与詩(よし)を迎えに(番外)
【訂正とお詫び】
2008年1月5日[与詩(よし)を迎えに](16)で、駿府で銕三郎(てつさぶろう)が宿泊したのは脇本陣〔大万屋〕清右衛門方とした。
宿名は、岸井良衛さん『五街道細見』(青蛙房 1959.3.15 再版)から拾った。
同書には町名が記されていなかったので、城下を東西に通っている東海道筋のどこかとふんで、本通りとし、その地図を添えた。
青○の地点がそれである。
(駿府町地図 青○=本通りに面した本陣〔大万屋〕 赤○=町奉行所
緑○=奉行所与力屋敷 黄○=同心屋敷 ピンク面=寺社地)
SBS学苑パルシェ〔鬼平〕クラスは開講5年になる。ここで共に学んでいる安池さんが、[与詩(よし)を迎えに](16)を読んで、〔大万屋〕の所在を調べてくださった。
研究書のコピーによると、駿府の旅籠のほとんどは、本通ではなく、伝馬町に集中していたようである。駿府城の東南にあたる、東海道筋の一郭である。
(青○上伝馬町の〔大万屋〕清右衛門 )
上伝馬町 上本陣 望月治右衛門
建坪=191坪
同 脇本陣 松崎権左衛門
下伝馬町 下本陣 小倉平左衛門
建坪=215坪
同 脇本陣 平尾清三郎
旅籠40軒(うち、大旅籠3軒)
それで、『五街道細見』の記述を詳細に見たら、〔大万屋〕清右衛門には「脇」ではなく「宿」の略号がついていたから、「脇本陣」を「大宿」と訂正し、お詫びする(1月5日の記述は、安池さんのご教示を称えるために、誤記のまま残しておく)。
別の資料には、上伝馬町の脇本陣として、太兵衛 建坪=107坪もあがっているが、安池さんからいただいた配置図には、見あたらない。
(上伝馬町の旅籠群・西寄り部分 青=旅籠 緑=本陣 赤=寺社
青○ 大宿・〔大万屋〕清右衛門)
また、別の資料には、札之辻町の〔難波屋〕仁左衛門方と車町の中村善左衛門方が加番本陣だったとある。本・脇本陣が満杯のときに臨時に本陣の役をつとめたのであろう。
〔大万屋〕清右衛門が本通りでなく上伝馬町に移転しても、町奉行所までの距離がほとんど同じだったのは、奇遇である。
さらに付記すると、上伝馬町、下伝馬町の呼称は、京都により近いほうを上、その逆の地区に下とつけるのが、当時の呼称のつけ方であった。
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コメント
よく、青は旅籠とお解かりになりましたネ。説明不足と思っておりましたが。実際に現地に行ってみますと本陣跡に案内標識がたっておりました。面影は全くありませんが。ついでに書いてしまうのですが、上段の一番左側「松崎屋 源兵衛」方が西郷隆盛と山岡鉄舟が、徳川家存続と江戸城開城について談判したところです。
投稿: SBS学苑〔鬼平〕クラス 安池 | 2008.02.06 11:20
「松崎屋 源兵衛」方---本陣や脇本陣でなく、ふつうの旅籠で談判ょをしたっていうのも、なにやら、おかしいですね。
投稿: ちゅうすけ | 2008.02.06 12:27
なぜ、この時、西郷さんが松崎屋に宿泊したのかは調べてありません。でも、そういう理由でここは静岡市指定史跡になっております。もしかしたら、本陣には飯盛がいなかったからでしょうか。
投稿: SBS学苑〔鬼平〕クラス 安池 | 2008.02.06 13:39
まさか!
投稿: ちゅうすけ | 2008.02.06 14:28