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2008.02.27

南本所・三ッ目へ(5)

父・平蔵宣雄(のぶお 46歳 小十人組頭)が、目付・長崎半左衛門元亨(もととを 50歳 1800石)に連絡(わたり)をつけた日、嫡男・銕三郎(てつさぶろう 19歳 家督後の平蔵宣以=小説の鬼平)は、黄鶴塾をおおっぴらに欠席して、南本所・三ッ目通りの1200余坪の土地を下見していた。

鉄砲洲・本湊町(現・中央区湊2-12)屋敷から掘割ぞいに北行、京橋川の河口に架かる稲荷橋をわたるとすぐに亀島川の高橋。
それから2万9000余坪もある松平越前守(福井藩 25万石)上屋敷にそって永代橋。
永代橋を渡って大川ぞいに佐賀町、新大橋、船蔵の南橋---〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛によく似た辻番人のいた番所までの行程は、先夜、本多采女(うねめ)紀品(のりただ)組の火盗改メの巡察で歩いた道。

【ちゅうすけ推薦】本多組に従って銕三郎が夜廻りにでたのは、2008年2月[銕三郎、初手柄] (1) (2) (3) (4)
永代橋から小名木川に架かる万年橋までの道順。ただし、下(しも)ノ橋から右折しないで、大川ぞいにまつすぐ万年橋へ。

ただ、暗い夜道と違い、昼間の深川・本所は庶民の生活の匂い---米飯や味噌汁の煮炊き、洗い張りの糊やおしめの匂いがたちこめている。
(うまく三ッ目に移転できると、父上は毎日、この匂いの中を登城・下城なさるわけだ。いや、家督すれば、おれだって、そういうことだ)。
銕三郎は苦笑した。
はからずも、10年後には、そうなった。

辻番所脇から、すとんと東へ。六間堀に架かる北ノ橋、さらに五間堀までは、深川らしい町屋つづきだが、伊予橋をわたると、その先は武家屋敷の密集と寺社ばかり。
(六間堀に架かる北ノ橋から、一つ小名木川寄りが猿子橋。土地の古老は「エテ公橋と呼んだらしい。 『鬼平犯科帳』ファンなら、文庫巻7[寒月六間堀]で、息子の敵討ちを助ける鬼平が、この橋のたもとで山下藤四郎を待ち伏せて仕留めさせる。
六間堀は、いま埋められてない。埋め立ては進駐軍の指示で、空襲の残骸をこの堀へ放りこんで行われた)

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(銕三郎の南本所・三ッ目の通りへの順路)

件(くだん)の辻番所からは、かれこれ半里(2km)ほども歩くと三ッ目通りである。
1200坪の敷地は、その角にあった。
その敷地だけに、仮小屋の店屋がならんで、たつきの品々を商っている。

ふつう、武家の妻女は買い物に店屋へは行かない。ほとんどはご用聞きにいいつけ、品物は出前してもらう。
だから、1200余坪にならんでいる店々も、店先に置いている商品の数は少ない。ご用聞きの詰め所のような形である。
もっとも、幕臣が敷地の一部を貸すときは、武家(ろうにん)か医者のほかは禁じられている。商人に貸すなどはもってのほかである。

宣雄が目付・長崎半左衛門元亨に相談し、半左衛門が、お目見え以下のご家人を監視する配下の小人(こびと)目付を桑島家へ行かせようと言ったのも、そこに仕掛けがある。
小人目付が、1200余坪の貸し先を糺(ただ)すだけで、桑島元太郎はふるえあがってしまう。
軽くて蟄居・閉門、重ければ遠島である。

(これは、解決が早そうだ)
敷地のぐるりをまわりながら、銕三郎でさえ、おもった。
もちろん、銕三郎は、父・宣雄が目付・長崎半左衛門に手をまわしていることなど、まったく知らない。

(さて、ここからのお城までの時間だが---)
そうおもいながら、敷地の西北角を三ッ目通りで出ようとした途端、左手、西南角に地券(ちけん)屋〔丸子(まりこ)彦兵衛が誰かと話しているのが目に入った。
瞬間、銕三郎は身を引いて、彦兵衛に見つかるのを避けていた。
なぜそうしたかは、銕三郎自身にも説明ができない。
反射的にそうしたほうがいいとおもったのである。

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(都営地下鉄・菊川駅の新しい銘板)


長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡
  住所 墨田区菊川三丁目十六番地二号

 長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。
平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三の橋通り菊川の千二百三十八坪の邸に移りました。ここは屋敷地の北西側にあたります。長谷川家は、家禄四百石で旗本でしたが、天明六年(一七八六)、かつて父もその職にあった役高(やくたか)一五〇〇石の御先手弓頭(おさきてゆみがしら)に昇進し、火附盗賊改役も兼務しました。火附盗賊改役のことは池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例二、三年のところを没するまでの八年間もその職にありました。
 また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職業訓練をもって社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。
 寛政七年(一七九五)、病を得てこの地に没し、孫の代で屋敷替えとなり、替って入居したのは、遠山左衛門尉景元です。通称は金四郎、時代劇でおなじみの江戸町奉行です。 遠山家も家禄六千五百三十石の旗本で、勘定奉行などを歴任し、天保十一年(一八四〇)北町奉行に就任しました。この屋敷は下屋敷として使用されました。
 屋敷地の南東側にあたる所(菊川三丁目十六番十三号)にも住居跡碑が建っています。
 平成十九年三月
                     墨田区教育委員会



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