ちゅうすけのひとり言(3)
のちに、幕臣・三宅半左衛門徳屋(のりいへ 西丸・小十人 廩米100俵)に嫁(とつ)ぎ、離縁された与詩(よし)が、駿府の町奉行だった朝倉家から長谷川家の養女として、江戸へくだってくる経緯を40数回、記した。
【参考】与詩の出生を話しているのは、2005年12月24日[与詩(よし)を迎えに](4)
父・朝倉仁左衛門景漸増(かげ)の個人譜は、2005年12月26日 [与詩(よし)を迎えに](6)
時を、宝暦13年(1763)2月---と設定した。
与詩は、6歳。
父・平蔵宣雄(のぶお 本丸・小十人組・第5番手の頭=役高1000石 家禄400石)は、45歳。
迎えに行った銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため、18歳。
改めて書くと、父・宣雄は、この10年後の安永2年(1773)6月、京都西町奉行に在職中に55歳で病歿しているから、45歳は動かない。
また、銕三郎は父の死により家督後、平蔵を襲名、寛政7年(1795)5月に50歳で卒しているから、宝暦13年に18歳であったことも、間違いない(年齢は、当時の習慣にしたがっていずれも数え齢である)。
再度、『寛政重修諸家譜』から平蔵宣以の個人譜と妹たちを引用する。
(平蔵宣以と妹たち)
(妹たち拡大 赤側線が与詩)
与詩は、銕三郎の父・宣雄の養女とり、成人して、三宅半左衛門徳屋の最初の妻となったものの、離縁、長谷川家へ戻って平蔵宣以=小説の鬼平の厄介として過ごしたらしい。
歿してからは、長谷川家の菩提寺である四谷・須賀町9の戒行寺に葬られたとおもうが、霊位簿はまだ確認していない(研究家の釣 洋一氏の調べもそこまでは及んでいない)。
さて、まずは、嫁ぎ先の、三宅徳屋の家譜を検してみよう。
(三宅半左衛門・個人譜)
与詩が離縁されたあと、後妻が入っている。
徳屋の嫡男で、家督した左門徳昌(のりまさ)は、後妻が産んでいる。
しかも、宝暦5年(1755)に、である。
ということは、与詩の離婚の理由は、3年かそれぐらい経っても、子を産めなかったこととしても、宝暦5年には、彼女はまだ生まれていないのである。
面妖である。
諸種の史実から、宝暦13年の与詩は6歳と断じたのである。。
その宝暦13年---半左衛門徳屋は、49歳。
家督は、享保16年(1732)だから、18歳。
お目見(めみえ)は、宝暦5年(1755)で41歳。すでに書いたように、与詩はまだ生まれていない。
どこかで、間違いを冒かしたにちがいない。
自分か、あるいは、 『寛政譜』をまとめた幕府の担当者か、版元か。
謎の解明は、これから時間をかけて、じっくりと行おう。
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