場合は、5月の半ばまで許されなかった。
八代将軍・吉宗の代に、農民からの租税をきっちりとりすぎて---実行したのは元文2年(1737)から足かけ17年間、勘定奉行の職にあった神尾(かんお)五郎三郎春央(はるひで)といわれているが---起きた農村一揆などの余熱が、盗賊を生んだせいかもしれない。

宝暦11年6月から火盗改メ・本(定)役として先手・弓の8番手の組頭・本多讃岐守昌忠(まさただ 53歳 500石)を役に就かせている。この組は、前任の久松忠次郎定愷(さだたか)も昌忠の就任3年前に1ヶ年ばかり火盗改メを勤めている。ということは、組下が経験を蓄えているということである。

本多紀品の先手・鉄砲(つつ)の16番手は、駿河組の別称もあるほど由緒があり、前任の嶋 弥左衛門一巽(いちかぜ 1560石)も紀品に引き継ぐまで足かけ3年、火盗改メの本役を勤めていたから、本多紀品組の与力・同心には、職務の心得が十分にあった。

ところが、幕府は、盗賊の跳梁が我慢できなくなったか、篠本 (ささもと)靱負佐 (ゆきえのすけ)忠省(ただみ 52歳 廩米500俵)を増役(ましやく)として発令する、念の入れようであった。
この、篠本忠省という仁については、引きつづいて、本多紀品の月旦を紹介する。

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(先手・鉄砲の16番手・組頭::本多采女紀品)

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(先手・弓の8番手・組頭:本多讃岐守昌忠
 次の長谷川平蔵宣雄は、組頭の後任で火盗改メの後任ではない)

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(先手・弓の5番手・組頭:篠本靱負佐忠省)


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2008.02.08

ちゅうすけのひとり言(5)

2008年2月7日---つまり、昨日だが---の[ちゅうすけのひとり言](4)で、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)の末妹・阿佐(あさ 仮の名)が嫁(とつ)いだのは、明和8年(1771)前後ではないかと推定した。
相手は、大久保忠平左衛門忠屋(ただいへ 22歳。750石)、両番の家柄。屋敷は北本所・竹蔵東。

翌明和9年2月29日、西南の風の強い日。目黒の行人坂・大円寺から、放火による大火災が発生し、江戸の大名屋敷や幕臣の家々、町屋の半分以上が焼け落ちたが、南本所・菊川に移っていた長谷川家は焼をまぬがれた。
番町の長谷川本家、納戸町の分家の長谷川家はどうだったであろう。記載がないからまぬがれたのかもしれない。
阿佐の嫁ぎ先・北本所の大久保家も無事であったようだ。

このとき、平蔵宣雄は火盗改メの助役をしており、大火の放火犯を逮捕するという大手柄を立てたことは、このブログにすでに書いた。

【参考】目黒・行人坂の放火犯人逮捕2007年4月14日[寛政重修諸家譜](10)
2008年1月17日[ちゅうすけのひとり言](1)

阿佐の婚姻のことから、銕三郎の上の妹(多可 たか 養女)と次妹(与詩 よし 養女)の年代に疑問がでた。

再検討するのに便利なように、該当記事を、降順に並べてみよう。
ブログの読み手の方も、暇を見て諸史料を再読・ご検討いただき、整合方をご教示いただけると、うれしい。

降順に並べるといっても、リンク先(リスト)だけである。1日分読んだら、上左のツールバーの[戻る]をクリックしてリンク先(リスト)へ戻り、次を呼び出し---のくり返し。

多可が来た]  (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) 

[多可の嫁入り]  (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) 

[与詩を迎えに] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (17) (18) (19) (21) (22) (23) (24) (25) (26) (27) (28) (29) (30) (31) (32) (33) (34) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41) (番外)

*(16) (20)は、ちゅうすけの手違いで欠番です。叩頭陳謝。

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2008.02.07

ちゅうすけのひとり言(4)

『寛政重修諸家譜』によると、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以=小説の鬼平)には、3人の妹がいる。
うち、2人は養女で、三女は父・宣雄(のぶお)が産ませた子のようだ。
産婦は記されていないから、不明であるが、とくに[某女]と書かれていないから、妻女とも思える。

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(父・宣雄の養女とむすめ。銕三郎の妹たち)

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(妹たちのうち、三女にスポット・ライト)

池波さんは、この三女の存在から、『鬼平犯科帳』文庫巻23[隠し子]でおを思いついたのかもしれない---と長いあいだ、推量していたが、こんど、調べてみて、それはありえないと分かった。

[隠し子]は、寛政9年(1797)ごろの事件である。30歳の園が誕生したのは明和7年(1768)前後である。宣雄、52歳の時。

『寛政譜』は、三女の嫁(とつ)ぎ先を、大久保平左衛門忠居(ただをき)と記している。

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(三女の嫁ぎ先 大久保忠居個人譜)

徳川家臣団のうちでも、大久保99家、本多100家とはやされたほど一門の多い大久保の流れだが、『三河物語』の著者・大久保彦左衛門忠教(ただたか---『寛政譜』 ただのり とルビする人もいる)のニ男・平左衛門忠職(ただより)の子孫である。

忠居は、明和8年(1771)5月3日、22歳の時に、祖父・平左衛門忠辰(ただとき)の遺跡(750石)継いでいる。父・勝之助忠尚(ただなお)が4年前に44歳で歿していたからである。
祖父は、3ヶ月前の2月の某日、74歳で卒していた。

忠居が、長谷川平蔵宣雄の三女---銕三郎の末妹---を嫁に迎えたのは、この前後であったろう。
花婿・忠居が22歳なら、花嫁は18歳前後と推察するのは、べつだん、異なことではなかろう。

じつは、ぼくは、この三女の母に、阿記をあてていた。

【参照】2008年2月4日[与詩を迎えに][(41)

鎌倉の縁切り尼寺で、身ごもっていることが分かり、父親に間違いない銕三郎へ知らせる。
いまだ部屋住みの身分の銕三郎は、困惑・苦慮の末、父・宣雄に告白・相談する。
と、父はあっさり、生まれた子は、自分の子として幕府へ届けると言ってくれた。
18歳の銕三郎が21歳の阿記とねんごろになったのを、宝暦13年(1763)の初春に設定したから、宣雄45歳、内妻・(たえ)38歳である。

は、史実では、知行地・上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村(現・千葉県山武市寺崎)のむすめだが、部屋住み時代の宣雄が手をつけ、銕三郎が生まれた。名前は、ぼくが戒名から一字とってつけた。
戒名:興徳院妙雲日省大姉
(寛政7年5月6日歿 平蔵宣以の死の4日前)

【参照】2007年7月24日[実母の影響]

阿記が産んだ女児を、自分が産んだように届けるのは、38歳のにすれば、銕三郎から18年ぶりの恥かきっ子であるが、承知するしかなかった。

女児の名も、阿記の一字をとって、阿美(あみ)とつけようと考えていた。

ところが、その阿美忠居への嫁入りが18歳とすると、彼女の生年は宝暦4年(1754)、銕三郎は9歳---阿記の子とも、もちろん、その前のお芙沙に孕ますこともできまい。

【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

ぼくの想像は、史実の前に、もろくも崩れ去ったのである。

三女の生年が宝暦4年なら、平蔵宣雄は35歳、は28歳---恥かきっ子とはいえない。


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2008.02.06

ちゅうすけのひとり言(3)

のちに、幕臣・三宅半左衛門徳屋(のりいへ 西丸・小十人 廩米100俵)に嫁(とつ)ぎ、離縁された与詩(よし)が、駿府の町奉行だった朝倉家から長谷川家の養女として、江戸へくだってくる経緯を40数回、記した。

【参考】与詩の出生を話しているのは、2005年12月24日[与詩(よし)を迎えに](4)
父・朝倉仁左衛門景漸増(かげ)の個人譜は、2005年12月26日 [与詩(よし)を迎えに](6) 

時を、宝暦13年(1763)2月---と設定した。
与詩は、6歳。
父・平蔵宣雄(のぶお 本丸・小十人組・第5番手の頭=役高1000石 家禄400石)は、45歳。
迎えに行った銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため、18歳。

改めて書くと、父・宣雄は、この10年後の安永2年(1773)6月、京都西町奉行に在職中に55歳で病歿しているから、45歳は動かない。
また、銕三郎は父の死により家督後、平蔵を襲名、寛政7年(1795)5月に50歳で卒しているから、宝暦13年に18歳であったことも、間違いない(年齢は、当時の習慣にしたがっていずれも数え齢である)。

再度、『寛政重修諸家譜』から平蔵宣以の個人譜と妹たちを引用する。

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(平蔵宣以と妹たち)

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(妹たち拡大 赤側線が与詩)

与詩は、銕三郎の父・宣雄の養女とり、成人して、三宅半左衛門徳屋の最初の妻となったものの、離縁、長谷川家へ戻って平蔵宣以=小説の鬼平の厄介として過ごしたらしい。
歿してからは、長谷川家の菩提寺である四谷・須賀町9の戒行寺に葬られたとおもうが、霊位簿はまだ確認していない(研究家の釣 洋一氏の調べもそこまでは及んでいない)。

さて、まずは、嫁ぎ先の、三宅徳屋の家譜を検してみよう。

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(三宅半左衛門・個人譜)

与詩が離縁されたあと、後妻が入っている。
徳屋の嫡男で、家督した左門徳昌(のりまさ)は、後妻が産んでいる。
しかも、宝暦5年(1755)に、である。

ということは、与詩の離婚の理由は、3年かそれぐらい経っても、子を産めなかったこととしても、宝暦5年には、彼女はまだ生まれていないのである。

面妖である。
諸種の史実から、宝暦13年の与詩は6歳と断じたのである。。

その宝暦13年---半左衛門徳屋は、49歳。
家督は、享保16年(1732)だから、18歳。
お目見(めみえ)は、宝暦5年(1755)で41歳。すでに書いたように、与詩はまだ生まれていない。

どこかで、間違いを冒かしたにちがいない。
自分か、あるいは、 『寛政譜』をまとめた幕府の担当者か、版元か。

謎の解明は、これから時間をかけて、じっくりと行おう。

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2008.02.05

与詩(よし)を迎えに(番外)

【訂正とお詫び】
2008年1月5日[与詩(よし)を迎えに](16)で、駿府で銕三郎(てつさぶろう)が宿泊したのは脇本陣〔大万屋清右衛門方とした。
宿名は、岸井良衛さん『五街道細見』(青蛙房 1959.3.15 再版)から拾った。
同書には町名が記されていなかったので、城下を東西に通っている東海道筋のどこかとふんで、本通りとし、その地図を添えた。
青○の地点がそれである。

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(駿府町地図 青○=本通りに面した本陣〔大万屋〕 赤○=町奉行所
緑○=奉行所与力屋敷 黄○=同心屋敷 ピンク面=寺社地)

SBS学苑パルシェ〔鬼平〕クラスは開講5年になる。ここで共に学んでいる安池さんが、[与詩(よし)を迎えに](16)を読んで、〔大万屋〕の所在を調べてくださった。

研究書のコピーによると、駿府の旅籠のほとんどは、本通ではなく、伝馬町に集中していたようである。駿府城の東南にあたる、東海道筋の一郭である。

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(青○上伝馬町の〔大万屋〕清右衛門 )

上伝馬町 上本陣  望月治右衛門
    建坪=191坪
同    脇本陣  松崎権左衛門
    
下伝馬町 下本陣  小倉平左衛門
    建坪=215坪
同    脇本陣  平尾清三郎

旅籠40軒(うち、大旅籠3軒)

それで、『五街道細見』の記述を詳細に見たら、〔大万屋清右衛門には「脇」ではなく「宿」の略号がついていたから、「脇本陣」を「大宿」と訂正し、お詫びする(1月5日の記述は、安池さんのご教示を称えるために、誤記のまま残しておく)。 

別の資料には、上伝馬町の脇本陣として、太兵衛 建坪=107坪もあがっているが、安池さんからいただいた配置図には、見あたらない。

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(上伝馬町の旅籠群・西寄り部分 青=旅籠 緑=本陣 赤=寺社
青○ 大宿・〔大万屋〕清右衛門)

また、別の資料には、札之辻町の〔難波屋仁左衛門方と車町の中村善左衛門方が加番本陣だったとある。本・脇本陣が満杯のときに臨時に本陣の役をつとめたのであろう。

大万屋〕清右衛門が本通りでなく上伝馬町に移転しても、町奉行所までの距離がほとんど同じだったのは、奇遇である。

さらに付記すると、上伝馬町、下伝馬町の呼称は、京都により近いほうを上、その逆の地区に下とつけるのが、当時の呼称のつけ方であった。

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2008.02.04

与詩(よし)を迎えに(41)

阿記(あき 21歳)が入山する尼寺・東慶寺は、鎌倉5山の第2---円覚寺の南にあった。

『東海道名所図会』から要点を拾うと---。

松岡と号す。禅宗比丘尼住職す。開基は北条時宗(ときむね)の室、秋田城介(じょうすけ)の娘にして潮音院覚山志道尼と号す。第廿世の住職は豊臣秀頼(ひでより)公の息女にて、天秀泰(てんしゅうたい)和尚という。時に八歳。

「縁切り」のことは記してはいない。

衣装を替えるために、近くの旅籠〔小町屋〕の部屋を借りた。
着替えた阿記は、観念したように寺門をくぐろうとしかけて、銕三郎(てつさぶろう)のもとへきて、
「お願いですから、今夜一と晩、旅籠にお泊りおきくださいませんか?」
「夕暮れも近い。そうするつもりでいる」
返事をえると、決心したように、門をくぐった。

銕三郎たちが夕食を終えたころ、阿記がやってきた。
丸めた頭の青さが、銕三郎の目には、ひときわ艶(なま)めいて映った。
「どうかしたのか?」
「得度(とくど)の前に、この姿をお目にかけたくて、1刻ほどの許しをいただいてきました」

藤六(とうろく 45歳)が気をきかせて、与詩(よし 6歳)を連れて、部屋を出ていった。
待ちかねていたかのように、阿記が抱きついてきた。
「いまいちどの、福をください」

銕三郎も、異様な興奮をおさえきれなくなった。

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(国芳『枕辺深閨梅』)

衣服の乱れを整えた阿記は、深ぶかと礼をして、
「これで、730夜の煩悩に耐えることができそうです」
そう言って、微笑み、出て行った。
銕三郎は、掌中の珠が消えたような喪失感を味わっていた。これほどに痛みが大きく深いとは、予期していなかった。

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2008.02.03

与詩(よし)を迎えに(40)

江ノ島の東の腰越村から稲村ヶ崎までの渚道(なぎさみち)は42丁。7里ヶ浜である。
坂東流の距離表記で、6丁(ほぼ654m)を1里としたための7里であることは、常識。上総(かずさ 千葉県)の九十九里浜も同上の計算による命名。古いチャイナの計測法によっているものか。

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(明治19年製版。参謀本部陸地測量部。江戸期に最短)

阿記(あき 21歳)が入道する縁切り寺の東慶寺は、鎌倉でもうんと北にあり、稲村ヶ崎からさらに50丁(5.5km)はあると、〔三崎屋〕の亭主が教えた。
阿記は、銕三郎(てつさぶろう)といっしょに俗世にいられる最後の半日だから、東慶寺のある台村まで、共に歩きたいという。

藤六(とうろく 45歳)が、与詩(よし 6歳)のために、牛を手配してきた。砂道なので、馬よりも牛とのことであった。
「牛のあゆみだと、台村まで、2刻(4時間)ちかく、かかりましょうな」
〔三崎屋〕の亭主の読みである。そのことを、阿記はむしろ、よろこんだ。銕三郎とそれだけ長くいられる。

腰越村をすぎる時、銕三郎は、その昔、軍目付(いくさめつけ)の梶原景時(かげとき)に、
「御弟、九郎大夫判官(だいぶのはんがん)殿こそ、終(つい)の御敵(かたき)」
頼朝(よりとも)へ書き送られ、ここの満福寺へ足止めをくらった義経の、胸のうちを推察したが、阿記は、彼のそんな忖度(そんたく)など気にもとめておらず、
御前(しずかごぜん)も、義経公のことをおもいながらこの道を通ったのでしょうね?」
(まあ、阿記は、おんなだから、仕方がないか)
あきらめて、生返事をしておく。
(讒言(ざんげん)おそるべし、とはいえ、武家の目付とは、もともとそういう役目なのだ。留意して、しすぎるということはない)。

銕三郎は自分が、25年後に、政敵・森山源五郎孝盛(たかもり)による讒言によって、宰相・松平定信(さだのぶ)から嫌われることになろうとは、ゆめ、おもわなかったろう。

稲村ヶ崎までは渚道(なぎさみち)と呼ばれるだけのことはあって、打ち寄せる波に、いまにも足をあらわれそうなほどである。

昼食は、極楽寺村の茶店で摂った。

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(左から長谷、坂下、極楽寺の各村 道中奉行制作『江嶋道見取絵図』)

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(左から由比ヶ浜からの八幡参道と長谷村
 道中奉行制作『江嶋道見取絵図』 )

長谷村を過ぎて、八幡参道にかかるころから、阿記の口数が減ってきた。
かわりに、牛背の与詩の口がなめらかになった。
「はちまん(八幡)さま、おしろ(城)の、とおくに、ありまちた---した」
駿府城の南の八幡(やはた)山のことを言っているのである。

「あにうえ(兄上)。えど(江戸)にも、はちまんさまはありましゅか---すか?」
「八百余州、八幡さまのないところは、ありません」
「かまくら(鎌倉)のはちまんさまと、おしろ(駿府)のはちまんさまと、どっちが、おおきいでしゅか---ですか?」
「鎌倉の八幡さまは、東国で一番大きいのです」
「とうごく(東国)とは、どこのことですか?」
与詩のお城のあったところから、ずっとずっと東、江戸のむこうまで、のことです」
「かまくらの、はちまんさまより、おおきいの、ありますか?」
「鎌倉の八幡さまは、京の近くの石清水八幡さまの弟だから、京のほうが大きいとおもうが、兄は行ったことがないから知りません」
「あにうえでも、しらない---おしりでないことが、ありますか?」
「あたり前です。知らないことは山ほどあります」
「あの、ふじ(富士)の、おやま(山)ほど、ですか?」
「そうです」
藤六が笑っている。
与詩も、みんなのお蔭で、だいぶ、丁寧に話せようになってきた。あと一ト息だ)

そのまま、鶴岡八幡宮に参詣し、台村へ向かう。

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(鶴岡八幡宮 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


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2008.02.02

与詩(よし)を迎えに(39)

江の島---正確には、島の対岸なのだから、片瀬村というほうがあたっているのかもしれない。ま、ここは世俗に従って、江ノ島海岸の旅籠・〔三崎屋〕としておく。

遅い朝餉(あさげ)を、下の大部屋で、4人、そろって摂った。
与詩(よし 6歳)が、今朝は、お芙沙(ふさ)母上から貰った黒漆塗りの木匙で食べたいといいだした。
「けさも、おねしょ、なかった。ごほうびにいいでちょ---しょ」

参考】黒漆塗りの木匙の1件は、2008年1月20日 [与詩(よし)を迎えに] (30

黒漆塗りの木匙は、お芙沙が家業を継いだ三島宿の本陣・〔川田伝左衛門方が、尾張侯紀州侯などの貴顕の膳に添える食器の一つである。そのため、参勤交代の大名が宿泊する宿で使うことは、お芙沙から、きびしく禁じられたいた。
しかし、〔三崎屋〕は、参勤交代の道筋の本陣ではないばかりか、遊楽客が一夜だけ泊まる、いってみれば団体客のための宿である---と、銕三郎'(てつさぶろう)は判断を甘くして、
「一度だけですよ」
と、許した。
油断である。
銕三郎は、阿記(あき)の美貌に馴れてしまっていた。
彼女は、〔芦の湯小町〕と謳われたこともあり、引きつめの半髪、薄化粧、地味な着物でも、人目を惑(ひ)く。

阿記に向けていた羨望と好色のなまざしの片隅に、与詩の匙をいれた男がいた。

先に食事を終えていた40がらみのその男は、食後の茶をすすっている銕三郎たちのところへ寄ってきて、でっぷりした顔に似合わないかん高い声で、
「ご免なさって。わっちは、武州・八王子で塗師(ぬし)をやっとる弥兵衛と申す職人でごぜえます。こちらの和子(わこ)がお使いになっとった黒漆塗りが、遠目にも、あんまりみごとだったから、失礼とは存じましたが、もし、お許しがでるなら、ちょっくら、拝観をさせていたたけねえかと存じまして---」

銕三郎が黙ってその男を見ているので、藤六(とうろく)が気をきかせて、
「八王子のお方。こちらは急いでおります。お申し越しは、ご無用ということに---」
ところが、与詩が、匙をさし出して、
「いいでちょう---しょう」
銕三郎の動きは速かった。
「なりませぬ。口で汚したままのものを人さまのお目に入れるものではありませぬ」
泣きそうな顔になった与詩を、阿記が立たせて、大広間から連れ出す。

藤六。旅籠のご亭主をお連れしろ」
そう命じておいて銕三郎は、弥兵衛の顔をやんわりと見すえて、
弥兵衛どのとやら。塗師といわれましたな。掌をお示しいただきたい」
あわてるかと思いのほか、弥兵衛は贅肉のついた顔をほころばせて、
「見破られたのでは、仕方がありませんな。お若いに似合わず、心得がおありのようで---」
「ご用件を承りましょう」
「名は、さきほど名乗ったとおりの弥兵衛---ただし、世間ではその上に---」
窮奇(かまいたち)〕の通り名がついている、と言おうとしたのを、
「待たれい、弥兵衛どの。そこから先は、この場では、聞かないでおいたほうがよさそうです。幸い、〔三崎屋〕のご亭主が見えました。ご亭主の前での、話しあいとしましょう」

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(鳥山石燕『図画百鬼夜行』[窮奇かまいたち]
 起こした風が剃刀のように人を切る動物と)

なにごとかと、いぶかる亭主に、
「ご亭主。お手間をかけて申し訳ありませぬ。さきほど、こちらの八王子の弥兵衛どのから、拙が連れている妹の持ち物を見せてほしいと乞われました。あれは、わが家の家宝の品だったゆえ、お断りいたした。もっとも、弥兵衛どのがわが家の家宝がお目当てだったのか、それは口実だったのかは、わかりませぬが、とにかく、弥兵衛どのと、ここでかかわりができたこと、ご亭主のご記憶にとどめおきいただき、もし、公儀にかかわるようなことが起きたときには、証(あか)し人(びと)に立っていだければと---」
「さような大ごとが起きるのでございますか?」
「いや。起きないように、お願い申しておるのです」
「お若いお武家さん。おめえさんの勝ちだ。この弥兵衛の負け。あきらめたよ。ところで、のちのちのために、お名前を聞かせてはくだるまいか?」
「名乗るほどの者ではありませぬが、告げなければおあきらめくださるまい---江戸で火盗改メのお頭(かしら)を拝命している本多紀品(のりただ)どのの相談役・長谷川銕三郎宣以(のぶため)と申します」
「あ、火盗改メ---」
〔三崎屋〕の亭主のほうが驚いていた。
火盗改メは、代官支配地や幕臣の知行地の多い相模国あたりへまで出役(しゅつやく)しているからである。

「ほう。火盗改メの相談役をねえ。桑原、くわばら。長谷川さん、ご縁があったら、また、お会いしましょう」
弥兵衛どの。お別れする前に、一つだけ、お教えいただきたい。〔荒神〕の助太郎というお仲間をご存じないでしょうか?」
「〔荒神〕のお頭が、なにか?」
「やっぱり---」
「あのお頭は、りっぱなお盗(つとめ)をなさるとの、もっぱらの噂ですよ」

「若。あの男の正体が、鍵の手だと、よくお分かりになりました」
「いや。〔ういろう〕屋のことがなければ、気がまわらなかったであろうよ」

「なにが狙いだったのでしょう?」
「さあ、それはあの男に聞いてみないとわからぬが、阿記どのほどの美人を嫁にとっている商家なれば、よほどに裕福とみて探りにかかったか。あるいは、与詩の匙を商っていた店の名でも聞きだそうとしたか。あれほどの品を扱う店なら大きな塗物(ぬりもの 漆器)問屋---江戸でいえば、日本橋室町の〔木屋〕あたりであろうよ」

ちゅうすけ雑語】室町の塗物問屋〔木屋〕は、いまの三越百貨店のライオン口に向かって左手半分に、大震災まで店構えした大店であった。この〔木屋〕からのれん分けされ、向いに主家とは異業種の店を出したのが打物(刃物)の〔木屋〕である。

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(室町2丁目の塗物の大問屋〔木屋〕 震災で廃業)

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(塗物〔木屋〕からのれん分けして向かいに開店した打物〔木屋〕)

それから銕三郎たち4人は、江嶋の弁財天の本宮、上の宮、下の宮を巡った。

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(江島弁天宮 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

阿記は、
「弁天さまは、女体でありながら、子授かりの功徳ではなく、弁舌・音楽・財福・知恵の神様なのがつまらない」
と、いささか罰あたりな感想をもらした。
まあ、江嶋が海中から一夜にして出現し、そのときに天女が舞ったという経緯からいって、天女が子を孕んだなどということは伝わっていない。

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(江ノ島の某所から移したという、静岡市梅ヶ嶋の旅館〔梅薫楼〕に
鎮座している弁才天。ここは、文庫巻7[雨乞いの庄右衛門]も湯治
した、武田軍の負傷者用の秘められた温泉場)

与詩は、本宮へは(こわい)と言って入らなかった。


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2008.02.01

与詩(よし)を迎えに(38)

平塚宿の東端を流れている馬入川は、馬乳川と書いた時期もあると。
相模最大の川なので、相模川とも呼ばれた。
武家は渡舟料の16文が不用である(1両(4000文)10万円換算だと375円)。

馬入渡舟場の対岸---中島村から藤沢宿まで、3里12丁(14km)たらず。
銕三郎(てつさぶろう 18歳)は、藤沢までの今宿、茅ヶ崎村の西はずれの立場(たてば)の南江(なんこ)などの風景を愛(め)でながら、松並木の一人旅をくつろいだ。

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(茅ヶ崎村 左(西))の村はずれが南江の立場)

『鬼平犯科帳』巻15・長編[雲竜剣]では、南江から海岸への道にある報謝宿を、同心・木村忠吾おまさが見張る。
南江から藤沢は2里9丁(約10km))。

藤沢宿は、本町の本陣・〔蒔田源左衛門方で、阿記(あき 21歳)、藤六(とうろく 45歳)、与詩(よし 6歳)が、昼食も摂らないで待っていた。

「若。ご無事で---」
「なにを案じていたのだ。ただ会って、顔を立たててやっただけだ。阿記どの、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛が、縁切りのことにかかわってくることは、もう、ありませぬ」
「ありがとうございました。胸のつかえば晴れました」

食事を終えると、阿記が、せっかくだから、時宗の総本山である清浄光寺(通称・遊行寺)へ参詣して行きたい、という。
蒔田」を辞去して、東海道を南へ、江嶋(えのしま)道の分岐点の手前左手の丘に建立されている。

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(藤沢宿 東海道(右下)から江嶋道(左)へ 『江嶋道見取絵図』)

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(遊行寺門前の江嶋大鳥居と大鋸(だいぎり)橋
 広重『東海道五十三次』)

樹齢数百年という銀杏の大樹が目じるしである。いや、この大樹があったから、ここに総本山が置かれた。
山門からは、いろは48文字をもじって、48段のいろは坂が参道である。
与詩が、どうやら、数えられる数である。
遊行寺の由来は、開祖・一遍上人が、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と書いた札をくばりながら全国を遊行布教したことによるらしい。

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(遊行寺本堂)

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(本堂の内陣)

阿記は、本堂の阿弥陀如来像に、なにかを入念に祈った。与詩が見習った。

待たせていた馬に、阿記与詩が乗った。
江嶋まで1里14丁(5.5km)。
ゆっくりやっても、1刻(2時間)かからない。
阿記の表情が、なにやら、硬い。

石上村では、相模湾ごしに富士山が迫ってきて、与詩がはしゃいだ。

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(石上村から望む富士 『江嶋道見取絵図』 )

阿記は、思案をつづけているようだ。

片瀬村から、江嶋の全容が望めた。

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(江嶋海浜 『東海道名所図会』)
江ノ島から富士山を眺めた写真

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(江嶋全景 『江嶋道見取絵図』)

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(江嶋祭礼 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

宿は、〔三崎屋〕で、大磯のときのように、銕三郎与詩阿記藤六と、3室とった。
「手前の部屋に、与詩どのを---」
藤六が言うと、ぴしゃりと、
「それは、この子の将来のために、いかぬ。そういうことを感じさせてはならぬのだ」

本坊の竜穴・弁財天への参詣は、明日の午前中の潮が退(ひ)いたらすぐということになり、与詩藤六に預けて、銕三郎阿記の部屋を訪ねた。

「どうして、ふさいでいる」
声をかけるなり、阿記がむしゃぶりついてきた。まるで、阿記のほうが齢下のようだ。
「今夜が最後の夜です」
「そうだな。これまで、いい思い出をつくってくれて、ありがたいと思っている」
「思いだしてくださいますか?」
「あたり前だよ。忘れるわけがない。今夜は、与詩を早く寝かしつけよう」
「こころ待ちにしています」

与詩が眠ったのを確かめて、銕三郎は、阿記の部屋へ忍んだ。
寝着のままで、酒をなめている。
銕三郎に、盃をつきつけて、
「今夜は、正気ではいられません。酔って、乱れられるだけ、乱れるのです」
もうかなり酔っている阿記を、抱くようにして、床へ入れた。
おぼつかない手で寝着をはぎ取り、銕三郎のものも脱がせる。
さま。お子が産みたい」
「えっ?」
「ご迷惑はおかけしません」
よくまわらない舌で、兄が湯本の旅宿で修行しており、やがて帰って家業を継ぐから、自分は、どこにでも行ける身で、江戸へ住むこともできる。なりわいの金は、兄が送りつづけてくれるとおもう。
そんな意味のことを、銕三郎の耳元で、ささやくように繰り帰す。
「ふくらんだ腹では、尼寺が置いてくれまい」
「ですから、江戸でもどこでも住みます」
「尼寺に2年入っていないと、縁切りが成就しないのではないのか?」
「だから、悩んでいるのではありませんか」
突然、裸身でのしかかり、銕三郎の首に腕をまきつけると、くるりと反転、上下が入れ変わった。

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(栄泉『好色 夢多満佳話』)

陰に陽に干渉する姑(しゅうとめ)から解き放たれての、銕三郎との睦みあいには、遠慮をしなかった阿記だったが、この夜は、夜叉にでもなったかとおもうほどのはげしさで、求めた。
この7日ほどの営みで、立派に成年したつもりになっていた銕三郎も、目を瞠(みは)りながら応じるしかなかった。

真夜中に部屋へ戻ってみると、藤六与詩を厠へ連れて行って、また寝かしつけたところであった。
藤六が、うなずいて、自室へ帰っていった。


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