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2007.11.25

『田沼意次◎その虚実』(2)

学習院大学で日本史を経済史的な視点から研究していた大石慎三郎教授は、1965年(昭和40年)の『日本歴史』誌第237号に、「田沼意次に関する従来の史料の信憑性」と題したユニークな論文を発表した。

_110この論文によって、それまで田沼意次に冠されていた賄賂政治家との悪評のもとになっている諸史料に疑問を呈したのである。
不勉強でこの所説は目にしていないが、おおよそは大石さんの著書『田沼意次の時代』(岩波書店 1991.12.18 のち、岩波現代文庫)やその他の論説に溶解していると見ている。

1965年の大石さんの論文は、素人歴史研究家で田沼意次の行政家としての業績を強く支持していた後藤一朗氏を、わが意を得たり---とばかりに興奮させた。

大石さんも、相良を訪れた時、後藤氏に会って話し合い、その実証的な意次研究がなまなかでないことを見抜いたとおもう。
100後藤一朗氏の『田沼意次◎その虚実』(清水新書 1984.10.10)に寄せた大石氏の序文が、素人研究者の著作に対し学者として義理で書いた単なる推薦文の域を、大きく越えていることからもうかがえる。

若干を引用してみる。

江戸時代の歴史、なかんずく政治史をみてみると、将軍の代替りを境として前後に大きな断絶(また曲折)があるのに気がつく。(略)
これらのなかで、(1)柳沢吉保(よしやす)-荻原重秀(しげひで)のいわゆ元禄後期政権とつぎの新井白石政権との間、(2)田沼意次(おきつぐ)政権とつぎの松平定信政権との間の二つの場合が、その断絶の幅がもっとも広い。(略)
この二つの政権交替劇は、将軍交替に伴う側近グループの入れ替わりといった普通のケースとちがって、まったくクーデターともいうべき手段による政敵への権力行使である。(略)
松平定信が政敵田沼意次を倒そうと、ひそかに剣を帯びて意次刺殺の機会を伺ったことは、定信自身が後に書きしるしているところで、白石の場合と似ているが、また実際の政権交替劇も、御三家をバックとし徳川家譜代門閥層に支援されたクーデターのごときものであったことはすでに学界の定説のようになっているところである。
このような事情があったためか、荻原重秀についても、田沼意次についても、信用するに足る基礎資料がほとんど残されていない。実権をにぎった反対政権のために関係史料が湮滅されたのであろうか。(略)

残っているのは、クーデター側の中心人物ともいえる白石や定信が書きまくった文章であるとし、荻原も田沼も後世から評価してもらうのに、非常に不幸なハンディを背負った人物としたあと、後藤氏の著述には、

著者の苦心探訪にかかる新史料が数多く使われている。たとえば田沼意次失脚後の相良城取毀(とりこわ)しに関連しては「相良御引渡御城毀一件」などを用いて従来の説がいかに真実から遠かったかを証明している。また諸大名から意次への贈物についての手紙を多数紹介して、意次が受け取ったというのは世間普通の儀礼的な贈物にすぎなかったのではなかろうかということを暗示しているなどそれである。(略)

そして最後に、後藤氏の「一橋幕府説」をなかなかおもしろい---と、学者らしくぼかしてほめている。
この「一橋幕府説」は、あらためて紹介する。


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