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2008.02.21

銕三郎(てつさぶろう) 初手柄(3)

万年橋の南詰の右手に、霊雲院という曹洞宗の名刹がある。将軍・吉宗による開基を得たという。。
『鬼平犯科帳』巻15長編[雲竜剣]で、この寺の前あたりで、うなぎ売りの屋台を出していたのが忠八。そのことを〔笹や〕のお鬼平に告げて、重要な手がかりとなった)。
もっとも、この時の銕三郎(てつさぶろう 18歳 のちの平蔵宣以)から30数年ものちの話だから、銕三郎は霊雲院の閉ざした山門を見てもなんの感慨もおぼえない。

【ちゅうすけ注】霊運院はいまはこの地にはない。戦災で東村山へ引っ越し、寺号を霊運院としたが、庵主が亡くなって、無住のようだ。ホームページ[『鬼平犯科帳』と彩色『江戸名所図会』]〔週間掲示板〕2005年1月1日をご覧ください。
なお、万年橋の北詰には正木稲荷が『剣客商売』の時代にもあった。秋山小兵衛は、おはるに漕がせた小舟を、この稲荷の前の茶店に預けるのがいつものやり方であった。

_360
(本多組の巡視順路 新大橋付近 近江屋板)

万年橋を渡り、幕府の籾蔵(もみぐら)の前から大川に架かっているのが新大橋。その北はずっと旗本の屋敷がつづく。
馬を並べている本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 2000石)が話しかけた。
銕三郎どの。今夜はあと、なにごとも起きそうにない。遅くなっては母ごが案じられよう。新大橋からお帰りになってはいかが?」
「えっ? あ、お願いでございます。両国橋までお供させていただくわけには参りませぬか?」
「当方は、一向にかまわぬ」
「若侍の桑島も従っております。母上はなにも心配してはおりませぬ」
「けなげなことよ、のう。銕三郎どのの意のままになされい」

事件は、その先の、舟蔵南端の向いの辻番所で起きた。
いや、起きたと言っては言いすぎかもしれない。
しかし、銕三郎が新大橋から帰っていたら、起きなかったはずである。

その辻番所は、舟蔵前の幕臣数軒が話し合って設けているものだが、火盗改メが巡行しているというのに、表の戸を閉め切っていたのだ。
本多組の小者が戸を叩いて、
「火盗改メ・加役(かやく 助役 すけやくの別称)・本多さまのご巡察である。戸をあけられよ」
中から、しぶしぶ、戸があけられた。
本多紀品が馬上から睨みつける。
40がらみの辻番人は、ようやく頭をさげた。

銕三郎は、本多組頭の左手にいたので、辻番人のほうは見ていなかったが、口取をしていた藤六(とうろく 45歳)が銕三郎の袴を引いて、声をださないで口を開閉した。
腰を折って近づけると、かすかな声で、
「若。辻番人をご覧なさいませ。江ノ島の宿で見かけた男に似ております」
「む。弥兵衛にか---」
藤六がうなずく。
銕三郎は、紀品の肩ごしにそっと見たが、辻番人は、番所の中の灯火を背にしているので、顔は暗くてよくわからない。
江ノ島では、本多紀品の名を公けにしているから、こちらの顔を見せてはいけないとおもったために、よけいに確かめられない。
(ま、確かめる手立てはいくらもあろう。ここは、そ知らぬ体(てい)でいたほうがよかろう)
藤六にも、そのように伝えた。

一行は、そのまま、一ッ目の橋へ向かう。

_120【ちゅうすけ注】武家屋敷の辻番所は、昼夜を問わず表の戸をあけておくこと、という触書(ふれがき)は、宝暦13年(1763)のこの時よりも100年も前の寛文10年(1670)から出ているし、その後もしばしば触れられている。もっとも近いのは4年後の明和4年(1767)の触れ。いくら禁止されても寒い季節には、深夜はやはり、表戸を立てたいのが人情というもの。
また、辻番人として無宿悪党がもぐりこんでいることがままあるから---という触れも出ている。手元にあるのは、安永7年(1778)の禁止令。
長谷川平蔵にからんだこの種の史実としては、2006年5月20日[過去は問わない]に公開している。

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