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2007.10.16

養女のすすめ(3)

水戸家上屋敷の塀がつきたあたりだった。
銕三郎(てつさぶろう のちの宣以)は、中根伝左衛門正雅(まさちか 71歳 300俵 書物奉行)にことわってから、かがみこんで、提灯の蝋燭を取り替えた。
伝左衛門も足をとめて待っている。

水戸家自慢の庭園・後楽園の大ぶりの楠が、夜目にも黒ぐろと枝をひろげていた。
その鬼気にさそわれたように、伝左衛門が語る。

中根家の当主で義父・昌長(まさなが)が大坂城の衛士として詰めていながら卒したので、実母の縁から、11歳だった手前が末期養子の形で中根へ入ったことが、そもそも間違いだったことは、15歳になる前に悟りました。20台で寡婦となった義母は、養子ではなく婿を迎えるべきだったのです」

若い義母は、孤閨に耐えつつも、月のうちの何日かは、ことさらに、大助(だいすけ いまの伝左衛門)につらくあたっていた。たまりかねて、実母の生家・中根家(700石)の当主で、従兄の次郎左衛門正音(まさおと 書院番士)に訴えたときに、こういわれた。
「大番には、駿府城や大坂城の番士勤めがまわってくる。その留守をつつがなく守るのが、妻女たるものの覚悟である。しかし、由紀(養母の名)は家付き娘ゆえ、その覚悟のないまま、金五郎(昌長)どのを養子に迎えたのであろう」
正音は亡兄と同年で、40歳に近かった。

いわれて、大助には思いあたることがあった。
大助は、天野伝左衛門重政(しげまさ)55歳の子である。母は22歳で後妻に入り、3年後に大助を産んだ。寡婦になったのが30歳。
その母が月に何日か、幼なかった大助を自分の床へ入れて抱きしめ、ため息をついていたのを思いだしたのである。その何日かは、風呂へもいっしょに入り、糠袋でお互いに洗いあった。

伝左衛門は、年少の銕三郎によしもないことを話したと思ったのであろうか、突然、話題をそらした。
「おわかりかな、銕之助どの。女が、よその家の暮らし向きや着物のことを話題にした時は、もっと働いて役について役料をふやせと、暗にせかしているのですぞ。そういうことは、本心を洩らしてくれる女友だちから学ぶものです」
まだ、銕三郎を早世した息子の名で呼んでいる。

大助は、義母がその時期になると、義理の妹2人をつれて次郎左衛門正音の家へ、数日間、泊まりがけで出かけるようになった。
大助たちが屋敷へ帰ってきたのを迎える、義母の晴れ晴れとした顔といったらなかったが、そこまでは銕三郎には話すわけにはいかない。
子どもたちの留守中、義母も家を空けて外泊していたのだ。相手はときどき変わっていたようだが、不思議に面倒はおきなかった。
そのときの義母の姿態を、大助は空想したものであった。

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(歌麿 「ねがいの糸ぐち」 『芸術新潮』2003年新年号)

「ここが拙宅です。過分のお気づかい、くれぐれもお父上へお伝えください」

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