南本所・三ッ目へ(4)
「下城をごいっしょ、願えましょうか?」
長谷川平蔵宣雄(のぶお 46歳 400石)は、顔なじみの表同朋頭・玄珍(げんちん 40歳 廩米200俵)にことづけた。
相手は、小十人の4番手組頭(くみがしら)から、いまは目付に任じられている長崎半左衛門元亨(もととを 50歳 1800石)である。4年前からいまの職へ移っているので、同僚だった時期は1年たらずであったが、対人関係には公平な仁であったので、宣雄としては、気がねなく付き合った。
【参考】小十人組頭当時の同職の名簿 2007年12月14日[宣雄、小十人頭の同僚](5)
2007年12月10日[宣雄、小十人頭の同僚]
2007年5月30日[本多紀品と曲渕景漸]2007年5月31日[本多紀品と曲渕景漸](2)
小十人組頭から目付という栄進コースへ転じた、役職上の先輩だったのにはもう一人---曲渕勝次郎景漸(かげつぐ 45歳 1650石)もいるが、才気走り、上には慇懃(いんぎん)・丁重、下には意識的に無愛想なところが、宣雄の肌に合いかねた。
これから長崎半左衛門に話すようなことを曲渕へ話したら、それこそ、どんなふうに曲げてうけとられるか、知れたものではないとおもう。
(小十人組頭から目付へ転じた2人 黄=曲渕景漸 緑=長崎元亨 『柳営補任』より)
玄珍が持ち帰った返事は、七ッ(午後4時)に、徒歩番所の前で待っていると。
中根伝左衛門正親(まさちか 75歳 書物奉行筆頭 廩米300俵)から、始祖が南本所・三ッ目に1200余坪を拝領している小普請組の桑嶋元太郎持古(もちもと 49歳 廩米200俵)のことを耳打ちされた翌日である。
五月雨(さみだれ)には、もうすこし間があったが、蒸す日和がつづいていた。
長崎半左衛門の屋敷は、駿河台---現在の千代田区神田駿河台1丁目、日大歯科病院のあたりにあった。
(駿河台の長崎半左衛門元亨屋敷。子孫名。隣家は町奉行・根岸肥前守鎮衛の子孫。池波さん愛用・近江屋板)
大手門を出て大手濠(おおてぼり)ぞいに小川町へ向かいながら宣雄は、鶴のように細く長身の長崎半左衛門に、嫡子・市之丞元隆(もとたか 16歳)の病状を訊き、見舞いを述べた。
「気候の変わり目がよくないようでして---」
半座右門元亨の声は暗かった。
市之丞は、去年の春、将軍・家治にお目見(みえ)をすまして家督の資格をえたにもかかわらず、この春から体調がすぐれず、寝たり起きたりとの風評を耳にしていたのである。
父の齢に比して、市之丞の年齢が若いのは、半左衛門元亨の家つきの先妻が女子ばかり産んで病死、後妻がもうけた嫡子だからである。
不幸なことに、3歳下のニ男・寅之助元周(もとちか)も長く臥せっている。
神田橋門を出て、神田川を渡ったところで、長崎半左衛門が、供の者たちから離れて言った。
「長谷川どの。お話はここで承りましょう。拙宅には病人が2人もおり、お招きできる仕儀ではありませぬ」
宣雄は、桑島家が他人に貸している南本所の厩(うまや)の跡と、湊町のいまの拝領屋敷との交換を考えていることを、手短に、正直に打ち明けた。
「分かりました。桑島元太郎---でしたか、その者のところへ、小人(こびと)目付でもやって、事情を調べさせましょう。小人目付を行かせるのは、4,5日のうちでよろしいかな? それとも、もうすこし後のほうが、そこもとの手順がととのいますかな?」
「4,5日のうちで、よろしいかと---」
(目付・長崎半左衛門の個人譜。『寛政重修諸家譜』より)
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