本多采女紀品(のりただ)(4)
「本多讃岐守昌忠(まさただ)どののことをお訊きしてよろしゅうございますか?」
銕三郎(てつさぶろう 18歳 のちの平蔵宣以 のぶため=小説の鬼平)が言ったとき、父・宣雄(のぶお 45歳)が、
(あれほど、他家のことを詮索してはならぬ、と言いきかせているのに、困ったことになった)
といった表情をした。
その気配を察した本多采女紀品(のりただ 49歳 先手・弓の16番手の頭 2000石)が、
「おお、そのことよ。銕三郎どのも、いずれ家督・出仕されれば、いやというほど、本多姓の者どもとお付き合いなさるであろうから、いま、心得ておいてもご損にはなるまい」
本多紀品が話したことを要約すると、次のようになる。
本多家は、もともと、藤原の流れで、助秀(すけひで)が豊後国本多郷に住み、郷名を姓として称したことから始まる。識者によると、本多郷がどこであったかは、いまのところ、特定されていないと。
本多一族のうちで、早くに三河国へきて、松平(のちの徳川)泰親(やすちか 家康の11代前)の配下に入った者たちがいるらしい。
うち、2門の家譜が記録されている。
定通(さだみち)と定正(さだまさ)である。
定通の一族で名が高いのは、平八郎忠勝(ただかつ)と忠刻(ただとき)といってもよかろうか。
平八郎忠勝は、家康の陣営にあってまだ20代のときに、敵・武田方から「家康に過ぎたるもの二つあり。唐獅子頭と本多忠勝」と、その勇猛ぶりをはやされたという逸話が伝えられている。
【参照】2007年6月13日[本多平八郎忠勝(ただかつ)の機転 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
忠刻は、秀忠(ひでただ)のむすめ・千姫を正室に迎えたことで知られている。忠刻その人は31歳で卒したので、千姫は剃髪して天樹院と号した。
一方の定正の流れには、家康のために知略・策謀をめぐらせたで本多正信(まさのぶ)・正勝(まさかつ)父子、駿州・田中城主の本多伯耆守正珍(まさよし)もそうだし、本多紀品自身もそう。
【参考】2007年5月15日[本多伯耆守正珍の蹉跌 (1) (2) (3) (4)
2007年7月7日[本多佐渡守正信]
「豊後から遅れて東上し、大権現家康公の麾下となったのが、讃岐守昌忠どのの祖・権左衛門正敏(まさとし)どのでしてな。その息・権右衛門正房(まさふさ)どのは、大坂の夏の陣で、燃える城中から千姫さまをお救いしたお一人なのです」
「縁(えにし)ですな」
感に堪えたような声をだしたのは、宣雄であった。
(火盗改メ・本多讃岐守昌忠の個人譜)
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