過去は問わない
「もし、鈴木さま。お耳をちとお貸しくださりませ」
長谷川組同心:鈴木某を小声で呼びとめたのは、内藤新宿の隠れ娼妓屋〔胡蝶〕のあるじ、庄助だった。
長谷川平蔵が組頭に就任する前、鈴木はこの店の常連……とはいっても、役人風をふかせて正規の料金2朱(1両=10万円として2万5000円)の半分以下で遊んでいたのだが。
平蔵が火盗改メ・本役に就(つ)いた天明8年(1788)からこっち、この3年半というものは、足がすっかり遠のいていた。
見廻り地区替えで市ヶ谷、四谷、千駄ヶ谷、新宿の担当となり、〔胡蝶〕の前を久しぶりに通って呼び止められた次第。
庄助が鈴木同心をもの陰へみちびいてささやくには、昨日から居つづけている男が、遊び料として盗品らしい反物3本を預けたという。
「あいわかった。適当な口実をもうけて帰らせろ」
出てきた中間ふうを尾行していくと、なんと、平河天満宮(千代田区平河町1丁目)のはす向い、但馬・豊岡藩の京極高有(1万5000石)の上屋敷のくぐり門へ消えたではないか。
麹町通りに面した豊岡藩・京極家の上屋敷(近江屋板)
ことの経緯を報告すると、平蔵がいった。
「よくやった、鈴木。ついでだからもう一と働きしてくれい。旬
日前に、豊岡侯の屋敷と目と鼻の先、麹町6丁目の呉服商
〔岩城屋〕へ入った賊が金品を盗んでいった。そこでだ、その
方が尾行した男が親分と仰いでいる者をつきとめてもらいた
いのだ」
『江戸買物独案内』(文政7年 1824刊)に掲載の
麹町・岩城屋の広告
18歳の京極高有は、若年寄・京極備前守高久(丹後峰山藩主。1万1千余石)の五男で、1年前の寛政3年(1792)春に養子に入ったばかりだった。
平蔵はその晩、木挽町(こびきちょう)の私邸へ備前守を訪ねて事情を説明し、豊岡侯の中間部屋を監視する許しをもとめた。
備前守高久は、小説では平蔵の理解者として描かれているが、伝聞ではこの火盗改メの長官(かしら)のやり方をあまりこころよくは思っていなかった。
さて、豊岡侯の中間たちを見張っていると、はたして、屋敷の南東角に置かれた辻番所へ詰めている勘太が、じつは相模生まれの泥棒の首領……〔鴫立沢(しぎたつさわ)〕の勘兵衛らしい。が、中間部屋とはいえ、火盗改メは大名屋敷へむやみに踏み込むわけにはいかない。一味が仕事に出かけるのを待って捕らえた。
そのやりようも、京極備前守は気に入らない。平蔵を城中の執務室へ呼びつけ、
「その者が盗人とわかったときに知らせてくれれば、お払い箱
にできたものを。それから捕らえても遅くはなかったのではな
いのか?」
帰邸後、鈴木同心に対したときの平蔵はすでに温顔をとり戻していた。
「こたびの気ばたらき、みごとであった。それにつけても馴染み
の店は大事にしておくものよな」
鈴木某が「この長官のためなら…」と思いさだめたことは間ちがいない。
つぶやき:
これは史実をもとに、若干の推察を加えたものであるが、小説とおもっていただいても一向にかまわない。ただし鈴木同心など、人物・店名はすべて実名。
【参考】相州・小いその鴫立沢(しぎたつさわ)を、
2008年1月30日[与詩(よし)を迎えに](36)に『東海道名所図会』の絵に彩色して掲示・説明しています。
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コメント
相州・小いその鴫立沢(しぎたつさわ)を、
2008年1月30日[与詩(よし)を迎えに](36)に『東海道名所図会』の絵に彩色して掲示・説明しています。
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2008/01/36_0279.html
投稿: ちゅうすけ | 2008.02.21 10:42