南本所・三ッ目へ(3)
「小普請組に、桑嶋元太郎持古(もちもと 49歳 廩米200俵)というご仁がおられます」
書物奉行筆頭・中根伝左衛門正雅(まさちか 75歳 廩米300俵)のささやきによると、先祖が馬医として召された桑島姓の家は3家あるとのこと。
しかし、子孫で馬医として奉公しているのは1家にすぎず、それが、平蔵宣雄(のぶお)が知っている桑島新五右衛門忠真(ただざね 43歳 廩米100俵)である。
あとの2家は、番方(ばんかた 武官系)へ転じてしまっており、しかも1家は、不始末でもあったか、甲府勤番にまわされている。
もう1家が、桑嶋元太郎持古である。なぜか、勤仕はしていない。本所林町5丁目横町に住んでいて、先祖が厩用に拝領していた南本所・三ッ目通りの1200坪余の敷地の地代でけっこうな暮らしぶりだという。
「いや。手前は、『寛永譜』をのぞいただけですが、始祖の左近宗勝(むねかつ)という方から三代目までは、きちんとお馬医だったようです」
【ちゅうすけ注】 『寛政譜』の前序は、出源をこう記している。
この家、旧記を失して先祖の出るところ詳(つまびらか)ならずという。
今、庶流鎰太郎宗英が家伝を按ずるに、その先、田原又太郎忠綱(官本系図・足利又太郎忠綱につくる)が後裔にして、陸奥国宮崎の寨(とりで)に住するがゆえに宮崎を称し、左近宗重がとき外家の称を冒して桑島にあらため、馬医をもって業とす。宗勝はその男なり。
陸奥国(むつのくに)津軽郡(つがるこおり)桑島村(257石余)は、現在は青森県中津軽郡西目屋村杉ヶ沢大字宮崎である。
(陸奥国桑島出自の桑島家が幕臣となってからの『寛政譜』。上段右端の宗勝から三代が馬医)
(始祖・宗勝と五代目・持古の個人譜)
「それだけの仔細をお漏らしいただけば、十分でございます。かたじけのうございます」
「いや、頼まれ甲斐があったというものです。ところで、銕三郎どのに、たまには、老人の話相手にお越しくだされと、お伝えのほど、お願いいたします」
「承知いたしました」
その夕べ、宣雄が地券(ちけん)屋の〔丸子(まりこ)屋〕彦兵衛を呼んだことはいうまでもない。
用人・松浦と銕三郎(てつさぶろう 19歳 家督後の平蔵宣以=小説の鬼平)を同席させたうえで、中根書物奉行から聞いた桑島家の三ッ目の土地が手に入らないか、探索するように命じた。
〔丸子屋〕彦兵衛が退去してから、宣雄が銕三郎に言った。
「中根どのの非番を日を調べて、お訪ねするように。そのときには、お礼を届けてもらいたいから、事前に日時を教えること。それから、なるべく早く、南本所三ッ目菊川町の桑島家持ち分の1200余坪を見てくるように。できれば、その敷地からお城までに要する時間を実測してもらいたい。晴、雨、雪の日と、勘案してな」
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