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2008年1月の記事

2008.01.31

与詩(よし)を迎えに(37)

大磯宿から平塚宿は、27丁(ほぼ3km)。
宿はずれの馬入村で、銕三郎(てつさぶろう 18歳 のちの平蔵宣以 のぶため)は、土地(ところ)の顔役である〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 35歳)と対面することになっている。

阿記(あき 21歳)が、姑(しゅうとめ)の嫁いびりがはげしいのに耐えかね、嫁家先---平塚宿・西中町で太物商いをしている〔越中屋〕との縁を切りたいと、箱根六湯の一つ---芦の湯村の実家へ逃げるようにして帰った。
その後を追って、夫・幸兵衛(こうべえ 25歳)が、脅し役の勘兵衛を雇って、阿記の実家・〔めうが屋〕へ乗り込んできた。
折りよく、駆けつけてきた、箱根山道の荷運び雲助の頭格の〔風速(かざはや)の権七(ごんしち 31歳)が仲に入り、阿記には、江戸の旗本の嫡男・長谷川銕三郎宣以という庇護者ができた---この仁は将来の大器だから、勘兵衛も辞を通じておいて損はない---いや、大いに得をもらえるはずだと口説いて、ことを納めた。

銕三郎の一行は、大磯宿の旅籠〔鴫立(しぎたつ)屋〕を六ッ半(7時)に発(た)った。
馬上の阿記は、昨夜、銕三郎に見せた熊野比丘尼の黒頭巾の下に半髪をかくしてその上から深めの網代笠をかぶり、同じような網代笠を頭にのせている与詩(よし 6歳)を、前に抱いている。

ここからが平塚宿---という西はずれの(古)花水川に架かった43間(77m余)の板橋をわたるころ、阿記は躰をこわばらせていたが、見上げる銕三郎のやさしげな目に、うなずくだけの余裕を、まだ保っていた。
橋のたもとに、勘兵衛の身内の者と一ト目でわかる若いのが立っていた。
それから1丁(109m)おきくらいに、こういう任務に馴れていないらしく、妙に肩をいからせたのが見張っている。

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(平塚宿 『東海道分間延絵図』部分 道中奉行製作
 左端が古花水川。家々の真ん中を東海道が東西に)

〔越中屋〕も、店はあけていたが、幸兵衛は店頭には出ていない。
今朝、阿記の一行が通ることを、〔馬入〕の勘兵衛は、さすがに漏らしてはいなかったとみえる。
一行は、店の前を、ふつうの旅人のような物腰で、通りすぎた。

八幡宮の大鳥居の前もすぎた。
この宮は、平塚新宿・八幡・馬入の3村の鎮守と、ものの本にある。

宮前から5丁ほどで、馬入川の渡舟場である。
銕三郎は、藤六(とうろく)をつけて、次の宿場の藤沢の本陣・〔蒔田屋〕源左衛門方で休んでいるようにと、阿記与詩の馬を先に行かせた。
藤六は、連夜、褥(しとね)をともにしてきた都茂(とも 〔めうが屋〕の女中頭)のお相手から解放された一夜をすごして、晴ればれしい顔をしている。

馬入川から藤沢宿までは3里12丁(14km)たらずである。

馬入渡舟場の手前の蓮光寺の西隣が、勘兵衛が妾にやらせている料理屋---会見場所の〔榎(えのき)屋〕である。
銕三郎権七は、阿記たちが向こう岸へ着いたのをみさだめてから、〔榎屋〕の入り口をくぐった。
朝なので、料理屋はしんとしている。
若いのが出てきて、奥へ案内した。部屋々々からは、しみついている酒の匂いが廊下までただよってくる。あまり呑まない銕三郎の鼻は鋭い。

部屋へ入ると、さすがである、勘兵衛は下座にいて、丁寧に頭をさげた。
権七が仲をとりもって、あいさつの交換がすむと、勘兵衛は、配下が捧げている徳利をとって、
「朝っぱらから、お近づきの盃というのもなんでごぜえますが---」
と冷酒を注いだ。
形だけ唇を湿らせた銕三郎は、盃洗をくぐらせた盃を返した。

儀式が終わると、
「ときに、〔榎屋〕のご亭主どの。使用人の中で、この数日のうちに、金遣いが大きくなった仁はいませぬか?」
勘兵衛が不審げな顔をすると、
小田原の〔ういろう〕の盗難のことを話して、遠国(おんごく)の盗賊の仕業(しわざ)と観じているが、すべての手兵を連れてきたとはおもえない。見張りの2、3人は、土地勘のある土地(ところ)の者に口をかけているかもしれない。
「おこころあたりは、ございませぬか?」
「さて、うちの者は、手なぐさみはしても、盗みの手先までにはならねえとおもいますが」
「ごもっとも。いかがでしょう? もし、ご亭主どののお耳に、いま申した、金遣いのあらくなった者の噂が入りしたら、江戸の火盗改メのお頭(かしら)・本多采女紀品(のりかず)どのの相談役---この長谷川銕三郎宣以の代理と申されて、代官所へお届けくださらないでしょうか?」
一瞬、沈黙した勘兵衛は、膝を打って、
「きっと、承知いたしやした」

銕三郎が立ち去ってから、勘兵衛が、残った権七に、しみじみとした声で言った。
「えれえ若者がいたもんだなあ。この俺さまを、〔榎屋〕のご亭主どの---と決めつけて、煙ったい代官所へさっと結びつけた知恵もすごいが、江戸の火盗改メのお頭・本多采女紀品(のりかず)どのの相談役---長谷川銕三郎宣以の代理と申されよ---にゃあ、この勘兵衛も恐れ入ったわ。いや、金では買えねえ、みごとな手裁きよ」
「な、言ったとおりの、でかブツだったろうが---惚れねえ女もいねえだろうが、男のほうがもっと惚れるぜ」

【参考】本多采女紀品の個人譜は、2008年1月23日[与詩(よし)を迎えに](33)

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2008.01.30

与詩(よし)を迎えに(36)

小田原宿から大磯宿までは、4里(16km)。
さしたる山道もなく、馬上の阿記(あき 21歳)と与詩(よし 6歳)は、母子のようにも見えるほど、打ち解けた、他愛もない会話をつづけている。
(おんなというのは、与詩のような幼い齢ごろから、もう、おしゃべりが止まらないんだ)
馬の横を後になり先になりしてあゆんでいる銕三郎(てつさぶろう 18歳)の発見である。

「長谷川さま。大磯の旅籠は、どうなさいます?」
小いそ村(鴫立沢 しぎたちさわ)で、〔風速(かぜはや)〕の権七(ごんしち 31歳)が訊いてきた。

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(鴫立沢 鴫立庵『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

阿記どのを伴っての本陣・〔尾上市左衛門方というわけにもいかないでしょうな」
「あっしの顔見知りの、〔鴫立(しぎたつ)利助ではいかがです? 本陣や脇本陣とは格式も風格もどっと落ちますが、落ち着くことは落ち着けます。本街道から一本、山側の道路に面しておりやすが---」
銕三郎はうなずいて、
阿記どの。権七どのが、〔鴫立屋〕という旅籠をおすすめだが、いかがです?」

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(秋暮鴫立沢 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

「心なき 身にもあわれはしられけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕ぐれ
旅籠の名前も気に入りました。泊めていただきましょう」
阿記どのは、学があるんだなあ」
「とんでもございません。鴫立沢(しぎたつさわ)は、嫁(とつ)いだ平塚宿にも近いし、『新古今』に選ばれている西行上人さまの名歌ですから、覚えていただけです」

さっそくに与詩が教えてくれと頼んだ。
「このあたりの秋の景を詠んだのですよ」
「あきって、あき(阿記)あねうえ(姉上)のことですか?」

「こころなき みにも あばれば---」
与詩さま。あわれは---です」
「でも、あき(阿記)あねうえ(姉上)は、あにうえ(兄上)のことがだいす(大好)きだから。あわ(哀)れではありましぇん---せん」
阿記が顔を真っ赤にしている。躰中がほてったらしい。
銕三郎は苦笑し、権七藤六は笑っている。

大磯宿の入り口で、追っかけてきた、20歳前の仙次(せんじ)という若いのが、
「お頭(かしら)。〔ういろう〕の猫道の汲み取り戸のことがわかりました」
という。
「これ、仙次。場所がらってものを心得ろ、こんなところで、バカでかい声でしゃべるんじゃねえ。〔鴫立屋〕で、ゆっくり、長谷川さまに、お話し申しあげろ」
仙次どの。遠路、ご苦労でした。旅籠で気つけを一杯おやりになってから、承ります」
銕三郎の応対に、権七がしきりに頭をふって感じいっている。
仙次どの」と奉られた当の本人も、すっかり気をよくして得意顔になっている。

藤六は、〔尾上市左衛門あての銕三郎の請(こ)い状をもって、本陣へ向かった。父・宣雄が前もって送っておいた宿泊代から、取り消し手数料を差し引いた分を受けとりにまわった。

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(大磯宿(部分) 『東海道分間延絵図』 道中奉行制作)

鴫立屋〕では、権七に割り当てられた部屋で、仙次が湯呑みの冷酒をすすりながら調べたことを報告している。
小田原の薬舗〔ういろう〕の東の猫道の閉まりっぱなしの戸は、厠の汲み取り口へ通じているもので、毎月1回、月始めに、城下に接している一色村の百姓・八蔵がきたときだけに開け閉めするのだという。
この月も、八蔵は月初めにきて、汲んでいった。
そりからこっち、賊が侵入した夜まで、落し桟を動かした者はいない。戸の下の厚い木枠の穴へ落ちて錠がわりの働きをしている縦の落ち桟は、盗賊たちが立ち去ったあと、しっかりと下の穴にはまっていた。
それで、調べにきた町奉行所の同心へも告げなかったのだが、仙次に訊かれて改めて検分してみたら、縦におちる桟を、上げた時に横から留める留め木口と、落とした時の桟を錠がわりに留める木口に、巧妙な仕掛けがほどこされていることがわかった。
両方の木口の中に四角い鉄の塊が入っているのが見つかったのは、ほかの雨戸の木口とくらべると、動かす時の手ごたえが重いように感じられると、下僕が気づいたたからである。
仕掛けた者は、木口のすべりをよくするために、溝に蝋を薄く塗っていたという。
つまり、外から、戸の板ごしに、強い磁石で木口を動かすことができたわけだ。

「〔ほうらい〕が、何かの普請で、大工を入れたのは何時だって言ってましたか?」
「4年前の春だそうです」
(あのとき、〔荒神屋〕の助太郎に小田原宿の松原神社で会った)
「細工をした者は、多分、流れ大工でしょう。その仕掛けを、磁石ともども、盗賊の頭に売ったのです。普請に入った棟梁に、その流れ大工のことを訊くのはいいが、棟梁に疑いをかけてはならないと、〔ほうらい〕藤右衛門どのに、江戸の火盗改メ・本多紀品(のりただ)どのの相談役の長谷川宣以(のぶため)が、しかと念を入れていたと、ご苦労ですが、申しつけてください」
急につくった威厳に、同年輩の仙次は恐れ入り、権七はたのもしげに銕三郎を見やった。

(しかし、〔荒神屋〕助太郎の仕業とすると、盗賊の頭分としての助太郎は、さして、大物ともおもわれないな。逃げ口があの狭い猫道一つだと、まさかのおりに、一人ずつ躰を横にしないと通れまいから、ほとんどの配下が捕縛されてしまう。そういう危険をともなった儲け口を買うようでは、な)

仙次をねぎらうために、食事は、権七の部屋で、藤六も呼んで、とった。
与詩は、阿記の部屋で、ぼろぼろこぼしなから食べている。

部屋へ帰り、与詩が寝息を立てているのを確かめてから、寝着をもち、離れた突きあたりの阿記の部屋へ行って着替えた。
臥(ふ)せていた阿記が寝着1枚で起きて、銕三郎の衣服を畳む。
「髪を切ったのか?」
「はい。明日は、平塚を通ります。あさってには、鎌倉ですべて剃りおとします。切って黒頭巾でまとめたほうが、明日の朝、結う手間もはぶけますから」

手荷物の中から、いつだったか、〔めうがや〕に湯治にきた熊野の比丘尼衆の一人が置いていった黒頭巾を出して、阿記はかぶってみせた。

Photo
(熊野比丘尼の黒頭巾 『近世風俗志』(岩波文庫))

「もちろん、あす、〔越中屋〕の前を通りましても、さまと権七さんがごいっしょですから、恐れることはなにもないとはおもいますが---」
そういって、銕三郎をいざなった。

銕三郎の手を乳房に導いて、
与詩さまと湯へ入りましたら、しげしげと下の茂みをごらんになって、『たけ( 府中城内での乳母)のよりこ(濃)いね』ですって」
「そうか」
「ご覧になりますか?」
「いや。そういう趣味はない」
「それからね。乳を吸わせてほしいって。母上が産後、すぐにお亡くなりになったのだそうですね」
「拙も吸いたい」
「まあ」

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(国芳『葉奈伊嘉多』)

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2008.01.29

ちゅうすけのひとり言(2)

これは、まったくの独り言である。

史実の長谷川平蔵宣以(のぶため)と、小説の鬼平を調べていて、ふと生じた疑問や、こうではないか---と思いついたことを、だれにいうともなく、呟いている、そのメモみたいなものと言っておく。
だから、無責任な発言である。ちゅうすけ自身だけが興味をもったことに、すぎない。
いつ書き留めるという計画も、ない。折りにふれて、呟く。

鬼平が愛用している煙管(きせる)についてのメモである。

鬼平の悪癖は、寝煙草だという。
亡父・宣雄の遺品で、携帯用にやや小ぶりにつくられた銀煙管を用いる。
_60_2宣雄が京都西町奉行として赴任していた時、新竹屋町寺町西入ルに住む煙管師・後藤兵左衛門に特注したもので、裏家紋である〔釘貫(くぎぬき)〕を浮き彫りにさせた。15両支払った。(〔文庫巻6[大川の隠居]p1836 新装版p192)

ちゅうすけ注:】 [大川の隠居]を執筆時の池波さんの1両の換算額は5万円前後だったから、15両だと75万円から80万円相当。裏長屋の5人家族が1年はゆうに暮らせるほどの値段だったといえる。
〔釘貫〕の文様は、鎌倉期の釘抜きからきていると。

煙管師の後藤兵左衛門だが---。

その前に、池波さんが『鬼平犯科帳』を連載する自信をもったのは、西山松之助編『江戸町人の研究』(吉川弘文館 1973年から順次刊行)の第3巻に『江戸買物独案内』の全図版が収録されていたからであろうと、つい最近までおもっていた。

盗賊が押し入る店の所在、屋号などが参考になる。たとえば、藍玉問屋は本八丁堀、船松町、本船町、三十間堀、深川佐賀町といった、船の便のいいところへ集中していた---といった地理的なこともわかるからである。

鬼平愛用の煙管が、 [大川の隠居]でやっとあかされた事情は、こうであろう。
故・花咲一男さんという、江戸の風俗研究家がいらっしゃって、『江戸買物独案内』の復刻につづいて、1969年ごろ、京都版である『商人買物独案内』を会員制で頒布された。

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(花咲一男さんが復刻頒布した『商人買物独案内』)

池波さんは、これを入手した(つまり、会員になった---ということ。江戸版のときはまだ会員ではなかったから、あとで、相当な出費で出物を求めた。それまでは西山先生編『江戸町人の研究』第3巻所載分ですましていたのだろう)。

『商人買物独案内』の〔煙管〕のページは、つぎの図版のとおりである。

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19枠の煙管問屋の名刺広告の中に、ただ1枠、煙管師・後藤兵左衛門が出ている。つまり、有料広告をしている。
各問屋には、それぞれつくった製品を納める煙管師が数多くいるのだが、彼らは、京の職人として顔をかくしているのに、後藤兵左衛門は、しゃしゃり出た感じである。
いや、言葉が悪かった。宣伝ということの重要さを、細工師でありながら心得ていた、近代的な精神をもった煙管師であった。

池波さんが、京の煙管師の名前を小説に採りこむとすると、彼しか実名がわからない。
だから、 『剣客商売』でも、秋山小兵衛も、兵左衛門の煙管を愛用していたが、新妻・おはるの父が所望したので泣く泣くゆずり、自分は、名工・兵左衛門のところで修行して江戸で細工をしている、下谷・坂本3丁目の裏に住む友五郎作ので間に合わせる(文庫巻4[突発]p268 新装版292)。

愛煙家の池波さんとすれば、兵左衛門は名工であってほしい。
しかし、なぜ、京都の煙管師でなければならないのか。先日、言及した〔下(くだ)りもの〕崇拝ということもあるが、ここは、池波さんの京都好き---ということにしておきたい。

『江戸買物独案内』(1824刊)には、煙管問屋と肩を並べて、数多くの近代的PR志をもった煙管師たち(緑○)がいたのだが。

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(『江戸買物独案内』の煙管問屋の部 緑○=煙管師)

いや、呟きたいのは、後藤兵左衛門のことではない。
このことは池波さんの好みの問題だから、読み手がとやかくいうことではない。

このブログの2008年1月1日[与詩(よし)を迎えに](11)で、銕三郎(てつさぶろう)に、

「家では、父上が(酒を)召し上がらないので、ほとんどたしなまいのだが---」

といわせた。要するに、宣雄は倹約家なのである。明和元年(1764 銕三郎19歳)に、築地の500坪前後の屋敷を、南本所・三ッ目の1238坪と交換するために1000両近い差額を支払っている。ふだん、質素にしていないと貯まる金額ではない。

煙草もたしなまなかった---というのが、ぼくの推量である。ヘビー・スモーカーの池波さんにとっては、にがにがしいだろうが。

したがって、後藤兵左衛門に15両も払って、銀煙管をつくらせるはずがない---などと、野暮をいうのではない。

_120古泉弘さん『江戸を掘る』(柏書房)に、発掘でもっとも多く出たのは、煙管の雁首だったともあるから、喫煙が江戸の庶民のたのしみであったことはわかる。

しかし、火の用心のきびしかった江戸城内でも、喫煙が許されたのであろうか。大たぶを結った大奥の女たちも、新吉原の花魁たちのように煙管を手にしていたのだろうか。

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(歌麿『歌撰恋之部』[深く忍ぶ恋]手に煙管の町女房)

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(歌麿『娘日時計』[未の刻---午後2時])

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(歌麿『婦女人相十品』[煙管持てる女])

このあたりのことを明記したものがあったら、読んでみたい。

【参考】
歌麿の浮世絵は、 『江戸の女』[歌麿・「歌撰恋之部」ほか

【ちゅうすけのひとり言】 その(1) 2008年1月17日


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2008.01.28

与詩(よし)を迎えに(35)

畑宿(はたしゅく)村の長(おさ)・茗荷屋畑右衛門(60歳近い)の屋敷には、阿記(あき 21歳)と、芦の湯の湯治旅籠〔めうが屋〕次右衛門夫妻が待っていた。

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(緑=箱根宿 赤=芦の湯村---阿記の実家 青=畑宿村
明治19年刊 陸地測量部製。道=旧東海道)

畑右衛門も出てきて、荷運び雲助・〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 31歳)に、先日、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 35歳)をうまく引き取らせた礼を述べた。
実家へ逃げ帰った阿記をつれ戻しにきた夫・幸兵衛(こうべえ 25歳)が、父の次右衛門をおどすために、勘兵衛を伴って、芦の湯村へやってきたのだった。
権七は、銕三郎(てつさぶろう)のほうを見て、柄にもなく、照れている。
「先を急いでおります。発(た)たせていただいてよろしいでしょうか」
銕三郎(18歳)の言葉で、しばしの別れの愁嘆場はきりがついた。

阿記どの。馬に乗り、与詩(よし 6歳)が落っこちないように、しっかり支えてやってください」
裾の乱れを気にしている阿記の腰を、銕三郎が押し上げる。巻いた白い脚絆がもろに露出する。それも押し上げた。そのさまを、次右衛門夫妻が目をほそめて見ている。むすめを、もう、すっかりまかせきった感じだ。
阿記の荷は小さかった。
尼寺へ入れば法衣なのだし、髪もおとすから、髪飾りも化粧品も不要である。

小田原まで3里10丁ばかり。
ほとんど下り坂なので、与詩は、赤いしごきで阿記とむすばれている。
「あき(阿記)おばちゃまは、あにうえ(兄上)のことが、す(好)きなのでしゅか---すか?」
「あ---はい。大好きです。与詩さまは、阿記のこと、お好きですか?」
「まだ、きめて、いません」
「早く、決めてください」
「そんなに、はやくは、きめられましぇん---ません」
「あら、どうして?」
「あとで、いじわる、されると、きらいになるから」
「意地悪はしません」
「よしが、あにうえと、いっしょに(寝)ても、でしゅか---すか?」
与詩さまは、あ兄上と寝たいのですか?」
「おね(寝)しょ、しないように、おこしてもらうのです」
「替わりに、阿記が起こしてさしあげます」
「それなら、すきに、なる---なります」

小田原には、九ッ(正午)ごろ、着いた。
東海道に面している薬舗〔ういろう〕に近い休みどころで昼食をとった。
銕三郎が、権七をうながして、薬舗〔ういろう〕の前へ立つ。
店構えの両側の猫道に、それとなく目を向けているのに、権七は気づいていた。
「この猫道に沿ったどこかに、ふだんは使っていない通用口があるはず」
「あとで、確かめさせます」
「それの、落し桟(おとしさん)の仕組みを調べてみてください」
「大磯の旅籠に知らせにこさせます」

茶店へ戻ると、阿記与詩も深めの網代(あじろ)笠をかむっていた。
阿記のを見て、与詩も欲しがり、藤六(とうろく 45歳)が子ども用を求めてきたらしい。
「明日、平塚を過ぎるときに役立ちますな」
銕三郎が笑った。
荷は、継ぎ馬に移されている。

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(広重 小田原の東の酒匂川 『東海道五十三次』
 銕三郎の一行は向こう岸から手前に渡った。
 右の山の下に小田原城が描かれている。)
参照】大きく見るには、 [東海道五十三次](1)のNo.10の場面までスロー・ダウン。

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2008.01.27

〔荒神(こうじん)〕の助太郎(7)

長谷川さま。遠国(おんごく)の盗賊というのは、みごとな推しはかりと感心しましたが、ああ、簡単に教えちまって、よろしいんですかい?」
箱根関所の番頭(ばんがしら)の副役(そえやく)・伊谷彦右衛門が引きあげると、権七(ごんしち)が不服げに言う。
「あの調子じゃあ、己れが考えたみてえに、町奉行所へ伝えますぜ」
「それはかまわないのです。だれの発起(ほっき)であれ、盗賊が捕まりさえすれば、それがお上(かみ)へのご奉公だし、城下の人たちも安心できるのですから」
と一応、なだめておいて、銕三郎(てつさぶろう)は、
権七どの。拙は2度、〔ういろう〕店で、〔透頂香(とうちんこう)を買っております。このたびの旅と、4年前、藤枝宿に近い田中城下へ行った帰りと、です」

銕三郎によると、2度とも、売り婦(こ)の応対に上方(かみがた)なまりがあった。もちろん、4年前とこのたびとでは、人は異なっている。それで、〔ういろう〕は、先祖が京・西洞院(にしのとういん)錦小路の出ということを匂わせるために、京言葉を話す売り子を、わざわざ、上方から連れてきているのではないかとおもったのだと。

ちゅうすけ注:】
呉服や小間物、扇(文庫巻11で、引退した〔帯川(おびかわ)〕の源助が神谷町にだした京扇の店〔平野屋〕をみても分かりますね)は、京からの下(くだ)りものが上等なのである。酒は灘や伏見からの下りものが喜ばれた。だから、江戸近郊でできたものは「下(くだ)らない」ものと。
【参考】2005年2月5日〔帯川(おびかわ)〕の源助  [11-3 穴]p96 新p100
2004年12月21日〔馬伏(まぶせ)〕の茂兵衛  [11-3 穴]p97 新p102

「そういえば、ほとんどの売り子は、裏で製剤をしている職人と所帯を持たされるとか、聞いたような気もします」
「その、秘伝の薬剤を調合している職人たちも、上方の男ではないのでしょうか?」
「いえ、それはないようにおもいます。あっしが生まれた風早(かざはや)からも、知り合いの若いのが1人、薬草刻み職として働いておりやすから」
「その人は、風早からの通いですか?」
「とんでもねえこって。〔ういろう〕の店の裏の作業場の2階の薬くさい部屋で、独り者の職人たちといっしょに寝泊りしているとか。そのことがなにか?」

「いや、そのことではなく、盗人側のことを考えているのです。侵入してきた盗賊たちは、ひと言も声をださなかったということでしたね」
「そのことで、江戸の火盗改メに記録を問い合わせてみろ---とおっしゃいましたが---」
「それもありますが---戦(いくさ)の場では、軍団のかかり・進退・展開は、太鼓やほら貝で知らせます。その盗賊一味は、なんの合図で動いたのでしょうね?」
「はあ---」
「持ち場持ち場へつき、割り当てられた仕事にとりかかる---といった合図が、きっと、きまっていたはずです。ということは、よほどに場数をふんで手なれた連中だったということです」
「12,3人ですからねえ」
「侵入した者たちのほかにも、見張り役が3,4人はいたはず」
「なるほど。冗談を言わせていただきますと、長谷川さまは、まるで、盗みの軍師をなさっていたみたいですな。ははは」

女中頭が預けておいた与詩(よし 6歳)を連れてきて、食事のことを告げた。
「申しわけないが、1人分、追加です。まず、酒を呑(や)っていますから、そのあいだにでも、みつくろって運んでください。この子の分は、酒といっしょにお願いします」
すばやく、紙に包んだこころ付けをたもとへ入れる。
「まあまあ。ありがとうございます」

盃を満たしてやりながら、
権七どの。この子の前では、〔ういろう〕の話はおひかえください」
「合点です」
「あにうえ。わたし、しっています。おばさんたち、はな(話)しておりました。おとし(落し)、あげたもの(者)が、いるって」
「ほう。与詩も、そうおもいますか?」
「おとし、わかりましぇん---せん」

「戸締まりのことです。でも、与詩は、そのことよりも、ご飯をこぼさないで食べることです」
「おふさ(芙沙)ははうえ(母上)からいただいた、さじ(匙)がありまちゅ---ます」
権七が、なにか言おうとして、やめた。
(三島宿の本陣〔川田〕のお芙沙のことだな)
察したが、銕三郎も見て見ぬふりをした。

権七の盃を満たしながら、
権七どの。今夜は、どこへお泊まりになりますか?」
「荷運び雲助たちの定宿が、三島町にあるんでさあ」
「この夜道を三島までお帰りですか?それじゃあ---」
「いえ。箱根宿の三島町です。ここからほんの半丁です。三島町の東側が小田原町。小田原町の旅籠は小田原藩の支配で、三島町の旅籠は伊豆代官所の所轄というきまりになっていおりますんで。そうそう、ゆっくりはしておれません。では、明朝五ッ(8時)に、馬でお迎えに。ご馳走さまでした」

関所の大門は暮れ六ッ(午後6時)には閉めるが、宿場は関所の西側にあるので、権七が定宿へ行くには、通用門に声をかけてを開けてもらうまでもない。ついでにいうと、通用門は、権七のような顔見知りの者なら五ッ半(9時)までは通してくれる。

〔めうが屋〕の女中頭・都茂(とも)と別の旅籠に今夜の部屋をとり、食事をすませた藤六(とうろく)が、あがってきた。
銕三郎は、酒をもう1本、追加した。

_200_2「骨を折らせて、すまぬ」
「いえ。しかし、食傷していないわけではありませぬ」
2人は、すでに寝息をもらしている与詩のほうを見やりながら、声をころして笑った。
(都茂とすれば、今宵が藤六との最後の夜となると、おちおち眠ってはいられまい)

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(国芳『葉奈伊嘉多』部分)

銕三郎は、45歳の藤六の躰をいたわったが、どうなるものでもない。
「ま、明日は、五ッ発(だ)ちだ。そのことをいいきかせてやるんだな」
「はい」

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2008.01.26

〔荒神(こうじん)〕の助太郎(6)

「お関所の、副役(そえやく)さまが、お見えになりました」
本陣・〔川田角左衛門方の番頭が、案内してきた。

【参照】よみがえる箱根関所

銕三郎(てつさぶろう)は下座へさがって迎える。
(腹の中では、何用?)と案じている。
従ってきたのは、足軽小頭(こがしら)・打田内記であった。
「おくつろぎのところ、突然に参上し、申しわけござらんが、藩の正木ご用人さまから、お困りのことはないか、お尋ねするようにとのことでありましてな」
箱根関所の総責任者・番頭(ばんがしら 伴頭とも書く)の副役・伊谷彦右衛門と名乗った。小田原藩には、伊谷某という用人がいるから、その一族の末流であろう。しかし、銕三郎はそのことは知らない。

風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)が、恐縮して、失礼するというのを、銕三郎打田小頭と目を見合わせ、
「いや、そのまま同席していてください。権七どのも耳に入れておいたほうがよろしいお話もでるやもしれませんゆえ」
と制して、
「申し分なく、くつろがせていただいております。それに、打田小頭さまに、ひとかたならぬお世話をいただきまして、ありがたく存じおります」
「それなら、けっこう---」
伊谷さま。ちょっと失礼して、この娘(こ)を、帳場に預けて参ります」

与詩(よし)を女中頭に渡して部屋へ戻り、
田沼意次 おきつぐ)侯には、父が入魂(じっこん)にしていただいております。拙は、一度だけ、田中藩のご老公・本多正珍(まさよし)侯のところでお目にかかったことがございます。器量の大きな、法にきびしいお方と拝察いたしました」
「じつは身どもなども、田沼侯が相良領に封された4年前(1759)のちょうどいまごろ、領内ご検分のために箱根をお通りになり、その時にお顔を拝したきりでござる。
お帰りは、相良湊から船だったために、拝顔できませぬでな。ははは。
いや。ご用人・三浦庄ニさまは、ご領内へちょくよちょくお出でになるので、親しくお言葉をいただいており申す。
じつは、そのことでござる。番頭(ばんがしら)が、この箱根細工を、三浦さまへお届けいただきたいと申しておりましての」
「お預かりいたします」

参考
2007年7月20日[田沼主殿頭意次(おきつぐ)] (続) 
2007年11月24日[田沼意次の虚実] (1) (2) (3) (4)
2007年8月12日[徳川将軍政治権力の研究] (1) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) 

「ところで、3日前に、城下の薬舗〔ほうらい〕に賊が入ったことはご存じかな?」
「はい、これなる権七どのから、聞きましたが---」
「賊が、関所を通るやも知れぬから、警戒を厳重に---との町奉行からの指示ですが、顔に盗賊と書いて通るのであればともかく、ふつうの顔で通られては、関所としても、手のつけようがござらぬ」
「西へ上るとの見込みがございますのですか?」
「いやいや、皆目、見当もついていないようなありさまでして---」
「お役目、ご苦労さまでございます。江戸の火盗改メ・助役(すけやく)をしておられる本多采女紀品(のりただ)さまとは面識がありますから、なにか、お伝えすることでもありますれば、お伝えいたしますが---。もっとも、帰りに江ノ島詣でをいたしますので、ふつうよりも、3,4日、遅くに江戸へ戻ることになりますが---」

「ひとつ、お訊きしてよろしいでしょうか?」
「なんでござる?」
「この半年のあいだに、大きな前金を払ってご城下に借家をした者を、お調べになったのでしょうか」
「そのようなこと---どうだ、打田、耳にしているか?」
「いえ。いっこうに---」
長谷川どの。借家の件と、賊とのあいだに、なにかかかわりでもあるのでござるかな?」
「賊は、言葉をひとことも発しなかったと聞きました。ということは、なまりの強い連中とおもわれます」
「まさに---」
「とすれば、土地(ところ)の者ではなく、遠国(おんごく)から来た者たちやもしれませぬ」
「ふむふむ。ありえますな」
「揃いの黒装束だったとも---」
「さよう、さよう」
「旅籠で着替えて出たのでは、宿の者が気がつくはず。としますと、一軒家を借りていたのではないかと---」
「うーむ。理が通っておりますな。明朝にでもさっそく、奉行所へ早便を立てて、知らせてやりましょう」
伊谷さま。その時は、くれぐれも、拙の名は秘してくださいますよう。明夜は大磯泊まりにな.るため、小田原での足留めは困るのです」
「あい、わかり申した。関所の意見として申しおくりますですよ」


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2008.01.25

〔荒神〕の助太郎(5)

「芦の湯へ、なにごともなく、お送り申してめえりました」
さすが、箱根の荷運び雲助の主のような〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 31歳)である。1刻(いっとき 2時間)もかけないで戻ってきた。
箱根宿(はこねしゅく)から芦の湯村落まではほぼ1里(4km)---往路は阿記(あき 21歳)づれだから、半刻(1時間)以上を要したろう。帰路は小半刻(30分少々)でこなしている。

「駕籠衆や尾行(つけ)の若い衆への酒手は、十分に渡りましたか?」
銕三郎(てつさぶろう 18歳)が確かめた。
「多すぎるほどの、心づけでごぜえました」
「では、権七どの。もし、あとの仕事にさしつかえがなければ、ちょっと、呑(や)って行きませんか? 小田原宿の薬舗〔ういろう〕に入った賊のことも、もう少しお聞きいたしたいのですが---」

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(小田原・薬舗〔ういろう〕 『東海道名所図会』)

城下町・小田原宿を東西に貫通している東海道に面して繁盛している薬舗〔ういろう〕を、『東海道名所図会(ずえ)』は、以下のごとくに紹介している。

小田原・北条氏綱(うじつな)の時、京都西洞院(にしのとういん)錦小路外良(ういろう)という者この地に下り、家方透頂香(とうちんこう)を製して氏綱に献ず。その由緒は、鎌倉・建長寺の開山・大覚禅師、来朝の時供奉(ぐぶ)し、日本へ渡り、家方を弘(ひろ)む。氏綱はこれを霊薬とし、小田原に八棟(やつむね)の居宅を賜り、名物として世に聞ゆ。

その〔ういろう〕に、3日前に盗賊が入り、当主・藤右衛門を抜き身でおどして金蔵を開けさせ、800両余の金を持ち去ったという。(このころの1両は、当今の16万円にあたろう)。

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宝永(1704~10)小判

【ちゅうきゅう注:】 池波さんは、『鬼平犯科帳』の連載をはじめた1968年ごろ、1両を4万円ほどと換算していたが、連載が終わる1990年前後には20万に引き上げていた。バブルのものすごさも類推できるが、大家となった池波さんの金銭感覚もこれでうかがえる)。

とにかく、1億円を超える盗難である。
小田原藩の町奉行所は、あげて探索にあたったが、なんの手がかりもつかめていないという。というのも、すべての戸締りはしっかり錠がかかったままで、どれも開けられた気配がないので、12~3人もの者が、どこから、どうやって侵入したかもわかない。
また、黒装束の上に覆面した賊たちは、ひとことも口をきかず、当主への指示はすべて、あらかじめ紙に書いて用意していたもので伝えたという。

権七の説明を聞いて、銕三郎は、
「無言のわけは、言葉ぐせから出生地を割らさないためでしょう。しかし、そのことも有力な手がかりですね。それほど用心深い盗賊の前例が報告されているかどうか、江戸の火盗改メに速便(はやびん)で問い合わせたのでしょうね」
「さあ。そこまでは聞いていませんがね。うっかり聞き耳を立てると、こっちが疑われかねませんからね。雲助稼業はつらい立場です」
「しかし、権七どのには証(あか)しあるのでしょう?」
「もちろんでさぁ。あの晩は、たまたま、三島のお須賀の店にいて、何人もの常連客が見ていてくれていますから---」
「それは重畳でした。錠前の謎は、今晩じっくりと考えてみますが、〔ういろう〕では、店や奥の使用人は、いまでもやはり、京都から採っているのでしょうか」
「さあ、どうなんでしょう」
銕三郎の頭からは、京の荒神口で太物商いをやっているという〔荒神屋助太郎の姿が浮かんでは消えている。

参考】2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4)
2007年12月28日[与詩(よし)を迎えに](8)

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2008.01.24

与詩(よし)を迎えに(34)

箱根の関所は、三島宿から登っていくと、箱根宿の先---東側にある。

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(小田原側からの箱根駅と関所 『東海道名所図会 塗り絵師:ちゅうすけ 右上に宿とその手前に関所と江戸口門 左下は芦の湖)

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(上図部分拡大)

三島からだと京口の冠木門から入り、江戸口と呼ばれている門から出る。

【参照】よみがえる箱根関所

とりあえず、手まわりの荷と与詩(よし)を本陣の〔川田角左衛門方へ預け、銕三郎(てつさぶろう)と〔風速(かざはや)〕の権七(こんしち)は、関所へあいさつにおもむく。

京口の番人に、 権七がなにやら囁くと、一人が足軽番所へ走った。
そこから、40がらみのやや太めの男が出てきて、権七に合図をする。こちらも会釈した。
「小頭(こがしら)の打田内記さまです」
羽織の襟を正して丁寧に腰をかがめ、
長谷川銕三郎です。このたびは、小頭さまのお手を、私用でいたくわずらわせて、恐縮でした」
「いやあ、手前どもこそ、恐縮しておりますぞ。お側御用取次ぎ・田沼意次 おきつぐ)侯のご用人・三浦庄ニなるお方が、わが小田原藩のご用人・正木さまへ、わざわざ書簡をくだされたことで、関所・番頭(ばんがしら)どのがたいそう面目をほどこされましてな。それにしても、なんですな、長谷川どのは、けっこうな繋がりをお持ちですな」
「三浦さまのご配慮のこと、初めて耳にいたしました」
「本陣の〔川田角左衛門方にも伝えてありますから、粗略にはあつかいますまい」

関所から引き返しながら、権七が感にたえたような声で、
長谷川さま。小頭さんもかつて見たことがないほどの喜びようでしたな。権七の株も何倍かあがりましてございます」
権七どの。じつは、それで困っております」
「えっ?」
「1日での箱根越えは、幼い与詩(よし)には辛かろうゆえ、本陣・〔川田〕で1泊するようにと、父上から言われております。で、せんかたなく、〔川田〕で阿記どのと落ち逢うこと、しめし合わせました。しかし、関所からのお声がかかっていると、本陣のご女中衆の目が、拙ども、ひいては阿記どのへ集まります」
「なるほど」
「別の旅籠で逢い引きしても、かつて、芦の湯小町と囃(はや)された婦(ひと)ゆえ、どこでも目立ちましょう」
「そうですとも」
「ついては、あの婦(ひと)を、そのまま芦の湯まで、権七どのに送っていただけないかと---」
「おっと合点。宿場の西はずれで待ちかまえますぜ」

【参考】2007年12月30日[与詩(よし)を迎えに(10)]

「女中頭どののほうは、もう一晩、堪能させたいので、この箱根宿のそれにふさわしい旅籠へ案内してやってくださいませぬか。おっつけ、そこへ藤六(とうろく)をさしむけますゆえ」
「妙案でごぜえますな」

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(箱根宿と芦ノ湖。『東海道分間延絵図』 幕府道中奉行製作)

しばらくして、権七が本陣〔川田〕へ戻ってきて、万事、指示どおりに手配したことを告げ、
「芦の湯村へ行き、すぐに引き返してめえります」
入れ替りに、なんとも奇妙にまじめくさった表情を浮かべた藤六が、出て行く。親の仇でも討ちにゆくように、肩をいからせている。
その背に、権七が、
「明日は、五ッ(午前8時)発(た)ちでごぜえますよ」

本陣・〔川田〕には、大風呂があった。
芦の湖のむこうに、富士山が、4分ばかり、白い頂(いただき)を見せているのが浴槽から望めた。
昼間なので、風殿には客はいない。
与詩といっしょに湯につかる。
抱かれたまま、湯舟で銕三郎の顔に湯を飛ばし、
「きゃっ、きゃっ」
と、与詩は大満足であった。
(父上がここに一泊することをお命じなったのは、こういうことをして兄妹の絆(きずな)を堅めよ---ということだったのだ)
「与詩。泳いでみるか」
与詩の胸と腹にを支えて湯舟のなかを動いた。
「両腕を前に伸ばし、脚を互いちがいに、ばしゃばしゃする」
そう教えながら、
(父上は、知行地の片貝(180石)に近い九十九里浜で、あわび採りを身につけられたのかも知れない。母上は、同じ上総(かずさの)国でも、山側の武射郡(むしゃこおり)のほうの知行地・寺崎(220石)の村長(むらおさ)の家のむすめだが、片貝にも、父上にあわび採りを教え、そして情を交わした婦(おんな)がいるはず。あれで、けっこう、艶福家だっんだ)

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(歌麿『歌まくら』[あわび採りの海女])

その海女の姿態が、湯舟での阿記の躰とかさなって、股間のものが目をさましそうになり、銕三郎はあわてた。

【参照】
2007年7月28日[実母の影響]
2008年1月12日[与詩(よし)を迎えに(23)]

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2008.01.23

与詩(よし)を迎えに(33)

ちゅうすけ注:】与詩(よし)が乗った山駕籠について、喜多川守貞 『近世風俗志』(岩波文庫)から図を引いておく。箱根山専用の駕籠で、底が円形で広いため、長く担いでいても足を痛めないと。屋根は網代。『近世風俗志』『守貞漫稿』の書名で知られている。

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三島宿の本陣・〔樋口伝左衛門方から東海道を東へ1丁半で三島大社の大鳥居の前に達する。

広重の絵は、深い靄が立ち込めている社前を、駕籠と宿場馬が箱根道へ向かっている図である。

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広重  『東海道五十三次』 [三島 朝霧]
大きな画面は、↑をクリックでNo.12)

駕籠の乗り手を与詩(よし)と入れ替えると、まさに銕三郎(てつさぶろう)一行だ。

靄で霞んでいた大鳥居の柱の脇から、のそりと〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)が現れた。
「お待ちしておりやした」
歩みをとめないで、銕三郎が供の藤六(とうろく)を引き合わせた。 

権七が、靄をすかして、あたりを見まわし、駕籠と藤六をすこし先へやってから、
長谷川さま。〔めうが屋〕のお嬢さんはどうなさいました?」
「ひと足、遅れてくるようにしました」
「なして?」
権七どのに、三島にいっしょに泊まっていたことを断ってなかったですから---」
「じょ、冗談じゃありません。こっちは、わかりきったことだから、ゆうべは黙っていただけです」
権七どのはお含みくださっても、駕籠の人たちの口から噂が立つと、阿記(あき)どののこの先の人甲斐(ひとがい)に染(し)みがつくことを怖れています」
「なるほど。ありえますな」
「それで、ともに歩くのは、畑宿村からの下り---畑宿から小田原まで、権七どのの配下で、口の堅い馬方を2頭、手くばり願えないかと。1頭は、打田内記(ないき)どの気付の書状に書きましたとおり、箱根宿から乗りますが---」

三島大社前から、最初の登りが愛宕坂である。

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(箱根街道(西坂道)=茶色 白色=国道1号
青○=三島大社 赤○=富士見平 三島観光協会バンフ)

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(富士見平からの富士山 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 芭蕉
三島観光協会バンフより部分)

富士見平でひと息入れた。
「あにうえ。ここのおやま(山)も、おおきいでしゅ---です。おかし(菓子)みたい」
「お砂糖がたっぷりかかったお菓子です。藤六与詩を茶店の厠へ。ついでに、食べるものをなにか求めてやってくれるか」
_200銕三郎は、気になるのか、坂下のほうを見やる。阿記都茂(とも)の姿は見えなかった。支度によほど刻(とき)がかかったらしい。
藤六め。あれだけ言っておいたのに、けっきょく、都茂の粘っこい求めに屈したな)
口には出さなかった。藤六も、都茂の口封じになればと、励んでくれたのであろう。

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(栄泉『古能手佳史話』[強い誘い]部分)

長谷川さま。〔めうが屋〕の2人づれがご心配ですか。大丈夫でごぜえます。あっしの手下(てか)の若いのを、こっそり、尾行(つ)けさせておりますから」
「いつの間に?」
〔甲州屋〕を見張らせておりました」
「どうして、〔甲州屋〕と---?」
「蛇(じゃ)の道は蛇---っていいましてね」
権七どのには、隠しごとはできませんな。ははは」
「ふふふ」
「火盗改メの密偵さながらですな」
「なんでごぜえます、その火盗改メの密偵というのは?」
「ま、登りながらお話ししましょう」

銕三郎の父・平蔵宣雄(のぶお)が小十人・5番手の頭(かしら)に任じられた時、6番手の頭・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 2000石)と親しくなり、銕三郎も面識がある。
幕臣のあいだで、大久保99家、本多100家といわれるほど一族が多いので、引きもある代わりに、不始末のとばっちりで譴責をくらう率も高いとの自嘲も、本人の口から聞いたこともあったが、前年の宝暦12年(1762)11月7日付でめでたく先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭(くみがしら)に発令された。
本人はいつもの軽口もどきに、「家禄2000石の身が、引下(ひきさげ)勤めよ」と苦笑していたが、鉄砲の16番手というのは、別称〔駿河組〕といって、家康公以来の伝統のある組なので、ほんとうは満更でもないらしかった。出世ポストの一つなのである。
引下(ひきさげ)勤めとは、先記したように、本多家の家禄は2000石、先手組頭の役高はそれよりも低い1500石だから、足(たし)高が補填されない役についたことをいう。

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本多采女紀品、先手・鉄砲の頭から火盗改メに)

しかし、本多紀品は、その年の12月16日から、火盗改メの助役(すけやく)に就いた。
助役とは、年間を通して火盗改メを勤めている本役に対して、火事の多い冬場から春先に併勤する火盗改メのことを指す(『鬼平犯科帳』では、読み手の混乱を防ぐためであろう、助役には触れられていない)。
火盗改メの役料は、40人扶持。1人扶持は1日玄米5合。40人分が支給されるが、屋敷内に白洲や仮牢も新たに設けなければならないから、それっぽっちの手当てではまかないきれなかったとも、史料にある。

ま、それはともかく、父・宣雄ついて、番町の屋敷へお祝いに行ったとき、本多紀品が、
銕三郎よ。躰が空いているときには、密偵でもやってくれないか」
と親しげに言い、火盗改メの密偵としての仕事の内容を話してくれた。
もちろん、父は反対で、密偵仕事よりも、番方(武官系)の家柄の嫡子として、四書五経の勉学や剣術や乗馬、弓や水練などの武術の修行に励め---ときつく言われた。

参考
2007年5月30日[本多紀品と曲渕景漸]2007年5月31日[本多紀品と曲渕景漸](2)のほか、 [本多家]の各項を。


「そうですかい、現役の火盗改メとお親しいのでは、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛なんざあ、ますます、恐れ入谷(いりや)の鬼子母神(きしもじん)でごぜえますよ。ところで、火盗改メといえば、3日ほど前に、小田原の有名な店---〔ういろう〕に不思議な盗賊が入ったんでございますよ」
「え! あの、〔ういろう〕に---〕
盗賊と聞いて、銕三郎の頭に浮かんだのは、なぜか、京の天神口で太物商いの店〔天神屋〕をやっているいると言っていた助太郎の顔であった。

参考
2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4)
2007年12月28日[与詩(よし)を迎えに(8)]


ちゅうすけからのお薦め
このところ、当ブログは、アクセス約400/日をいただき、感謝しております。
立ち上げて3年ほどになりますが、この6ヶ月ほど前からアクセスしてくださっている方は、今日、【参考】にあげた本多采女紀品の2日分、クリックして、お読みいただいておくと、これからのストーリーの展開がラクに執筆できます。

薄すうすお気づきとおもいますが、当ブログは、長谷川家を中心において、当時の幕臣の生き方や庶民の生活ぶりを、史実を踏み台にして書きすすめております。

究極の狙いは、未完の『誘拐』を補筆して、おまさを救出することですが、さて、それまで、筆者の体力が保ちますかどうか。

ご愛読、感謝するとともに、お知り合いの鬼平ファンの方にもおすすめいただけると嬉しいです。

このブログを、本にする意思はまったくありません(DVDなら考えますが)。このブログのままでも十分とおもっております。


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2008.01.22

与詩(よし)を迎えに(32)

「箱根御関所の足軽小頭(こがしら)・打田内記(ないき)どのにも、お世話になったが、謝礼はどうしたものでしょう?」
銕三郎(てつさぶろう)が、雲助の頭(かしら)格・〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 31歳)に訊く。昨日、由井の問屋場から彼あての書簡を、打田小頭気付で早便に託した。
心得た打田が、きちんと権七へ渡してくれたから、こうして権七が三島に泊まりにきている。
長谷川さま。それは要りませぬ。打田の旦那とあっしとは、兄弟分の間柄なのです。お礼だなぞ、水くさいことはなし、なし」
「それでは、このことは、権七どのの言葉にしたがっておきましよう」
長谷川さま。その、権七どのの、〔どの〕も、ただいまかぎりで、なし、ということにいたしてくださいませぬか。〔どの〕をつけられると、背中がむずがゆくなります」
「〔どの〕がいけないとなると、権七うじかな」
権七---で、よろしいのですよ」
「それは、いけませぬ。人と人との付きついですから」
「参ったな。じゃ、2人きりの時は、権七どのもあり、ということで。みんなの前では、権七でお願いします」

「では、明朝六ッ半(午前七時)に、〔樋口〕に山駕籠をつけてください」
「かしこまりました。しかし、あっしは、先ほども申しましたように、〔樋口〕は鬼門なので、山駕籠の者だけがお迎えに行きます。あっしは、(三島)大社さんの大鳥居の前でお待ちしております」
「よろしく、お願いします」

〔甲州屋〕へ帰りつくと、気配で察した供の藤六(とうろく)が、きちんと着物のままで、部屋から出てきた。
「どうした? 都茂(とも)どのが、よく、辛抱しているな」
「若。冷やかさないでくださいませ。で、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛の件はいかがなりました?」
権七が、うまく、話をつけてくれていて、平塚宿の先の馬入村の勘兵衛の家で会うことになった」
「大丈夫でございますか?」
権七が付き添ってくれる」
「小田原宿から、代官所へ使いをだしましょうか?」
「いや、それは無用のようだ。安心していてよろしい」
「それでは、お休みなさいませ」
口を寄せた銕三郎がにやりとして、
都茂にな。箱根宿でもう一泊するから、今夜は軽くですますように言ってやれ」
藤六がぼんのくぼを掻く。

部屋では、阿記(あき)が、寝着のままで起き上がってきた。
「寒いから、床に入っていなさい。話は、その中でできる」

羽織・袴を脱いで寝着に着替えた銕三郎が床へ横たわると、早速に阿記がもぐりこんでくる。
権七には、阿記とこうなったこと、言いそびれた。明後日、箱根宿から畑宿村への山道で言うつもりだ」
「それでは、明日、私どもは?」
「後ろからつけてくれ。箱根宿の本陣・〔川田角右衛門方で落ち合おう」
「はい」
「〔川田〕方から、阿記は芦の湯村へ帰って東慶寺へ入門する支度を整え、明後日の四ッ(午前10時)に畑宿村の長(おさ)・めうがや畑右衛門どのの屋敷で落ちあおう。あとは鎌倉までいっしょだ」
「まあ、うれしい」
阿記が東慶寺へ入ってしまえば、噂が広がることもあるまい」
「いろいろと、ありがとうございました」
阿記銕三郎の寝着の腰紐をほどく。自分の前はすでに開いている。
「明日は、六ッ(6時)起きだ」
「はい」

朝靄(もや)が濃い朝であった。
七ッ前に〔樋口屋〕の門の前で、山駕籠が待っていた。

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(〔樋口〕伝左衛門方の門を移した円明寺の山門
 三島観光協会パンフレットより)

ちゅうすけ注:】本陣・〔樋口〕伝左衛門方の門構えは、現在は旅籠〔甲州屋〕の北隣の円明寺に移築されて健在である。

藤六が先に入って行って、与詩(よし)の荷物を取ってき、駕籠にしばりつける。
芙沙(ふさ)と手をつないで、与詩があられた。2日間だけでかなり大人びたように見える。
「うちの子が、与詩ちゃんになついてしまって、お別れがつらいようで、手間どりました」
与詩。お芙沙母上にお別れのご挨拶をしなさい」
「ふさ(芙沙)ははうえ(母上)、また、おあ(逢)いちまちょう」
「ええ。また、お泊りにいらっしゃい」
「あにうえ(兄上)。こんどこそ、ふさははうえのおいえ(家)で、ね(寝)まちゅね---すね」
「その節は、お芙沙どの、よろしく」
「お阿記さんを大切にしてあげてください」
3人の会話を、亭主の伝左衛門が、帳場から不機嫌な目で見ている。

与詩の躰をすがり綱につないだ赤いしごきは、お芙沙のものだった。2人の仲をつないだ細帯のようにも見える。山道で駕籠が傾いても、これで与詩がこぼれ落ちることはない。

「では」
「つつがないお旅を」
「また、お逢いできましょう」
「お待ちしています」

銕三郎とお芙沙が、また逢うことになったのは、それから9年後---父・宣雄が京都西町奉行として赴任のために東海道をのぼった時であった。

与詩のお寝しょうの報告はなかった。

参考三島観光協会

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2008.01.21

与詩(よし)を迎えに(31)

ちゅうすけの言い訳】 銕三郎(てつさぶろう)が江戸を発(た)って、途中、芦の湯へ寄り道したが駿府まで6日、帰路はまだ2泊しかしていないのに、道中記のほうが30回を越えてしまった。まったく旅馴れない筆者のせいと、お許し願いたい。

銕三郎は、午後、まだ陽の高いうちに、阿記(あき)を伴って三島大社へ詣でた。
大鳥居前の路地を入ったあたりに店があるという、居酒屋〔お須賀〕を見つけておくためであった。
阿記は、若妻気分にでもなったか、浮き浮きした足どりで並んだ。

大鳥居をくぐったすぐの神池では、足音を聞きつけた真鯉や錦鯉が群をなして寄ってきた。
「錦鯉を恋魚(こいぎょ)とも言うんですって」
「初耳だけど、そんな風情に見えなくもないな」

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(三島大社鳥居前と神池 『東海道名所図会』
 塗り絵師:ちゅうすけ)

あと数日で尼寺へ入るという阿記は、大社の拝殿でずいぶん長いあいだ手をあわせていたが、何を祈願したか、銕三郎はあえて問わなかった。

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(三島神社 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゆうすけ)

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(三島神社 中門 奥は神楽殿 拝殿はその奥)

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(三島神社 拝殿)

この季節の日没は早い。七ッ半(午後5時)には行灯(あんどん)に灯(ひ)を入れないと部屋が暗くなる。
さま。湯で躰の匂いをよく洗い流してから、お出かけになってください」
言われたとおりに、湯につかった。昼間、お芙沙(ふさ)にも匂いのことでからかわれたからである。
午後も、八ッ半(3時)のおやつを阿記に、ねだられていた。

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(寛永の頃から時を告げた鐘 三ッ石神社
 三島観光協会パンフレットより)

時の鐘が六ッ半(7時)を知らせた。
銕三郎は一人だけで〔甲州屋〕を出た。
熟考の末、今夜のところは、阿記とのことは、権七(ごんしち)には伏せておこうということになったのである。

〔お須賀〕には、数人の客があった。武家姿の銕三郎に、一斉に怪訝な目(まなこ)を向けたが、すぐにそれぞれの盃にもどる。
風速(かざはや)〕の権七の姿は、その中にはなかった。
須賀らしい年増が、せまい調理場で、ちろりを燗していた。
権七どのにお目にかかりたいのですが---」
雰囲気にそぐわない丁寧な言葉づかいに、客たちが、こんどは驚いたような目で、銕三郎を見た。
長谷川さまですね?」
うなずくと、すぐ奥の部屋へ、
「お見えだよ、あんた」

「いやあ、こちらから、〔樋口屋〕へともおもいましたが、わけありで、敷居が高うございましてね」
須賀どののことですね。本陣のご新造から、ここのことも聞きました。それはそうと、先日は、妙薬〔足速(あしばや)膏薬〕、かたじけなく。さすがに、よく効きます」
「ほう。お使いくださりましたか。おーい。酒と肴を早くしいてくれい!」

権七の盃を満たしながら、銕三郎は芦の湯の〔めうが屋〕での、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛との話し合いはどう決着がついたのかと訊いた。
「そのことで、長谷川さまに謝らないとなりません。じつは、長谷川さまのお名前をだしちまいまして---」

勘兵衛を脇へ引きこんで、
「おめえさんも、平塚一帯でいい顔になろうってお人だ。こんな脅し、いくらの手間賃でやってるのか知らねえが、もっと先を読んだらどうだ。おれが、お頭と決めた長谷川の若さまは、とてつもなく大きな将来株だ。この若さまに引きあわすから、〔めうが屋〕のむすめの件は忘れろ---とまあ、こう言ってやったんでさあ」
「ひゃあ---部屋住みの拙が将来株とは、虚言がすぎます」
「いいえ、そうではありませんよ、長谷川さま。あなたさまは、自身では気がついていらっしゃらねえが、たいへんな器量をお持ちでござんす。あっしには、ようく見えております。先行き、10年もしたら、一軍の将になっていらっしゃいます」
権七どの。おだても、ほどほどにしておいてください」
「おだてなんかではごぜえません。こう見えても、〔風速〕の権七、男の器量を見る目はたしかです。あなたさまは、おんなも惚れるでしょうが、それ以上に、男が惚れきる器量をお持ちなんですぜ」

「それで、勘兵衛どのは納得されたのですか」
「叩けば、躰中から、埃がぱっ、ぱっと、箱根の山々に湧く霧よりも濃いのが出る野郎です。先々、長谷川さまが盗賊博打改メにでもおなりになってみろ、お目こぼしもあろうってもんだ---とも言ってやりました」
「火盗改メですか。あれを拝命できるのは、先手の組頭ですからね。わが長谷川家には、これまで、先手の組頭まで出世した者がいないんですよ」
「何をおっしゃいますか、長谷川さま。お上だって、目のないお方たちばかりではありませんでしょう?」

この話しあいで、銕三郎は、
(雲助と呼ばれている者の中にだって、権七どののように、知恵ある人材もいるんだ)
(人というのは、神仏祈願とおなじで、今がことより、先の自分に人生を賭けてみたがる生きものなんだな)
(自分のことを、自分で持ち上げたのでは、人---世間---は信用してくれないが、権七どののような披露(ひろ)め屋さんの口から出れば、信用される)
といった人生の要諦(ようてい)を学んだ。

父・宣雄が、いまの小十人の頭(かしら)から、先手・弓の組頭に抜擢されることは予見していなかった。
この時は、権七のほうが人を見る目があったということであろう。

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2008.01.20

与詩(よし)を迎えに(30)

「預けた与詩(よし 6歳)の様子を見に、本陣の〔樋口〕へ行くが、阿記(あき 21歳)はどうする?」
「お芙沙(ふさ)さんにお会いするのが照れくさいから、遠慮しておきます」
「なにも、照れることはあるまい」
「昨夜(ゆうべ)のことなら、女同士、どうってこともございません。しかし、この昼間のこととなりますと、いくらなんでも、色狂いの度がすぎるとあきれられましょう」
「結った髷(まげ)もきれいなままだし、わかるはずはないとおもうが---」
「そのほうについての、おんなの勘は鋭いのです。匂いでばれてしまいます。湯につかっても消えないのですから。ましてや、この昼間はそのままですから---」
「むつかしいものよのう。どうだ、拙の躰からも匂うか?」
「当の本人たちには嗅ぎわけはできませぬ。自分たちの匂いに鼻がなじんでしまっておりますゆえ」
「自分たちの---なあ。それでは、ばれるな」
「ばれようとも、男の方にとっては、手柄首ですから、なんのことはございません」

4年前、先代の〔樋口〕伝左衛門(でんえもん)の手くばりで、銕三郎は後家になったばかりのお芙沙と夜をともにしたことがあった。14歳の初体験で、思い出もよかったので、阿記を識(し)るまで、お芙沙は、少年・銕三郎の天女にもひとしかった。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙]

阿記が、その大いなる幻影を、消してくれた。銕三郎は、また一歩、大人の男の世界へすすんだのである。

参照】2008年1月2日[与詩(よし)を迎えに(13)]

(それにしても、手柄首とは、うまいことをいう。あれは、組み討ちの果てに得るものだというからなあ)
つまらないことに感心していると、もう、東海道だ。右へ折れると〔樋口屋〕である。

「あにうえ。よし(与詩)は、しなかったよ---しませんでした」
銕三郎の声を聞きつけ、三和土(たたき)の通路の奥から飛び出してきた与詩が自慢する。
「そうか。えらい、えらい」
(この子にとって、お寝しょうの粗相をしなかったことが、今朝の手柄首なんだ)
長谷川さま。お早うございます。与詩ちゃんは、お利口でした」
「そのようですな。いま、与詩が自慢してくれました。」
「お着物もご自分でお召しになることができました」
「それは重畳。自慢できることを、一つずつ増やしてやることが、拙の勤めです」
「お膳が、いま、ひとつ、でございます」
「うーん。それは、この齢では、一朝一夕にはまいりませぬな」
「ちょうど、お昼どき---ごいっしょにいかがでございますか?」

箱膳の上の湯のみには、酒が入っていた。
「匂い消しでございますよ」
「えっ? 匂いましたか?」
「おほほほ。うそ」

芙沙が、昨夜のことを話してくれた。
一つ布団に、左にお芙沙の2歳になる子、右に与詩を寝かせたという。
「それは、伝左衛門どのに申しわけないことでした」
「いいえ。お勤(つと)めからおおっぴらに解きはなたれて、かえって喜んでいたことでしょう。女中部屋へでも夜這いをかけるほどの甲斐性があればよろしいのですが---おほほほ」
驚いたことに、夜中に2度、与詩がお芙沙の幼女を起こして、厠へ連れていったというのである。

与詩は、腹違いのすぐ下、1歳違いの妹・智津(ちづ)にもそういうことをしたであろうか。いや、していまい。智津は、姉の与詩にむかって「お寝しょっ子と言う」と怒っていたからな)
銕三郎は、となりで食事をしている与詩を見た。
首から膝へかけて大きな前かけをあててもらい、お芙沙が与えた黒漆の木匙(こさじ)で黙々と、そして、ぱらぱらとこぼしながら食べている。

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(柄と外側が黒漆、皿部が朱漆塗りの木製の匙。いたって軽い)

与詩。箸と匙と、どちらが好きですか?」
「さじ(匙)でしゅ---です」
「そうか。では、お芙沙おばさまにおねだりして、その匙を江戸までいただいてゆくことにしようか」
「おばちゃまではありませぬ。おふさ(芙沙)ははうえ(母上)でしゅ---です」
(よくも手なづたものだ)
「そうでした。母上でした」

芙沙は、手にしていた湯のみをおいて、
「お匙がお気に召しているようですね。同じものは、紀州侯さま、尾州侯さまがとじものをお召しあがりになる時にお用いいただくために作らせたものです。差し上げますが、〔樋口屋〕で手に入れたことは、決してお漏らしになりませんように。紀州さま、尾州さまにご無礼とおもわれかねませぬゆえ」
「あい分かりました。出所は誓って口外しませぬが、宿々での使用は---」
「塗りのない木肌の小匙もさしあげます。漆塗りのほうは、先々の本陣ではお使いにならないでいただきたいのです」
「造作(ぞうさ)をおかけします」

「あにうえ。あにうえは、まだ、よそでおやすみでしゅか---ですか」
「いろいろと用もあってな。今夜だけ---」
「こんやだけ、では、ありましぇぬ。きのうもでした」
「許せ」

_180 「おふさ(芙沙)ははうえ(母上)が、よる、さびしがっていた---おられました」
与詩ちゃんは、まあ、なんということを---」
芙沙があわてて与詩の頭をおさえ、赤くなった。
(右:栄泉『春情妓談水揚帳』より[新造])
湯のみの中のもののせいだけではなかった。 
_180_2(おんなは、幼い時から、なんとも恐ろしく勘が鋭い。それにつけても、阿記どのがいなくて助かった)
そうおもった途端に、銕三郎の顔に血がのぽってきた。
(左:栄泉『指人形秘戯物語』部分)

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2008.01.19

与詩(よし)を迎えに(29)

遅い朝食を終えると、阿記(あき 21歳)はばらばらに解けた頭を結わすために、空き部屋へいった。

「若、お早うございます」
呼んでおいた藤六(とうろく 45歳)である。
「おう、入ってくれ」
藤六(とうろく 45歳)は、昨夜一と晩を都茂(とも 43歳)と過ごしたからか、冴えた顔色をしている。
暗黙のこととして双方、昨夜のことには触れない。

銕三郎(てつさぶろう)の前には、旅籠から借りた、道中絵図がひろげられたいた。
「平塚の顔役・〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 35歳)のことは、都茂から聞いたろう」
「食えない男でございますね」
「それでだ---藤六は、わが長谷川家にくる前は、わが家と同じく上総(かずさ)の片貝(現・九十九里町)に知行地をお持ちの本間修理(しゅり)季道(すえみち 38歳 書院番士 1800石)さまの家僕であったな?」
藤六は、片貝の本間家の知行地の農家の三男に生まれた。
「はい。しかし、そのころは、勘兵衛などという道はずれ者の名は、耳にしたことはございませなんだ」
「ちょっと、待て。本間さまと〔馬入〕の勘兵衛とは、どういうかかわりがあるのだ?」

銕三郎の父・平蔵宣雄は、書院番士から小十人の組頭に栄進した。その書院番士だった時の同じ組へ27歳の本間修理季道が入ってきた。
初めての出仕だったので、宣雄が指南役として面倒をみていた時期があった。
両家ともに、今川家から徳川に仕えたということもあるし、上総国山辺郡(やまのべこおり)片貝に知行地を貰っていたこともあって、ふつうよりも親しくしていた。
長谷川家は片貝には180石。(ほかに上総・武射郡寺崎に220石)。
本間家は330石。(ほかに下総(しもうさ)国香取郡に450余石、相模国高座郡(こうざこおり)に300石など)

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(本間修理季道の個譜)

その本間家に仕えていた時、藤六はやむにやまれない事情から、浅草の香具師(やし)の手下と喧嘩をする羽目となり、本間家から暇をとった。その藤六宣雄が引きとった。それから7年経つ。

「というわけで、本間家には、高座郡田畑村(現・寒川町内)に300石ほどの知行地がございましたので、指示やら連絡(つなぎ)やらで、何度か藤沢宿経由で田端へ参っております。その時に、近隣の噂も耳にいたしました」
「それでは、藤沢宿からの江ノ島道も存じおるかな?」
藤六は察しが速い。都茂から寝物語に、阿記が近く鎌倉の尼寺へ入って縁切りをする事情も聞いている。
「一度、知行地からの帰りに、弁天宮へ参詣したことがあります」
「うむ、ますます、好都合。どうであろう、いささか遠まわりにはなるが、阿記どのを鎌倉まで送りがてら、江戸へ帰るというのは?」
「東海道から藤沢、江ノ島となりますと、平塚宿と馬入を通ることになりますが---」

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(明治19年印刻の地図。所有しているはずの道中懐中図が見あたらないので)

「そのことよ。あらましは、都茂から聞いているとおもうが、箱根山道の荷運び雲助の頭(かしら)・〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)というのがこの件に一枚噛んでいてな、今宵、権七に会って相談してみるが、それまででもよいし、小田原へたどり着くまででもよいから、なんらか、知恵があったら、貸してもらいたい」
「あい分かりました」

髪を結いあげた阿記が戻ってきた。
藤六さん。都茂は、いまから始めます。あと小半刻(30分)はかかるでしょうよ」
「ありがとうございます。枕をはずすなっていったんですが---」
「ほほほ。むつまじくて、なによりでした」
「恐れいります。ところで、若。馬入を知行地になさっている、保々(ほぼ)さまをご存じでございますか?」
左門貞為(さだため)さまか。ご病気で臥せっておられるやに聞いている。家禄はたしか、1000石前後であったな」

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(保々左門貞為の個譜)

「家禄1000石のうちの、20石ほどを馬入にお持ちで。もっとも、管理はかつてから、あのあたりの公領のお代官・江川太郎左衛門さまにお預けになっております。ですから、勘兵衛をしめあげるには、保々さまから江川お代官さまへ頼む手もございます」
「いや、公けの手を借りては、勘兵衛のような無道者は、後を引く」
「はい。余計なことを申しあげました」

藤六が去ると、阿記が感心した口調で、
「お旗本というのは、すごくお勉強をさなさるのですね。いったい、何家ほどの内向きのことにまで通じていらっしゃるのですか?」
「うむ。父上だと、お目見(みえ)以上の家を、まず2000家。お目見以下を1000家。拙はいまのところ、お目見以上を800家---といったところかな」
「それほどに---」
「いや、阿記のおやじどのが、芦の湯の村長(むらおさ)として村人の全員と、旅籠の主(あるじ)として客2000人の顔を覚えてござるのとたいして変わらぬ。ははは。暗記するといっても、名前、石高、役職着任年、知行地---まあ、こんなところかな。暗記することが役人の資格みたいなものでな。いってみれば、役人なんていうのは人事の噂話を食って生きている虫よ」
宣雄・銕三郎のころのお目見以上の幕臣は5200家前後、といわれている。それ以下は1万7000家前後あった。

入り口の襖戸の掛け金をおろした阿記が、にんまりと微笑んで、
さま。四ッ(午前10時)のおやつを。阿記は、おやつをいただいて生きている虫でございますゆえ」
「うん?」
「誰も来ないようにと、帳場に言っておきました」
「せっかく結った髪がくずれるではないか」
「大丈夫でございます。こう、いらっしゃって---」

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(栄泉『艶本 美女競』部分)

真昼のこと、さすがに阿記は必死に声を殺している。

娑婆にいられるのがあと数日でしかないとおもいきわめているので、遮二無二むさぼる。
その阿記のこころ根をいじらしいとも愛らしいともおもう銕三郎は、できるかぎり満たしてやろと決めていた。
18歳という若さである。放射しても、放射しても、尽きることはない。


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2008.01.18

与詩(よし)を迎えに(28)

臥(ふ)す前に、阿記(あき)が訊いた。
『青眉でよろしいのですか? 4夜前の阿記のほうがいいとおっしゃるのなら、眉を引きますが---」
「いや。そのままでいい。新しい所へ一歩踏みだした阿記なんだから」
「着衣のままにします? それとも---」
「なんと--?」

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(歌麿『歌まくら』[後家の睦]部分)

銕三郎(てつさぶろう)に、いつもお芙沙(ふさ)を想ったときに描いてきた歌麿が浮かんだかどうかは、筆者の知るところではない。銕三郎がそんな歌麿をこれまで連想していたことすら、阿記は気づいてもいないだろう。
この絵は、今後は、平蔵宣以(のぶため)が死の渕へ行く32年後まで、その脳裏からは消え去ったと、筆者は断定している)

「嫁入りのときに、父が持たしてくれた枕絵のおんなが、ほとんど着衣でしたから---」
「あれは、見る男の気をそそるためであろう。寝着(ねぎ)のままのほうが素直だろう」
「枕絵、さまも、ご覧になるのですか?」
「塾の悪(わる)たちが隠し持ってきてな」
銕三郎の言葉づかいがぞんざいにに変わってきているのも、阿記には、へだたりがより縮まってきているように感じられる。

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(国貞『正写相生源氏』部分)

余韻が退(ひ)いてい.くのを惜しむように足を組んでいる阿記が、独り言のように、ひっそりとつぶやくむ。

---むすめだったころ、よく、うちの湯舟に、昼間、躰中の力を抜いて裸身をうかべていたんです、。髪が藻のようにひろがって揺れるのを楽しんでいると、後ろから男の人が抱きすくめにくる---そんな空想を、よくしたものです。いいえ、男の人の顔を見たことはありません---

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(栄泉『玉の茎』部分)

---いま、ちょうど、阿記の躰が、17歳のころに戻って、湯舟に浮いているような感覚です。その上、阿記の裸のお尻が、さまのお腹に触れていて、こころが落ち着いています。ほら、心(しん)の臓の鼓動も---

銕三郎の手をとって左の乳房の下へあてがい、
「ね、ゆっくりでしょ?」

寝着をまくりあげた後ろ身を銕三郎の脇腹に押しつけ、
「2人とも水の中---沈みましょ、どこまでも---」

「髪がくずれているよ」
「いいんです。明日はゆっくりなんですから、髪結いを呼べば---」
くるりと正面し、乳房を銕三郎におしつける。
腕がからんだ。

一と息入れていると、銕三郎が、
権七(ごんしち)の口をふさぐ妙案を考えついた」
「そんなお話は明日の朝。---いまは、もう一度、いっしょに、沈むんですから」

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2008.01.17

ちゅうすけのひとり言(1)

これは、まったくの独り言である。

史実の長谷川平蔵宣以(のぶため)と、小説の鬼平を調べていて、ふと生じた疑問や、こうではないか---と思いついたことを、だれにいうともなく、呟いている、そのメモみたいなものと言っておく。

だから、無責任な発言である。
ちゅうすけ自身だけが興味をもったことに、すぎない。

いつ書き留めるという計画も、ない。折りにふれて、呟く。

あるとき、史実の長谷川平蔵が、盗賊探索や尋問の仕方は亡父・平蔵宣雄が火盗改メの役についていた時に手伝って覚えた、と告白しているのを読んだ。『よしの冊子(ぞうし)』だったとおもう

『よしの冊子』という雑書については、膨大な記録から平蔵関連の部分だけを抜粋、現代語訳にして2007年9月2日から10月13日まで36回にわたって、このブログに掲載している。興味のある人はお読みになるといい。松平定信寄りという偏向は大いにあるが、平蔵と同時代のリポートということで、一読の価値はある。

鬼平犯科帳』には、このことは書かれていない。
そのわけは、『よしの冊子』は、松平家に秘匿されており、写本を中央公論社が『随筆百花苑』の第8巻(1980.11.20刊)と第9巻(1981.1.20刊)に収録した時点では、小説のほうは(文庫所載分でいうと第20巻あたりまで)『オール讀物』への掲載がすんでいたからである。

それと、池波さんは、亡父・宣雄が、先手・弓の8番手の組頭(くみがしら)時代に、火盗改メの加役(助役 すけやく)を命じられたこともご存じではなかったと推察している。
というのは、平蔵宣義(のぶのり 平蔵宣以の継嗣。小説の辰蔵)が[先祖書]を幕府に提出、それを基に編まれた『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』には、その職歴が載っていないからである。

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(宣雄の『寛政重修諸家譜』)

つまり、なんらかの理由で、宣義(たつぞう)は、祖父・宣雄の職歴から火盗改メの項を消したということになる。
なぜか? 類推だが、父・平蔵宣以が足かけ8年にもおよぶ火盗改メの職に塩づけで、家産をすっかり傾けた。3代つづけて、自分も火盗改メを命じられるのはたまらない---とでも思ったのかも。
(史実では、家産が傾いたために、宣雄が苦労して手に入れた本所・ニッ目通り・菊川の1238坪の屋敷を、辰蔵の継嗣が手放している)。

父・平蔵宣以の事績は、歿してまだ数年だからみんなの記憶にある。しかし、祖父・平蔵宣雄は歿後30年経っており、幕臣の多くは代替わりしていようから、指摘されることはあるまいとでも忖度したのであろう。

たしかに、『寛政諸家譜』は、宣義のおもいどおりにうまくいった。
しかし、宣雄の想定外のことが起きた。

宣義の没後に、『柳営補任(りゅうえいぶにん)』なんていう、幕臣の任免記録を編むもの好きがあらわれるとは、予想もしていなかった。

その『柳営補任』をじっくり確かめる、すっとん狂の出現も想定外であったろう(このすっとん狂が、すなわち、ぼく---ちゅうすけである)。

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(『柳営補任』 先手・弓の8番手組頭の長谷川宣雄と前後)

柳営補任』 先手・弓8番手組頭に長谷川平蔵宣雄の名があり、

明和8年(1771)10月16日から「火付盗賊改加役(冬場の助役)

と記されている。
もちろん、『柳営補任』の記述がつねに正しいとはかぎらないが、宣雄のこれについては、徳川の正史『徳川実紀』にも同様の年月日が記されているから、まず、間違いない。

それはそれとして、平蔵宣雄にとっても、火盗改メ任期中に、想定外のことがおきた。火事の多い冬場の加役(助役)だから、春になれば、しきたりどおりに解任されるはずであった。
ところが、本役の中野監物清方(きよかた 先手・弓の4番手組頭 50歳 廩米300俵)が、安永9年(1772)2月22日に病死したのである(この日付は公式のもので、実際はもっと前)。

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(『柳営補任』 先手・弓の4番手組頭・中野監物清方と前後)

幕府は、長谷川平蔵宣雄を、助役から本役に横滑りさせた。宣雄の想定外とはこのことである。この仁は、経済家---つまり、倹約家だから、出費のかさむ火盗改メは好きではなかったとおもう。まあ、上からの命令だから、仕方なく勤めたろう。

ところが、宣雄にとっても、幕府や江戸町民にとっても、想定外のことが、もう一つ、おきた。

明和9年2月28日---宣雄が火盗改メの本役に横滑りして1週間後に、いわゆる、目黒・行人坂の大火が発生、おりからの強風にあおられて江戸の3分の1以上が焼失した。
放火である。

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(江戸の火事 『風俗画報』明治31年12月25日号より)

犯人を、長谷川組が捕縛した。犯人が捕まっても、焼失した江戸の町は補償はされないが、大手柄である。
この功績と手堅い犯人尋問の褒賞の形で、平蔵宣雄は、京都西町奉行に栄進したともいわれている。

放火犯人逮捕に、息・平蔵宣以(27歳)がどこまで関与したかはあきらかでないが、吟味の際には学習したとおもう。

池波さんが省略していることが、もう一つある。

本家の、長谷川太郎兵衛正直(まさなお 宝暦13年=54歳 1450石)の存在である。
柳営補任』は、先手・弓の7番手組頭だった宝暦13年(1763)10月13日から火盗改メを命じられたとしている。

_360_
(『柳営補任』 先手・弓の7番手組頭・長谷川太郎兵衛正直と前後)

宝暦13年10月というのは、銕三郎(てつさぶろう)宣以が、初春に、駿府へ養妹・与詩(よし)を迎えに行って人妻・阿記(あき)と知りあった年の、秋である。

本家の大伯父・太郎兵衛正直が、火付け、盗賊、博打を追捕する火盗改メの役についているのに、分家の継嗣・銕三郎が本所・深川あたりで放蕩していたということが、ぼくには、どうにも理解できないのである。
もし、銕三郎が大喧嘩や博打で逮捕されるようなことがあれば、大伯父にも、監督不行き届きといったお叱りがあるはず。

ということは、銕三郎の放蕩は、偽装ではなかったのか、とも類推できる。いや、そのほうが史実としては筋がとおっている。
ま、そんな観点から、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)〕や〔馬入(ばにゅう)〕の甚五郎(じんごろう)を登場させてみたりしている。

【参考】長谷川太郎兵衛正直の『寛政重修諸家譜
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2008.01.16

与詩(よし)を迎えに(27)

阿記(あき)が待っている円明寺の南隣の旅籠〔甲州屋〕は、東海道からは外れているとはいえ、甲府へ通じている街道筋に面しているので、それなりに旅客は少なくはない。
けれども、甲州側の雪解けがまだ始まっていないいまは、閑散としている。
銕三郎(てつさぶろう)が〔めうが屋〕の名を告げると、旅籠側も心得ていて、阿記の部屋へ案内してくれた。
廊下で、反対側の奥を指さし、
「お供さまの部屋は、あちらでございます」
藤六(とうろく)と都茂(とも)は、幾部屋も離れた突きあたりだった。
どうやら、食事も別々ということのようだ。

「お着きになりました」
女中が戸をあけると、こちらへ背中を向けていた阿記が、顔だけ振り向けた。

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(国貞『春情肉婦寿満』部分)

剃り落としたばかりの青眉のその表情が、銕三郎がこれまで見たこともないほど、大人の婦女(おんな)の濃艶さだったので、どきりとして、足がとまった。

「あら。早く終わりましたのね」
こともなげに言った瞬間、飛びかかるように抱きついて口を寄せてきたのは、21歳の若い婦(おんな)そのものの所作だった。

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(歌麿『笑上戸』部分)

「もしかしたら、もしかしたら、あちらにお泊りになるのかと、心が狂っておました。お戻りになって、よかった」
「ばかだな。お芙沙(ふさ)には、れっきとしたご亭主がついているのだぞ」
「でも---焼けぽっくいに---」
みなまで言わせなかった。銕三郎の唇が阿記のつづく言葉をのんでいた。

「夕餉(ゆうげ)の前に、湯になさいますか? ここは箱根とちがい、温泉湯治場ではありませんから、湯殿も狭いし、湯桶も小さくて、ごいっしょできないのですよ。つまらない」
(阿記といい、お芙沙といい、なぜ、こうも、風呂に縁があるのだろう? おかしなめぐあわせだ)
「ひとりで、ゆっくりつかってこよう」
「まあ、憎らしい。お酒もとっておきますね」

銕三郎が躰を拭いていると、阿記がはいってきた。

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ちゅうすけの釈明】なにもここで、2点の絵をならべることもなかった。ましてや、左の清満『入浴美人』が阿記、右の歌麿『入浴美人』が芙沙というつもりもなかった。ただ、芙沙項(2007.7.16)で右の絵をあてたので、阿記の入浴シーンもとおもい、探したのだが、筆者の貧弱な手持ち資料では、鳥居清満のものしか見つからなかっただけのことである。だから、どっちがどっちなどと分けないで、湯桶に浸かる江戸期のおんなとして観ていただきたい。

「なにも、ここでいうことはないのだが、お芙沙どのに、与詩(よし 6歳)をもう一日預かってもらうことにしたから、明日は一日中、ここでゆっくりできます」
「まあ、うれしい」
全裸のまま、阿記が抱きついてきた。あいかわらず、感情の発露に遠慮がない。
4日ぶりに、やわらかで重みがあり鋭敏な乳房の感触がよみがえった。
腰も擦りよせてくるから、たまったものではない。
たちまち、銕三郎のものが、膨張をはじめた。
(ここでは、いけない。寝床での刻(とき)は長いのだ)
引きはがすように、阿記の躰を放した。

酌をしながら、阿記が言う。
(てつ)さまがお発(た)ちになったあと、おおごとが起きたのです」
「おおごと---?」
夫・〔越中屋〕幸兵衛(こうべえ 25歳)が、平塚一帯を取り仕切っている顔役・〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 38歳)とともに、阿記を連れ戻しに、芦の湯村へやってきたのだという。
店先へ応対に出た阿記の父・〔めうが屋〕次右衛門(じえもん 51歳)を、勘兵衛がなんのかんのと脅し、どうしても阿記を引きとるまでは帰らないとねばる。
阿記は、離れのあの部屋へ隠れて、生きた心地もしなかった。いっそ、ここで、髪を切って頭を丸め、覚悟のほどを幸兵衛に示そいかともおもったが、今宵、銕三郎に逢うことを考えると踏みきれず、青眉だけにとどめたのだと。
客商売の店先でのことでもあり、次右衛門が困りはてているところへ、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 31歳)が仲間の若いのを5人ばかり引きつれて駆けつけて来、勘兵衛と話しあった末、その日は、とりあえず帰っていった。

あとでわかったのだが、阿記の婚礼に、花嫁側の一族の長(おさ)として出席した畑宿(はたしゅく)村の長者・めうがや畑右衛門(はたえもん 50歳)の妻・佐登(さと)が、幸兵衛の顔をおぼえていて、一癖もニ癖もありそうな面体(めんてい)の男(勘兵衛)といっしょに、芦の湯道へ折れたので、おかしいと夫に告げ、たまたま通りかかった権七へ頼んだのだという。

権七どのに借りができたな」
「借りは、父がなんとか---」
「いや。そういう意味ではありません。ああいう、裏道で生きている人たちにも、あの人たちなりのしきたり、掟てがあって、表の世界の常識をもちこんでは、かえって混乱の元になるのです。これは、権七どのにまかせましょう」
「それより、困ったことになったとおもっております」
「なにか---?」
「あと数日で、鎌倉の縁切り尼寺・東慶寺さんへ向かわなければなりません。そのとき、平塚を通ります。〔馬入〕の勘兵衛が、やすやすと通してくれますかどうか---」
権七どのには、明晩、逢えるはずだから、相談をもちかけてみよう」
「え、あさっての朝ではないのですか?」
「それが、そうではなくなった。権七どのの情けを受けている婦女(ひと)が、この三島宿で居酒屋をやっているらしいのです」


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2008.01.15

与詩(よし)を迎えに(26)

(てつ)---長谷川さま、お芙沙さんのこと、お伝えしました。私どもは、〔甲州屋〕さんでお待ちしていますから、どうぞ、ごゆっくり。夕餉(ゆうげ)までには、かならず、お戻りくださいませ。おほほほ」
阿記(あき 21歳)は、都茂(とも 44歳)と藤六(とうろく 45歳)と馬力をうながし、角を曲がって去って行った。
都茂は、もう、藤六にぴったり、寄りそっている。

残された銕三郎(てつさぶろう 18歳)は、与詩(よし 6歳)の背中を押して、三島宿の本陣〔樋口〕伝左衛門方へ向かうしかなかった。
「お(ふ)---内儀どのへお取次ぎを願いたい。江戸の長谷川です」
帳場の番頭とおぼしい男へ言った。

男は、立ってきて、
「これはこれは、長谷川さま。いつもご贔屓を頂戴しており、ありがとう存じます。お父上からの丁重なご書面と宿料もお預かりしております。家内ともども、お待ち申しておりました。あ、手前が、九代目を継ぎました伝左衛門でございます。お見知りおきください」
(こいつか、お芙沙の入り婿は。ずいぶと頭が薄いが、いったい、幾つなんだ)

声を訊きつけたか、座敷を左右に分けている三和土(たたき)の広い通路の奥から、芙沙があらわれた。

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(国貞『正写相生源氏』部分)

「まあ、まあ、長谷川さま。お前さん、つまらないおしゃべりをつづけていないで、早速にお部屋へご案内なさって。長谷川さま。喉でも湿らせていてくださいませ。すぐに参上いたしますから」
(すっかり、本陣の女主人だ。20代の婦(おなご)にとって、4年という歳月は伊達にすぎてはいない。しかし、話す時にできる左頬のえくは、あのときと変わっていない)

「あ、与詩ちゃんですね。与詩ちゃん、今夜は、私が母上ですからね」
与詩は、きょとんとしている。
(母か。4年間、お芙沙は---少年として忘れることのできない、おれだけの仮(かりそめ)の母であったが---いまの与詩に言った言葉からすると、もう、あの一夜のことはこころから消しているのであろうな)
銕三郎は、すっきりしたような、ちょっと残念のような気分になっていた。

亭主・伝左衛門と入れ替わるようにして、芙沙が部屋へ入ってきた。
「お久しゅうございました」
「その節は、ありがとうござった。これは、先代の伝左衛門どのへの香華のつもりです。お供えくださって、銕三郎の深い深い供養の気持ちをお伝えください」
「それは、ご丁寧に。こちらは、お父上がお届けくださっていた宿料でございます。銕三(てっさ)さまが、行きも帰りもご宿泊くださいませんので、お返し申します。ほんと、すっかり、お見限りなんですから---」
「あ、それは、与詩の宿泊料にあててください」
「さようでございますか。それでは、お言葉に甘えさせていただきます」

ふさ(芙沙)のおばちゃま。おばちゃまがよし(与詩)の、おたあさまだと、あにうえのおたあさまにもなる---のでしゅか?」
「あら、与詩ちゃんは、お賢いこと。そうですよ、おばちゃまは、銕三郎さまのおたあさまでもあります」
「これ、お芙沙どの。与詩に、よけいなことを教えては、困る」
「あにうえ。おたあさまには、もっとていねいなことばづかい、しないと、いけませぬ」
「そうであった---ありましたな。はははは」
「ほんに、銕三さま。ふふふ」
「きゃ、きゃ、きゃ」
こちらは与詩の笑い声である。

芙沙は、置かれている盆から湯呑みをとって、お茶でも飲むようにあけた。
銕三郎も手にしたが、口にあてる前に匂いでそれが冷や酒とわかり、唇を湿らせただけで返す。
芙沙どの。与詩が、着物を自分で着ることができるようにしつけていただけると、助かるのですが---」
「脱がせるほうは、鉄三さまがお得意ですものね」
「冗談ではないのです。これから、江戸まで、数日泊まります。男2人の中なので、ひとりで着てくれないと困るのです」
(お芙沙の、匂うような上品さが薄れて、代りに身についたのは、豊かな肉と欲らしい)
銕三郎は、芙沙を目で誘って部屋をはずして、与詩のお寝しょうのことを打ちあけ、着替えの包みにおむつも入っていることを告げた。
「はい。あれから私にも、女の子がさずかりましたから、おむつのあて方はわかっています」
「お子は、幾つ?」
「ご心配なく。2つで、残念ながら、銕三さまが父親ではありませぬ。それより、お阿記さん、気性のいい方ですね。妹にしたいくらい。大事にしてあげてくださいな。与詩さんは、一と晩といわず、三晩でも四晩でもお預かりしてさしあげますから」

「そのこと、拙のほうからお願いするつもりでおりました。ニた晩、お預かりいただけましょうか。明後日の明けの六ッ半(7時)に、山駕籠で当本陣へ迎えにくるように、権七(ごんしち)という荷運び雲助の頭(かしら)格に申しいれてあります」
権七---とおっしゃいますと、〔風速(かざはや)〕を通り名にしている、あの権七でございますか?」
「ご存じで?」
「大名家に箱根越えの人足(にんそく)たちを誂えるのも、うちの商売の一つでございますから。いえ、あの権七は、とくべつです。うちの女中をしていた婦(おんな)に手をつけて、三島大社の大鳥居向いあたりで、飲み屋をやらせているのです」
「ほう。これは奇遇」
「だから、明日の晩は、その飲み屋泊まりでしょう」
「では、間違いなく山駕籠を持ってきてくれますな。で、その飲み屋の屋号は?」
「なんでも、〔お須賀〕とか---座敷女中だった妓(こ)の名前です」


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2008.01.14

与詩(よし)を迎えに(25)

蒲原(かんばら)は六ッ(6時)の朝発(だ)ち、と決めていた。
七ッ半(5時)に、藤六(とうろく)が起きてきて、
「若。与詩(よし)さまも起こしますか?」
「おれたちが顔を洗い、房楊枝をすましてからでいいだろう」

与詩を起こしてから、おもってもいなかったことが出来(しゅったい)した。
幼女の着物の着せ方がわからない。
〔木瓜(もっこう)屋〕忠兵衛の内儀が、着せてから、うしろから袂(たもと)をまとめて歯を磨かせた。
(明朝からは、着付けの前に顔を洗わせよう)

朝飯も、食べおわらない。
一と口ずつの大きさのにぎりにして海苔(のり)でつつんでもらい、茶をいれた竹筒をもって馬に乗った。

この季節の六ッは、まだ、暗い。が、土地(ところ)生まれの馬方も馬も馴れたもので、薄暗い道を提灯に灯も入れないで東へすすむ。
富士川で、暁の陽をうけた雪が金色に染まる富士山を見た。

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(北寿『東海道富士川真写之図』)

そのみごとな山容に、与詩もはっきりと目がさめたらしい。
「きれい」
「みごとだな」
馬方が口をそえる。
「きょうも、きれいな晴れでごぜえますよ。旦那さまがたはついていらっしゃる」

〔木瓜屋〕忠兵衛が、あらかじめ渡し場の川役人に通じておいてくれたので、荷をつけた馬ごと舟で対岸の松岡村へわたることができた。

いつまでも富士山を眺めていた与詩が訊く。
「あにうえ。えどで、おやまがみえましゅか?」
「お山とは、この富士のことか---ことですか?」
「うん---はい」
「見えるところと、見えないところがあります」
「あにうえの、おうちは?」
「家からは見えない---見えませぬ。しかし、近くの川端へ行けば見えます。それと、江戸には、富士見坂という名前の坂が十(とう)と五ッほど---あります。十と五ッ---わかるかな、両の手の指が全部と、も一度、右の手だけの指、五ッ---です」
「さか、よしもゆきたい---です」
「連れて行って、あげます」
「げんまん」
与詩は、振りむいて小指をさしだした。

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(広重『東都名所』[日本橋の白雨])

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(国芳『東都三十六景』[昌平坂の富士])

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(北斎『富嶽三十六景』[礫川(こいしかわ)雪ノ旦(あさ))

吉原でお茶にした。与詩は小にぎりを食べ、厠をすませた。といっても、これが---公用宿・〔扇屋〕伝兵衛方の年配の女中の手を借りなければならなかった。与詩は、落し紙が自分で使えなかったからである。

吉原宿で馬を換え、原宿(はらしゅく)へは3里6丁(約13km)。
〔若狭屋〕九兵衛方で昼食を摂る。
沼津宿へ1里半(6km)。

銕三郎(てつさぶろう)は、少々飽きてきた与詩に、柏原から一本松のあいだ、村ごとに行きちがう女の旅人、男の旅人の数をかぞえさせ、11から30までの数を教えるなど、たわいもない会話をかわしながら、気は、阿記(あき)へ飛んでいる。
(お芙沙(ふさ)に、この子を一と晩預かってもらう話は、うまくはこんだであろうか)

沼津から三島宿へも1里半。
また、馬を換える。

三島宿へ入った。

本陣〔樋口〕伝左衛門方の向いも、本陣〔世古〕郷四郎方である。

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(東海道筋に面している本陣〔樋口〕伝左衛門方=赤○)

その手前に、見おぼえのある女が2人立って、街道の西を見ている。
近づくと、やはり、阿記都茂(とも)であった。
「寒かったであろう」
「いいえ。懐炉を入れていますから」
「阿記どの。眉をどうなされた?」
阿記は眉を落としていた。着物もうんと地味なものを着ているので、21歳から5つか6つばかり、齢をとったように見える。
「どうせ東慶寺さんのお世話になるのだからと、おもいきって---」
「ふむ。その話はあとでゆるりと、な。与詩のことは?」
「お芙沙さんが承諾してくださいました。お待ちになっております」
「お待ちに---って、与詩ではなく、この銕三郎をか」
「はい。たいそう、懐かしげで、ございましたよ。おほほほ」
阿記は、それでも、いいのか?」
「ほほほほ」

【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙]
2008年1月日[与詩(よし)を迎えに(13)]

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2008.01.13

与詩(よし)を迎えに(24)

由井では、問屋場で馬を換えているあいだに、書役(しょやく)に紙を借りて、まず、権七(ごんしち)あての依頼状をしたためた。
2日おいて3日目の朝六ッ半(7時)に、山駕籠を本陣・〔樋口〕伝左衛門方へ手くばりしてほしいこと、山駕籠はそのまま、小田原宿の本陣・〔保田〕利左衛門方まで使いたい旨を、見なれない漢字にはふりがなをつけて、簡単に述べた。最後に、再逢を心待ちにしていると付け加えた。

宛先は、権七が指定した、「箱根御関所・小頭(こがしら)・打田内記(ないき)さま気付 風速(かざはや)の権七どのとした。
当時は、「どの」よりも、「さま」のほうがより丁寧な尊称として使われていた。

打田内記が勤めている小頭というのは、関所に詰めている11人の足軽の長(ちょう)である。荷運び雲助の顔役らしく、権七は何かと小頭と接触していたらしい。

箱根関所の役人の構成は、小田原藩から派遣された伴頭(ばんがしら)の下で、定番人が3人、足軽と人見女2人となっていた。
定番人は、関所すぐ西に隣する箱根宿に在住、と定められていた。阿記(あき)の父・〔めうが屋〕次右衛門が、湯治宿という商売がら、定番人の1人と懇意にしていると言ってくれたが、このときばかりは権七の顔を立てることのほうを、銕三郎は迷わずに選んだ。

余談だが、旅する婦女に恐れられていたのは、人見女である。疑われると---というより、中年女の彼女たちの虫の居所が悪いと、素裸はおろか、髪もくずして調べ、あげくのはてに、秘部まで指でさぐられたという。いや、噂にすぎないのだが。

よみがえる箱根関所

[打田内記さま気付]との宛名と、お小十人組・5番手頭(かしら)長谷川平蔵宣雄(のぶお)内・銕三郎宣以(のぶため)の裏書を見た問屋場の書役が、
「差し出がましいことをお尋ねしまが、今夜のお泊りは蒲原(かんばら)でございましょうか?」
「さよう。〔木瓜(もっこう)屋〕忠兵衛方のつもりですが---」
「それでは、〔もっこう屋〕さんへも、馬の手くばりのお使いをおだしになっておおきになったほうがよろしいかと。蒲原宿の旅籠は、馬を常備(つねぞな)えしておりませんのです。その朝に手くばりさせますと、1刻(2時間)も待たされますゆえ」
「それはいいことをお聞かせくださった。かたじけない」

銕三郎は、三島で待っているはずの阿記への文をの宛先を、旅籠〔甲州屋〕気付としたあと、蒲原宿の脇本陣〔もっこう屋〕忠兵衛にあてて、6歳の女の子づれであること、明け六っ(6時)発(だ)ちであることを記して、馬の手配をくれぐれも頼んだ。

3通の書状はすべて早飛脚便とすることを、問屋場の書役Iに笑顔で念をおし、借りた書状紙代として、心づけをはずんだ。

由井から蒲原は1里。半刻(1時間)もあればたりるが、気になるのは、明日の馬である。馬の手配がつかないと駕籠だが、与詩が一人で乗れるかどうか。いや、箱根道での山駕籠の練習になるから、むしろ駕籠のほうがよかったかも---。

富士見橋たもとの宿屋〔木瓜(もっこう)屋〕忠兵衛方に投宿して、父・平蔵宣雄の手くばりのよさを、銕三郎は、2つもおもいしらされた。

_100一つは、〔木瓜屋〕の商標が紋所が「一木瓜(ひとつもっこう)」であることを、入り口の暖簾の染めぬきで知ったとき。
なんと、駿府の町奉行・朝倉家の家紋の「一木瓜」だった。与詩の印籠につけられている金箔(きんぱく)の紋が三木瓜(みつもっこう)だったので、まさか、朝倉家の表紋が「一木瓜」とまでは察しがつかなかった。

【参考】朝倉仁左衛門景増の『寛政重修諸家譜』

Photo「三木瓜」は、私物につける替え紋だったのである。
「一木瓜」は日下部氏の紋どころで、日下部氏は、仁徳帝の皇子から発していることになっている。その末の一と流れが越前国を領していた朝倉氏である。

忠兵衛どののご先祖は、越前の出でございますのか」
あいさつに出た亭主・忠兵衛銕三郎が訊くと、
「はい。駿府の朝倉仁左衛門さまとも、遠い縁つづきになるのでございます」
「今夜、お手数をおかけするのは、駿府の朝倉さまの於姫(おひー)で---」
「江戸のお父上さまからの文(ふみ)で、さように存じております。お世話ができますことを、こころ待ちにしておりました」
「実は---」
と、銕三郎忠左衛門を帳場へ誘(いざな)って、与詩の夜の危惧を伝えると、
「なんのご心配もございませぬ。油紙を縫いこんだ布団をつねに備えております。ご寝所も、厠へもっとも近い部屋にとらせていただきました。
それから、早飛脚でいただいた明朝の駅馬のことでございますが、お父上さまも、くれぐれもとお気づかいをなされておりますので、すっかり用意がととのっております」

いざ、寝床へ伏すだんになり、
「与詩。おむつをあててあげようか?」
「じぶんで、つけます。でも、おしろのちちうえは、ごじぶんで、できましぇんのですよ。おとなのくせに」
中風で倒れて寝たきりになった朝倉仁左衛門のことをいっている。下(しも)も独りではできぬ躰になってしまっているらしい。
それでも辞職願いを幕府に出さないのは、職務給への未練のためなのか、回復を期待しているためなのか。

その夜、隣の間に寝た藤六(とうろく)は酒をひかえ、与詩に、2回、厠を使わせた。用後のおむつを、与詩は、藤六がつけるにまかせた。
使用人は、木の幹かなにかのように見ているのかもしれない。
(薄目でその様子を見ながら、これは、改めさせなければ---と銕三郎はこころにとめたが、おむつの取替えだけは藤六にやってもらいたい気もして、ひそかに反省)

油紙入りの布団は、必要がなかった。

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2008.01.12

与詩(よし)を迎えに(23)

「こちらの手が左、こちらが右の手。左と、右---さあ、言ってごらんなさい」
「こちらのてが、みぎ---」
「ちがいました。こちらが左、こちらが右」
「ひだり、みぎ」
「よくできました」
「---よくできました」
さつた峠を越えながらも、銕三郎(てつさぶろう)は根気よく、それこそ、道中合羽の中で与詩(よし)の手をとって、教えている。
馬上は少しさむい---と与詩が訴えたので、馬力に道中合羽を借りたのである。

与詩さま。左をごらんなされませ。富士のお山があのように高々と見えます」
脇を歩む藤六(とうろく)も、与詩の手習いを助ける

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(広重 『東海道五十三次』[由井 さつた峠から望む富士])

富士は、まだ白い衣を五合目あたりまで着ていた。

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(快晴の日の富士山)

「おしろからは、おやまは、ちづ(智津)のせのたかさ」
「ここでは、お兄上さまの背よりも、もっと高く見えますでございましょう」
「うん」
与詩。約束げんまんしたばかりでしょう、『うん』ではありません」
「『はい』、でしゅ」
「です」
「---です」

下りになると、与詩がこわがった。
銕三郎は、縄で自分と与詩の躰をしばって固定させた。
(箱根道は、与詩には馬は無理だな。山駕籠を、由井宿の問屋場から、権七(ごんしち)あての書状を送って、頼んでおこう)
ついでに、三島宿の旅籠〔甲州屋〕で待っている阿記(あき)にも、明日の投宿時刻を知らせる手紙を早飛脚に届けさせることにした。
蒲原(かんぱら)宿から三島宿までは、9里(36km)。朝発(だ)ちを明け六ッ(6時)にすれば、暮れの七ッ(4時)には宿へ着けるだろう。

与詩。一ッ、二ッ、三ッ、四ッ---つづけて、数えてごらん」
「いつッ、ななッ、むっッ---」
「六ッ、七ッですよ」
「むっッ、ななッ、やっッ、ここのッ、とう」
「はい。道の松の樹をかぞえよう。一ッ---」
「ふたッ、みっッ---」
与詩は、指を折って数えている。
教育は根気だ、と銕三郎はつくづくおもいしった。

峠を降ると、倉沢村である。
数軒の茶店がさざえのつぼ焼きを、旅人たちに呼びかけている。
父・宣雄は〔休み陣屋・柏屋〕へ、いくばくかの金子(きんす)を手くばりしておいてくれていた。
姓を告げると、亭主・幸七(こうしち)があいさつにきた。
長谷川さまには、お変わりございませんか?」
「息災iにて、小十人組・5番手の頭(かしら)を勤めておりますが、ご亭主は、父をご存じなのですか?」
60歳に近い幸七は、むかしをしのぶように腰をのばして、
「申しあげますこと、お父上には内緒にしておいてくださいませよ。じつは---」
と言いかけたのに、
「ご亭主。この子に厠(かわや)をお貸しください。藤六与詩を厠へ」

2人が裏手へ去ったのを見すましてから幸七が話したことに、銕三郎は驚ろいた。
上方への旅の途中に〔柏屋〕へ立ちよった父・平蔵は、22歳の冷や飯の身で、これといった要件もない気楽なひとり旅だったらしい。
店先から、海女(あま)たちのあわび採りを眺めていたが、幸七から漁師たちがしめる赤ふんどしを借りて海へもぐり、たちまち、数ヶのあわびをものにした。

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(倉沢の海であわびを採る海女たち 北斎画)

その姿に、倉沢村一番のあわびの採り手を売りものにしていた若年増の海女がひと目ぼれしてしまった。
長谷川さまは逃げまわられたのですが、お(きみ)のほうはあきらめるものですか。あわび採りも名人なら、いい男捕りも一番手と自分に言い聞かせたのでしょう、ついに3夜ほどをいっしょにお過ごしになりました。その後、どう話をおつけになったものか、4日目には、長谷川さまは京へお発ちになりましたよ」
(謹厳を絵に描いたような父上に、そのような艶聞があったとは---ということは、おれのは、その血筋なんだ)
「それで、おとか申す海女どのは、いかがなりました? ご存命なら、40と幾つかにおなりのはず---」
「なに、お父上が去られてから、中古(ちゅうぶる)の亭主とくっついて---ほら、あそこの岩の上で躰を休めている齢をくっている海女がいましょう、あれがおです」

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(一と休みして、躰を温めている海女たち 北斎画)

すませて戻ってきた与詩に、
与詩も、あそこの海女たちのように、泳ぎを覚えたいですか?」
「はい」
「そうか。では、江戸の家で、父上に、『泳ぎを教えてくださいませ』とお頼みしなさい。さ、言ってごらん」
「ちちうえ。およぎをおおしえ、くだちゃいませ」
「よくできました」
(父上の、驚愕のお顔が見えるようだわ。おれも、けっこう、悪(わる)だってこと)


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2008.01.11

与詩(よし)を迎えに(22)

与詩(よし)。目の下の清水の海の向こう---覚えておくがいい、向こうが南。その反対が北。言ってごらん」
銕三郎(てつさぶろう)が、清見寺(せいけんじ)の門前から、対岸の三保の松原を見せながら、かんでふくめるように与詩に説明している。
清見寺は、俗に「きよみでら」とも呼ばれている。
晴れた日には、ここからの眺めが、三保の松原がもっとも美しく望見できる。

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(三保松原・三穂神社 『東海道名所図会』 塗り絵師=ちゅうすけ)

与詩は、これまで、美的体験が乏しいようにおもえる。
それで、立ち寄った。 

「南と北だ。さ、言ってごらん」
「みなみ、きた」
「春、梅や桜の花を咲かせる暖かい風が吹くのが南だ。冬に寒い風を吹かせるのが北。海の向こうに見える三保の松原は、ここからは南だ」
「でも、あいにうえ。あたたかいかぜは、ないよ」
「寒いのか?」
「すこし」
「よし道中合羽を借りて、暖かくしてやろう。藤六(とうろく)、馬力どのに合羽を貸してもらってくれ。与詩、いいか、朝、お天道(てんとう)さまが顔をおだしになるほうを東という。言ってみなさい」
「ひがし」
「そう。よくできました。もう一度、言ってみなさい」
「ひがし」
「そうではない。よくできました---と言ってみなさい」
「よくできまちゅた」
「よくできました、というのは、与詩が賢い子だということです」
「よくできましちゅたは、よしが、かしゅこいでちゅ」
「そう。お天道さまがお隠れるほうは、西です」
「おてんとさまが、かくれるの、にしでちゅ」
「まあ。いいでしょう」
「まあ、いいでちょう」
「海の南に見えているのが、三保の松原といって、与詩を産んでくださった母者の里です」
「よしには、おたあさまはいない」
「そうであったな」

与詩は、風景の美しさの経験がほとんどないように、銕三郎は感じている。
駿府城からほとんど出たことがないらしい。
さらに、お守(も)りをしていたは、花鳥風月を教えなかったとみえる。
いまは、三保の松原の広大で清涼な風景を前にして、とまどっているとしか、銕三郎にはおもえなかった。
(こちらも、ぼつぼつだな。しかし、阿記に会ったらどんな印象をもつだろう? なんといっても女の子だから、若くて美しい女性とは、阿記のような人のことだと感じるだろうか?)

藤六。泊まりの蒲原(かんばら)まで、さつた峠越えをふくめて、4里(16km)近くある。先を急ごう」


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2008.01.10

与詩(よし)を迎えに(21)

府中から2里30丁(11km)たらずで江尻。問屋場で馬を継ぐ。
荷物の載せかえをいいつけておいて、早めの昼を本陣〔寺尾屋〕で摂る。
終えた藤六(とうろく 45歳)は、荷のぐあいを確かめに問屋場へ引き返した。

与詩(よし)は、なにやら、本陣の向いの茶店のほうを真剣な目つきで見ている。

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([玩具(てあそび)行商人]『都鄙図巻』より)

与詩とおなじ齢ごろの子と母親が、玩具(てあそび)行商人をひやかしている。
与詩もほしいのか?」
訊いた銕三郎(てつさぶろう)に、与詩は頭(かぶり)をふった。
(そうか、姉妹のことを考えているのだな。それにしては、目つきが真剣すぎるが---)
与詩は、お城の屋敷では、誰と遊んでいたのだ?」
ちづ(智津)」
「妹か? 幾つだ?」
「5歳」
「母者は、志乃(しの)どのかな」
与詩は、また、頭をふって、
「ちがうけど、しらない」
(町奉行・朝倉仁左衛門景増(かげます 60歳 300石)どのの、『左門(さもん)、また出来たぞ』の口の一人か)

与詩。厠(かわや)はいいのか?」
「ゆく」
「ひとりで、てきるのか?」
「できる」
「昼間だからな」
言ってしまってから、銕三郎は(しまった!)とおもった。
与詩に、お寝しょうのことを気にさせてはいけなかった。

(しかし、江戸へ着くまでに、与詩に言葉づかいを教えておかないと、父上・母上が困惑なさるであろう、まあ、ぼちぼちだな)

馬の背の前に、また、与詩を乗せた。
できるだけ、安心させてやりたかった。
与詩は、智津と仲よくしていたのか?」
与詩は、また、首をふった。
ちづは、いぢわる」
「どんなふうに、悪いのかな?」
「うそ、つく」
「ほう、どんなうそをつくのかな?」
よしのこと、おねしょっ子って---」
「ほう。そうではなかったのか?」
「ときどきしか、してない」
「それは、智津がいけないな。ときどきのお寝しょうっ子っていわないとな」
「あにうえ、きらい!」
「どうして、嫌う?」
「おねしょっ子っていった」
「ときどき---をつけたぞ」
「それでも、きらい!」
「お寝しょうをしないように、直してやろうと思っているのだぞ」
よしをいじめる、こわいものがでてこないように?」
「そうだ。与詩をいじめるものは、ぜんぶ、退治してやる」
「あにうえは、つよいの?」
「強いとも」
「それなら、すき」
「今夜から、安心して眠れ。もし、こわいものが出てきたら、兄上って呼べば、たちまち駆けつけてやる」
「こんやは、でない」
「ほう、どうしてだ?」
たけがいないから---」
って、与詩のお守(も)りだった、あのか---?」
「おねしょすると、たけがおしりをぶつの」
「そうか。いけないだな」
「いけない、たけ」
は、もう、与詩をぶてない。は、お城の牢屋へ入れてやった」
「ろうや、でられない?」
「出ることはできない。おれが許しを出さないからな」
「よかった」
(これで、与詩の心の中の敵の一人は、封じこめたかな。あとに何人、いることやら)


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2008.01.09

与詩(よし)を迎えに(20)

長谷川さま。お申しつけの馬力が参っております」
駿府の脇本陣〔大万屋〕の番頭が取りついだ。

銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵 18歳)の荷は、供の藤六(とうろく 45歳)が馬の背にくくりつけた。
「いささか早いが、遅れるよりはましであろう」
本町通りを北へ6丁(600メートル)ほど行ったところに、町奉行所の脇門がある。待ち合わせ場所だ。
門は閉まっていた。
藤六が表門へまわって、番所へ声かけた。

しばらく待つと、年増が少女をつれてあらわれた。笹田左門(さもん 50歳)が後ろについている。継母・志乃(しの)は見送りにも出ないつもりらしい。
「お傳役(もりやく)の(たけ)でございます。与詩(よし 6歳)さまをお渡しいたします」
年増があいさつをした。
銕三郎は、包んでいた金子(きんす)を2個、にわたして、
「一つは、賄所(まかないどころ)の者たちで分けるようにいってください。これまで、与詩によくしてくだされた、寸志です」
角樽は、左門が受けた。
「おお、鶯宿梅(あうしゅくばい)ですな。これは銘酒中の銘酒。はここにいますから、あと、松だが---梅、竹、笹でも--まずは、めでたい。ははは」
くだらないしゃれを言って、ひとり悦にいっているふりをして、志乃が欠けているのをごまかしている。

与詩、馬に乗ったことはあるか?」
銕三郎の問いかけに、少女は頭をふった。
与詩は、江戸まで馬だが、こわいか?」
また、頭をふる。
「そうか。では、乗せてやるが、しばらくは、兄といっしょに乗る」
うなずいた。
馬の両脇に荷がくくりつけてあるため、乗馬にはちょっとしたコツが必要だが、銕三郎はなんなく乗り、藤六与詩の脇から持ちあげて銕三郎へわたした。

銕三郎は、馬上から左門にあいさつを述べ、藤六に目で「やれ」と合図をする。
与詩のためにも、一瞬でも早く、この雰囲気を去りたかった。

東海道は、駿府城の追手門の前をすぎると北へ向きを変え、さらに東へとつづく。

駿府の城の天守閣は、失火で焼けて以来、再建されていない。だから、すこし離れると松の巨樹しか見えなくなる。
そのころを見計らって、前に乗せている与詩に、
与詩。今日から、拙がそちの兄者だ。これからは兄上と呼べ。言ってみろ」
少女は黙っている。
与詩は、耳なしか、それとも、口なしか?」
「若。たぶん、舌切り雀なのでしよう」
藤六も口をそえた。
「ちがう。舌はある」
少女は赤い小さな舌をだした。
「後ろからでは見えないぞ。藤六には見えたか?」
「いいえ。見えませぬ。やはり、舌切り雀でしょう」
「ちがう。ほら---」
与詩が振りむいてだした舌を、すばやく銕三郎がつかみ、
「とってつけた偽の舌か、ほんとうに与詩の舌か、検分してやる」
与詩はしゃべれなくなった。う、う、うう---うめく。
銕三郎が指をはなすと、与詩は涙を浮かべながら、
「ほんとに与詩の舌でちょ」
「では、兄上といってみろ」
「あにうえ」
「それでいい」
「いいえ。藤六の耳にはきこえませなんだ。与詩さま、もういちど、お願いします」
「あにうえ」
「聞こえました、しっかり、聞こえましたぞ、与詩姫さま」
少女は、くしゃくしゃの泣き笑い顔になった。


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2008.01.08

与詩(よし)を迎えに(19)

藤六(とうろく)、頼まれてくれないか。番頭どのに訊いて、土地でもっとも上等の酒を、角樽(つのだる)で求めてきてくれ」

町奉行所の内与力(うちよりき)・笹田左門(さもん)が帰るとすぐに、銕三郎(てつさぶろう 18歳)は藤六(45歳)に声をかけた。

「どう、お使いになりますので?」
「明朝、与詩(よし)を迎えに行ったとき、内与力どのに贈るのだ」
「それなら、若。酒好きのあの用人どのには、おなじ金高で、並みの酒を多くなさったほうが喜ばれるとおもいますが---」
「お前の考えにも、たしかに、一理ある。拙も、一度はそのように考えた。しかし、つねづね、父上からお教えいただいているのは、音物(いんもつ)は、少しずつたびたび贈るか、一度きりならできるだけ値のはるものを贈ってこころに残していただくようにせよ、と。明朝のことは、後者だ」
「分かりましてございます。つい、出すぎたことを申しあげました。お許しください」
「そうだ---ついでに、藤六、お前の寝酒も求めてくるがよい」

藤六は帳場へ行った。
銕三郎は、懐紙に小判を1枚ずつ包んだものを5個用意した。
明日、与詩を育ててくれた乳母と賄方の下女たちへの心づけである。実際に渡すのは2個か3個だが、そのときになって急にふえたときの用心に多めに備えたのだ。

内与力・左門が現れたのは、酒にことよせて、そういうことを悟らせるためと気がついたのである。
左門には、父・平蔵宣雄(のぶお)から、すでにしっかりと渡されているはずだから、角樽で、顔を立ててやればいい。

帳場へ降りて、番頭に小間物の老舗を訊こうと立ち上がりかけたが、苦笑して、腰を据えた。
3日後に再会する阿記(あき)への笄(こうがい)でもとおもったのだが、旬日のうちに頭を丸めて尼寺へ入るのだから、髪飾りはおかしい、と気づいたのだ。
(いや、早まるな。お芙沙(ふさ)に会ことになるやもしれない。なにか贈るべきであろう。そうだ、もっと難物---〔めうが屋)の女中頭(がしら)・都茂がいるぞ。これへの口止め料も必要だ。やはり行かねば---)

銕三郎は、帳場へ降りていった。
番頭と話していると、藤六が角樽を下げて戻ってきた。

「若。鶯宿梅(おうしゅくばい)の極上を仕入れて参りました。清水の蔵元の酒です」
「む。鶯宿梅とな。いまの季節にぴったりだ。まてよ、どっかで聞いたような---そうだ、雑司ヶ谷(ぞうしがや)から宿坂(しゅくさか)を下りて姿見橋(すがたみばし)の手前、砂利場村に南蔵院という真言宗の名刹がある。この寺の古梅樹が、たしか、鶯宿梅といったと、母上と鬼子母神へ参詣したときに聞いたのだ。これは、江戸育ちの笹田与力どのにはなによりの音物となろう。でかした、藤六」
銕三郎の土地勘は、すばらしい。いちど足をはこんだ地のあれこれも、正確に記憶する。

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(上端=鬼子母神 赤○-南蔵院)

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(南蔵院 『江戸名所図会』部分 中央樹=鶯宿梅 塗り絵師=ちゅうすけ)

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([鶯宿梅]拡大図 塗り絵師=ちゅうすけ)

「して、若はどちらかへお出かけで?」
「そのことよ。ちょっとした買い物がある。いま、番頭どのに店を教えてもらった。すぐ、そこだ。お前の好みも知りたい。ついて参れ」

ひとり言
〔鶯黄梅〕は、元禄期(1688)に創業の現・静岡市清水区西久保の三和酒造(株)が江戸期に醸造していた銘柄である。


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2008.01.07

与詩(よし)を迎えに(18)

【ひとり言】
きょうは、全部、ひとり言を記す。わざわざ、ひとり言と断ったのは、長谷川家に直接にはかかわりがない史実だからである。
とはいえ、養女・与詩(よし)の父親・朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 駿府町奉行 300石 1000石高・役料500石)に関する部分も大きいから、与詩にも、そのDNAが伝わっているかもしれない。

きのう再掲した景増とその子どもたちの『寛政譜』の個人の項を、くどいとおもわれても、すこし加筆して掲げる。

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まず目を引き、ふっと疑念が生じたのは、景増の嫡男・主殿(とのも)光景(てるかげ)の項に、「母は某氏」とあったこと。
『寛政譜』で「母は某氏」とあったら、武家のむすめではないとおもっていい。奉仕している家婦(小間使いや下女)が真っ先にうかぶ。

しかし、幕臣の場合、正妻以外のおんなが産んだ庶子が長男であっても、正妻に男子がいれば、その子が継嗣となるように定められている。

江戸期に流布した著者不知『武野燭話』に、こんなエピソードも記されている。
2代将軍・秀忠夫妻は、長子の竹千代(のちの家光)よりも、次男の国千代(のちの忠長)を寵愛していた。そのことを憂えた家康が、両子同道での対面を伝えた。
重臣たちが居並ぶ中、家康は自分の座を指し、
竹千代どのはここへ」
その後ろについてきた国千代へ、
国千代はあれへ下がりいるべし」
これで、3代将軍は家光---すなわち嫡男と、秀忠も重臣たちも納得したという。
【参照】国千代こと忠長のその後の乱心・自裁の顛末は、2007年6月30日[田中城しのぶ草(12)]

で、掲げた景増個人譜の中段に、主殿につづいて、次男・又四郎正景(まさかげ)、三男・伝次郎経章(つねあきら)が記されている。
この2人の中に正妻(大木孫八郎親次 ちかつぐ のむすめ)から生まれた子はいないのかと、養子先の『寛政譜』をのぞいてみた。

まず、織田の家臣から徳川に属した兼松家の末である吉五郎正僚 (まさとも 300石)を養父とした次男・正景(まさかげ)も、「母は某氏」とあった。すなわち、脇腹の生まれ。

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それでは---と、三男・伝次郎経章(つねあきら)が養子に入った先の高階家(200俵)を調べた。なんと、彼も「母は某氏」。

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それぞれの生年の、景増の年齢を表にしてみた。

朝倉仁左衛門景増の年齢および3人の男子の生年

元禄16年(1703) 景増生 (1歳)
享保13年(1728) 長男生 (26歳)
寛保元年(1741) 次男生 (39歳)
寛延3年 (1750) 三男生 (48歳)

子どもたちの年齢差からいって、母親はすべて異なっていると見る。根ぐせがよくない。

冒頭の年譜の、長男と次男のあいだに山川下総守貞幹(さだもと)に嫁いだ女子がいる。
母親は不明である。 『寛政譜』は女性の名も生母もふつうは記さないからである。

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景増が養女として出した与詩の妹は、志乃の産んだ女子であろうか。

 

 

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2008.01.06

与詩(よし)を迎えに(17)

「ご奉行所の内与力(うちよりき)さまが、お越しになりました」
〔大万屋〕の番頭が緊張した声で告げた。
銕三郎(てつさぶろう)が迎えにでるために、あわてて立ち上がると、早くも部屋の前に来ていた笹田左門は、
「そのまま、そのまま。あ、番頭さん。酒(ささ)の用意を、な」
どっかと座り、
「先刻は、わざわざ、ご足労でござった。なに、今宵は、長谷川どのと、くつろいで一献とおもいましてな。役宅では、なんですから---」
鼻の先が赤いから、よほどの酒好きで、役宅につけをまわして飲める機会があれば、逃(の)がさずにつかんでいるらしい。

「このご府中近辺は、霊峰の雪解け水で、酒もおいしゅうできあがるのですよ。江戸へ下っていないのは、駿河の酒飲みどもがみんな飲んでしまうからでしてな。ははは」
ひとりで、嬉しがっている。
銕三郎は、訪問の真意をはかりかねて、はあ、はあ、と受けてのみである。

酒が来て、酌の応酬---というより、銕三郎が一方的に注いでいる。
早くも、2、3本が空になった。
番頭が自ら新しい銚子を運んでいるのは、聞き耳を立てて、笹田内与力の来訪が、店にかかわりがあってかどうかを確かめたいからであろう。

「いや、長谷川どの。与詩さまの養女の件、お奉行---と申すより、奥方・志乃さまがどれだけ安堵なされておりますことか。
なにしろ、ご役宅に6人いるお子たちのうち、志乃さまが腹をおいためになったお子はお2人だけ。
志乃さまのそのご懐妊中に、3人もの小間使いに---。
あ、番頭さん、そなたは引き下がりなさい。酒がなくなったら声をかけるほどに---。あ、下がりついでに、もう2本ほど、持たせてくだされ。
いや、まあ、ご奉行がお盛んで、根(ね)ぐせ---ああ、男根の根(ね)と、寝床の寝(ね)をかけた、ははは、拙の新造語でござる---その根ぐせ悪いのは男である証拠といってもよろしいが、あれほどに悪いと、ご府内でもかなりな噂になっており、いまさら隠してもはじまりませぬな。ははは。
55歳をこえられてから、なんと、5人ものお子ですぞ。拙など、40半ばから、妻(つま)が妙な気をおこさないで、静かに寝(しん)についてくれることを、ひやひやもしながら願っておりますよ」
おんなより酒、といいたいのであろう。

「とにかく、『左内、出来たらしい、頼むぞ』といわれると、あと始末は用人の役目---そうですが、ああいうのを、垂れながしとでもいうのでごさろうかな。
中風も、その報いかも知れれません、て。や、失言々々。いまのはお忘れくだされ」

「さっきのお子たちのつづきですが、長らく用人を勤めている身としては、もう、2、3人、どこかへ養女の口がないものかと---江戸へお帰りになったら、長谷川さまにお話になってみてくださらんかな。
いやあ、きょうの酒は、めっぽう、おいしゅうござる。
おや、銕三郎どのはすすんでおりませぬな。飲(い)ける口とお見受けしたのだが。
ほう、長谷川さまはが召し上がられない---これはしたり、存ぜぬこととはいえ、ご無礼つかまつった。
しかし、なんですなあ、いまのご公儀は、つきあいで出世がきまりますからな、お飲みならないと、ご不便でしょう。
銕三郎どの。お父上に隠れてでも、飲み修行をなされよ。剣術の修行よりも飲み修行のほうが実が稔りますぞ」

笹田与力が帰ってから、銕三郎は、与詩のお寝しょうの原因について、おもいあたることがありやいなや、訊きそびれたのに気がつき、唇をかんだ。

再録朝倉仁左衛門景増が3人の夫人と何人かの脇腹に産ませた嫡男・光景以下11人の子どもを確認するために、2007年12月26日に掲載した個人譜をもう一度、掲示。
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2008.01.05

与詩(よし)を迎えに(16)

駿府・伝馬町の脇本陣〔大万屋〕清右衛門方には、夕刻前にはいった。
藤六(とうろく)は待ちかまえていて、奉行所の内与力(うちよりき)・笹田左門(さもん)との打ち合わせの経緯を要領よく報告するとともに、これから、銕三郎の到着と、明日の訪問時刻を告げてくるという。
「そうか、では、拙も参ろう」
「若はお疲れでしょうから、手前一人でよろしいかと」
「いや、それでは礼にかなうまい。節(せつ)をふもう。訪問用の羽織と袴をだしてくれ」

奉行所は追手門外にある。〔大万屋〕から5丁(約500メートル)と離れていない。

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(駿府町地図 赤○=町奉行所 緑○=奉行所与力屋敷 黄○=同心屋敷
 ピンク面=寺社地)

内与力とは、親代々の奉行所与力6名とは別に、奉行が江戸から連れてきた自家の用人を当てる。いってみれば、秘書課長みたいな職柄である。奉行の解任とともに、内与力も役を解かれ、幕府からの扶持もなくなる。

藤六がまず、奉行所の表門で当直の同心に笹田左門への刺(し)を乞う。
奥から戻ってきた同心は、銕三郎を丁重に、家族が住む役屋敷のほうへ案内してくれた。

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(駿府奉行所図 笠間良彦氏『江戸幕府役職集成』 雄山閣出版)

役屋敷の玄関脇の部屋で待たされていると、笹田与力(50がらみ)と年増の女性が入ってきて、上座に座った。銕三郎は無役・無禄なのだから、とうぜんである。

「お初(はつ)にお目どおりいたします、小十人組五番手頭(かしら)・長谷川平蔵宣雄(のぶお)が息(そく)・銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため)にございます」
「内与力の笹田です。こちらはご内室さま。ま、ここは表とちがい、内むきの役宅でもあるし、私用のことにつき、堅苦しいことは抜きして、ざっくばらんに話しあいましょう」
「ありがとうございます。父の名代で、ふつつかなれど、与詩(よし)どのを養女としてお受け取りに参上いたしました」
志乃(しの 25歳)がうけた。
朝倉の奥の志乃です。銕三郎どのとやら、多可(たか)が、えろうお世話になったとか。文(ふみ)で、それはそれは立派な兄上といってきておりました」
駿府奉行・朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)の3人目の内室・志乃は、多可の従姉(いとこ)にあたる。
多可は、気の毒をしました」
「ほんに。それで、与詩は、いつ、発(た)たせますか?」
「もし、ご用意がよければ、明日の朝にでも---」
「荷は、4日前の船に載せました。手まわりのものは、今晩にでもととのえられます」

志乃の口ぶりからすると、一日も早く、手放したい感じだ。
夫の景増は病床にあり、夫とのあいだにできた子が2人、さらに志乃が内室におさまってからも、景増は4人の子を脇で産ませて、すべて引きとっている。
内輪のとりしきりだけでも大ごとであろう。
志乃が、25歳というじつの齢よりも、かなりやつれて見えるのはそのせいかも知れない。

「それでは、明朝、五ッ(8時)に奉行所の脇門前へお越しくだされ」
そういって立ち上がった笹田に、
「あ。これは、小田原で求めてまいりました〔透頂香(とうちんこう)〕という万能薬です。さしつかえなければ、朝倉さまにお用いいただけば幸甚です。ご快復、こころより、念じております」
「これは重畳。医師方と相談してから、進(しん)ずることにします」

笹田与力が去ってから、志乃がいった。
「いま、与詩を呼びますが、その前に一と言。神経が細かすぎるところがありまして、興奮すると、6歳にもなって、お寝しょを漏らします。旅のあいだ、宿々でお気をつけくださいますよう」
「毎晩でございますか?」
「ええ、ほとんど。おむつがはなせません」
志乃はにんまりと笑っているが、銕三郎は、心中、困りはてていた。
(そういうことは、養女の話の前に言っておいてほしい)

宿へ帰ると、銕三郎藤六に命じた。
「おむつにする古着を、そう、六日分ほど求めてきてくれ」
驚く藤六に、志乃の打ち明け話を告げると、
「若さま。そういうことですと、先さまがお持たせになるでしょう。まあ、いまの季節ですから、一夜で乾くはずはございませぬし、洗ったおむつを旗のように立てて道中して乾かすわけにもまいりませぬ」
「あたりまえだ。そんな臭いものをもって歩けるか。毎朝、使い捨てだ」
「いえ。朝倉さまがお持たせになった分が足りなくなったら、そのときにこそ、宿々で求めればよいこと。あましてもつまりませぬ」
「なるほど。理だ。藤六は、お寝しょうぐせの子をもったことでもあるのか?」
「女房もおりませぬのに、子がいるわけはありませぬ」
「そうであった。ははは。おれは明日から、お寝しょうぐせの妹もちとは---われながら、冴えぬのお」


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2008.01.04

与詩(よし)を迎えに(15)

暁闇の中、阿記(あき)はそっと床をぬけだし、身づくろいをして、母屋へ帰っていった。
一と言も発しなかったのは、まだ2刻(4時間)と眠っていない銕三郎(てつさぶろう)に、すこしでも多くの眠りをとらせる気づかいである。
それでも、銕三郎の眠りが気になるのか、見下ろすようにこちら向きで着付けるのを、銕三郎は薄目で見守る。
乳房をだしたままで赤い襦袢の皺をととのえ、着物に袖をとおし、帯を締めていく手さばきは、すばやい。
4年前のお芙沙(ふさ)のときには、そんな余裕はなく、気が上ずっていて、相手のことにまでは配慮が及ばなかったが、阿記には、いとおしさと、おもいやるゆとりを味わっている。
その変化を、銕三郎は、
(それだけ、おとなの男になっているのだ)
そう、自分を納得させた。

阿記が抜けたあとの寝床は、温(ぬ)くもりが失(う)せたようだったが、銕三郎は明けきるまでの一と眠りをむさぼる。寝不足は旅には禁物なのだ。

朝食は、これまで見たことのない、若い女中が運んできた。15,6歳にしか見えないそのむすめに、女中頭・都茂(とも)はどうしたのか、と訊いた。
「お頭(かしら)さんは、腹が痛いといって、臥(ふ)せっています」
「ひどく痛んでいる様子ですか?」
「いえ。お頭さんのいつもの術(て)なんです。気にいらないことがあると、腹痛になるんです」
「ははは。では、これを、飲むようにと、とどけてくれませんか」
銕三郎が取りだしたのは、小田原宿の〔ういろう〕で、〔荒神(こうじん)屋〕の助太郎(すけたろう)の婿・彦次(ひこじ)の母親にと求めた〔透頂香(とうちんこう)〕の包みであった。
【参照】2007年12月28日[与詩(よし)を迎えに(8)]

少ない荷をまとめていると、あわただしく都茂が入ってきた。
長谷川さま。先ほどは高価な貴重薬を、ありがとうございました。おこころざしがうれしゅうて---」
「もう、起きてもいいのですか?」
「早速にあのお薬をいただいたら、たちまちに効いて、腹痛がどっかへ行ってしまいました」
「それは重畳。いや、このたびは、いろいろとお世話になりました。お礼に、都茂どのに、いいお相手を引きあわせしなければと---」
「え? ほんと? いつ?」
「府中からの帰りだから、往復5日とみて---」
「5日後でございますね。しっかり、若返っておかないと」
みるみる、都茂の顔に血の気がさしてきた。

銕三郎の荷を胸がかえに抱いた都茂が先に立って母屋へ。
店先には、〔めうが屋〕の主人・次右衛門(じえもん)夫妻と阿記が待っていた。
銕三郎の姿をみとめて、走るように寄ってきた。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫][生娘])

着物から髪型まで、すっかりおぼこむすめ風につくっている。
「おっ!」
目を見開いて驚いている銕三郎の手にさっと紙片をにぎらせ、
「生まれ変わって、娘時代に返ってみたくなったのです」
「なるほど、芦の湯小町だ」
「嫌ですよ。そんなにお驚きになっては。どうせ、21の出戻りでございますから」
「いや、惚れなおすとは、このこと」
「嘘でも、そういってくださると、嬉しい」
ぞんざいな口調と客向けの丁寧な言葉がいりまじってしまう。
(おんなとは、一夜で変わる生きものなのだ)

銕三郎を手招きした次右衛門が、手にしていた包みを示して、
「今朝がた、そう、六ッ半(7時)ごろでしたか、権七(ごんしち)さんの手の者とおっしゃる若い衆が、これを権七さんから長谷川さまへ、と---」
次右衛門が「権七さん」と呼んでいるのにをすばやく察して、
権七どのからとは、なんでございますかな」
「足の凝りほぐしの妙薬とか、聞きました。なんでも、風早村の秘伝薬とかで、梅干の肉に箱根の湯の花を練ったもので、〔足早(あしばや)膏薬(こうやく)とか---旅籠での湯上りにふくらはぎに貼るといいのだそうでございます」
「それは重宝。かたじけない。権七どのは、あたり一帯の顔ききだけあって、気づかいが行きとどいておられる。では遠慮なく---」
権七の手の若い者が、どこかにひそんでいて、逐一を報告するのを見越しての会話であった。

芦の湯村から三島宿への道は、来たときに通ったのとは違い、双子山の裏から西の山裾づたいに箱根関所まで小一里(4キロたらず)。途中で芦ノ湖畔にでる。
次右衛門の道しるぺを聞いてうなずいている銕三郎が、それとなく自分に視線をむけてくれると、阿記は、躰の芯があやしく燃えてきて、声を立てそうになるのを懸命におさえた。
(生むすめ風をよそおったのは、間違いではなかった。さまは、新鮮な気持ちで三島で再会してくださる)

村はずれにきて、銕三郎は、阿記がにぎらせた紙片を改めた。
(三島宿本町通りの〔樋口屋〕から北半丁(約500メートル)、円明寺隣、甲州屋、たのしみにしています)

【参照】三島・原宿[東海道五十三次] 広重&分間延絵図]

河原谷村を過ぎ、新町川の石橋をわたると、三島宿である。
三島大社の前を通ったが、江戸を発つときには、訪ねたいとおもっていた社の裏のお芙沙のしもた家は気にもならなくなっていた。

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(旧東海道に面している三島大社の正面)
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]


桜川をわたると、本陣・〔樋口屋〕の前がまえが見えたところで、左におれて円明寺をめざす。
〔甲州屋〕はすぐに見つかった。閑静な旅籠のようで、〔めうが屋〕次右衛門が、むすめのために選んだだけのことはある。
立ち寄らないで、近くの飯屋で遅い昼をとった。
東海道へ戻り,〔樋口屋〕の中はのぞかないで、さりげなく行過ぎる。昼間なので、本陣の者たちも表には注意をはらっていない。
4年前に世話をかけた先代の故・伝右衛門への回向料は帰りに、与詩を預けるときでよかろう。
今夜は、原宿で泊まるつもりでいる。

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(広重 原・朝日之富士)

陽はのびてきているが、原宿に着くころには、暮れかかっているだろう。
明日の宿は、府中(静岡市)だ。

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2008.01.03

与詩(よし)を迎えに(14)

阿記(あき)どの---」
(てつ)さま。2人だけのときは、阿記と呼んでください。わたしも他人行儀の長谷川さまではなく、さまにしますから」
阿記
「はい」
「箱根宿での待ち合わせだが、芦の湯小町といわれた阿記のことゆえ、箱根六湯じゅうに顔が知られていよう」
「嫁入り前のことです」
「いや、懸想(けそう)していた者も多かったであろう。箱根じゅう、どこの旅籠にひそんでも、たちまち、うわさが流れる。噂は、阿記に一生ついてまわって、阿記を傷つけ、苦しめる。都茂(とも 女中頭 44歳)の口もふさぐ思案もしておかねばな。それに権七(ごんしち 31歳)にさとられてもならぬ。あの者どもは噂を飯の種にしている」
「どのようにすれば---?」
「うーむ」
さま。湯で、躰を暖めながら、思案しませぬか」

湯の中の阿記は、こんどは正面から銕三郎の太腿(ふともも)をまたいできた。腹と腹はぴったり接している。
両腕をしっかりと背中へまわし、顔がまともに向き合った。
乳頭が銕三郎の胸をくすぐる。

「箱根六湯は危ないとなると、小田原宿か三島宿だが、三島だと、阿記に関所手形も要(い)るし、往還8里の箱根山道を登り下りさせることになる」
「それは、かまいませぬ。いいことが待っているのですもの。手形など、この商売ですから、なんとでもなります。」
「三島宿だと、翌くる日、箱根関所まではあと先になりながらいっしょだが、小田原では4里(16キロ)の道を帰すことになる」
「足が重い帰り道でしょうね」
話のあいだにも、阿記がたえまなく口を吸ってくる。

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(北斎『させもが露』[睦言]部分)

銕三郎の股間が膨張をはじめた。

都茂の口封じには、男をあてがえばいいのです」
「それには、供の藤六(とうろく 45歳)がいるが---。2人とも部屋を空けて、6歳の与詩をひとりきりでほおっておくわけには---なあ」
「いっそ、ここでは? お供の人の部屋へ、都茂をしのばせましょう」
与詩は?」
「母に見ていてもらいます」
「ご両親はご存じなのか? このことを---」
「喜んでおります。東慶寺へ入る前に訪れた阿記の福(ふく)なんですもの」

このあと2人は、案を練るとの口実で、2度も湯に躰を浸(ひた)した。

しかし、箱根の山内だと、山道一帯を荷運びの縄張りにしている〔風早(かざはや)〕の権六の目をごまかして、逢引きできる良案はおもいつかなかった。

権六の通り名(呼び名ともいう)の〔風早(かざはや)〕は、小田原から山道へのとば口、須雲川に架かる箱根石橋の川下の村名である。そこの生まれなのだろう。
したがって、権七が箱根じゅうにはりめぐらしている連絡(つなぎ)の網目をくぐっての逢引きなど、できそうもない。
ましてや、6歳の与詩づれである。

最後の湯浴(ゆあ)みのあと、横たわった阿記がこころをきめたように呟いた。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分)

「三島にしましょう。わたしは、さまたちのお着きより1日早くに三島へ入ってお待ちしています。箱根関所までの帰りも、ごいっしょできないのが無念ですが、帰りも1日遅らせます。そのようにこころ配りをすれば、いかな権六でも、気がつきますまい」
与詩はどうする?」
「お芙沙(ふさ)さんにお願いして、〔樋口〕さんに預かってもらうのは? おんな同士の話し合いです。お芙沙さんものってくださるでしょう。与詩さんをお乗せした山駕籠も、〔樋口〕から出ると、なんの疑いもかかりません」
「うむ」
「明日、ご出立までに、父から、三島のわたしたちの泊まる、これという旅籠を訊きだしておきます」
こういう秘め事になると、こころを決めた女性のほうが、案も浮かぶし、肝(きも)もすわる。

「さあ、そろそろ、眠ろうか」
「はい」
阿記は床から抜け出し、赤い襦袢の前をあわせて正座した。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分)

さま。大きな福をいただき、ありがとうございました。うれしゅうございます。こんなに嬉しかったことは、近年、ございませんでした。阿記には、一生忘れられない深い思い出でとなります」
ふかぶかとさげた顔から、涙が落ちた。
目尻をぬぐった阿記は、静かに添い寝したかとおもうと、銕三郎の首の下へ腕をさしいれて抱きついた。
涙がとまらない。
背中をさすってやりながら、
「どうしたのだ、阿記?」
「自分で初めて選んだ男(ひと)に抱かれたので、頭の髪の一筋々々から足の指一本々々まで、躰のぜんぶが喜んで泣いているのです。嬉し涙です。お許しください」
銕三郎の上に覆いかぶさる。
離れ屋の裏を流れている谷川のせせらぎの音が、銕三郎の耳から消えた。

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2008.01.02

与詩(よし)を迎えに(13)

芦の湯の湯治旅籠〔めうがや〕の離れの浴槽は、桧の板で角に囲い、底も板張りである。2人づれや家族客のために建てられているので、湯舟もそれなりに大きい。
銕三郎(てつさぶろう)は、短いほうの湯舟板に背をもたせかけ、両足をのばし、阿記(あき)を待った。
湯屋は、脱衣場の明かりが格子から洩れてくるだけだから、薄暗い。

入ってきた阿記の躰は、白い靄(もや)のようにかすんでいた。
浴槽の向こう側から躰をしずめると、背中から銕三郎の前にすり寄り、下腹(したばら)に尻をのっけ、足をはさむように両足をひろげて伸ばす。
たぶさが銕三郎の顔にあたらないように頭を軽く傾けてもたれかかる。
抱こうかどうかと迷っている銕三郎の両手首をつかむと、自分の乳房を蔽わせた。 
子にふくませたことのない乳首も、乳房の丸みも、お芙沙(ふさ)のそれとくらべると、小さいが、張りがあるような気がした。
_160もっとも、お芙沙の家のは普通の丸い湯舟で、2人で浸かることはできなかったし、入ろうともしなかった。蚊帳の中での記憶である。

阿記が、顔をひねって唇を銕三郎の首にあてながら、尻に感じたのか、かすかに浮かせて、銕三郎の硬直しているものを、やわらかくつかんだ。
阿記どの。まだ縁切りが片付いていないのに、このようなことをしてよろしいのか」
銕三郎の声は、かすかにかすれている。
「かまいませぬ。人には、世間のおきてにしたがわなくてならないときと、世間とはかかわりない自分だけのときというものがあります。婚儀は一人前(ひとりまえ)になったおんなが、家と家との約束ごとにしたがってすること。その約束ごとが破れたいまは、だれにも迷惑をかけず、自分だけのときを楽しんでいる阿記です」
「理はそうだが---」
長谷川さま---いえ、銕三郎さま。お芙沙さんとのことは、ご自分からお望みになったのでございましょう?」
「そうであったかも---」

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ

「いまは?」
「いやいやではない」
「それごらんなさいませ。世間のおきてを、いま、このときは、忘れましょう」
「諾(よし)」
「さ、わたしの躰を、前も後ろも、洗ってくださいまし」

はじらうようでいながら大胆だった所作から発したお芙沙の色気とは、だいぶ感じが異なる魅力だとおもいながら、これが人による違いというものだろうと、銕三郎は納得した。
(おんなも、一様ではないのだ)

湯から出ると、阿記は着物をきちんと着て、何事もなかったように、母屋へ帰って行った。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[扉絵]部分)

銕三郎は、熱く硬直したままのものをもてあましながら、床に伏せた。

淡く灯(も)えている行灯(あんどん)を見ながら、黄鶴師に教わった岑参(しんじん)の「山房春事(さんぼうしゅんじ)」の唐詩をもぞもぞと暗誦してみる。

梁園(りょうえん)の日暮 乱れ飛ぶ鴉(からす)
極目(きょくもく)蕭条(しょうじょう)たり三両家
庭樹(ていじゅ)は知らず人の去り尽くすを
春来(しゅんらい)還(ま)た発(ひら)く 旧時(きゅうじ)の花

日暮れの廃園の上を鴉が舞っている
目に入るのはニ、三軒の廃屋だけ
人の往来がないことを庭の木々は知っている
なのに、春がくると花だけは咲くのだ

眠ってしまったらしい。
隣にかすかな気配と香りを感じる。
香りに、記憶がある---阿記の髪油だ。

目をあける。
阿記の顔があった。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[笑顔]部分)

「来たのか」
半分しか目覚めていないので、言葉が乱暴だ。
「来ないとおもっていらっしゃったのですか?」
耳元での甘えたささやき。
「うん」
「嫌。わたしが姉だそうですね。では、こうしてあげます」

襦袢の前をはだけ、肌と肌を密着させる。
銕三郎のものが硬直をはじめた.のを、阿記の指がまさぐる。
銕三郎の薬指も秘部へ。
互いの口が合わさり、布団の下で躰が重なった。

「いいのか」
「3年、子なしで、去りました」

「声も出せなかったのです。ふすまごしにお姑さんが耳をすましていて、わざと咳をするのです」
「ここなら---」
「ええ---あ、あ、(てつ)さま---」

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[ことのあと]部分修正)

「もう一日、お泊まりなって」
「いや。府中との約定がある」
「でも、お芙沙さんとお過ごしになる予定の一日が浮きましたでしょう?」
「見抜かれたか」
「では、お帰りに、ここではなく、街道筋の箱根宿に部屋をとっておきますから、一と晩を阿記にくださいまし」

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2008.01.01

与詩(よし)を迎えに(12)

「お酒をお持ちいたしましょうか?」
夕餉の膳を自らから運んできた、女中頭の都茂(とも)が、すすめるように訊く。
「家では、父上が召し上がらないので、ほとんどたしなまいのだが---都茂どのが助(す)けてくれるなら、いただこうかな」
「いざというときには、わたしが介抱してさしあげますから」

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[誘い]部分)

裾の乱れも気にならないほどにいそいそと、都茂が戻ってくる。
銕三郎(てつさぶろう)は、都茂に注ぎ返し、
都茂どのの苦労話を肴に--」
「どの苦労話にいたしましょう? 仕事? お金? 皺?」
「皺など、拙の目には見えないが---」
「いやですよ、長谷川さま。おばあさんに恥をかかせないでください。商売柄、若づくりをしているだけです」
口ほどでもなく、顔にはよろこびの笑みがうかんでいる。
「どう、もう一つ---飲(い)ける口なのでしょうが」
「まだ仕事が残っておりますのに。じゃあ、もう一つだけ」
「訊いていいかな。阿記さんの縁切りのことだが---」
「それは、ご本人にお訊きくださいな。使用人の口からは申せません。でも、嫁ぎ先のお姑さんが、それは、それは、意地の悪いばあさんらしくて---あら、言っちまった---そのお姑さん、わたしより、齢下なんですよ。42歳とか」
「えっ? 都茂どのはうちの母上と同じと見ていたのだが---」
「お母上はお幾つでございますか?」
「明けて39歳」
「冗談ではありません。わたしは厄が終わって2年になります」
「見えないなあ。も一つだけ、さ---」

「苦労話といえば、男にはいつも苦労をさせられてきていますから、齢もあっというまにとってしまいます」
言いながら、都茂は手酌をはじめた。
阿記どのは、お幾つかな」
「お嬢さんは、長谷川さまとどっこいどっこいの21」
「姉上だな」
「姉上って、長谷川さまはお幾つなのですか?帳場では、21か22歳だろうってうわさしてましたけど」
「いや、阿記どのより、下です」

その阿記が、新しい一本を手にやってきた。
都茂さん。2階の客衆が、夕餉はまだかってお騒ぎですよ」
はい、はいと、こころ残りげに、
「お床は、半刻(1時間)ほどあとにのべさせていただきますから」と母屋のほうへ去った。
「ほんとに、いい男衆とみると、齢甲斐もなく油をうるんだから」
「口はきわめて堅いようですよ。阿記どのの縁切りのことなど、一と言も漏らさない」
「わたしの縁切り? それは、聞くも涙、語るも涙---でございます。ま、熱いところをお一つ---」
阿記どのも---」
「平塚で、自棄(やけ)酒で鍛えましたから。あら、美味しい。飲みかわすお相手で、お味が月とすっぽん」
「も一つ---」
「酔って、ぐだをまいても存じませんから---」
「うーむ。わが家には、これまで酔っ払いが出たことがなくて、介抱の仕方を知りませんが---」
「冗談でございます。まじめにおとりになるところが、長谷川さまらしいのかも。でも、ほんとうは、長谷川さまに介抱されてみたい」
「聞くも涙、語るも涙---の苦労話のほうは、どこへ行きましたかな?」
横すわりになっていた阿記が、なまめいた目で銕三郎を見つめた。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[にんまり] 部分)

ぞくっときたのを隠して、銕三郎は酌の手を伸ばした。
都茂のことを、悪くいってはいけないのですね。あれが、権七(ごんしち)の荷運び賃を値切ったために、こうして長谷川さまとお近づきになれたわけですから」
「それもそうですが、阿記どのが婚家をお出になるということで、都茂どのがお迎えに行かされたのがそもそもですね」
「やはり、縁切り話に戻りますか」

「そう、世間から見れば、〔3年、子なきは去る〕ってことでしょうね。わたしが、こんど、里帰りを決めたのも、3日前の晩、お姑さんと、いつもの言いあらそいになったとき、〔3年、我慢したんだ。3年経っているんだよ〕って言われたからです」
阿記の顔は上気し、盃をもつ手がふるえていた。
銕三郎は手をのばして、阿記の手からそっと盃を取り、膳へ戻した。

阿記どのが、嫁入りしても眉を落さないことも、お姑どのには気にいらなかった?」
「はい。これは、夫・幸兵衛の好み---というより、商売用だったのです。そんなに大きな店でもないのに〔越中屋〕の看板娘として振舞ってくれと---。夫は、一人っ子だったせいか、産みの親---わたしにとってのお姑さん---には、決して逆らいませんでしたが、わたしの眉のことだけは、おれの望みどおりでいいんだと」

「それで、舅(しゅうと)どのは---?」
「わたしが嫁ぐ1年前に、亡くなっていました。そのこともあって、一人息子を嫁に取られまいとして、わたしに意地悪をしたのだとおもいます」

銕三郎は、すこし落ち着いた阿記の手をとって盃を持たせ、酒を注いだ。
酒は、とうに冷(さ)めていた。
支えてくれている銕三郎の手に、阿記がもう片方の手をそえた。
阿記どの。そんなに強く力をお入れになると、酒がこぼれます。そちらの手で、拙にも注いでください」

長谷川さま。お願いがございます」
「なんでしょう?」
「間もなく、女中が床をのべに参ります。その前に、わたしは母屋へ帰りますが、のべ終わったころあいに、また、参ります。そうしたら、いっしょに湯へ入っていただけませんか」
「う---」
「こんなはしたないこと、死ぬおもいでお願いしております。じつは、平塚では、お姑さんの目がきびしくて、夫と湯をいっしょにするなど、思いもよりませんでした。いちど、そうしてみたいと、かねて、夢みていました。長谷川さま。かなえてくださいませ」
銕三郎は、三島宿の大社の裏手のお芙沙(ふさ)の家の風呂場で、裸になったお芙沙に背中を流してもらい、うしろから抱きつかれことがあった。
あの感触への回顧を断ち切るには、阿記の依頼を受け容れるべきだと決めた。

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(歌麿[美人入浴図]部分)

【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]

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