与詩(よし)を迎えに(37)
大磯宿から平塚宿は、27丁(ほぼ3km)。
宿はずれの馬入村で、銕三郎(てつさぶろう 18歳 のちの平蔵宣以 のぶため)は、土地(ところ)の顔役である〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 35歳)と対面することになっている。
阿記(あき 21歳)が、姑(しゅうとめ)の嫁いびりがはげしいのに耐えかね、嫁家先---平塚宿・西中町で太物商いをしている〔越中屋〕との縁を切りたいと、箱根六湯の一つ---芦の湯村の実家へ逃げるようにして帰った。
その後を追って、夫・幸兵衛(こうべえ 25歳)が、脅し役の勘兵衛を雇って、阿記の実家・〔めうが屋〕へ乗り込んできた。
折りよく、駆けつけてきた、箱根山道の荷運び雲助の頭格の〔風速(かざはや)の権七(ごんしち 31歳)が仲に入り、阿記には、江戸の旗本の嫡男・長谷川銕三郎宣以という庇護者ができた---この仁は将来の大器だから、勘兵衛も辞を通じておいて損はない---いや、大いに得をもらえるはずだと口説いて、ことを納めた。
銕三郎の一行は、大磯宿の旅籠〔鴫立(しぎたつ)屋〕を六ッ半(7時)に発(た)った。
馬上の阿記は、昨夜、銕三郎に見せた熊野比丘尼の黒頭巾の下に半髪をかくしてその上から深めの網代笠をかぶり、同じような網代笠を頭にのせている与詩(よし 6歳)を、前に抱いている。
ここからが平塚宿---という西はずれの(古)花水川に架かった43間(77m余)の板橋をわたるころ、阿記は躰をこわばらせていたが、見上げる銕三郎のやさしげな目に、うなずくだけの余裕を、まだ保っていた。
橋のたもとに、勘兵衛の身内の者と一ト目でわかる若いのが立っていた。
それから1丁(109m)おきくらいに、こういう任務に馴れていないらしく、妙に肩をいからせたのが見張っている。
(平塚宿 『東海道分間延絵図』部分 道中奉行製作
左端が古花水川。家々の真ん中を東海道が東西に)
〔越中屋〕も、店はあけていたが、幸兵衛は店頭には出ていない。
今朝、阿記の一行が通ることを、〔馬入〕の勘兵衛は、さすがに漏らしてはいなかったとみえる。
一行は、店の前を、ふつうの旅人のような物腰で、通りすぎた。
八幡宮の大鳥居の前もすぎた。
この宮は、平塚新宿・八幡・馬入の3村の鎮守と、ものの本にある。
宮前から5丁ほどで、馬入川の渡舟場である。
銕三郎は、藤六(とうろく)をつけて、次の宿場の藤沢の本陣・〔蒔田屋〕源左衛門方で休んでいるようにと、阿記と与詩の馬を先に行かせた。
藤六は、連夜、褥(しとね)をともにしてきた都茂(とも 〔めうが屋〕の女中頭)のお相手から解放された一夜をすごして、晴ればれしい顔をしている。
馬入川から藤沢宿までは3里12丁(14km)たらずである。
馬入渡舟場の手前の蓮光寺の西隣が、勘兵衛が妾にやらせている料理屋---会見場所の〔榎(えのき)屋〕である。
銕三郎と権七は、阿記たちが向こう岸へ着いたのをみさだめてから、〔榎屋〕の入り口をくぐった。
朝なので、料理屋はしんとしている。
若いのが出てきて、奥へ案内した。部屋々々からは、しみついている酒の匂いが廊下までただよってくる。あまり呑まない銕三郎の鼻は鋭い。
部屋へ入ると、さすがである、勘兵衛は下座にいて、丁寧に頭をさげた。
権七が仲をとりもって、あいさつの交換がすむと、勘兵衛は、配下が捧げている徳利をとって、
「朝っぱらから、お近づきの盃というのもなんでごぜえますが---」
と冷酒を注いだ。
形だけ唇を湿らせた銕三郎は、盃洗をくぐらせた盃を返した。
儀式が終わると、
「ときに、〔榎屋〕のご亭主どの。使用人の中で、この数日のうちに、金遣いが大きくなった仁はいませぬか?」
勘兵衛が不審げな顔をすると、
小田原の〔ういろう〕の盗難のことを話して、遠国(おんごく)の盗賊の仕業(しわざ)と観じているが、すべての手兵を連れてきたとはおもえない。見張りの2、3人は、土地勘のある土地(ところ)の者に口をかけているかもしれない。
「おこころあたりは、ございませぬか?」
「さて、うちの者は、手なぐさみはしても、盗みの手先までにはならねえとおもいますが」
「ごもっとも。いかがでしょう? もし、ご亭主どののお耳に、いま申した、金遣いのあらくなった者の噂が入りしたら、江戸の火盗改メのお頭(かしら)・本多采女紀品(のりかず)どのの相談役---この長谷川銕三郎宣以の代理と申されて、代官所へお届けくださらないでしょうか?」
一瞬、沈黙した勘兵衛は、膝を打って、
「きっと、承知いたしやした」
銕三郎が立ち去ってから、勘兵衛が、残った権七に、しみじみとした声で言った。
「えれえ若者がいたもんだなあ。この俺さまを、〔榎屋〕のご亭主どの---と決めつけて、煙ったい代官所へさっと結びつけた知恵もすごいが、江戸の火盗改メのお頭・本多采女紀品(のりかず)どのの相談役---長谷川銕三郎宣以の代理と申されよ---にゃあ、この勘兵衛も恐れ入ったわ。いや、金では買えねえ、みごとな手裁きよ」
「な、言ったとおりの、でかブツだったろうが---惚れねえ女もいねえだろうが、男のほうがもっと惚れるぜ」
【参考】本多采女紀品の個人譜は、2008年1月23日[与詩(よし)を迎えに](33)
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