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2007年11月の記事

2007.11.30

『田沼意次◎その虚実』(4)

相良の郷土史家・故・後藤一朗さん『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』(センチュリー・ブックス 1971.9.20)は、地元の研究者でなければ気がつかないし、知ることも困難なデータについて、いくつも明らかにされていて、教えられるところが大きい。

その一つ。
天明7年(1787)i10月2日、田沼意次(をきつぐ)につげられた再度の知行(2万7000石)と領地の没収、強制隠居と蟄居(ちっきょ)の結果、陸奥・下村ほかで1万石を与えられた孫・龍助淡路守意明 をきあき)は、大坂城の守衛を命ぜられ、かの地で歿したことは、『寛政譜』にある。寛政8年(1796)9月22日、24歳であった。

その後を継いだ次弟の意壱(をきかず)は、一七九九年(寛政11)ニ月、新見大炊頭(おおいのかみ)の娘と結婚したが、翌年九月一七日死去した。(略)
ついで末弟意信(をきのぶ)が家督相続し、一八○ニ年(享和ニ)一一月、松平播磨守妹を嫁に迎えたところ、彼女は翌年八月ちょうど一○ヶ月目に没した。引き続いて翌九月一ニ日、意信も死去した。
このようにして、意知(をきとも)の三人の遺児はついに絶えてしまった。そのあと、意次の弟意誠(をきのぶ)の孫意定(をきさだ)を養子に迎えて嗣がせたところ、意定は相続九ヶ月、一八○四年(文化元)七月に四日(意次の命日)に没した。
以上一七九六年意明の死から、一八○四年意定の死まで、なんと八年間に五人の若者たちがつぎつぎと死んでしまった。(略)

さすがに後藤さんも、この連なった死を、一橋治済(はるさだ)による毒殺とは言っていない。
まあ、不遇による精神的ストレスはあったかもしれない。
後藤さんに望むのは、4人の享年を記しておいてほしかった。

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2007.11.29

一橋治済(3)

住まいの近くの区図書館に、静岡県・相良の郷土史家・故後藤一朗さん『田沼意次◎その虚実』(清水新書 1984.10.10)を、他区の館から取り寄せるサーヴィスを依頼しておいた。
手元の同書は、SBS学苑〔鬼平クラス〕の安池欣一さんが、静岡市立図書館から借り出し、わざわざ、托送便で送ってくださったもので、来月2日のクラス日には返却することになっている。

区図書館から、北区赤羽北図書館から借りられたとの連絡があった。
_150手にしてみると、写真のように、表題・装丁が『田沼意次◎その虚実』とは異なる。
表題は『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』(清水書院 センチュリー・ブックス 人と歴史シリーズ 日本21 1971.9.20)。
安池さんからのメールでは、両書、内容は同一とのこと。
ということは、『---◎その虚実』に先立つ13年前、『今日の相良史話』(相良町教育委員会 1975 9.20)の4年前に、多分、大石慎三郎さんの口添えで刊行されたものと推定。
おそらく、71歳の時の後藤さんの田沼関連の最初の著書ではあるまいか。田沼にこだわってから11年目--人間、一つことに集中すれば、熱意と執念と幸運にもよろうが、10年で一応の成果を手にできるという言い伝えの例証でもある。

さて、『---◎その虚実』でも『---ゆがめられた』でも同じことだが、後藤さんは、こう書いている。

一七八六年(天明六)八月、家治が病のために床についた。御典医大八木伝庵が病床にはべっていたが、病状はかばかしくないと聞いた田沼は、オランダ医の若林敬順・日向陶庵を推挙して立ち会わせた。二人は以前から田沼の家に出入りしていた新進の医師であった。
当時江戸の医療界は、人数の多い旧来の漢方医と、数は少ないがはりきっている新進蘭方医との間に学論が
対立し、事ごとに衝突していた。一波乱なしではおさまらぬ険悪な空気のなかで、漢方医師と蘭方医師が立会い診察をした。診察後の会議の状態は知るよしもないが、結果は、蘭方医師の主張する薬が調進された。ところがその翌日、家治の病状がにわかに変わり、ほどなく絶命した。時を移さず大奥の中で、
 将軍の死は毒殺だ。蘭方医が一服盛ったらしい。黒幕は田沼にちがいない。
といううわさを作って、奥女中らの間にふれ廻る者がいた。
将軍家治の死が、うわさのように毒殺であったとしたら、直接毒薬を飲ませた者はたれか、抜擢されて始めて昇殿し、将軍の脈をみた二人の新進医師か、それとも、自分のなわ張りをあらされ、体面を傷つけられた老典医か。その確認はつかめず、うやむやのうちに、葬られた。また、黒幕についても深く追求した形跡はない。(略)

たれが黒幕にしろ、和蘭両医の家治の病名の診立てはどうだったのか、どこかに記録はないものなのか。それによってどんな薬が勧められたかもわかるのでは。
まあ、家治の毒殺説は、これから先も、ミステリー的興味から、とかく論じられるであろうが、家治死後の政変の事実は変わらない。

後藤さんはさらに筆をすすめて、一橋治済(はるさだ)は---、

まず家斉(いえなり)の第四子家慶(いえよし)を次の将軍に決めておき、第七子敦之助(あつのすけ)を清水家に入れて同家を乗っ取り、一三子峰姫を三家水戸斉修(なりなが)の室となし、一五子斉順(なりなが)を紀州治宝(はるとみ)の養嗣子に入れて同家を継がせた。さらに次男治国(はるくに)の子斉朝(なりとも)を尾張家宗睦(むねむつ)の後嗣に入れた。そして斉朝に男子がないというと今度は家斉の四六子・斉温(なりはる)に嗣(つ)がせ、斉温が死ぬと、つぎは、第三○子・斉荘(なりたか)がその後を襲った。彼はその時すでに田安家を継いでいたのだったが横滑りして尾張家を継いだのである。(略)

一連のことが、治済にどう利益をもたらしたかが書かれていないから、まあ、見方にもよろうが、徳川一門にとってはあたりまえの婚姻・嗣子のようにも思えないこともない。

いささか勇み足かとも思えるのは、田沼政権で老中だった2人の死にも、治済の影があるような文章であろう。

一七八八年七月二四日意次没した後、わずか半年、一七八九年二月に、田沼時代に老中首座だった松平康福(やすよし)と、大老・井伊直幸(なおひで)が死去している。すなわち田沼時代の政界三巨頭が、わずか半年の間に三人も没したのである。(略)

『寛政譜』によると、
寛政元年(1789)2月8日、松平(松井)周防守康福歿、享年71歳。
寛政元年2月28日 井伊掃部頭直幸歿 享年61歳。

井伊直幸には死の1週間前から2回も、また松平康福にも1回、将軍の代理が見舞っている。突然の死ではない。もっとも、疑えば、ゆっくりの毒殺ってこともないではないが。

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2007.11.28

一橋治済(2)

相良の郷土史家・故・後藤一朗さんの『今日の相良史話』(相良町教育委員会 1975 9.20)から、[一橋幕府説]にまつわる主張を引用している。

八代将軍・吉宗(よしむね)は、将軍家に世嗣が絶えた場合のことをおもんぱかって---との理由づけをして、自分の子たちで、田安一橋家、さらには清水家を立てたが、城地なしの10万石、家臣もなしで幕臣の出向という形をとったと、史書はいう。
建前はそのとおりだったろうし、ほとんどの家臣は出向者だったろうが、どんな場合にも例外はある。
一橋の家老を勤めていた田沼意次の実弟・能登守意誠(おきのぶ)の卒後、その長子・意致(おきむね)も家老になったのは、もちろん、意次の意向があってのことだろう。

岩本内膳正(ないぜんのしょう)正利(まさとし)の場合は、もっとこみいっている。
岩本家の祖は、甲斐国巨摩郡(こまこおり)岩下村に住したので岩本を称したが、武田が滅んでから徳川につき、紀伊大納言頼宣に仕えた。
三代目・正房(まさふさ)が吉宗に従って江戸入りして幕臣となり、先手・鉄砲の組頭にまでなった(廩米300俵)。

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(赤○=大奥づとめ。下段赤○=於富の方、家斉の生母)

正房の養女は大奥に入り、末弟・正信(まさのぶ)が一橋宗尹(むねただ 第四子 1721~1749)に長く仕えたと『寛政譜』にある。

大奥に入った養女の縁からであろう、早逝した兄・正久(まさひさ)に替わって家督した正利(まさとし)は、大奥の老女・梅田(うめだ)の養女を娶り、むすめ・富子が一橋中納言治済(はるさだ)の長子・豊千代(とよちよ)、のちの家斉(いえなり)をもうけた。

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豊千代こと家斉が江戸城・西丸に入るとともに、とうぜん、於富の父・正利は栄進していく。廩米300俵は2000石にまで加増され、老中首座・松平定信が罷免され、治済が大御所然として西丸に入った寛政5年(1793)には西丸の留守居になっている。

『田沼意次◎その虚実』(清水新書 1984.10.10)は、岩本家にはまったく触れないが、治済が握った権力については、つぎのように話す。

(寛政の改革と呼ばれている保守志向の)改革政治は、松平定信を起用し彼を老中首座の名で表面に立たしめ、治済自身はどこまでも蔭で糸をあやつるからくり師であったのです。(略)

家治の死と、田沼の失脚によって、一橋治済には、わが世の春が来た。治済は家治の葬送直後、一四歳の長男家斉(実は第四子で母は於富の方)を新将軍とし、自らは、陰の大御所の座にすわり、国政の実権をにぎって、権力をほしいままにした。彼はこのようにして徳川宗家を乗っ取ったほか、(注:天明8年に)三男(注:じつは五男)斉匡(なりまさ)を田安家に養子にやって同家をその手に収め、自家は四男(注:じつは六男)斉敦(なりあつ)に継がせた。(l略)

それらのことよりも、治済の勝手気ままをいうなら、
・安永8年(1779)12月25日 毎歳賜金3000両
・天明4年(1784)6月2日   毎歳賜金1万両
・文化2年(1805)1月18日  毎歳加賜金7000両、通前1万5000両
と幕府から金をむしりとっていることである。
とくに天明4年といえば浅間山の噴火や飢饉で、多くの人びとが苦しんでいたのにである。不思議な神経の持ち主というべきであろう。
別にあたえられていた10万石は、10万両に換算できる。  

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2007.11.27

一橋治済

後藤一朗さんに『今日の相良史話』(相良町教育委員会 1975.9.20)がある。
南榛原農協のバックアップで、有線放送で流した地元史を、活字化したもの。刊行は1984年刊『田沼意次◎その虚実』(清水新書)に先立ち、、田沼まわりのデータの採集に励んでいた時期のものといえる。

当書に2月20日の項は、「一橋治済(はるさだ)」にあてられている。治済の命日と、『徳川諸家系譜』には、たしかに、文政10年(1827)のこの日、77歳薧とある。法謚最樹院。

(ちゅうすけ注:)将軍の実父というだけで、『徳川諸家系譜』は「薧」の字をふっているが、いささか疑念のあるところ。

のちに唱えた「一橋幕府説」のあらすじが平易に話されているので、要点を引用してみたい。
治済は11代将軍・家斉(いえなり)の実父であり、宝暦元年(1751)の生まれで、長谷川平蔵宣以(のぶため)より5歳年少の陰の実力者だから、どこかでからんだかもしれないではないか。

相良の町が最も繁栄した時代から、田沼藩の解体と相良城の解体と破却を命じ、この地を混乱疲弊のドン底に陥入れた陰の大物が、一橋治済であることはあまり知られていません。そればかりか、旧田沼の所領地をそのまま約三十年間、おのれの手に握り、波津に一橋陣屋を作り、厳しい取立てによって民心の離反は甚だしく、一揆騒動の頻発した政治不信時代を作ったのも彼の時のことです。その命日が、文政10年(1827)の今日です。

(ちゅうすけ注:)一橋家は、始祖・宗尹(むねただ 第四子 1721~1749 44歳)の寛保元年(1741)に、播磨・泉・甲斐・下総・下野に10万石相当の地を授かっていた。その甲斐の痩地に変えて、肥沃な相良を治済が欲したということらしい。これに、後藤さんは陰謀めいたものを察知したのであろう。

この一橋家というのは八代将軍吉宗(よしむね)が、長子家重を九代将軍と定めたあと、妾腹の宗武(むねたけ)と宗尹に、田安家と共に立てさせた新家です。この家々は御三卿といい、御三家とは違って一国一城の主ではなく、単に将軍家に世嗣が絶えた場合、優先して後継者の出せる特権だけを持っていました。従ってそれなき限り、一生涯飼い殺しで終わる家柄です。大層な野心家だった一橋家の当主治済が狙いをつけたものはそれは何だったでしょうか。

田沼意次が失脚したのは68歳の天明6年(1786)---治済が36歳の壮年。将軍家へ送りこんだ家斉は14歳。
この年、意次)を支持していた10代将軍・家治(いえはる)が薧じ、政変が一気に加速する。
が、『今日の相良史話』は、10年ほど、記述を遡行させる。

安永8年(1779)のこと、十代将軍の一人息子、当時十八歳の家基(いえもと)のなぞの死をみましたが、その翌年、一橋治済は、長男家斉をその跡へ養子に入れました。(略)

ちゅうすけ注:)この、養子選定は、意次が中心になって選んだことはよく知られているところ。この時の治済意次の関係を明確にしないと、上の文章は誤解をまねきかねまい。しかし、治済憎しの念の強い後藤さんは、そのあたりを気にもとめない。
記述は、突然、天明6年の将軍・家治の病死へ飛ぶ。「これは何人かの毒殺とうわさされました」とうわさを引用する。

治済は幼君の後楯---私設の大御所となって政治の実権を握りました。
ここに於いて一橋治済は、田沼意次をはじめ、田沼の息のかかった吏僚を罷免し、それまでの進歩的な田沼政治を否定する、超保守的な封建政策を指向した寛政改革に突入するのです。(未完)

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2007.11.26

『田沼意次◎その虚実』(3)

静岡県・相良の郷土史家・故後藤一朗さん『田沼意次◎その虚実』(清水新書 1984.10.10)を紹介している。

第1章「田沼意知の危禍」はこんな書き出しではじまっている。

一七八三年(天明三)一一月、山城守(やましろのかみ)田沼意知(おきとも)は若年寄(わかどしより)を拝命、新たに五○○○石の蔵米(くらまい)を賜ることになった。父田沼意次は十代将軍家治(いえはる)の寵臣(ちょうしん)、すでに十数年間老中の職にあり、四万七○○○石の相良(さがら)城主(一七八五年には五万七○○○石となる)。当時”田沼父子"といわれて幕政の実権を握り、飛ぶ鳥も落とす勢いであった。(略)

そういう得意絶頂の時、一七八四年(天明四)三月ニ四日、意外な大事件が起きたのである。
その日の夕刻近くの退庁時、城中若年寄部屋から、酒井石見守(いわみのかみ)・太田備後(びんご)守・田沼山城守・米倉丹後(たんご)の四人がそろって退出、中(なか)の間を過ぎて桔梗(ききょう)の間へ入ってきた時のことである。すぐその下の新番御番所に控えていた下級武士五人のなかの一人、佐野善左衛門政言(まさこと)はにじり出て、
「山城守、佐野善左衛門にて候(そうろう)、御免(ごめん)!」
と大声でせ叫んで粟田口(あわたぐち)ニ尺一寸の大刀、鞘を払って斬りかかった。

(ちょうすけ注:)「夕刻近く」はなにかのはずみの思いちがいであろう。老中の退出は2時。それを待って若年寄が退(ひ)く。
『徳川実紀』のその日の記述にも、「けふ例のごとく事はて、午(うま)の刻(午後1時から1時間)のをわりに、宿老(老中)の輩はみなまかりでぬ。少老(若年寄)も是にさしつぎて退出(さがら)むとと、打連て中の間より桔梗の間にかかりたるところ---とある。
次の疑問は、城中へ登る時には、大刀は預ける決まりのはずだが、新番番所へ詰める時には所持がゆるされているのだろうか。
も一つ。粟田口といえばかなりの名刀で、『鬼平犯科帳』長谷川平蔵が帯びていることにも疑問が呈されている。家禄500石の佐野がもてるのだろうか。

意知が振り向いた時には、早くも切っ先は目の前に来ていた。防ぐ間も、避くる間もなく、肩先に長さ三寸、深さ七分ほどの一太刀(ひとたち)をうけた。次の間に避けようとした意知の後ろからおろしたニの太刀は、柱へあたって届かなかった。(略)

善左衛門は柱にくいこんだ刀をはずすと、人びとの間をくぐって後を追い、意知の姿を見るとまたも斬りかかった。とどめを刺すつもりで腹をめがけて突いたところ、意知は必死になって鞘のままこれを防ぎ、からくも腹はまぬがれたが、両股(りょうまた)にニ太刀、また深手を負った。(略)

近くにいあわした大目付松平対馬守は、すでに七○歳の老人であったが、血刀を振り廻している佐野に飛びかかって羽交締めにした。続く柳生主膳正(しゅぜんのしょう)は、彼の刀を奪い、ようやく捕りおさえた。善左衛門は、あとニ太刀とも手応え十分だったので、
「目的達成のうえは、手向かいいたしません。」
と神妙に捕えられたが、前後を御徒(おかち)目付にとり囲まれて連れ去られた。

(ちゅうすけ注:)『徳川実紀』のニュアンスは微妙に異なる。「意知殿中をやはばかりけん、差添をさやともにぬき、しばしあひしらひたりしに、その場にありあふ人々は、思ひよらざることなれば、たれ押さへむともせず、あはてさはぎしに、はるかへだてし所より、大目付松平対馬守忠郷(たださと)かけきたりて、善左衛門政言をくみ伏せし処を、目付柳生主膳正久通(ひさみち)打逢て、ともに政言をとらへ獄屋に下しぬ」

この経過は、すでにいろんな形で伝えられているから、目新しいところはない。ただ、後藤さんの発明は、ことの経緯を図にしめしているところである。
それを引用する。

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後藤さんは、この事件を、ある勢力のテロリズムと談じている。その説は改めて詳述する。

2006年12月4日[田沼意知、刃傷後]
2007年1月3日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その1)]
2007年1月4日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』(2)]
2007年1月6日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その3)]

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2007.11.25

『田沼意次◎その虚実』(2)

学習院大学で日本史を経済史的な視点から研究していた大石慎三郎教授は、1965年(昭和40年)の『日本歴史』誌第237号に、「田沼意次に関する従来の史料の信憑性」と題したユニークな論文を発表した。

_110この論文によって、それまで田沼意次に冠されていた賄賂政治家との悪評のもとになっている諸史料に疑問を呈したのである。
不勉強でこの所説は目にしていないが、おおよそは大石さんの著書『田沼意次の時代』(岩波書店 1991.12.18 のち、岩波現代文庫)やその他の論説に溶解していると見ている。

1965年の大石さんの論文は、素人歴史研究家で田沼意次の行政家としての業績を強く支持していた後藤一朗氏を、わが意を得たり---とばかりに興奮させた。

大石さんも、相良を訪れた時、後藤氏に会って話し合い、その実証的な意次研究がなまなかでないことを見抜いたとおもう。
100後藤一朗氏の『田沼意次◎その虚実』(清水新書 1984.10.10)に寄せた大石氏の序文が、素人研究者の著作に対し学者として義理で書いた単なる推薦文の域を、大きく越えていることからもうかがえる。

若干を引用してみる。

江戸時代の歴史、なかんずく政治史をみてみると、将軍の代替りを境として前後に大きな断絶(また曲折)があるのに気がつく。(略)
これらのなかで、(1)柳沢吉保(よしやす)-荻原重秀(しげひで)のいわゆ元禄後期政権とつぎの新井白石政権との間、(2)田沼意次(おきつぐ)政権とつぎの松平定信政権との間の二つの場合が、その断絶の幅がもっとも広い。(略)
この二つの政権交替劇は、将軍交替に伴う側近グループの入れ替わりといった普通のケースとちがって、まったくクーデターともいうべき手段による政敵への権力行使である。(略)
松平定信が政敵田沼意次を倒そうと、ひそかに剣を帯びて意次刺殺の機会を伺ったことは、定信自身が後に書きしるしているところで、白石の場合と似ているが、また実際の政権交替劇も、御三家をバックとし徳川家譜代門閥層に支援されたクーデターのごときものであったことはすでに学界の定説のようになっているところである。
このような事情があったためか、荻原重秀についても、田沼意次についても、信用するに足る基礎資料がほとんど残されていない。実権をにぎった反対政権のために関係史料が湮滅されたのであろうか。(略)

残っているのは、クーデター側の中心人物ともいえる白石や定信が書きまくった文章であるとし、荻原も田沼も後世から評価してもらうのに、非常に不幸なハンディを背負った人物としたあと、後藤氏の著述には、

著者の苦心探訪にかかる新史料が数多く使われている。たとえば田沼意次失脚後の相良城取毀(とりこわ)しに関連しては「相良御引渡御城毀一件」などを用いて従来の説がいかに真実から遠かったかを証明している。また諸大名から意次への贈物についての手紙を多数紹介して、意次が受け取ったというのは世間普通の儀礼的な贈物にすぎなかったのではなかろうかということを暗示しているなどそれである。(略)

そして最後に、後藤氏の「一橋幕府説」をなかなかおもしろい---と、学者らしくぼかしてほめている。
この「一橋幕府説」は、あらためて紹介する。


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2007.11.24

『田沼意次◎その虚実』

平岩弓枝さんへ、快作『魚の棲む城』(新潮社 2002.3.30 のち新潮文庫)をいただいたお礼の電話をかけた時、平岩さんが「田沼ファンで銀行出身の研究家が書いたいい本があったから---」と打ち明けてくださった。

それ以来、その本のことが気になっていて、静岡県立中央図書館へ行くたびにそれらしい本を探していたのだが、行きあたらない。
200先日、相良史料館のケースで、後藤一朗さん『田沼意次◎その虚実』 (清水新書)が飾られているのを見、
(ああ、平岩さんが言ってたのは、これだな)
と見当をつけて、いつか、図書館から借り出す心づもりをしていた。

そしたら、なんと、SBS学苑パルシ〔鬼平クラス〕でともに勉強している安池欣一さんからメールで、
「静岡市立図書館で後藤一朗著『田沼意次 その虚実』を借り出しました。すでに県立図書館で借りている『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』と同じでした。返却期限は12月4日なので、12月2日の講義の日にお持ちいただけば間に合いますから、お送りしましょうか」
と、うれしいメッセージ。
早速に托送便で届いた。

奥付の著者紹介---
1900(明治33)年田沼の城下静岡県相良町に生まれる。静岡銀行に奉職、32歳で支店長となり、以後25年間各地歴任。定年後、本部に入り、「静岡銀行史」編集に参画。1960年退職。以来田沼意次の史料収集とその研究に専念、幾多の新事実を発掘した異色の歴史家。1977年逝去。

なお、清水書院の清水新書としての同書の刊行は、1984年10月10日だから、逝去7年後である。
監修者として大石慎三郎さんの名が表紙に刷られており、序文も寄せている。
その序文の日付けに、1980年11月23日 於学習院大学官舎 とあるから、もしかすると、最初は単行本として刷られ、のちに改題されて新書化されたのかも知れない。

単行本は、安池さんが県立図書館で借りた『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』というタイトルだったとも思える。

すると、大石さんの「序文」も、後藤さんの「あとがき」も、単行本をそのまま写したのかも。

後藤さんのあとがきを抜粋---

私は文筆をもって職とする作家ではなく、また専門の歴史家でもない。(略)

元来銀行家が、融資先の実態を把握するためには、過去の盛況にまどわされず、世間の評判や、業者の宣伝売込みに耳をかさず、もっぱら確実な資料によって独自の判断を下し、将来を見とおすことが要請され、いささかたりとも誤算をゆるさないものである。
徳川中期の歴史上の人物田沼意次は、あれだけの政治活動をした大宰相であるにかかわらず、研究資料の少ないことで、歴史家泣かせの一人だと言われている。わずかに伝わる文献は、反対政権の御用史家の作為のもの、あるいは低級な町のうわさ本が、そのすべてであると言ってよいだろう。(略)

思うに、山の形は---巨大な山岳の形容は、その山のなかにいたのではわからない。向かい側の山に登って眺め、そこではじめて全貌がわかる。反対側から見てこそ「幕府」という山の姿はわかるものだが、当時はみな「幕府」の傘の下にいたので、、わからなかったのである。(略)

ふと徳川将軍家のお家騒動が私の目に映り、大政変の根源を見出すことができた。田沼失脚の原因もつかみえたが、それよりもむしろ副収穫のほうが大きかったらしい。「一橋幕府説」は、あるいは私の発言が最初のものかも知れない。(略)

歴史家大石慎三郎博士が、私の説を支持され、推薦の労をとってくれくれたことは、このうえない喜びである。
(略)

著者の「一橋幕府説」と大石博士の推薦の序文はつづいて紹介する。

論語にいう。
子曰く、学んで思わざれば罔(くら)し。思って学ばざれば殆(あや)うし。
(教わるばかりで自ら思案しなければ独創がない。自分で考案するばかりで教えを仰ぐことをしなければ大きな陥し穴にはまる)(宮崎市定『論語』)

後藤さんは、さいわいにも、大石慎三郎博士の指導がえられた。

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2007.11.23

妻女・久栄(ひさえ)

大橋与惣兵衛の三女・久栄(小説での名)が、本所三ッ目(現・墨田区菊川3-16)の長谷川家へ嫁いで、銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため)の妻となったのは、明和6年(1769)と推定できる。
というのは、その前の年、明和5年12月5日に銕三郎が、将軍・家治へのお目見(みえ)をすましていること。
明和7年に嫡男・辰蔵の誕生をみていること---からの類推である。
平蔵24歳、久栄は小説のとおりの年齢差とすると、7歳違いの17歳。匂いたつような初々しい花嫁であったろう。

銕三郎の父・平蔵宣雄(のぶお)は、4年前の明和2年4月11日(この時、47歳)に、先手・弓の8番手の組頭へと大出世していた。大出世と書いたのは、長谷川家は両番(書院番士、小姓番士)の家柄とはいえ、宣雄以前の当主たちは、平(ひら)の書院番士のままで終わっていたからである。家禄400石の収入ままでやりくりしていた。

養子となった宣雄は、そのまじめな性格、心のこもった人使いぶり、公平な判断力が認められて、足高(たしだか)1000石の小十人頭、さらには同1500石の先手組頭へと累進していたのだ。
収入がふえても、宣雄は勤倹貯蓄にはげんでいた。本所三ッ目の1238坪の広い屋敷への移転もその成果といえる。
銕三郎の婚儀も、控えめなものであったろう。

それは、嫁・久栄の実家・大橋与惣兵衛親英(ちかひで)についてもいえる。家禄は廩米200俵(知行200石に相当)。

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久栄を嫁にだした時は56歳。西丸の新番与(くみ)頭をしていた。
(久栄は39歳の時の子だから、後妻を迎えたのはその5年前とみると34歳。先妻を逝かせたのは30代の初めかも)>

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久栄は、三女とはいえ、ニ女とともに後妻(井口氏)の子であった。
先妻(万年氏)がもうけた長女(仮の名・伊都 いと)が10歳になったころに逝き、伊都は後妻がくるとともに、黒田左太郎忠恒(ただつね 廩米250俵)の養女となったはず。

それというのも、左太郎忠恒の妻女は、大橋家の本家筋にあたる与惣右衛門親宗(ちかむね)のニ女で、その三男が大橋与惣兵衛親定の養子に入って家督していたという関係にあったからである。つまり、黒田忠恒夫妻は、養子先の息子のむすめ(つまりは、孫)が、継子となることを気づかったともいえる。

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ま、そのことは、久栄にはあまり関係はない。
久栄は、井口家新助高豊 小納戸 廩米200俵)から後妻にはいった女性の子なんだから。

久栄は、姉の不運をじかに見ていたので、夫・銕三郎(のちの平蔵宣以)によくしたがった。
姉は、亭主運にめぐまれなかった---というか、養女として出て行っていった長女の代理として、武家のむすめ役を演じなければならなかった。すなわち、家系の維持である。

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姉の夫として養子に迎えた男たち2人が、ともに子もなさないうちに実家へ帰されたのである。


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2007.11.22

堀切菖蒲園(2)

堀切菖蒲園の由来を記した『葛飾区の歴史』(名著出版 1979.1,10)に、

名所として知られるようになったのは江戸中期の寛政三年(1791)堀切村の百姓伊左衛門父子がニ代にわたって花菖蒲に興味をもち、各方面から変わり花の品種を集め、自家の田圃を利用して栽培し、江戸市街へ切り花として売り出したのがはじめである。

そして、珍しい品種を、出入り先の本所割下水に住む旗本、万年録三郎や麻布桜田町の菖翁(しょうおう)こと松平左金吾(さきんご)から譲りうけた、とつづけている。

万年録三郎万年姓に覚えがあった。
長谷川平蔵宣以(のぶため)の妻女---小説では久栄(ひさえ)---の実家の父・大橋与惣兵衛親英(ちかふさ 船手組 廩米200俵)の先妻が、万年伊織覚長(あきなが 書院番士)のむすめであった。

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(大橋与惣兵衛の個譜 上の赤○=先妻 下の赤○=久栄)

徳川幕府における万年一族は、6家。
『寛政譜』の系譜書きにいう。

先祖は北面の侍にして文治年中(12世紀後期)鳥羽院より万年の称号を賜ふ。のち後堀川院の御宇故ありて遠江国に下り、代々榛原(はいばら)郡川尻に住す。

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万年一門の家譜 上から2段目の左の緑○=頼済 下から2段目の赤○=大橋親英の先妻 最下段の緑○=六三郎頼豊

本家の七郎右衛門高頼(たかより)が東照宮に仕えた。廩米100俵と月俸10口。この家のこととをしるしているのは、10代目・三左衛門頼度(よりのり の息に頼済 よりずみ がいるからである)。

さて、堀切菖蒲園の伊左衛門に菖蒲の珍種を与えたという万年録三郎だが『寛政譜』にあるのは、万年六三郎頼豊。しかし、住まいは本所割下水ではなく、牛込赤城明神下石切橋通横町。廩米200俵 新番士。

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上の個譜に、

天明4年(1784)4月7日、さき(3月24日)の当番のとき、同僚の士・佐野善左衛門政言(まさこと 新番士 30歳代 500石)俄かに刀を抜きて田沼山城守意知に傷く。頼豊ら政言を止めんとして席を立つといえども、番所を離れん事を憚り、席に帰るのよしを申す。しかれども一列のものの狼藉をみながら制し止めざるの条、越度なりとて小普請に貶し、出仕とどめられ、5月6日ゆるさる。

現場近くにいた幕臣で罷免された士を、藤田 覚『田沼意次』(ミネルバ書房 2007.8.10)は、万年頼豊をふくめて新番士4名、目付7名のうち2名をあげている。

花菖蒲から、平蔵宣以の妻女につながり、ひいては田沼意次・意知へつながってしまった。
『鬼平犯科帳』を深読みすることは、その前後の江戸期のもろもろをうかがうことでもある。

そうだ、本所割下水の旗本・万年録三郎にふれないと。
万年一族で割下水に屋敷があったのは、一門の家譜のところにあげた新三郎頼済だが、時代がすこしさがる。

『江戸名所図会』で、絵師・長谷川雪旦は、葛西の農民たちの花づくりの風景を残してくれている。

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参考:】この絵[葛西里]を大きく観る。

まことに風雅な時間が流れている。

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2007.11.21

堀切菖蒲園

『葛飾区の歴史』(名著出版 1979.1,10)を眺めていて、松平左金吾(さきんご)の名前がでてきたので、驚いた。

この松平家は、久松松平だから、家康の実母・於大に関係する。
於大 

尾張国知多郡の豪族・水野忠政のむすめで、徳川広忠に嫁いだが、広忠今川家と和を結んだため離縁、織田方の阿古居城主・久松俊勝と再婚し、3人の男児をもうけた。

今川家が滅亡後、家康織田信長と結び、実母に再会。長男・定勝を伏見城代に任じ、その次男・定行が勢州・桑名藩主(11万石)から伊予・松山藩主(15万石)へ転じ、弟・定継が桑名藩へ入った。
(一時、白河藩へ転封されたときに養子に入ったのが定信)。
定勝の四男・定実は、多病を理由に藩主を嫌ったので2000石の旗本となった。
この旗本となった(久松)松平の子孫に、松平左金吾定寅(さだとら)がいる。
松平左金吾定寅の家系

『葛飾区の歴史』から引用する。

堀切の花菖蒲は、室町時代に時の領主窪寺胤次(たねつぐ)の家臣、宮田将監が奥州安積(あづみ)沼から移植した「花かつみ」の変化したものだと伝えるが、名所として知られるようになったのは江戸中期の寛政三年(1791)堀切村の百姓伊左衛門父子がニ代にわたって花菖蒲に興味をもち、各方面から変わり花の品種を集め、自家の田圃を利用して栽培し、江戸市街へ切り花として売り出したのがはじめである。
中でも出入り先の本所割下水に住む旗本、万年録三郎や麻布桜田町の菖翁(しょうおう)こと松平左金吾という花菖蒲を好んだ五○○○石の旗本屋敷から「十二一重(じゅうにひとえ)」「立田川(たつたがわ)」「羽衣(はごろも)」などの珍しい品種を譲りうけ---。

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(広重 堀切の花菖蒲 『葛飾区史 上巻』

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(小林清親 堀切花菖蒲)

ここに書かれた松平左金吾が、長谷川平蔵宣以(のぶため)のいちぱんの政敵だった当人かどうか、5000石は2000石の誤記としても、時代がいささか合わないでもない。

平凡社『東京都の地名 日本歴史地名体系13 (2002.7.10)は、

当村で花菖蒲の栽培が本格化したのは一九世紀初頭といわれ、百姓伊左衛門(小高園の祖)が花菖蒲の愛好家である旗本松平左金吾(菖翁)から多くの品種をもらい受けて栽培をはかった。

左金吾定寅は、先手・弓の2番手組頭だった長谷川平蔵宣以が病死するや、先手・鉄砲の8番手組頭からすぐに後釜へすわって、平蔵が培った士風を一掃にかかった仁だが、一年後の寛政8年(1796)に逝っている。
ということは、『東京都の地名』のいう19世紀初頭にはおよばないのである。

『葛飾区の歴史』の記述の「寛政3年(1791)」だと、同年4月28日から翌4年5月11日まで火付盗賊改メとして、長谷川平蔵の相役を勤めている。
菖蒲の花期である。職務をおろそかにして、花に凝っていたのだろうか。


【参考】
松平左金吾定寅に言及している[よしの冊子(ぞうし)]
(2)  (3)  (4)  (6)  (8)  (9)  (10)  (11)  (13)  (14)  (15)  (17)  (30)  (32)  (36)


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2007.11.20

相良の浄心寺

2007年3月12日に、[相良の平賀源内墓碑]のタイトルで、地元の郷土史家・川原崎次郎翁(1923生)『凧あげの歴史 平賀源内と相良凧』 (羽衣出版 1996.11.17  3,300円)を語った浄心寺の住職・木内隆敬師のことと、同寺にある源内の墓石の写真を、SBS学苑〔鬼平クラス〕安池欣一さんのリポートで紹介した。

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(浄心寺の山門)

殺人の罪で伝馬町の牢へ入れられ、病死したことになっている平賀源内が、じつは、老中・田沼意次(おきつぐ)の手配でひそかに脱牢、相良近辺に隠棲し、天寿をまっとうした---とする異説の証拠調べであった。

200年11月4日の〔鬼平クラス〕の相良ウォーキングでも、浄真寺の源内の墓石とされているものへ墓参した。

が、記事はそのことではない。
3月12日には、源内との関連が薄いとみなして割愛しておいた安池さんのリポートの追補である。

同寺の山門の欄間を飾っている彫刻について、牧之原市は、文化財に指定している。

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福岡は、九州の都市ではなく、城下町・相良のメイン通りの町名。

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彫刻のことはよくは知らないが、龍の根源である不屈さと睥睨する威圧感を様式美の中に巧みに融合させており、見る者に自省をうながしていると思う。

寛政元年(1789)といえば、田沼意次は江戸にあってすでに鬼界に入っており、相良城は破毀されていた。()(
前年---天明8年10月初旬に火盗改メに任じられた長谷川平蔵宣以(のぶため)は、循吏(じゅんり)としての実力をあらわし始めていた。

寺田洞仙の名は、1937年刊の平凡社『日本人名大事典』には収録されていない。
芸術畑の「人名事典」をあたるべきなんだろう。

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2007.11.19

相良の平田寺(2)

相良ウォーキンを反芻してみて、何か、大事なことを見落としているような気がしていた。

気がついた。
平田寺だ。

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(平田寺前景)

第42代目にあたるという老禅師(この称号は、生前には与えられないものらしいが---)は、開創が弘安6年(1283)年と由緒が古いこと、聖武天皇が当時の12大寺へ賜った勅書のうちの一つがめぐりめぐって当山にたどりついて国宝に指定されていること、
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(聖武天皇の勅書 部分)
石の宝塔のことなどは話してくださった。

ところが、寺は宝暦年間に焼失したが、藩主・田沼意次(おきつぐ)の支援によって、天明6年(1786)に、本堂が再建されたという史実は、聞かなかったような気がする。
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(平田寺の本堂・外観)

参詣・見学の時間が足りなくて、本堂の伽藍へは案内されなかったせいもあろう。
本堂の左手には、藩主のような高位者だけが出入できる玄関も造りつけられていたから、それを解説する時に聞く予定になっていたのかも知れない。
あるいは、リーフレットに印刷してあることだから省略されたか。
鬼平と田沼意次の関係にまで連想が及ばなかったか。

ただ、天明6年といえば、田沼意次と、門閥派勢力の代弁者・松平定信との、権力をめぐる暗闘がつづいていた時期である。
その時期、いろいろと軍資金も必要であろうに、そんなことはおくびにも見せず、香華寺から本堂を再建---といわれてきたら、ぽんと何千両かを出さなければならない藩主の苦労を想いやらざるを得なかったのである。
当時の寺は、領民の心の拠(よ)りどころの一つであったはずだから、領民統治の方便でもあったろう。
それで、意次のほうから、平田寺に申しいれたのかも知れない。
そのような心遣いのできる人物だったから、小禄の家に生まれたにもかかわらず、将軍の側用人、老中までのぼりつめられた。
長谷川平蔵宣雄の才能を見抜いて引きあげたのも、意次の人物鑑識眼と心くばりの一面であろう。
藩主たるもの、器(うつわ)が大きくないと慕われない。

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2007.11.18

せんだい河岸

大石慎三郎さん『田沼意次の時代』(岩波書店 1991.12.18 のち、岩波現代文庫 2001.6.15)は、辻善之助さん『田沼時代』(岩波文庫 1980.3,17)によって被(き)せられた、賄賂取りの名人の汚名を雪(そそ)いだ名著といわれてきた。

それにたいして、藤田 覚さん『田沼意次』(ミネルヴァ書房 2007.7.10)は、大石説には史料の誤読がある---と、歴史学者同士の論争の形で、大石さんの田沼意次清廉説を攻撃している。
藤田説は、意次の賄賂取りは当時の風潮であったとしているが、それではなぜ、意次だけに非難が集中したかについては、田沼家の家来たちが一流の士でなかったとしてすましている。
大石さんが、松平派によって捏造・示唆されたものが多いという啓蒙の指摘には、ほとんど答えていない。

したがって、田沼意次を「おらが国さの殿さま」と思いたい相良では、大石説をもっぱらとしている。とうぜんであろう。

大石さんは、相良に残っている史蹟---せんだい河岸についても、早々に仙台藩による寄進とはきめられないのでは、と疑問を呈し、「仙台河岸」としないで、「せんだい河岸」と保留している。

同地に牧之原市教育委員会が建てた銘板は、
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ご覧のように、仙台藩からの「石垣用材の寄進」と書いている。
仙台藩側、あるいは相良藩側に、それを証拠づける史料でもあるのだろうか。

仙台藩の幕閣への手入れ(収賄)のことは、辻さん、大石さん、藤田さんとも、伊達家の文書に拠って論を進めているのだが、この河岸のことには、辻さんと藤田さんは触れていなかったように思う。

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(せんだい河岸の遺構のいま)

せんだい河岸がいまのように縮小されたのは、松平定信らの命令で、相良城が取り壊しになったときに河岸も縮小されたのであろうか。
銘板の文は、そのことには触れていない。


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2007.11.17

田沼街道(下)

相良には、田沼街道始点の標識が3ヶ所にある。

一つは、相良城跡の本丸跡---相良史料館の前庭。「相良城址」の石碑の脇にある。
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(この石碑の脇にささやかにたったいる)
まあ、城と東海道とを結ぶ街道と考えれば、ここに立てられていても不思議はない。

_2502つめは、萩間川(旧・相良川)に架かる湊橋の右岸(手前の城下町側)の近くにある大和神社の玉垣の角に立られている石の起点道標。
神社の石鳥居Iに社号額が掲けられていないので、神社名を地元の人もよく知らないようだったが、拝殿の庇の蔭にあがっていた。

3つめは、港橋の親柱の脇。
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まあ、どこが始点・起点であろうと、田沼街道そのものが、明治以来の交通手段の変化でズタズタに寸断されている現在、さほど気にすることもない。

田沼街道の終点---旧・東海道との合流点---は、旧・藤枝宿を貫通している瀬戸川に架かる勝草橋の下手である。

【参照】 〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七---文庫巻6[狐火]で、引退して先代〔狐火〕の勇五郎の遺児・お久を預かっている。

SBS学苑〔鬼平クラス〕の村越一彦さんは、藤枝市在住なので、終点に立てられている銘板を写してきてくださった。
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(田沼街道は旧・東海道に合流して終わっている)
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始点と終点はわかった。そのあいだの、ズタズタをどう結ぶか。
明治19年(1886)に作られた20万分の1[静岡]を前に、考えこんだ。東海道線の藤枝駅の建設が始まったのは翌明治20年だから、相良街道は、田沼意次(おきつぐ)の時代から、さほど変貌しないで測量されていると思った。

さいわい、街道筋の市や町の郷土史家の方々が、点と点をつなぐ研究をしておられる。
研究結果は、前出・村越一彦さんがコピーをくださった[田沼街道](『静岡県の街道』郷土出版社)のコピーで、ある程度うかがえる。筆者は、大井町文化財保護委員の山下二郎さん。
引用してみよう。

田沼街道は、田沼意次の城下町「相良」の萩間川(旧・相良川)に架かる湊橋を起点として藤枝市志太の瀬戸川河畔で東海道に合流するまでの延長七里(約27㌔)の道である。(中略)
相良築城と平行して進められた田沼街道建設工事は従来からあった下街道・小山街道の幅員を一間幅に拡張改修し、途中下街道が焼津・駿府(静岡市)へ向かう上新田で上新田村(大井川町上新田)の里道(さとみち)を利用、その先兵太夫新田(藤枝市高洲一丁目)で小山街道に出合うまでの間を新設したというべきである。いずれにしても現代とは違い農地が極めて貴重な幕藩体制下で、自領藩内はともかく他藩領や幕府直轄領にまで改修の手がつけられている。このことは、後世大老・老中首座の名をさしおいて一老中に過ぎない意次の加わる幕閣を「田沼政権」と評しているように、将軍家治の覚えめでたく権勢とみに秀で、他藩主や直轄領代官もこれに迎合して初めて成し得たものと言えよう。

街道は、相良城の落成祝いに出座する意次の国入りに間に合うように進められたろう。
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(明治19年の地図に田沼街道(推定)を赤インクで。東海道線は未敷設)

意次は、安永9年(1780)4月7日に江戸を出発、東海道金谷宿から牧野原越えして13日に相良入りしており、往路は整備された田沼街道を通らなかった。
帰路にこの道を選んだものの、意次は生涯でたった一度だけ、自家の名で呼ばれている街道を踏破したことになる。


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2007.11.16

田沼街道(上)

相良の下見は、SBS学苑〔鬼平クラス〕のメンバーで、相良生まれの八木忠由さんの案内で2007年10月下旬に行った。
この人の土地勘と事前調査、それに同クラスの安池さんの探索がなかったら、相良ウォーキングは実りの薄いものになったはずだ。

八木さん運転の車は、最初、町はずれの花庄屋・大鐘(おおがね)家へ向かった。
_120同家のリーフレットはいう。

一五九七年、柴田勝家家臣、福井県丸亀城、城代家老、大鐘藤八郎が遠州相良へ移り、この大鐘屋敷を構えた。
旗本三千石の格式を持ち、十八世紀頃より大庄屋となる。現在、長屋門・母屋が国の重要文化財に指定されている。

柴田勝家の家老が、相良へ隠棲したということは、羽柴秀吉に敗れたからであろうか。
越前国北の庄(柴田家)の滅亡は天正11年(1583)と、手元の年表にある。大鐘家が相良へ移ったのはそれから14年もあと。家康が招じたのかも。

大鐘家は、長屋門の前の〔門膳〕で客に料理を供しているとリーフレットにあり、八木さんはここでの昼食を予定していたが、その日は営業していなかった。
(ついでに付記すると、大鐘家が長屋門を建てたのは、相良城が落成して、田沼意次が国入りをした翌安永10年(1781)である。田沼意次(おきつぐ)から、何かの指示でもあったのであろうか)。

_220いや、昼食はどうでもいい。 
主眼は、同家の前に、非舗装のまま歴然とのこっている田沼街道である。
田沼街道サイトからいうと、「同家の前」にのこっている、という表現になるが、大鐘家側から見れば、そこに旧道「小山街道」があったから居を構えたら、それが田沼意次の相良拝領につづく相良城の築城につれて整備された「相良街道」、またの名「田沼街道」となったのだ---ということになる。

いずれにしても、相良地区にかろうじて残っている4ヶ所の「田沼街道」の1ヶ所なのだ。
昼食をあきらめ、国道473号線からはずれた、車もすれ違えないほどに狭い田舎道を、しばらく眺めた。

意次は、将軍・家治から、相良城の築城を命じられたことになっている。命じられたか、意次側から伺って将軍が許可したのかは、不明である。
とにかく、明和5年(1768)から築城が始まった。
膨大な資材が相良へ運びこまれる。
そのための道路を整備する必要が生じた。
いついかなる時代でも、道路は経済活動の血管でもある。
そのことを承知していた意次は、築城支配役に任じた用人・井上寛司らにもそのことをいいふくめたに違いない。


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2007.11.15

駒込の勝林寺

相良からちょっと脇道---といっても江戸なんだが。

_150駒込の勝林寺(豊島区駒込7-4-14)で、田沼意次(おきつぐ)の墓へ詣でがてら、当山(万年山)の小冊子を購った。
それによると、開山は了堂良歇(禅河弘禅師)---湯島天神(文京区)の前あたり。
開基は中川元故(医師)。
そして、中興開基が田沼意次とされている。
開基とは、寺院を創設するときの、主として経済的な援助者。

江戸開府のころに開山。
明暦3年(1657)の大火で焼失し、駒込蓬来町へ。

それから七十年たった安永九年(1780)十ニ月十四日に、勝林寺の中興開基とされる老中田沼意次から、下屋敷二百六十坪を勝林寺に寄進する申し出があったのです。
申し出は直ちに寺社奉行阿部備中守へ届けられ、十八日寺社奉行土岐美濃守御内寄合で聞き届けられました。
その後勝林寺を支え、庇護者となった田沼家が、この時点はじめて勝林寺の歴史に登場したわけで、それは勝林寺にとって大変大きなことであり、特筆しなければならないことでしょう。

安永9年といえば、意次が老中となって9年目、この年の4月13日に、この年に落成した相良城へ初めて国入りしている。
ということは、相良・大江の平田寺の住職とも会ったということで、相良においての香華寺を平田寺としたのかもしれない。
平田寺も勝林寺も、ともに臨済宗妙心寺派。
勝林寺への下屋敷の寄進は、相良から帰府後のことである。

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さて、この小冊子に一つの不思議がある。

収録されている意次の肖像画が、そう。
これまで、勝林寺蔵と諸書に掲げられているものよりも、はるかに加齢している。

2007年11月12日[田沼意次の肖像画]参照。

勝林寺には、2幅の肖像画があるということであろうか。
このことも、寺へ問い合わせてみなければならない。

それとは別に---。

明治40年(1907)本郷通りの拡張のために墓地を染井に移転。
昭和15年(1940)に道路新設のため寺自体も現在地へ。
昭和20年(1945)戦災。
昭和28年(1953)本道再建。

空襲が郊外ともいえる染井のような地区にまでおよんだのは、滝野川の造兵廠の爆撃のとばっちりだったのであろう。
意次が寄進した袈裟が失われたのは、この戦災時であろうか。


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2007.11.14

田沼意次の生年月日

_1002007年11月5日[山本周五郎さん『栄花物語』に、田沼意次(おきつぐ この時、老中)の誕生日が3月12日としてあり、生年は享保4年(1719)だから、物語の天明4年(1784)のこの日は、65回目の生誕の祝いにあたると書いた。

ともに学んでいるSBS学苑パルシェ〔鬼平クラス〕の安池欣一さんから、地元の相良の研究史家・川原崎次郎さん『城下町相良区史』は、意次の誕生日を享保4年(1719)7月28日としているとのコメントがついた。

で、安池さんにもすこし調べていただいたので、その全文を紹介する。


1.『城下町相良区史』の著者・川原崎次郎氏に電話しました。
氏は2~3年前に脳梗塞に罹られ、歩行にも苦労されております。
この11月4日に相良に行く前も電話しましたが、たいへんそうでしたので遠慮しました。
今回、電話して『城下町相良区史』に記載されている意次の誕生日の出典を確認したところ、『寛政重修諸家譜』だったかな」という返事で、それ以外はすぐには思い出せそうにもありませんでした。

2.相良町教育委員会編『相良藩主 田沼意次』にも享保4年7月27日誕生と記載されているので、教育委員会へ問合せたところ、資料館の方へまわされました。
担当者の話では後藤一朗著『田沼意次 その虚実』(清水書院 1984.10.10 目下品切れ)だろうということでした(相良資料館の館長に電話確認)。

県立図書館には後藤一朗著『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』(大石慎三郎監修 清水書院出版)がありました。
そこには確かに「田沼意次 享保4年7月27日誕生」と記載されています。
清水書院のURL http://www.shimizushoin.co.jp/search/free.html

3.資料館に確認したところ、後藤一朗氏は相良の人で、静岡銀行に勤務されていたそうで、すでに10年以上以前に亡くなられています。

4.後藤一朗氏には別の著書『今日の相良史話』があります。
中に、田沼意次の菩提寺である駒込の勝林寺の意次の墓の前で、住職らしき人と写っている写真があります。
後藤氏はここで調べられたのかも。

5.相良町教育委員会編『相良藩主 田沼意次』の表紙に使われている意次の肖像画の件もついでに確認しました。
あの絵は15~16年前に浜岡町の画家・鈴木白花氏が描かれたものということでした。画家・鈴木白花氏についての情報はありません。

6.意次の墓のある勝林寺(臨済宗 豊島区駒込7-4-14)に電話を入れ、住職の奥様と思われる方に確認。
命日を尋ねられたことはありますが、誕生日を尋ねられたことはあまりないので、過去帳を見れば解るでしょうが、今にわかにお答えしかねます。
静岡の方でしたら、相良の平田寺(へいでんじ)に位牌がありますから、そちらで解るかもしれません---とのことでした。
http://www.portaltokyo.com/guide_23/contents/c16036shorinji.htm


ということで、とりあえず、駒込の染井霊園の北はずれにある勝林寺の意次の墓へ詣でてきた。

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染井霊園と承知していたので、表示板で探したけれど、記載されていないので、霊園事務所で尋ねたら、勝林寺は霊園とは別で、意次の墓は勝林寺の墓域にあると。

勝林寺では、山門を入ったとたんに警報みたいなチャイムが鳴りひびき、墓域への扉に「田沼意次も記載されている小冊子200円」と張り紙がでていた。
納所へ申し出て200円払ったら、若い僧が意次の墓地を教えてくれた。
背後の目隠し様の塀は、裏手に家が建ったためだろう。

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(高さ2.5メートルほど。前面は戒名、右側面に従四位侍従 田沼主殿頭源意次朝臣)

なお、平田寺とともにこの寺へも意次が寄進した袈裟のことを尋ねたら、若い僧は、いつのころか「無くなった」と。


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2007.11.13

相良の平田寺

遠州で最も古い禅寺・平田寺(へいでんじ)は、相良の大江459にある。開基は弘安6年(1283)。
臨済宗の寺院らしく、庭園は、閑静なたたずまいの中にも、凛(りん)とした気品を保っている。
山号・寺名は、「山は長江を吸い、寺は平田に誇る」に由来する

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田沼家
が相良に封じられたとき、ここを旦那寺としたのも、なんとなくわかるような気がする。

老禅師が、宝蔵・書院を開けて国宝・秘宝・文化財のかずかずを説明してくださった。

国宝第74号に指定されたのは、聖武天皇の勅書。もっとも、当寺にくだされたものではなく、めぐりめぐって、当寺に流れついたもの。その経路は謎である。

また、延慶3年(1310)の刻字のある石造・宝塔は、風雨による損傷を顧慮、宝蔵へ移されている。
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(老禅師から宝塔の由来を聞くSBS学苑パルシェ〔鬼平クラス〕)

さらに感銘を受けたのは、リーフレットに掲げられている、田沼意次(おきつぐ)から江戸・駒込の勝林寺と当寺に贈られた、夏冬ニ肩の裁交金襴九条袈裟の写真を見た時である。

_360_2絢爛豪華なことはいうまでもないが、賄賂取りの悪名がもっぱらの意次のほうが、旦那寺へ贈与をしている事実を初めて知った。

2007年11月12日に紹介した相良教育委員会編 『田沼意次』 には、領内の神社へお神輿なども寄進したことが書かれている。
平賀源内などにほどこした金子のこともある。

だからといって、賄賂を取らなかったという反証にはならないが、領主たるもの、いろいろと気と金子を遣わねば敬意が受けられない---とわかって、参考になった。

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2007.11.12

田沼意次の肖像画

相良は、田沼意次(おきつぐ)が城持ち大名になった土地である。
政敵・松平定信(さだのぶ)の門閥派のために、いったんはこの地を追われたが、四男・意正(おきまさ)が領主に帰り咲いた。
相良の人たちにとっては、「おらが国さの殿さま」は田沼といってさしつかえない。

その田沼家の遺品を中心に展示しているのが、相良史料館である。
史料館のことは、2007年11月10日[相良史料館]に簡単に紹介した。

_200この史料館の玄関ホールのガラス・ケースに入れられて、700円で販売されているのが、相良町教育委員会編『相良藩主 田沼意次』と題した24ページばかりのパンフレットである。
政敵のために、史料類を居城とともに、ほとんど消滅された意次にしては、その後の研究者のプラスの論を取り入れて、要領よくアレンジしてある。
田沼ファンは、700円を投じる価値はある(そういうぼくは、SBS学苑パルシェ〔鬼平クラス〕安池欣一さんから贈られたんだけど)。

その表紙に置かれている肖像画は、顔の皺などから察するに、意次の60歳代の姿を模したものであろうか。
直垂(ひたたれ)に家紋の七曜が散らしてあるのは、従5位下・諸大夫以上の官位をあらわす。意次は老中だから、とうぜんの略礼服。

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(意次の加齢肖像)

意次の肖像画は、これと、あと2点きりしか残っていない。うちの1点。

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(直垂に家紋と文様が透きこんであるから従5位下拝受(元文2年 1737 19歳)後、30歳前後か。相良史料館蔵)

この加齢肖像画の原寸大とおぼしき複製が、史料館に掲げられている。
その絵と対面した瞬間に、
「あっ。背景は、あれだっ!」
と声をだしてしまった。

相良探訪の最初に訪れた般若寺で見たばかり---西村ご住職がわざわざ広げてくださっていた杉戸(襖)の1枚に描かれていた虎だった。
杉戸の絵師は、狩野典信。

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(般若寺蔵の相良城・大書院の杉戸。
SBS学苑〔鬼平クラス〕村越一彦さん撮影)

杉戸は、相良城の大書院のものだということであった。
城の竣工は、安永9年(1780)、そして4月に意次の最初にして最後のお国入り(滞在はわずか10日間)。
意次は60歳。

絵師による、杉戸の虎を背景にした絵は、まさか、在城中にスケッチしたものではなく、以後に合成して描かれたものであろう。
絵師の名は、メモしそこなった。あとで、史料館にたしかめて補っておく。

それにしても、背景に虎の絵を選んだ意図は?
意次の生年は、引用のパンフレットの年表によると、享保4年(1719)7月27日。この年は、己亥。寅ではない。
7月27日に、寅が入っていたのだろうか。

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2007.11.11

相良の遺跡地図

相良を訪れて、田沼意次時代の遺址を見学しようという篤志家のために、地図を掲げておく。

交通は、自家用車やグループによるバス旅行はいいとして、個人の場合は、、国道473号線が国道150号線と交差する手前まで運んでくれる、静岡駅前からの定期バスがよかろう(ただし、筆者は利用したことがない。詳しいことは、相良観光協会に問い合わせていただきたい。電話0548-52-3130)。

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掲出の地図のスポットを、ごくごく簡単に左から順に説明する。
緑○---般若寺 杉戸絵は平常は仕舞われている。
黄○---大沢寺。国道150号の「国」の字の左上
赤○---史料館。中央の相良町役場(現在は牧之原原相良庁舎)の左。市営の駐車場が隣接>
青○---平田寺(記述は近日中)。
ほかに、仙台堀址。

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2007.11.10

相良史料館

田沼意次(おきつぐ)の老中失脚後、所領の相良城は、政敵・松平定信派によって、徹底的に棄却された。
その経緯は、

2006年12月4日[『甲子夜話」巻33-1]
2006年12月5日[田沼意知、刃傷後。その2]
2006年12月7日[相良城の請け取り]
2006年12月12日[さらに6万両の上納命令]

城はもちろん、家臣の居宅まで根こそぎ破壊され、用材は競りにかけて売却された。したがって、残っているのは、ニの丸の土塁と松樹だけである。

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(相良城(中央)と城下町の図 誠心女子大蔵)

本丸の取り壊しを担当したのは、意次の三女を内室に迎え、僅かな歳月のうちに死去させた、横須賀藩主・西尾隠岐守忠移(ただゆき)である。
こんな真偽不明のエビソードが、まこととしやかに伝わっている。
思った以上の堅牢な造りに、隠岐守の配下の者が手を焼いていると、一人の老人が現れ、「魚網をかけて、滑車で引けば壊れる」と教えた。
そのとおりにやってみると、建物は苦もなく壊れた。
その老人が、江戸の大伝馬町の牢を、田沼意次の配慮で脱け出て、相良にかくまわれていた平賀源内だったというのである。

2007年3月12日[相良の平賀源内墓碑]

その本丸跡に建てられたのが、相良史料館(牧之原市相良275番地2)。
入館料210円。

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(入館券 絵柄は、初入国した意次の領内遠望図)

_130史料館の外観は、リーフレット表紙の写真でご覧のように、相良城風。
館内には、田沼家ゆかりの品々や、田沼領となる前の本多家やその前の相良家の遺品などが陳列されている。
中でも、36歳で凶刃に斃れて、遺品が極めて少ない田沼意知の真筆は、珍重であろう。

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田沼家の七曜の紋をあしらった刀箱)

史料館の隣は、相良庁舎。横は、小・中学校と高校。

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2007.11.09

波津まちがい

2007年11月8日[相良の大沢寺]の項で、寺の所在を、

安永4年(1775)に、城下の新町にあった真宗大谷派・大沢寺(だいたくじ)が焼失。天明3年(1783)iに初津(はづ)村に代地を求めて、整地・移転の準備をはじめる。
波津村---:現在の表記は、牧之原市相良地区波津。

とし、

波津(はつ)--- 『鬼平犯科帳』で、文庫巻1[本所・桜屋敷]から登場した、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以)の継母の名前。池波さんは、田沼意次を調べていて、この地名を見覚えたとも思える。

32425_120必要があって、『風俗画報 第231号』(明治34年 1901 4月25日)の『新撰東京名所図会 京橋区之部 巻之ニ』の目次を眺めていて、

 ○挿畫
   築地海岸波津より佃島を望むの図

を目にした。
「はて、築地に〔波津〕という場所があったとすると、池波さんが、銕三郎の継母にとったのは、こっちの波津かもしれない」と気がつき、ページをめくったら、この絵があった。

2_360

たしかに鉄砲洲から佃島・石川島のあたりを眺めた風景である。
絵の上欄のタイトルは、

  築地海岸渡船場より佃島を望むの図

〔波津〕よりが、〔渡船場〕より、にすりかわっている。
それで、もう一度、目次の細かい活字にルーペをあてて確認したら、なんのことはない、

  築地海岸渡津より佃島を望むの図

であった。〔渡津〕を〔波津〕と、いつものおっちょこちょいの癖で早のみこみしたのだ。
しかし、目次は〔渡津〕、絵のタイトルは〔渡船場〕と変わっているのを見て、恥は恥として、別に考えた。

〔津〕は、たしか、湊(みなと)、船着き場、渡し場---などの意で、「津岸(しんがん)」「津涯(しんがい)」などとも書いた。
「津頭(しんとう)」といったら、渡し場のほとり。
『鬼平犯科帳』文庫巻1の[むかしの女]にも、<みすや針>売り女に落ちぶれているおろくが、佃島からの渡し船で人足寄場から戻ってきた鬼平こと長谷川平蔵を、火の見やく゜らの陰で待ち伏せする場面がある。火の見やぐらは『江戸名所図会』に描かれているのを池波さんが使ったのだが、あのあたりを「津頭」と呼ぶこともできる。

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( 『江戸名所図会・佃島』 手前中央下の火の見やぐらを池波さんは使った。塗り絵師:ちゅうすけ)

上の『江戸名所図会 佃島』をもつと大きく見るには、←色の変わったところをクリック。

けっきょく、築地には〔波津〕という地名はなかったのだが、遠江・相良の〔波津〕は、波の寄せる湊ということでつけられた地名かしらん。
簡単な『漢和辞書』に、〔波津〕は収録されていない。


【つぶやき】
津のつく海ぞい地名を思いつくままにあげると、江戸湾には、木更津(きさらづ)、富津(ふっつ)。
東海道ぞいに、沼津(ぬまづ)、興津、焼津(やいづ)、津、(琵琶湖ぞい)大津。
泉大津。
(九州)中津、唐津。
(日本海側)江津、宮津(みやづ)、魚津、珠津。
漏れと読みを、お教えください。

内陸部にあるのは、川の船着き場だったところでしょうね。


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2007.11.08

相良の大沢寺

幕府評定所(最高裁判所)の五手掛(ごてかかり 寺社奉行、町奉行、勘定奉行、大目付、目付)で詮議していた(郡上)八幡藩(金森家 3万5000石)に、将軍・家重の命令で御用取次・田沼意次(おきつぐ)が同席、主導したことはすでに、書いている。

2007年8月15日[徳川将軍政治権力の研究』(2)~

この事件によって、宝暦8年(1758)9月14日に、相良藩主・本多長門守忠央(ただなか 西丸若年寄 1万石)が所領召し上げの改易(かいえき)、お預けの処分を受けた。

2007年8月22日[新編物語藩史 八幡藩]

9年後の明和4年(1767)7月1日、5000石加増されて2万石となった田沼意次(49歳)が、相良領を領知して領主の班に加わった。
翌6年、相良城の築城に着手。
伊豆の天城や大井川上流千頭(ちず)から欅(けやき)材を集めたという。
足かけ12年かけて、安永7年(1778)に相良城が落成。

その間の安永4年(1775)に、城下の新町にあった真宗大谷派・大沢寺(だいたくじ)が焼失。天明3年(1783)iに初津(はづ)村に代地を求めて、整地・移転の準備をはじめる。
波津村---:現在の表記は、牧之原市相良地区波津。
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(212年後の大沢寺本堂)

_200_2波津(はつ)--- 『鬼平犯科帳』で、文庫巻1[本所・桜屋敷]から登場した、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以)の継母の名前。池波さんは、田沼意次を調べていて、この地名を見覚えたとも思える。

さて、『大沢寺沿革史』によると、天明8年(1788)年、整地終了。
寛政3年(1791)、棟上。
寛政7年(1795)、落成。

とあるが、その前に、
安永7年(1778)、相良築城の余材を大沢寺へ下賜。
天明6年(1786)、意次(68歳)失脚。
天明8年(1788)、相良城破却
が割り込む。

つまり、波津村に再建された大沢寺の本堂は、相良築城の余材によって建てられ、現在にいたっているというわけである。
総欅材による風格のある建築で、棟梁は、三河国牛窪(豊川市牛久保)の伊藤平左衛門であった。

相良城はその姿をわれわれには見せてくれない。
また、意次(没年70歳)も大沢寺の落成を目にすることはなかった。
われれはいま、大沢寺の本堂に、その遺材を偲ぶのみ。

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2007.11.07

相良の般若寺

般若寺は、静岡県牧之原市相良地区の山沿いの大沢にある。
田沼意次(おきつぐ)---というより、相良城ゆかりの遺品が2つあることで、知られている。
そのことは、寺の門前に、教育委員会の銘板に記されている。
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(相良城下町・大沢の般若寺山門と門前右の銘板)

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(般若寺所蔵の破れ陣太鼓の銘板)

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(般若寺所蔵の相良城の杉戸の銘板)

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(相良城ゆかりの品を収納している般若寺本堂)

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(SBS学苑パルシェの鬼平クラスに寺の来歴と所蔵品の説明をする般若寺の西村住職)

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(太鼓の腹部に金塊がつまっていると誤解した泥棒が、皮を破って確認したが金塊がないので、そのまま逃走したため、破れ陣太鼓となったと伝わる)

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(般若寺に8枚保存されている相良城大書院の杉戸。普段は公開されていない)


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2007.11.06

相良城址の松樹

田沼意次(おきつぐ)が、家柄・門閥派の大名・幕臣たちに排斥され、陰謀のような形で政権を奪われた経緯は、これまで何度も記した。
もちろん、政治家が権力闘争の権化であることは心得ているつもりである。

しかし、政権の座から追い落としておいて、その居城であった相良城まで徹底的に壊しつくした史実は、支那やヨーロッパの歴史では読んでいるが、日本ではそんなに多くはないのでは---。
憎悪していても、ある程度のところで許すのが、日本人ではあるまいか。
政敵・松平定信(さだのぶ)のやりすぎは、どうも、彼の性格からきているように思え、調べてみたいことの一つにあげている。

ところで、徹底的に破壊しつくされた相良城だが、城址には数本の松樹だけが暴力をまぬがれた。小・中学校の校庭に健在である。
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牧之原教育委員会の銘板がそのことを伝えている(相良町は、2006年に牧之原市相良地区となった)。
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松樹たちは、城が壊されるのを、黙って見ていたろうが、胸のうちでは「なんて、無残な---」とつぶやいていたろうか。
まあ、意次は、この城が落成した時に10日間しか滞在していないから、松樹たちは、侯にはなじみが薄かったはず。
本丸跡には、牧之原し相良資料館が建てられ、田沼家の遺品なども陳列されているが、このことは別の機会に。

_100相良城の松樹のことを想起したのは、故・村上元三さん『六本木随筆』(中公文庫 1980.3.10)のせいである。村上さんは晩年は六本木に住まった。表通りからちょっと入って、たしか、うどん坂といったと思うが、その坂を背にした閑静なたたづまいの邸だった。

同エッセイに、六本木の町名の由来は、このあたりに六本の松の大樹があったからという説と、江戸期に、上杉、朽木、高木、片桐、一柳、青木と6人の「大名の中屋敷あるいは下屋敷があった」ためと『遊歴雑記』にあり、後者のほうが好ましいと。

そう。 『鬼平犯科帳』がらみを離れると、後者の命名のほうが、6大名家の歴史などへも空想が飛ぶ。

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2007.11.05

山本周五郎さん『栄花物語』

_100_2山本周五郎さん『栄花物語』(新潮文庫 1972.9.30)の主人公は、田沼意次だとするのは、文庫の解説者の山田宗睦さんにかぎらない。
文庫の底本になっている『山本周五郎小説全集5』(新潮社 1968.8,30)の解説を書いている土岐雄三さんも、

『栄花物語』は、徳川中期、後に田沼時代と呼ばれた時代の中心人物、老中田沼意次を柱にした長編であるが、これも『樅の木は残った』と同様、所謂伝統的史実を排して、意次を商業資本経済に移行しはじめた当時の先見的執政者として描き、汚職、収賄の権化とまで伝えられた先覚者の孤独さを主題にしている。

小説には、こんなくだりも描かれている。柳営中で、若年寄の継嗣・意知(おきとも)が佐野善左衛門政言(まさこと 30歳代後半? 新番組 500石)に斬りつけられたとの報を知らされた時である。

彼は頭の中で、はっきりとあの足音を聞いた。眼に見ることはできないが、紛れもなく自分に追いついて来る、あの確かな足音を。

足音の主は、政敵・松平定信(さだのぶ  27歳 白河藩主 11万石)である。
ついでに言っておくと、その後、政権をにぎった定信派の手によって抹殺されたのか、捏造されたものは論外としても、意次のちゃんとした史料はほとんどといっていいほど残されていない。

にもかかわらず、山本周五郎さんは、この作品中で、田沼意次の誕生日を享保4年(1719)3月12日としている。
どんな史料に拠ったのだろう? 

天明4年(1784)の65回目の誕生日、神田橋内の屋敷に家族一同が集まって、祝いの宴をもよおすが、激しい雷雨があったことにしているから、『武江年表』の記述にあわせたかと推察してみたが、同『年表』にはそのような記載はなかった。
3月24日の意知に加えられた凶事の暗示を、雷鳴に托したかったのかもしれない。
それはともかく、この宴で、山本周五郎さんも小さなミスを冒す。

西尾隠岐守忠移(ただゆき 39歳 遠州・横須賀藩主 3万5000石)と井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 38歳 越後・与板藩主 2万石)に嫁した2人の娘の顔もみせたとあるが、西尾忠移の内室だった意次の三女・千賀は、菩提寺・勝興寺(新宿区須賀町)の霊位簿によると、10年前の安永3年(1774)11月23日に没したことになっている。

2007年1月21日[意次の三女・千賀姫の墓]

_120このことは、藤田 覚さん『田沼意次』(ミネルヴア書房 2007.7.10)も、うっかり筆をすべらせている。
もっとも、 『寛政譜』などには、内室の没年までは記されていないから、誤るほうが当たり前かもしれない。

こういうことは、市井の暇人のほうが、気が利く。

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2007.11.04

村上元三さんの田沼意次像

長谷川伸師の一門である故・村上元三さんに『田沼意次』(毎日新聞社 のち講談社文庫)があることは、、2006年12月29日から5回にわたってアップしている。
また、2007年10月9日[30年來の疑問]でも触れた。

_100書庫の隅から、村上元三さんのエッセイ集が2冊出てきた。『江戸雑記帳』 (中公文庫 1977,910)と、 『六本木随筆』(1980.2.25)。

前者に、『加賀騒動』の主役・大槻伝蔵についての小文があり、

歴史上、あるいは巷説、講談、歌舞伎などで悪人扱いをされてきた人物に興味をもったのは、昭和十年、作家になり立てのころあった。
昭和十六年に直木賞をもらってから、「サンデー毎日」に「北斗の鐘」という連載を十三回書いた。その中で、賄賂取りの名人で悪徳政治家の見本のように言われていた田沼意次の冤を、いささかでも雪いだ、と思っている。田沼もよくないことはしているが、当時の新知識といわれる人々を身分にかかわらず自邸に集め、その意見を聞く、ということをやっているし、当時としては珍しいことに開国主義者であった。しかし、太平洋戦争に突入したので、やはり書くものに制限を受け、そう自由には逝かなかった。戦後になって、「佐々木小次郎」や「新選組」「銭屋五兵衛」などを連載で書き、「改造」に「足利尊氏」を書いたのは、戦時中に抑圧された反撥、というほど大げさなものではない。
わたしの師匠の長谷川伸先生は、歴史の流れに埋められた、あるいは埋めさせられた人々を掘り起こして書く、という仕事を続け、それを自分で紙碑(しひ)と呼んでいた。弟子のわたしも、そのひそみにならった、と言ったほうが当っているいるだろう。

_120『田沼意次』(毎日新聞社)の「あとがき」には、上記を補うように、

田沼意次に興味を持ちはじめたのは、戦前、師の長谷川伸先生から、門下一同に「めいめい専門を持て」と言われたためであった。そのころ北海道、千島、樺太などの歴史を材料に、いくつか短篇を書いていたので、自分では北方物と呼ぶ専門を持つことにした。
はじめて『サンデー毎日』に連載を書くとき、「北斗の鐘」という題名で、北方問題を扱った。宝暦から天明年間にかけての資料を漁っているうち、時の老中で賄賂取の名人といわれた田沼意次に興味が起ってきた。しかし戦時中で、豊富に資料を集めることができず、その資料も戦災で焼けた。
戦後になって、何べんか短編の中で意次と、その用人の三浦庄二を登場させた。三浦は実在の人物だが、素性も顔立ちも創作したもので、わたしにとっては馴染みの深い人物になり、声をかければ、いつでも現れてくれた。
この「田沼意次」は、『世界日報』に昨年(注;1984年)の十月まで七百七十回、連載した。これでもう意次を書くことはあるまい、と思うと、戦前戦後にかけて扱ってきた人物だけに、やはり感慨が残った。
この作品で、いささか意次の雪冤らしたと思っているが、やはり資料を集めるのに苦労をした。主人公があちこちと歩きまわっていると、その跡を追って行くのが普通だが、意次は居城のある遠州相良のほかは、どこへも旅していない。屋敷と江戸城のあいだを往復しているだけなので、たまには生き抜きに旅をさせたくなった。しかし、意次を、史実にない旅行に出すわけには行かなかった。(以下略)

2つの小文を書き写して思ったのは、2007年10月9日[30年來の疑問]の書き直しだが、その前に、「北斗の星」を探して読んでみないことには---。
「北斗」は、北方と、田沼家の家紋---七曜にかけた題名であろうか。


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2007.11.03

多可が来た(7)

翌朝。
多可(たか 14歳 養女)が襷(たすき)がけの稽古衣、袴、それに紫色の鉢巻まで結んで現れた。
(まるで、舞台での親の敵討ちだ)
「よいか。まず、弓手(ゆんで 左手)に木刀を持つ。そう、刃が上向き、そして、互いに、礼。木刀を抜いて構える」
多可の構えがどこか、おかしい。
多可。柄(つか)を握るには、馬手(めて 右手)が前だ」
多可が、ぎこちなく握りを入れ替える。
「お前、弓手遣いか?」
秘密を見つけられたみたいに、多可は赤くなってうなずいた。
「そうか。ま、女だから、実際に剣をとって戦うこともあるまい。利き手で鍔元(つばもと)を握るがよい。ただの素振りだから、やりやすい形でやればいい」

それから、木刀をふりあげて右足(多可は左足)を一歩踏み出すとともに、振り下ろし、肩の高さで木刀をとめる。
「両腕がまっすぐに、しかも、やわらかくのびている。そう、それでいい」
それから、一歩さがりながら、また振り下ろす。

多可の稽古衣の前が、すこし、はだけた。
銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの長谷川平蔵宣以)の目に、まだふくらんでいない乳房が見えている。幼い少年のような乳頭だった。
そのことに、多可は気づかない。
「ちょっと待て。お前、母上にいって、襟の身ごろあわせの結び紐を女前に逆につけかえてもらえ。男前あわせのままになっている。そのとき、結ぶ紐の位置をすこし高いところと、低いところにももう1組、ふやしてもらえ。いや、今日のところはこのまま、つづけよう」
言われて初めて、多可は事態に気がつき、また、赤くなった。

「おれの目を見たまま、振り下ろすのだ。さあ---1で振り上げ、2で打ちこむ。1、出る---2ッ、1、下がる--2ッ」
多可がふりあげたとき、稽古衣の幅広の袖口の奥、腕のつけ根が黒くなっているのが銕三郎の目に入った。
口では、「1、出る---2ッ、1、下がる--2ッ」をくり返し、自分も素振りをしながら、銕三郎は、多可の腕の奥の芝生に考えを飛ばしている。
(あの脇毛の具合では、秘部の茂みも生えていよう。一線をはさんで左右になびいているか)

20回目ぐらいで、多可の腕が肩よりも下がってきた。
「よし。一息いれる。最初はこたえるものだ。見ておれ」
銕三郎は先輩らしく、ことまもなげに、「1、2、1、2、1、2---」と50回ほどつづけて見せた。
多可の瞳に尊敬の色が浮かんだところで、
「じゃ、いま一度、1、出る---2ッを30回やって、きょうは終りにする」
「何日で、兄上のように、こともなく振れましょうか?」


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2007.11.02

多可が来た(6)

朝食を終えたあとの茶を手に、平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭)が、今朝から相伴することになった銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以)へ、思いついたように、言った。
(てつ)よ。どうだろう、明朝から、多可(たか 14歳 きのうから宣雄の養女)に素振りを教えてやってくれないか」
「はぁ。多可に素振りをでございますか?」
に嫌といわれたら、どこぞ、町道場をさがさねばならぬが、たかが素振りだけのことに、それは無駄遣いのような気がしてな」
「嫌---とは申してはおりませぬ。ただ---」
「ただ---なんじゃ?」
{なにゆえ---かと---」
「わけか。多可の躰つき、14歳の娘にしては、細すぎると思わぬか?」
「細すぎます」
「で、素振りでもさせれば、発育もおっつこうと思ってな」
「父上がさようなお考えなれば、教えましょう」
「くれぐも言っておくが、組み太刀などは無用だぞ。あくまでも素振りのみ。女剣士などつくるつもりはない」
「承りました」

銕三郎は、14歳になるすこし前から背丈がのびて、5尺4寸(1メートル62センチ)ほどになった。
多可は、5尺(1メートル50センチ)あるかなしだった。
銕三郎は、納屋から古い木刀をとりだして寸をつめ、細めに削りはじめた。
老僕の太作(たさく 50過ぎ)が見とがめた。
「若。なにごとでございまするか?」
父・宣雄に命じられて、多可の素振り用の木刀をつくっている、と答えると、
「軽くしたのでは、鍛錬になりませぬ。寸も太さも、それぐらいでよろしゅうございましょう」
木刀は、全長2尺2寸(66センチ)で、普通の大刀と脇差の中間の長さだった。

さらに銕三郎は、母親に訊いた。
「2年前までの稽古衣は残っておりましょうか?」
は、あるはずだが、と答えたあと、新しいのを求めて与えるほうがいいのでは---と首をかしげた。
「いえ、いつ止めることになるかもしれない素振りです。当座は、お下(さが)りでよろしいかと---」
多可はね、丈はたしかに小柄だけれど、足袋は私のものが間に合いませぬ。背丈もおっつけ伸びるでしょう」
と笑った。
さすがに、女親らしい観察であった。

「着てみろ」
銕三郎は、母が探し出してくれた古く小さな稽古衣と袴を、多可に渡した。きちんと洗って仕舞ってあった。
多可は、別室で着替えた。
「ふむ。襷(たすき)がいるな。母上にそう申して、みつくろってもらえ。明朝の稽古には、その剣術衣に襷をかけて現れよ」
たかが素振りなのに、なんだか、良師にでもなった気分は、つぎの多可の言葉でやぶられた。
「この刺し子の剣術衣には、兄上の汗の匂いがしみついていて、なんだか妙です」

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2007.11.01

多可が来た(5)

銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以)は、剣術の道場へ行く朝は、井戸端で鉄条入りの木刀の素振りを500回やる。
けさも木刀を振っていると、多可(たか 14歳 養女で、きのうからは銕三郎の妹)が大川の上げ潮を見あきたか、帰ってきて、挨拶をした。
「兄上、お早うございます」
「お早よう」
「このあたりは、やはり、海が近いのでございますね。潮の香りの強さが、大塚あたりとはまるで違います」
「匂いを嗅ぎに、わざわざ大川端(おおかわばた)まで行ってきたのか。もの好きな」
(女は匂いに敏感なんだな)
「吹上の下を流れる千川を見馴れております多可の目には、大川端の風情が広々と見えます」

「佃島が目の前で、大きな船がもやっておりました」
「うん。菱垣廻船や千石船がいつも停泊している」

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(小林清親 「佃島雨晴」)

多可は佃島といったが、ここらあたりから見えているのは石川島・月島のほうだ」、
のちに、平蔵宣以となった銕三郎が、この石川島に人足寄場を設けることになろうとは、このとき、多可銕三郎自身も知らない。

銕三郎は、上半身をあらわにしているのがなんとなく照れくさく、いそいで、手ぬぐいをしぼって汗を拭き、袖を通した。

これまでは下働きたちにしか見られなかったが、多可に見られるとなると、上半身、双肌(ろはだ)脱ぎはまずいかろう。しかし、素振りも500回もつづけると、汗びっしょりになる。
多可の目のとどかないところとなると、納屋の裏あたりしかないが、それにしても、嫡男のおれが、なんで泥棒猫かなにかのように、そんなところで隠れるように素振りをしなければならないんだ。間尺に会わない)
憤然としていると、多可が言った。
「兄上。汗がまだ匂っています。もう一度、お拭きなさいませ。背中のほう、お手伝いいたします」
「よ、余計なお世話だ」

銕三郎は、そのまま、自室へ戻ろうと、そばをとおりぬけながら、嗅ぐともなく多可の匂いを鼻に入れた。大川端までの往復ですこし汗ばんだか、みかんのような香りを発していた。
(これは、少女の匂いだ。あの夜、芙沙の裸躰から匂いたっていたのは、もっと濃密な、そう、生きもの---抱いた猫があばれるとき出すような匂いだった)

またしても、お芙沙との比較である。
女を見る基点が、お芙沙になってしまっている。

家僕の太作(たさく)がひそかに苦慮しているところも、これなのだ。
少年の銕三郎が、熟しきったお芙沙を女の基点にしては、偏る。

朝食になったとき、母・が言った。
「今日からは、膳は父上とごいっしょとなりました」
これまでは、父・平蔵宣雄は書院で摂っていた。銕三郎は、母といっしょに台所の隣の部屋で食べた。400石の格式の幕臣の家のしきたりであった。
それが昇格した---というより、宣雄が、多可に配慮したのであろう。

朝食といっても、白粥と梅干、それに削り鰹節程度のものである。
昼は、宣雄は弁当を江戸城内の小十人頭がつめている桧の間で摂る。

書院に膳が運ばれてくると、宣雄がまず言った、
「こちらが箸をとるまで、箸をとってはならぬ。話しかけられたら、箸を措(お)いてから答えよ。2本は乱さずに揃える。ものを含んだまま口をきいてはならぬ」
(いよいよ始まった。箸のあげおろしにまで気をつかうとは、まさにこのことだ)
銕三郎は思った。
母・は、上総(かずさ)の村長(むらおさ)の娘ゆえ、あまり行儀ばったことはいわなかった。
父・宣雄も、堅苦しいほうではなかったが、城勤めのあれこれを、いまから覚えさせておこうとしている。

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