本多伯耆守正珍の蹉跌(その2)
平蔵宣雄(のぶお)の後ろ楯だったかもしれない、駿州・田中藩主の本多伯耆守正珍(まさよし 49歳)が、在職足かけ6年たらずの宝暦8年(1758)9月2日に老中を罷免された経緯を記している。
宝暦8年12月25日の『徳川実紀』を見てみよう。
美濃国郡上城主・金森兵部少輔頼錦(よりかね 46歳)は、封地を収公され、南部大膳大夫利雄(としかつ 盛岡藩主 20万石)に預けられ、その子・出雲守頼元をはじめ、二、三男まで同じく士籍を削り去られる。
これはさきに、領地の租賦を検見(けみ)法をとったので国民が擾乱を起こしたので、いたし方なく、その年は定免法にしたが、それでも先に布告した検見法をあきらめなかった。
それで、勘定奉行・大橋近江守親義(ちかよし 2120石)に頼み、美濃郡代・青木次郎九郎安清(やすきよ 73歳 200俵)をして農民をあれこれ説得させて承諾させた。
また、縁のある宿老・本多伯耆守正珍に仔細を告げて相談をもちかけ、他の老中にも指示を仰いだなどと、顕職の人たちの名を書簡に載せた。さらに大目付・曲渕豊後守英元(ひでもと 1200石)および近江守親義、次郎九郎安清にも言いおくっていたが、じつは老中たちには相談したことはなかったのである。
また、領民の代表が老中の駕籠に直訴したのを、上裁をまたずに勝手に斬首したことも違法である。
結果、郡上(八幡)藩士で遠流になった者2人、斬首された者2人、追放された者6人。
郡上藩の画策
この事件でみるかぎり、本多伯耆守正珍は情に篤すぎ、深めた学問にもかかわらず政治の本道をあやまったといえるが、この情の濃さは肉親だけにかけられたのではなく、部下にもおよんでいるから、田中城がらみで、平蔵宣雄の引きたてにも関係したとみたい。
もっとも、伯耆守正珍の処分は、宣雄の小十人頭への昇進発令の13日前である。正珍の処置はその前から御用部屋の議題であったろう。とすると、宣雄の昇進への手くばりはそのずっと以前から行っていたとみるべきであろう。
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コメント
・・・・ということは平蔵宣雄の西の丸小十人頭昇進は間一髪でしたんね。
老中本多正珍の罷免が決定していたら、彼の後ろ盾はかえって仇になったかもしれません。
運が強いのですね。
投稿: みやこのお豊 | 2007.05.16 09:28